ずっと、読んでみたかった人の本。いや別に読もうと思えばすぐに読めたんだけど、なんとなく避けてたかもしれない。でも、今回読んでみて思っていた以上に読みやすくて、分かりやすくていい本だった。精神科医の著書というのは沢山あると思うが、最近はこういう、あまり偉そうに語らない人が流行っているのだろーか、とか穿った見方をしてしまうあたしであるが、どうか。
普段、何気なく行動している先々で、案外沢山変な人がいる。いろんな人が居て、ちょっと関心を持って観察してみると、本当に見ていて飽きない。人間を観察している、なんてちょっと嫌らしいというか、なんか感じ悪いような気もするが、しかし人間観察ほど興味深い事は無いと思っている。電車の中や道中で、変わった人を発見する事なんて、たやすい。でも、その変わった人当人は意外と自分が変わっている、ということに気付いていない場合が多く、同じようにその、「変わっている」ぶりを理解できない人も、驚くほどいる。というか、人ってあまりにも他人に感心がないのだなぁ、とつくづく思うのだ。本当に、全然見ていないのだ。
この著者はそういった、「ちょっとなんか変」な空気を敏感に感じ取りやすい人のようで、それはもちろん、精神科医という特殊な職業をお持ちでいらっしゃるのが大きいかもしれないが、しかしそれがプライベートな生活の中にも随時感じているようである。その、「ちょっとなんか変」というウマく説明が出来ない、不自然な人、違和感を感じる行動、そういったことが、平然と行われている日常という世界を精神科医の視点で書き上げた一冊であるのだが、その視点がとても自分とリンクしていて面白かった。あたしもそういう不愉快な違和感を感じるような人に出会うと、最初は腹が立ったりイライラしたりさせられるのだが、落ち着いてその行動を考えてみると、不思議でちょっと笑ってしまうというか、馬鹿げているというか、本書で言うところの「人間臭さ」を垣間見てしまったんだ、と思ってくる。ただ、このエピソードは別に「不幸になりたがる人」の話ではないので、序章に過ぎないのだ。
不幸になりたがる人のなかに、「心気症」という症状を起こす人が居て、それは自分は別に病気でも何でもないのに、勝手に自分は酷い病気である、と勘違いして、というか完全に思いこんで信じて疑わないような状態になる人のことである。そうなってしまうと、「あなたは大丈夫」といっても、本人は信じようとしないし、むしろ、病気を否定されたくないのでは、とさえ思える。ようするに、このように自分は病気である、と思いこもうとするという行為には、なにかもっと大きな不幸を避けようとする意識が働いている、と著者は考えたわけだ。彼らは「ほんのちょっとした不幸」という状態を続けさせることで、精神的に安定感を得ている。また、「事故傾性」という言葉があって、なぜか事故に巻き込まれやすいタイプの人というのが、いるというのだ。あたしは会ったことはないが、似たようなタイプに、リストカッターが挙げられるのではないかな、と勝手に思った。あと、気をつけようと緊張するあまりに失敗したりする人とかも、いる。そーいう人って言うのは、不幸の先取りをする人とか不幸を指向するする人、という風に表現されているが、それは確かにあるなと思う。不幸であるということが、もう、その人の個性というか、不幸でなければその人ではない、というくらいにまで幸の薄さが個性になってしまっている人。あと、そういう人間だと思いこんでいる人、もしくは思いこみたい人。いるいるいる〜〜・・・と、おもわず納得してしまった。
他にも、分かっているのに汚言を吐く、という症状が出る人がいる。発作的に「してはいけないこと」をしてしまう人がいる。ここで、人間というのは、常に自分にとって安全で得になるように振る舞うとは限らない、と書いている。魔が差す、という言葉に表れている通り、駄目だと知っているのにやってしまったり、止めようと思っているのにやってしまう、言ってしまう。そういうマイナスの方向に動こうとする欲求というのが、人間には備わっているのだという。
しかし「不幸になりたがる」というベクトルの精神は、本当に不幸になってしまうために起こるのではなく、実はもっと大きな不幸を避けるために、小さな不幸で回避しようとしている現れである、と指摘してある。不幸中の幸い、とか、そういう事なんだと思う。また、自分が不幸であるという事を利用して、自己正当化させる、という方法がある。それをここでは「被害者意識依存症」と書いているが、まぁ、しかし、この言葉ほど適切なモノはないのではないかと思う。最近の「不幸自慢」っぷり「被害者意識」っぷりには、目に余るモノがあるとは思わないだろうか。犯罪というのは、この「被害者意識」が起こしていると言っても過言ではないのだから、最近急速に増えているのも、当然の流れなのかも知れない。
被害者意識というのは、その状況に陥ることで、強引に自分が楽になる方法を手にする事が出来る、という。一つは「敵」であり、もうひとつは「特権」である。「敵」というのは、つまり、自己正当化させるための手っ取り早い手段として、「仮想敵」を作り出すことだ。当然のことながら、自分が被害者であるのだから、相手は加害者であり、敵である。無理にでも敵を作り出さないと、そもそも被害者意識なんてモノは思い込みや自分の不平不満の産物だったりするので、自分に跳ね返ってきてしまう。それを避けるために、とにかく都合の良い敵をでっち上げるしかないわけだ。
それは近年急増中の「アダルトチルドレン」だとか「多重人格」なんかに見られるような、過去の記憶から敵を作りだして責任転嫁を試みる術だ。
もう一つの「特権」だが、それはもう、自分が被害者で弱者であるということを利用して、守られ保護される立場になってしまう、という、いわば逃げ口実だ。しかも、被害者意識を持つというのは、なかなか恍惚な状況でもあるという。アルコールなんかと同じように依存しやすいのだ。つましい幸せなどを得るよりも、あえて被害者意識を堪能することを選ぶ人間が世の中にはいっぱいいるんだそうだ。
たしかに、たしかに自ら不幸を指向しているな。ま、本書では他にもあっちゃこっちゃで、そういう病気もどきの変な人の話が出てきているいて、さすが現場の人、と感じる指摘が多々ある。例えば「むかつく」とか「キレる」といった言葉が流行ると、そうした言葉の連鎖が形作る方へ安易に流し込まれてしまう。目新しい言葉によって、今まで漠然としていた気持ちに形が与えられ、それどころか広く認知されたような錯覚すら生じる。
本来なら、それを恥じるべき事であるにもかかわらず、言葉として形作られたがために、憚らなくなっていってしまうという。
現状が不幸だと、不平不満を述べているにもかかわらず、それを自らの意志で行動で変化させようとしない人がいる。人は基本的に現状を大きく変化させることを望まない傾向にあり、不満を持ちつつも現状維持することを選んで不幸になっている人が沢山いるのだ。面白いなと思ったのは、そういう心理をここでは「面倒くさい」で、済ませているところだ。それは不幸であ状況を変化させるために何か行動する、というのがただただ、億劫なのだ。端から見たら、そんなことをするほうが変ではないのか、と思うことを呆気なく選んでしまう。それがある意味では病気でもある。
まぁ、分かっていても止められない、という事は誰にでもあるし、自己防衛のための被害者意識を持つというのも、別に間違っていないのかもしれない。しかし、なんというか、それはちょっと、情けないっつーか、恥ずかしくはないのか?と、問いつめたくはなる。
もう一つ、精神科の先生として、良いことが書いてあった。多重人格や記憶喪失、憑依など、普通の人では起こりえない劇的な症状というのは周囲への自己アピールでしかない。派手であることに価値があり、とにかく関心を集めたいだけである。それはもう、子供、というか未熟な人格構造だからこそ表せる大胆な自己主張であり、心の深層に問いつめたりというような洞察はない。また、精神分裂病の症状として現れる幻覚や幻聴、妄想の類はどれも底が浅く月並みだという。ありきたりで面白くもないのだ。しかも大抵薬が効いて、症状は治まるのだという。なんか、いや、これが病気なんだ、といわれてしまったら、そうですか、としか言いようがないわけであるが、しかしなんか馬鹿みたいだ。まさに、人間臭い情けなさがある。「イタイ」としか言いようがない。なんとなく、それも可愛らしくすら感じてしまう。