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「非」フィクションとして出発したノンフィクション。本書は戦中の記録文学から、戦後の社会派ルポルタージュ、週刊誌ジャーナリズム、『世界ノンフィクション全集』を経て、七〇年代に沢木耕太郎の登場で自立した日本のノンフィクション史を通観。八〇年代以降、全盛期の雑誌ジャーナリズムを支えた職業ライターに代わるアカデミシャンの活躍をも追って、「物語るジャーナリズム」のゆくえと可能性をさぐる。
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Posted by ブクログ
「小説中心の文学史はあっても、ノンフィクション史の本はない」その言葉から始まった、多分日本初の貴重な記録。大宅壮一の存在の大きさを強く感じる。 小説よりノンフィクション。創作より事実の持つ大きさが昔から好きだった。でも簡単にノンフィクションといっても、体験する過程から筆者の恣意的な視点が入るという...続きを読む大きな矛盾。どこまで事実でどこからが筆者の選択か、これは「歴史」と同様に永遠の課題のように思う。 ノンフィクション、ルポルタージュ、リテラりー・ジャーナリズム、アカデミック・ジャーナリズムこらケータイ小説まで。広く網羅しているかと。 本書では実に多くのノンフィクション作品を引用、これだけでもファンにはたまらない一冊。
大宅壮一の偉大さを思った。 皇太子妃報道のスクープ合戦で、週刊誌記者「トップ屋」の梶山季之の活躍なども読ませる。藤島泰輔の「孤独の人」を読みたくなった。 次の警句が印象的だった。 素晴らしい世界旅行などを手がけた日テレ牛山純一「私は報道とはきわめて主観的なものであり、新聞記事もドキュメンタリーも...続きを読む極端に言えば「記者の創作」だと思っている。事実は単に「観察者の事実」であり、報道は客観的な事実を伝えるのではなく、事実を客観化するものであると思う。 本全体で言うと、かなり偏った内容。第6、7章のニュージャーナリズムと、田中康夫、ケータイ小説、社会学者のあたりは退屈だった。本多勝一なり本田靖春とか、もっと言及すべき書き手はいたのでは。まあ新書なので仕方ないのかもしれないけど。
ノンフィクションという概念を自明のものとせず、それが固まる過程を追うことで、事実を描く方法論、倫理に迫ろうとする意欲作。 大宅壮一が確立(?)し、沢木耕太郎でピークを迎えた後に停滞期に入ったという見立てっぽい。 だからその後に語られるのは田中康夫、ケータイ小説、アカデミックジャーナリズム(宮台、古市...続きを読むといった面々)になる。商業ジャーナリズムが明らかにできていない社会のリアルに迫っているのは彼らだ、という。 面白い論考ですが、それは著者の問題意識に基づく光の当て方だとも思う。参与観察的な手法を王道的に取り扱っているので、ミクロ的な潜入レポ的な題材に偏っている印象を受ける。例えば立花隆は、大宅文庫を活用して角栄研究を書いたとしか触れられていない。 題材と取材者の関係性をいかにすべきか、が裏の主題だとしたら自然な帰結ではあるが。 本書は別に正史を書こうとしているわけではない、と認識する読者にとっては問題にならないが、誤解されても不思議ではない書名である。
何気なく手にした本ですが、フィクションかノンフィクションか?話者は?うまくまとめられています。参考文献も充実していて、色々考えるのに参考になる本です。
かなり型破りなノンフィクション史。さすが武田氏、切り口がおもしろかったです。ノンフィクション史なのに、最後は「なんとなく、クリスタル」やケータイ小説まで出てきて。ぶっ飛びましたが、よく読んでみると納得です。 フィクションとノンフィクション、嘘のような真実と真実と思わせる嘘、主観的表現と客観的表現の長...続きを読む所・短所、その危うさ等々。。ノンフィクション好きな私としては、とても考えさせられる内容でした。 評価4なのは、紹介されているノンフィクション本が少ないから。新書で遠慮しないで分厚い単行本でガツンと言わせてください。
本といえば小説が中心ですが、ノンフィクションも大好物。 一時期、沢木耕太郎にハマって「深夜特急」は全作持っていますし、「テロルの決算」は今でもたまに読み返すくらい好き。 鎌田慧の「自動車絶望工場 ある季節工の日記」、海外物ではカポーティの「冷血」、伝説のルポライター児玉隆也の評伝「無念は力」(坂上遼...続きを読む著)なんてのまで読みました。 あと、近年ですと、何と言っても増田俊也の「木村雅彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」でしょう。 これには腰を抜かしました。 ただ、じゃあ、そもそもノンフィクションって何? どうやって発展してきたの? と訊かれると、答えられる方は少ないのではないでしょうか? それもそのはず、ノンフィクションについてまとめた書物は大変に少ないのです。 少なくとも小説ほどには研究が進んでいません。 それならばと書かれたのが本書。 著者はメディアに精通した武田徹さんです。 私は、先日の読売新聞の書評欄で、評者の宮部みゆきが絶賛していたのを読んで買いました。 まず、ノンフィクションの定義ですが、これが意外と定まっていないのですね。 フィクション(作り物)ではない、つまり事実に即して書かれたものがノンフィクションかというと、そんな単純なものではないようなのです。 たとえば、ノンフィクションの一大ジャンルと呼べる「探検記」。 探検記を書くことを前提に探検をする場合、著者はその物語にふさわしい現実を求めます。 行為者となって行動することで、本来はなかったはずの事実が生じてしまう。 そうなると、ノンフィクションとは言い条、たちまちフィクション性を帯びてしまいます。 もっとも、だからと言って、そうした作品を「フィクション」と呼べるのかというと、それも違います。 このあたりが大変にややこしいですね。 実は、ノンフィクションの歴史は浅く、せいぜい1970年代までしか遡ることが出来ないそう。 この間、書き手の間でも試行錯誤が繰り返されてきました。 たとえば、所得倍増論をテーマにした「危機の宰相」では著者の一人称、冒頭でも触れた「テロルの決算」は当時、米国で勃興してきたニュージャーナリズムの手法に倣って三人称で書かれています。 しかし、ニュージャーナリズムの手法を採って三人称で記述すると、そのシーンを描くための取材がどのように行われたのかが判然とせず、第三者による検証を不可能にしてしまいます。 つまり、厳密に言うと、ノンフィクションの肝である事実が担保されないという事態に陥るわけですね。 一筋縄ではいかないようです。 いずれにしても、フィクション/ノンフィクションと明快に線を引いて区分するのは難しいということが分かりました。 少なくとも作品として完成するまでの過程では、相互に乗り入れている部分がかなりありそうです。 たとえば、実話に基づいた小説というのはよくありますが、作家は作品を書くために入念に取材します。 そこにノンフィクション性が宿ることはしばしばあります。 逆に先ほど例に引いたようにノンフィクションでもフィクション性を帯びてしまうこともままある。 そもそも「作品」である以上、事実の羅列であるわけはないのです。 マクベスの「きれいはきたない、きたないはきれい」ではありませんが、「フィクションはノンフィクション、ノンフィクションはフィクション」なんてことも言えるかもしれません。 うん、大変に面白い本でした。
著者の武田徹は、『流行人間クロニクル』(2000年サントリー学芸賞)などの著書のある評論家、ジャーナリスト。 私は、“ノン・フィクション”(=フィクションではないもの)を好んで読むが、正直なところ、ノンフィクション、ルポルタージュ、ドキュメンタリーといった言葉、ジャンルに何らかの明示的な違いがあるの...続きを読むか、長く疑問に思ってきた。 著者は、「ノンフィクションの成立」とは、「ジャーナリズムが単独で成立するひとつの作品としての骨格を備えたこと」、「出来事の発生から帰結までを示す物語の文体を持ったこと」といい、その経緯を“ノンフィクション”という言葉が今のように使われるようになった1970年代以前に遡り、記録文学、ルポルタージュ、ジャーナリズムという変遷をたどりつつ、ノンフィクションという概念がどのように成立したかを明らかにしている。 また、私は、本書の「はじめに」で取り上げられている、2012年の第34回講談社ノンフィクション賞選考会で展開された「石井光太論争」(選考委員の野村進氏が、石井氏が「ノンフィクション」というジャンルに相応しい取材をしているのかという疑問を呈した)について大いに関心を持っていたし、同じく「はじめに」で取り上げられている、『空白の5マイル』で開高健ノンフィクション賞と大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した角幡唯介が『探検家、36歳の憂鬱』で語る、「ノンフィクションを成立させる場合の本当の難しさは、実は文章を書く時にノンフィクション性を成立させることにあるのではなく、むしろ行為をしている時にノンフィクション性を成立させることにあるのだ」という鋭い指摘に、かつて目から鱗が落ちたのであるが、本書では、ノンフィクションの成り立ちの過程の中で、そうした論点の捉え方についても触れていく。 更に、知命を過ぎた、旅+ノンフィクション好きにとってのヒーローである沢木耕太郎についても、1979年の大宅壮一ノンフィクション賞受賞作の『テロルの決算』を、「全く新しいノンフィクションの幕開けを実感させる内容」、「日本語で書かれたニュージャーナリズムの傑作」と評価し、沢木氏が開拓し、試みた手法、及び「ここにノンフィクションは自立し、ノンフィクション作家という物書きのジャンルが確立された」という、日本のノンフィクション史における位置付けを詳しく分析している。 かなり詳しい通史となっており、関心の薄れる部分もなくはないが、ノンフィクション好きには一読の意味のある一冊と思う。 (2017年4月了)
講談社ノンフィクション賞の選評で野村進が石井光太の手法について非難する下りから始まっている。戦中から高度成長期そして現代。ルポルタージュからアカデミック・ジャーナリズムまで。二つの軸を元にノンフィクションという文芸の正体について検討していく。角幡唯介がノンフィクションとやらせの問題について語っている...続きを読むところを引用し、話題としているが、確かにこのことは問題。ライターである私自身、書く前から、どうやったら受けるかということを考えながら行動している節があるのだ。
●→本文引用 ●ノンフィクションがフィクションの否定形として定義されつつも、物語化を通じてフィクションを生み出していく宿命にあることは序章で指摘した。しかしそうした生み出されたノンフィクション由来のフィクションや、あるいは生まれながらのノンフィクションを含めて、ノンフィクションはそれらを再び自らの...続きを読む内部に取り込んでゆく旺盛な吸収力を備える。フィクションについてもそれが「書かれたという事実」があり、フィクションを書く人間の現実があるし、フィクションに描かれた虚構も文字や映像という形で現実化している。それらはノンフィクションであり、ノンフィクションがフィクションを生み出す一方で、フィクションもまたノンフィクションに織り込まれていく宿命を持っている。(略)こうしてノンフィクションはフィクションを生み出し、生み出されたフィクションがノンフィクションの内側に取り込まれる。ノンフィクションとフィクションは、内部がいつの間にか外部になり、外部がいつのまにか内部になっている「クラインの壺」のようなねじれを伴いつつ繋がり、揺らぎ続ける。ルポルタージュという「物語る報道レポート」の形式を生み出したこと、事実を取り上げた表現の壮大なる総体であったはずのノン・フィクションの語を、そうした物語的ルポルタージュと重ね。その指示内容の幅を狭めて使うようにさせたのはいずれも物語を求める人々の欲望の産物であった。物語が想像力で作られた虚構だという意味ではノンフィクションはフィクションを孕んでいる。しかし事実は物語を超え、物語は事実に取り込まれ、フィクションもノンフィクションに還ってゆく。この作品はノンフィクションなのか、フィクションなのではないかという論争も事実の大海原を微かに騒がせた小さな波であり、時が経てば鎮まってゆく。(略)こうして「ノンフィクションとは何か」を突き詰めて考えてこなかった歴史がさらに延長されてゆくが、その背景に、巨視的にみればノンフィクションとフィクションが相互嵌入状態にある構造が控えていることも一方で意識すべきだろう。そして事実と物語のゆらぎの間で優れたノンフィクションが/ノン・フィクション作品が今後も書かれてゆくだろう。
日本のノンフィクションの歴史を戦前の従軍報告から、解き明かす。 言わずもがなであるが、大宅壮一の役割が大きい。
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日本ノンフィクション史 ルポルタージュからアカデミック・ジャーナリズムまで
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