内田樹のレビュー一覧
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・「嘘」や「芝居の台詞」には「何か」が決定的に欠けている。
身体が欠けているのだ。
演技者は「台詞がよく聞き取れるように、きちんとアーティキュレートして語る」ことを求められる。私たちがふだんしゃべるとき、私たちのことばづかいに必ず随伴する「ためらい」も「前のめり」も「無意味な間」もそこにあってはならない。そのような夾雑物をすべて「削ぎ落とし」た、クリアーカットな発声を達成したのち、演技者は、その「台詞にふさわしい」動作や表情をこんどは「付け加えてゆく」。
→小さい子どもの反応がわざとらしい時がある。ふさわしいと思われる態度を演技しているからかも知れない。発展というか、学習途上で夾雑物が生成されないのか。
・太宰治の最晩年のエッセイ『如是我聞 四』は新潮社の編集者を夕刻電報で呼び出して口述筆記させたものである。太宰は編集者の前で炬燵に入って、酒杯を含んだまま、「蚕が糸を吐く」ように、よどみなく最後まで口述したという。
ところが1998年にこの口述筆記された『如是我聞 四』の「草稿」が発見された。それは発表原稿とほとんど一言一句変わらぬものであった。
つまり、太宰はまず草稿を書き、それを暗記し、ついでそれを聴き手の前で暗誦してみせたのである。
・くわえタバコでネクタイを緩めたやくざな兄ちゃんが「いいから、適当に面白そうなのを選んで、ちゃちゃっと訳しちゃってよ」と汚いペーパーバックの束を私に投げてよこした。
読んでみると、どうでもいいような動機の殺人があり、みえみえのトリックがあり、30分以内に犯人がつかまるというまことに無内容なミステリー短編集であった。最初は律儀に訳していたものの、そのうちに内容のあまりのつまらなさにうんざりして、ついに一大決心をするに至った。
書き換えてしまうことにしたのである。
・例えば、日本製電気掃除機のマニュアルに「お餅が喉につかえた場合などにもご使用頂けます」というような記述があったとしよう(ないけど)。これをいま仮にフランス語に訳すことを明日までの急務とするベルナール君がいたとして、「お餅」というものの形状や性質について知るところがなかったという場合をご想定願いたい。辞書的語義はわかっても何のことかぜんぜんわからないというケースは技術翻訳においては少なくない。
そういう場合は、静かに「餅のことは忘れる」というのも訳者の取りうる一つのオプションではないかと私は申し上げているのである。
・「タカハシ」さんと高橋源一郎を隔てる距離は、「テスト氏」とポール・ヴァレリーを隔てる距離より、「苦沙彌先生」と夏目漱石を隔てる距離より狭い。そして、この距離が狭いほど批評装置の性能は高く、響く「倍音」は深い。
・私たちにできるのは、この「どこまで信用してよいかわからない私自身の世界経験」」を慎重に腑分けして、そこから「信用できそうな要素」と「信用ならない要素」を識別し、「信用できそうな要素」だけに準拠して、「ほんとうの世界」について近似的に知ろうとすること、それだけである。
「信用できそうな要素」というのは、「今ではないとき、ここではない場所、私ではない人間」の世界体験と共通するような要素のことである。 -
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何だかいやらしいタイトルなので登録するのも気が引けますが、真面目なフェミニズム批評です。内田樹の著作の中でも読むのが難解な部類に入ると思いますが、それは内容も然ることながら、僕(あるいは僕の世代)が、フェミニズムという思想に対する実感があまりにもないせいだと思います(まあそれでも内容は大筋は理解できたかなと思う)。
”矛盾するメッセージを矛盾したまま、同時に伝え、読みの水準を換えるたびに、そのつど別の読み筋が見いだせるような物語は「質の高い物語」である。”(P182)という箇所が特に重要だと思いました。
全能感(のような錯覚)をもたらすような(抑止のない暴走する)思想は廃りも早いと、フェミニズムに対して手厳しい評価を与える一方で、その一定の意義にも言及するあたりは、著者の深い優しさを感じました。 -
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非常に知的刺激をそそる本でした。ユダヤ・キリスト教にも詳しく、また日本語学、武士道、梅棹忠夫、丸山眞男、マンガ、TVドラマと幅広い分野から論じています。水戸黄門でなぜ悪者共が権威を信じてひれ伏し、庶民には普通の爺さんなのか、悪者達こそ「根拠のない権威」を振り翳していたからだという指摘は目から鱗の心境です。日本語の優秀さが逆に日本人の英語力を弱め、韓国・ベトナム・フィリピンなどでは母国語が知的な語彙を増やすことを放棄したため、知識人が英語を使わざるを得なくなったという指摘は大変興味深いところです。高度な知的会話が出来る言葉は世界でも限られている!?これは世界でも例外的な現象!かつての比較文化論のように大上段に構えるわけではなく、シニカルに語っていく語り口は大変親しみやすく痛快です。
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一番印象に残ったのは、9章の『神の言葉に聴き従うもの』です。ユダヤ教に関して、私がずっと疑問だったことの回答がありました。
厳しい戒律を2千年以上守って暮らしてきたのに、神の助けなく600万もの人が虐殺される。民族存亡の危機に、いま救世主が現れずにいつ現れるの?大戦後にイスラエルが建国されたことをプラス加点したとしても、周辺国からは攻められっぱなしで、落ち着く暇もありません。そんな神さん、私だったら、とっくに見限ってるわ、とずっと思っていました。
それをレヴィナスという哲学者は、「ホロコーストは人間が人間に対して犯した罪である。人間が人間に対sて犯した罪は人間によってしか購うことはできない。それは神の仕事ではなく、人間の果たすべき仕事である。」と言って説得したそうです。さすがフランス人、大学のセンター試験に哲学の科目があるだけのことはある、と頭の良さに感心しました。 -
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内田樹氏は 斬り込むポイントが うまいですね。
キイワードのほじくり出し方が すぐれていると想う。
「批評とは?」 「父の不在」 「倍音」
家族とは という提起も
内田樹氏と ムラカミハルキは共通性があるようだ。
『親と子が何でもはなせる楽しい家庭』という標語に
ムラカミハルキと内田樹氏は 考える。
ムラカミハルキは言う
『親と子が何でもはなせる家庭というのは本当に楽しい家庭なんだろうか?と僕はその標語の前に立って、根本的に悩んでしまう。・・・僕は思うのだけれど、家庭というのはこれはあくまで暫定的な制度である。それは絶対的なものでもないし、確定的なものでもない。
はっきり言えば、それは通りすぎていくものである。不断に変化し移りゆくものである。そしてその暫定性の危うさを認識することによって、家庭はその構成員のそれぞれの自我をソフトに吸収していくことができる』
家族をつくり始めたときから
子供が産まれ 子供が成長して 学び 働き始めるころに
子供は巣立ち、そして 子供は 家族をつくり始める。
家族は 時間の流れの中に移ろう・・・
毎日毎日が 変化している。
これが 家族であるということはない。
全員集合できる家族は 幸せである。
内田樹氏は言う
『家族というのは誰かが抜けないと、誰かが入れない「椅子とりゲーム」に似ている。つねに「誰かが足りない」という感じを共有する人々、実はそれこそが家族なのだ。・・・家族を条件づけるのは、「共生」や「充足」ではなく、「欠席」と「不在」なのだ』
不在に思いをはせる・・・それが 家族ですね。
他人には 思いをはせることはない。
喪失感が じっと染み渡るのが 家族だからこそ・・・
そして 内田樹氏は 家族というものを結論つける。
『家族とは誰かの不在を悲しみのうちに
回想する人々を結びつける制度である。
だから、家族はほんらいそのメンバーを幸福にしたり、
その欲求を満たすためにあるのではない。
家族にはそんな機能はないし、そんな機能も求めるべきでもないのだ。
それは、遠くから、悲しく歌うものなのである。
そして、その歌に唱和する人たちを固く深く結びつける制度なのである』
悲しく 引き合う ことが なによりも 家族の意味となる。
内田樹氏は ムラカミハルキの世界性を獲得したのが
『父の不在』であるとした。
私は ムラカミハルキの小説には 家族がないなぁ・・・と思っていた。
作品には ばらばらな個人が 蠢いている。
それが ムラカミハルキの エルサレムの受賞スピーチを読んで
ムラカミハルキの中での『父親というもの』が
きわめて重要な意味を持っていることをはじめて知った。
父親不在 で物語を構成する・・・ということが
history を 遮断し story をつくる作業に はいるということか。 -
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ネタバレタイトル、なんでこうしたんだろう。子どもたちのことと言うより、社会のムード的な話が中心になってるから。日頃、思ってること・気になってることを言葉にしてくれたって感じの内容も多かった。
「コミュニケーション力」
言いたいことを一方的に発信するのがコミュニケーションじゃない。むしろ受信力が弱まってないか、と。察する力。非言語的なものも含めて、全体から感じ取る力はどこへ?
「要するに」「結局」と一言でまとめちゃう限定的な理解の横行。これをされると、話しているほうは本当に無力感に襲われる。
「外界を遮断」
自分に関係ないものは、見えない、聞こえない、意味がない。こうしなきゃやってられないようながしゃがしゃした社会ではあるけれど、でも。
人とのかかわり、社会とのつながり、そういうのが根本的に違ってきてるんだねぇ。 -
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内田樹さんの対談相手の光岡英稔氏が凄まじい人だということはよくわかった。単に殴ったり蹴ったりすることが強いというだけでなく、山伏や修行僧のような思想面での強さや、どんな状況であれとりあえず生き残るノールールサバイバル強者という印象。
ただし、私の方にその発信を受けとめるだけの強さがないようだ。スゴイ、もっと知りたいと思うより先に、ひぇっと身をすくめてしまう。
とはいえ、幾つかのメッセージは受け取ることができた。
「晴天モデルではなく荒天モデルで準備し行動しよう。」ふむ。
「メソッドに頼ればある程度のところまではいけるが、それより上や想定外には対応できない。」ふ〜む。