ノンフィクションって、何か?ということは、興味のあるテーマだった。この本はノンフィクションを社会的に評価した大宅賞をとった作品に焦点を当てて、ノンフィクションを語る。
事実を報じるジャーナリズムは、新聞という媒体によって成り立っている。「事実的な文章」と「文学的な文章」の間に全ての文章表現は収まる。
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ノンフィクションでは、著者が「語り手」となって、ひとつの出来事、事件として始まり終わる。
その物語の中に、事実を配置する。
つまり、「事実」があり、「語られた事実」もあり、「事実から推定・推測」できるものがある。
事実に基づいて、事実のように創作する、つまり著者の都合の良いように作る。
ここでは、事実とは何か?という大きな問題が横たわる。黒澤監督の「羅生門」のように見る視点で物語は大きく変わる。大統領がフェイクニュースを流す時代に、ますます事実が不明瞭な意味を帯びてくる。日本においても日本軍の大本営発表が、日本が勝っているようなフェイクニュースを流し続け、それを信じた日本人がいた。
1970年4月大宅壮一ノンフィクション賞の第1回が発表された。「極限の中の人間」尾川正二と「苦海浄土」石牟礼道子の二人が受賞した。ところが、石牟礼道子が辞退した。なぜか?を著者は究明する。苦海浄土は、審査員からは「魂の記録」「事実を突き破るもの」として評価された。
苦海浄土は、聞き書きリアリズム、ノンフィクションのようにとらえられた。「公害の悲惨を描破したルポルタージュ」「患者を代表して企業を告発した怨念の書」という風にとらえられたが、それは違う「粗雑な概念で要約されることを拒む自律的な文学作品」であり、石牟礼道子の私小説だというのだ。石牟礼道子は、「だって、あの人が心の中で言っていることを文字にするとああなるんだもの」「自然に筆が動き、それがおのずから物語になった」という。つまり、ノンフィクションではないということで辞退したのだ。ジャーナリズムの価値観で評価され、断罪されることを回避しようとした。
しかし、「こころの中の声ならぬ声」を聞いて、本人に代わって書くことは、尊い作業だと思う。
ノンフィクションであるかフィクションであるかは、あまり重要ではないと思う。そこで起こっている事実を捉え、そこから湧き出てくる物語をいかに表現し切るかの方がもっと重要だ。
この苦海浄土に関する分析は、圧巻だった。著者はいい仕事をしている。
「日本人とユダヤ人」がイザヤベンダサンによって発表された、ベストセラーになった。それが本多勝一と山本七平との論争に発展していく様はおもしろい。作者が誰であるかより、作品が何を語ろうとしていることの方が、重要なのだ。
ノンフィクションとしての沢木耕太郎についての批評もいい。正確な理解の下、細部まで描きこんだシーンを連続させて、浅沼暗殺というテロ事件の全体像を現前させる「テロルの決算」を評価する。
ジャーナリズムの現実行動性、時事性、現在性、現実性、常識の主体、理解可能な範囲での事実問題を取り上げて、世に発表していく。時代の共感を生み出す作業。ここで紹介されている28冊の本の背景が、ノンフィクションとは何かを様々な視点で評価されているのがいい。アカデミズムとジャーナリズム、大宅壮一賞とサントリー学芸賞との関連など、本の世界は奥深い。
中国から、日本に戻ってきて、はや4年の月日がたつ。そして、リスクの多い仕事をしてきたが、その終焉を迎えてきている。人には体験できないことを積み重ねてきた。なんとか、それを物語化したいと、コツコツと積み重ねているが、この本の指し示した「物語のあり様」はおもしろい。勉強になりました。