森博嗣のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
ネタバレ
WWシリーズ第3弾
Wシリーズからは13作目に当たる作品となる
人間が死ななくなった代わりに、産めなくなった世界
先天的な疾患を持つ科学者である、キャサリン・クーパは
大規模な個人研究所の中にある、無菌ドーム内で出産し
子供と2人だけで暮らしていた
彼女は、国家反逆罪の被疑者として
裁判所から派遣されていた、検事局の8人と共に
ある日、忽然と姿を消した
ドイツの片田舎で、楽器職人としてのんびりした日々を送っていたグアトと
日本の情報局員を、半分休職しながら
グアトと共に、生活を共にしているロジ
ドイツ情報局からの依頼で
キャサリン出産の謎と、姿を消した8人の行方を調査するコトになる
物語序盤から、「すべてはFになる」を思わせるような展開が繰り広げられて
翻弄されながらも、ワクワクが止まらない
果たして、どこに着地するのか
全く想像できない感じ
結果…
おぉぉー
時代設定が、200年後なだけあって
若干の雑感は否めないけど…笑
なかなか凄いとことに落ちたなぁー
ミステリーの感想文って
ネタバレしないようにだから
難しいねー(^-^;
森博嗣信者である私にとって
シリーズ作品は、ホントありがたいんだけど
当たり外れもあったりするから
悩ましいトコではある
が、しかし
どの作品にも、名言が隠されてるからやめられない
今回も印象に残った名言を2つ
「言葉には、それを発する者それぞれの真実が包まれている
人は人を信じるか、あるいは信じないか、その識別ののちに言葉を解釈する」
「正解とは、自分が納得できる仮説である」
「言葉」については、常日頃から
いろいろと思うところがあって
センサー張りまくってるところに、この名言
やはり、私にとっての森博嗣は神だ 笑
#キャサリンはどのように子供を産んだのか
#森博嗣
#WWWシリーズ
#講談社タイガ
#名言
#言葉の力
#読書好き
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Posted by ブクログ
ネタバレああ、すべてがFになるに繋がるのか?~人類が人工細胞を入れた故に自己増殖できなくなった世界で、イギリス出身の無菌室でしか生きられない女性科学者がドイツの自分の研究所で子どもを産んだらしい。その技術が外部に漏出して、国家反逆罪に問われ、検察官ら7名が研究所を訪れて、キャサリン・クーパ博士と5歳の娘、裁判関係者が忽然と姿を消し、ドイツの情報機関から日本の情報機関を通して楽器職人になったグアトに調査が依頼された。ロジとセリンと出掛けた先で、接触してきたのは研究所のAIであるゾフィだった。意味深な映像を見せられたグアトは、その後に現れたキャサリンのロボットによって自宅を襲撃され、真賀田博士に邪魔するのは止めてくれるように伝言が託される。ロボットは攻撃を仕掛けたのではなくて、自己防衛をしただけだった。キャサリンがモデリングした美しいパターンは百年前に真賀田博士が15年掛けて既に検証済みのもので、その研究の無駄を示したかっただけの事実が判明し、キャサリンはゾフィに自分の全てを移植し、肉体を片付け、電子空間で子供を産み、永遠に生きる道を選んだのだった~まだ次があるんだね、次作は幽霊を創出したのは誰か?です
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Posted by ブクログ
【目的】
自分探しの背中を押してほしい。
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・楽しさは、「他者」との比較から生まれるものではない。「自分」の中から湧き出るものだ。
他人からどう思われるかは重要でない。誰かに話すための経験とか、見せるための写真とか、気にしなくていい。
たとえ世界で自分一人になっても、毎日が楽しくて、幸せを感じれたら満足。
でもハピネスの共有は、他人を幸せにもできる。
・自分を忘れることが、自分を見つめることになる。
自分と対話する、考える、向き合うって上手くいった試しがない。そもそも、そんな事しなくていいと。
興味があればトライし夢中になることで、本当の自分が分かる。自分はどういう人間かなんて、説明できなくていい。
・自分に向かってくるものは、えてして楽しくないものが多い。
楽しさは、能動的なもの。すべて手順通り説明される工作の入門書は必要ない。
自分から動き、感じ、失敗を繰り返し、楽しみが濃くしていく。
✔︎この本からの行動。
・自分がやりたいことと、他者からの評価は切り離して考える。動機は、自分の興味か、他人からの称賛か。
・昨日よりも楽しめればOKの精神
・なぜ、やりたいのか。具体的な理由は難しいから、抽象的な理由を考える。なぜ、この仕事が好きか。なぜこの人に憧れるか。より自分が分かる気がする。
・他者を尊重。
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Posted by ブクログ
★その通り、だが誰に届くのか悩ましい★いろいろなところで言われるように、科学的とは方法論で、再現可能なこと。「だから結局なに?」という早急な問いかけや思考停止をやめて、きちんと過程を考えよう、その方が面白いし役に立つ、というのは至極もっとも。理系の人が理屈っぽいといわれるのは、丁寧で慎重なだけ、というのもまさにそのとおりだと思う。津波は単なる波ではなく、大量の水の移動なので堤防の高さに応じて津波の高さも変わるという説明も分かりやすい。
ただ、著者の言う通り、科学的であることが好きでない人にどう届けるのかは本当に難しい。美術やスポーツが好きな人が関心のない人にいくら熱を込めて語ってもなかなか伝わらないのと同じだ。著者のエッセーを読む人はどちらかといえば、科学的なことが嫌いではない人だろうし。
しかし震災後の3月に、本書を3日間12時間で書いたという。小説を含めて書くスピードがすごいのは、書くことに迷いがないからなのか。 -
Posted by ブクログ
「人工知能は、既に人間の知性を大きく上回っています。完全に超越している。そこから生まれる知性は、新しい知性です。最初から肉体を持たない世代が、これから登場します。いえ、今でもその誕生は実現できます。残るのは、人間が許容するかどうか、という問題でしかない」
「いや、気にしないでほしい、一般的な判断であって、個人的な意見ではないから」
「個人的な意見をお聞きしたいと思います」
「うん、そうだね…、それは、なかなか難しい。私の希望と君の自由を天秤にかけるようなことは、避けたいな」
「グアトの希望というのは、グアトの自由なのではありませんか?」
「そう言われてみれば、そうなのかな。しかし、個人の希望というのは、個人の内部にあるわけではないよ。個人の周辺にある。個人の環境にある。たとえば、もう既に君がそこに含まれている」 -
Posted by ブクログ
ネタバレ先般、「意識・無意識」に関する本を読んだ際に、「意識」というのは非常に「思い込み」や「決めつけ」が多く、主観的になってしまいがちな性質があるということを知った。意識が働くと、「ああではないか」「こうではないか」と勝手な想像を巡らしがちだというのである。
多分それと関係するのかもしれないが、著者は「世間一般の人たちの考え方は、極めて主観的であり、大多数は具体的である」と言い、しかも「その考えがスタンダードであると思い込んでいる」ところを非常に憂いている。
「主観的で具体的」というのは、「自分はコレ」という考ええであり、簡単に言えば「決めつけ」である。しかもそれを標準と考えるのだから「狭いものの見方」となり、ときには感情的になりがちだというのである。
そこで、著者は「いろいろな問題についてどう考えていけば良いのか」という命題を立て、その答えとして「客観的で抽象的に考えよ」と提案している。もちろん決めつけているわけではなく、どうでしょうかと読者に問うている。
例えば「原発の問題」「領土問題」などを例に出して、「主観的で具体的」な意見どうしを戦わせていても、議論が進まないのであり、それを「客観的で抽象的」に発想を変えてみれば、議論の幅が拡大していくのではないかというようなことを述べている。この議論の幅(=発想を広げること)の大切さを特に強調していると思う。
事件のニュース報道で「バールのようなもので壊された」というような表現がされるが、これが「バールで」と表現する場合(具体的)と、「バールのようなもので」と表現する場合(抽象的)では、断然後者のほうが発想が広がるのであり、つまりは具体的より抽象的なほうが発想が広がるというこの説明は分かりやすかった。
本書のエキスはおそらくコレである。抽象化のメリットとして、「適用範囲が広がる」とか「類似したものが連想しやすくなる」などをあげていたが、これはすなわち「考えの選択肢が広がる」とか「より適切な解決が得られる可能性が広がる」ということにつながってくる。
現在の情報社会で、我々は一見豊富な情報に恵まれているように感じるが、それらの情報の多くは、主観的で具体的な「決めつけ」情報である場合が多い。マスコミ情報も同様である。
昔の取材は、記者が自ら記事を取りに行っていたが、今はすべての記者が同じ場所に集められて、提供側から出される一方的な情報をメモしているだけで、その報道を受けている我々も「主観的で具体的な決めつけ」を鵜呑みにしているだけ、というような趣旨の話が書かれていたが、これにはハッとさせられた。
社会がそういうスタイルになっているだけでなく、現代人そのものがネット情報を鵜呑みにするというような生活スタイルとなってしまっており、「客観的で抽象的」に考える力が退化しているというような指摘もあったと思う。
著者は、作家以前は、工学系の准教授として研究者の経歴をもっており、その時代の習慣はひたすら「客観的で抽象的」に考えることであったから、自分の中にその習慣が定着しているという。それもそうだろうが、そういう経歴以前に、著者自身がすでに自由度の高い発想の人であったように思える。
著者の話を聞いているだけで(読んでいるだけで)、非常に発想の幅が広がり、生き方の自由度が広がって、人生が楽しくなるように感じられるのは確かである。
著者には、ガーデニングというライフワークがあるようだが、「抽象的思考の場は、まさに自分の庭のようなものだ」と述べている。「それぞれが自分の庭という思考空間を頭の中に既に持っているのである。そこは、基本的に他者に邪魔されることなく、自分が思い描くとおりに整備することできる。」だそうである。