内田樹のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
2020年のオリンピックが東京で開催されることが決定されて以降、反対意見がほとんど聞かれなくなったという言論状況そのものについて問題提起をおこなった鼎談です。
元来近い立場にある三人の座談会なので、おたがいの意見を戦わせるような場面もなく、緊張感に欠けるのはいたしかたないのかもしれませんが、語られている内容そのものには賛同できることが多く、著者たちの発言に膝を打ちながら読みました。
もっとも、いくつか違和感をおぼえるところがあったのも事実です。私自身は、内田がさまざまな著作で展開している身体論や、『日本辺境論』(新潮選書)で語られているこの国についての言説には、すこし危ういところがあるのではないかと以前から感じていたので、やや過敏になっていることは自覚しているのですが、「自己アピールが下手」な日本人というイメージや、「健さん的無口さ」を日本人は美徳としてきたといった発言には、なにか引っかかるものを感じてしまいます。 -
Posted by ブクログ
ネタバレその中から気になった箇所を無作為に…
★武道は伝統文化であるという人は、明治以降私達が本来の武道というものをどのように破壊してきたのかの歴程を確認するという恥辱的な作業からまず始めなければならないだろう。
★日本の武道史上最大の失敗は、生き残るための政治的工作をしたことではなく、政治的工作をしたことを隠蔽したことである。
★本来、先人達が発明工夫した身体技法というのは、「他者との共生」を「生き延びるための必至の技術」として骨肉化することで向上するように構造化されている。
ゲーム性の強いスポーツの場合はそれが前景化しにくいだけだ。
★あらゆる人間的営為を悉く数値化・定量化し、それを格付けするという操作に日本人がこれだけ熱中したことはかつてあっただろうか…?
★身体能力にもたらされる変化は本質的には計量不能である。
世界の深みや厚みを計量出来ないのと同じように…
それを、デジタル化した数値の変化でしか確認出来ない今の現状は極めて危険な兆候と言わざるを得ない。
★「うつろなひと」は
人間的営為の全ては計量可能であると信じる計量主義者であり
リソースは厳密に個人の能力に応じて分配されるべきと考える能力主義者であり
自分に本来帰属する筈のリソースは「無能な他者によって不当に簒奪されている」と考える奪還論者である。
そのような人々で日本は今埋め尽くされつつある。
★「空腹」と「大食い」の違い
空腹は身体が何を求めているかかを示す大事な感覚であるが、それ自体は余り大事に思われない。
だから「空腹選手権」は存在しないが(断食大会はあるかもしれないが、それは空腹の度合いを競うのではない)、大食い選手権は存在する。
何故なら大食いは数値化出来るからである。
★武道的思考が興味を示すのは、身体の求めているものを知ることである。
そしてそれらが総じて、どのように生きたいか、そしてどのように逝きたいかなど生きることに関わる様々な訴えを高い感度で察知しようとするのである。
★基本的にTVは数値化出来るモノをテーマにしたがり、二元的に語ることを得意とする。
何故なら、「身体の震え」のようなものを誰にでも判りやすく報道することはかなり難しいからだ。
��Vが面白くないのはそのためである。
★ほんとうの身体機能というのは「ある時間上の点」から「次の時間上の点」まで移動する時に、どれだけ「細かく」その時間をコマ割り出来るかにかかっている。
★存在しないものとのコミュニケーション
中国で君子の学ぶべき学問として「礼・楽・射・御・書・数」の六芸が挙げられる
礼:葬儀の作法
楽:音楽の鑑賞と演奏
射:弓
御:馬術
書数:読み書き、算術
書・数以外は時間の中での考察であるが、今の学校では教えられていない。
(※一応音楽は科目にあるものの、現在の音楽教育は時間を軸として考察されてはいないし、弓道は選択科目)
つまり今の私達は「超越的なもの」とかかわる術も、時間の流れを行き来する術も、自分自身の身体と対話し異類の人々と交流する術も、どれも体系的に習得する機会に恵まれていない。
特に「礼」が人間が他の霊長類と区別出来る重要な要件であることが現在全く重要視されていないのが危険な状況である。
★武道的な動きには「自由に動けるが、同時にある種の秩序内にあることが最適な精度を維持するための条件である。
★「マイクロ・スリップ理論」の基本は、「運動の精度を上げるために出来るだけ決定を先送りすること」
ex:イチローの打撃スタイル
★合気道は「身体女情報の送受信速度を最大化すること」を目的としているので、稽古漬けになるとテレビのようなノイズの多いモノは「痛い」と感じるようになる。
★自分をスキャンする能力
cf:ミラーニューロン
★押し付けられた定型から逃れることは容易でるが、自分で選んだ定型から逃れることは難しい。
自由に振舞っているつもりの若者が、僕らから見れば定型から全然逃れきっていないように見えるのはそのためである。
★哲学者の哲学者性とは、畢竟するところ、自己の脳内に於ける無数の考想の消滅と生成を精密にモニターする能力に帰す。
同じルーティンの繰り返しは、そういう意味でも意義がある。
★「武道的」というのは、ぎりぎりまで削ぎ落とされた合理性のことである。
使えるものは何でも使う。無用なことはしない。生き延びるチャンスを高める選択肢は躊躇わずに掴む。心身のパフォーマンスを下げることはしない。
しかし、このような合理性は今では全く顧みられていない。
殆どの人は、身を削って権力にしがみ付き、金を稼ぎ、情報に翻弄され、無用な努力でストレスを貯め、結果何に対しても不機嫌になっている。
…
今の世の中には余りにもノイズが多い。
そうでなくても五官を研ぎ澄ますことは稀なのに、携帯や音楽プレーヤー、ゲーム機などで更に自身の感覚器官を塞いでしまっている。
そういう世の中だからこそ、武道的思考は「武道」のみならず日々の暮らしでも重要な思考なのだと僕は思う。 -
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ネタバレこれからを生きていく人へ贈るメッセージ。
日本の現状に危機感を抱いた内田樹が,中高生へとメッセージを送るために様々な人へ文章を書いてくれるよう依頼をした。統一感はあるような,ないような。しかし,皆,日本の現状に(というか,現政権に)危機感を覚えている人たちである。出版されたのは2016年7月なので,書かれたのはその少し前とすると,その後,イギリスEU離脱が国民投票で決まり,トランプ大統領が誕生し,また日本は重要法案を急いで通そうとしている。危機は加速しているのでは。
戦後の,戦後すぐの平和主義がそろそろ機能しなくなっている,そう感じる。軍隊を持たない,平和を守る国でありたい,でも,他国に攻められたらどうするの? 尊い理念は尊い。でも,現実は。もっと話し合いをしたいと思う。相手の理論を叩きつぶすのではなく,全否定するのでもなく,落とし所を探る。それには時間がかかるけど。 -
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日本辺境論がでた頃衝撃を受け、内田先生の著作物は全部読んでやろうというくらいの勢いで読んでいた。が、余りにその出版数が多く、中身が薄くなってないか心配になり、最近ご無沙汰していた。
本書を読み、改めて先生の感性、物の考え方には同意するところも多かった。日本の政治状況に対する捉え方など秀逸で、十年一日の如く、改革、改革と叫んでいる人が多いが、本当に必要な改革なのか考えたほうがいい。先生もおしゃっているように、三等国でも暖かい社会の方が絶対にいいと思う。今の状況は、本書が書かれている時点よりもっと悪くなっていて、不寛容な社会が進行している気がする。弱いものいじめや、正論を押し通すのは、もうやめにしませんか。 -
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『下流志向』(講談社文庫)や『先生はえらい』(ちくまプリマ―新書)と同じテーマを扱った本ですが、それらの本が既存の知性への批判が中心だったのに対し、本書では既存の知性に代わる身体に根差した知性のありようを「修業」という言葉によって直接的に論じているような印象を受けます。
書き下ろしではなく、著者がこれまでに発表した4編の論考をまとめた本です。とくに「修業論―合気道私見」と題された最初の論考がもっとも著者の思想がまとまって提出されているように思います。
なるほどとうならされるところも多かったのですが、やはり「身体の知」を批判原理としてではなく、直接的なものとして語ることには危うさを感じてしまいます。「修業の意味は、事後的・回顧的にしかわからない」と著者は言いますが、そうだとすればなおのこと、それは従来の知のありように対する批判原理にとどまるべきものであるはずです。そうした知が直接的に提示されてしまえば、それはあらかじめ批判的検討を封じてしまう独断的なものに堕してしまうか、あるいはそうでなくとも、私たちには独断と区別する術が存在しないようなものと言わざるをえないのではないでしょうか。 -
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目もくらむようなスーパー秀才エリートだった人たちが、声をそろえてもはや反対することができない空気があったと言っている。ドイツ語で日記を書けるような、言葉を自由自在にあやつることができるエリートたちが、一億人の運命を左右するような決めごとを、最後には言葉でなく空気を読んで身を委ねたと語っている。
福島の原発事故直後の危機を回避するための政府首脳の重大会議、40年以上も続いた政府の憲法解釈を内閣の形式的合議だけで大きく変えてしまった経緯、いずれも議事録が残っていない。それが僕たちの国の致命的な欠陥だ。これはもう病気と呼んでもさしつかえないと思う。かつて有名な政治学者はこれを壮大なる無責任体制と呼んだ。