あらすじ
日本一のイラチ(せっかち)男が物申す!
今、最も人気の論客が歯に衣着せずに論じる
目からウロコ、腹は納得の超楽観的「日本絶望論」!
「父親の没落と母親の呪縛」に凍りつく家族、
いじめとモンスターが跳梁跋扈する学校、
一億総こども化する日本社会……。
現代日本の難題を、ウチダ先生が筆鋒鮮やかに斬りまくる! !
感情タグBEST3
Posted by ブクログ
内田樹 「 街場の共同体論 」
相互扶助をベースとした 家族論、教育論、コミュニケーション論の本。現代社会に対して、「政治、メディア、教育が ここまで不調になってしまった以上、やれることは自分でやるしかない」というスタンスで 問題提起している
今年の上半期一の面白さ
相互扶助システム
*こどもは〜みんなの仕事だから 自分の仕事じゃないと思う。おとなは〜みんなの仕事だから 自分の仕事だと思う
*人間は 迷惑をかけたり、迷惑かけられたりするもの
*強者には支援する義務があり、弱者には支援される権利がある
コミュニケーション能力とは
*コミュニケーションを円滑に進める能力ではなく
*コミュニケーションが不調に陥ったとき そこから抜け出す能力
*コミニュケーションがうまくいかない人は ルールを破れない人
鶏鳴狗盗(けいめいくとう)
*本当の人間的能力は事後にしかわからない
*人間は商品ではない〜人間は化ける
教育=パスをつなぐ
*非対称性の関係の中で 上位者が 未熟者を保護し支援する形でしか始まらない
*そうやって初めて後継者を育てることができる
クレーマーは社会的に下降していく〜嫌なやつは社会的に上昇できない
階層社会で上位にたどり着けるのは いい人だけ〜相互扶助のネットワークに呼ばれ支援を受ける
*知らないことを知らないと言える人
*他人の仕事まで黙ってやる人
*他人の失敗を責めない人
Posted by ブクログ
「そうでない人」を排除して、社会的に良いことなど、あるのだろうか
最近、日本も日本人もおかしくなってきている。
この、「おかしさ」を言語化することにおいて、内田氏は相当長けていると思う。
毎ページ「そうだよな」という箇所が、たくさんある。
最近の少なくない日本人が、なんでもかんでも、
他人をバッシングするようなメンタリティーになっている。
日本社会の通念上で支配的な倫理観や道徳感に照らし合わせて、
個人や集団、組織の「間違い」を見つけて、徹底的に批判するようになっている。
まるで、それが、自分の義務みたいに思っている人も多くなっているんじゃないだろうか。
個人的には、非常に気味が悪い現象だと思う。
その現象の背景にあるのが、完全なる人を求めて、
宗教用語を使えば、逆説的に個人救済を求めているような感じを受ける。
もちろん、この現象の背後には、今の日本のかなり絶望的な状況にある。
改めて言うわけでもなく、もう日本は豊かではありません。
貧困率も20年前と比べて高くなり、
経済成長は、この20年でほとんどしていない。
また世帯所得も94年から25%ほど減少している。
また人口減少に直面し、日本の社会システムの抜本的な改革や変更が求められているが、
現状「変化」できない構造になっている。
そのため、多くの人が不安になり、個人の安定と救済を求めるのは、
非常に理にかなっていると思うが、現状、手軽な個人の救済はないと思う。
おそらく、無意識的に完全なる誰かを求めて、そうではない人を、
排除する意識が起こっているように思う。
この意味で、今の日本の社会状況は、非常に危険な状況だと思う。
「そうでない人」は、ほぼ日本人の全てに当てはまる。他人のミスや欠点を、最大限努力して見つけ出すことが、エトス(行動様式)となっている。
この行為は、まったく社会的寄与しないし、
そして、生産性もない。
「そうでない人」を排除して、社会的に良いことなど、あるのだろうか?
ただ、この傾向は、おそらくこれからも続いていくに違いない。
Posted by ブクログ
内田先生の本は初めてだった。何故今まで読んでなかったのだろうと思えるくらい分かりやすくて、面白かった。
私たちが属している共同体とは一体何なのか。今後どうやっていくのか。身近なところから鮮やかに現代を切り取る姿は惚れ惚れする。
Posted by ブクログ
さらっと読めるし理解し易いから、内田さん好きだなー
内容は結構興味深かったかも。自分の現状を当たり前と思いがち
(なんていうか、その他の状況・関係が可能性として存在することを想像さえしない、かんじ)
なんだけど、実はそうじゃないんだよ~って、現代の問題は仕方ないことじゃないんだよ~
的な。目からうろこというかなんというか。
Posted by ブクログ
忘れている人が多いようですので、確認しておきますけれども、社会集団は弱者ベースで制度設計されるべきものです。弱者が弱者でありながら、成員のフルメンバーとして認知され、十分に快適な生活を過ごせ、十分な自尊感情を維持できるように、集団は設計されなければならない。当たり前のことです。(p119)
年齢は、発言内容の信頼性をチェックするために重要な情報なんです。(p124)
コミュニケーション能力とは、コミュニケーションを円滑に進める力ではなく、コミュニケーションが不調に陥ったときに、そこから抜け出すための能力だということです。(p166)
Posted by ブクログ
日本の「共同体」がどのように衰退し、今後どのような在り方が求められているかの提言書。現在の共同社会の衰退は、資本主義市場経済を推進する国策の結果として必然的に発生したという分析には納得。契約を越えた関係性を他者と構築できるか。
Posted by ブクログ
内田樹さんの、家族、地域、学校など、共同体についての話ということで、自分にとっては好きな話が多かった。
たぶん、短時間で一気に書いたんだろうな、と思える気迫あふれる文体でした。内田さんのことばで言い直すと、「憑依してる」文章なんじゃないかと思います。
久しぶりに、すらすらと、わくわくしながら読める本に出会えた。よかった。
Posted by ブクログ
帯文等の事前情報から、近年の個人主義を否定し、懐古主義を感情的に書いているだけではないかと疑いながら読み始めた。しかし、いい意味で期待を裏切る内容だった。ほぼ全て理論的で、それでいて非常に読みやすい内容となっている。ただ古き良き時代を取り戻す、個人主義こそ理論的な帰結、といったものを否定し、もっと大きな視点で語られている(理論的に)
Posted by ブクログ
これまでの著作でも繰り返し述べている事がいちばん分かりやすくシャープにまとめられていて、なんなら内田氏の本読むならこれ一冊でええんちゃうかと。身につまされつつ、視野が広がりつつ、点が線に繋がりつつ、様々なブレイクスルーの契機となった。
Posted by ブクログ
最近のニュースをみていると、「おとな」になりきれていない「おとな」が多いことを実感させられる。混沌とした日本社会の中でどう生きていくのかー、子どもたちに何を伝えていく必要があるのかー、色々考えさせられることが多かった。
Posted by ブクログ
『階層の二極化と反知性主義の関連は、指摘する人があまりいませんけれど、これは車の両輪のような現象だと思います』 ー『第七講 弟子という生き方』
例えば郊外の森に囲まれた一軒家に暮らすことにどれだけの価値を見出だせるか。自己充足的な生活が可能で、自然豊かな環境が整っているとして。
その問いに応えようとすると、どれだけ個人主義を標榜しようとも、人は究極的には社会的生物であるということを思い知る。なに不自由なく暮らせるとしても、人は他人との遣り取りを求めるもの。例えば最近読んだ「極北」の主人公が、閉ざされてはいるが安定している現状から不確かな未来へ向けて行動することを選択しても違和感なく追うことできるのもその証であったのだと気付く。結局、内田樹先生が「当たり前」のこととしている感覚の拠り所はその辺りに根元があるように思う。
共同体というもの対する相性は、個人的には余り良くない。そもそも、全体主義的匂いのしそうな考えには鳥肌が立つ。でも、弟子という生き方には共感が湧く。自分自身のこれまでを振り返ってみて、自分のしてきた努力はというものは結局のところ尊敬する人の見渡している高みにへ近づきたいという単純な動機に裏付けられたものであったなとの想いもある。
なるほどなぁ、とまたしても眼から鱗が落ちるような感慨に捕らわれる。内田樹先生の指摘は相変わらず説得力がある。一見正しそうに見えるものの真の構図はこれこれこういうことなんですよ、と、またしても自分が如何に目明きの癖に何も見えていなかったかを思い知る。
そして全体主義を忌避して敢えて取った行動が、反って全体主義を助長しかねないということを指摘され、ぐうとなる。これからは精々ゴミを拾う人になろうと思う。
Posted by ブクログ
内田樹は、本書を「人と人との結びつきのありかたについて、あれこれと論じ」たものと説明している。その具体的な対象は、家族・学校・地域などの、いわゆる「共同体」である。。
私が「なるほど」と思ったのは、「第4講 格差社会の実相」だ(他の話ももちろん面白いのだが、特に興味をひかれたという意味)。
「格差社会というのは、成員たちが単一の度量衡で格付けされる社会のこと」であり、現代の日本で用いられている、その単一の度量衡は「年収」であると内田樹は述べている。
そして、高い収入を得ている人間と低い収入に甘んじている人間は、同じ条件で競争して、その才能と勤労努力の差によって差別化されている、すなわち、年収の差は、フェアな競争を経た結果であり、低い年収に甘んじていることは「自己責任」であるという話になっており、何らかの理由で競争に負けて、あるいは、参加できずに生活が立ち行かなくなった人々を公的システムが救済すること、例えば、生活保護手当を支給することを、「アンフェア」であると言い募る人たちがいることを語っている。確かに、そのような言説をネット上で見かけることがある。
また、公的な救済システムを支持する人たちは、逆に年収が低い人たちが、「オレは貧乏だけれど、愉快に暮らしているよ」ということを許さない。なぜなら、生活保護システムをはじめとする公的救済システムを支持している人たちも、同じ価値観、すなわち「人間の価値は年収で決まる」という考え方には同意しているからである。「貧乏なのだから絶望的に苦しんでいるからこそ救済が必要」というのが彼らのロジックであり、「貧乏だけれども、それなりに愉快に暮らしている」という話には、(生活保護システム自体に賛成している限り)同意できないのだと内田樹は語っている。日本の伝統文化の文脈にある「清貧を楽しむ風儀を知っている人間」というのは、その人たちからは評価されないというか、そういう人がいることは許されないのである。
そして、「競争」が「どちらが年収が高いのか、どちらがお金を儲けているのか」という競争である以上(そして、それが社会的に認められている、というか、それこそがフェアな競争であると考えられている限りは)、人々は共同体のことよりも、自分自身のことを優先してしまうと、内田樹は更に話を進める。「成員みんなが、勝者が総取りし、敗者には何もやらないというルールで、フェアな競争を続けていれば、そのような社会では、自己利益以外の価値、つまり公共的な価値、例えば"自然環境の保全"や"社会インフラの整備"や、最終的には"国を護る"義務さえ人々は感じなくなる」と述べている。
そして、それが国家目標(お金を効率的に設けること)となり、政策決定の基本的なベースとなっていることを嘆く。「どうして、国家目標が"スピーディな政策決定と効率的な金儲け"に縮減されなければならないのか。そのためには、国土が汚されても、自然が失われても、階層格差が拡がって、社会的弱者が切り捨てられても、集会結社の自由や言論の自由が制約されてもしかたがない」というのが、今の日本の基本的な考え方ではないかと述べている。
上記のような内田樹の考えは、ある程度、「なるほど」と思う。しかし、実態はそこまではひどくないのでは、とも一方で思う。
私はこの感想文を2023年11月に書いているが、この時期は、岸田首相の支持率が就任以来最低の30%まで下がった時期である。30%という数字は、岸田政権として最低数字であるばかりではなく、過去の首相の支持率の末期に近い数字である。支持率が下がったのは、閣僚に不祥事が相次いだこともあるが、それよりも、岸田首相が「減税」を打ち出したことが大きな理由だと思う。「減税」を打ち出して、なぜ支持率が下がるのか、ということであるが、私自身はこのように思うというか、下記のように感じた。
■「減税により、経済的メリットを与えておきさえすれば、国民は満足するのだ、国民は結局は金が欲しいのだ」と岸田首相に言われたと感じたから。「どうせ金でしょ?」と、軽く見られたわけである。
■「本当に減税が、今の日本にとって最も重要な政策なの?」という疑問を多くの人が感じたから。日本にとっての重要な問題は他にもある、例えば、少子高齢化、経済格差、人手不足等。その中で、何が重要なのかということについては、人によって意見が異なるだろうが、1年限りの減税で、これらの問題が解決し、日本が良くなるとは思えないと感じる人が多かったのだと思う。というか、どう考えても解決しない。
言いたいのは、為政者が、「明らかに」変なことを言い始めたり、「明らかに」変なことをやり始めた場合(今回の「減税」政策)には、それに対してビビッドに反応する人がまだ日本には多いのではないか、と私は感じたということである。
Posted by ブクログ
問い
・なぜ、共同体論が必要なのか
答え
・消費社会の行き過ぎた進展とともに家族が解体され、格差社会が出来上がった。同時に、学校教育も解体され、われわれの子供の世代の学力は極めて低い状態のまま、われわれは老後という弱者に転落する時代を迎える
以下、現代の日本社会の特徴
父親が没落し、母親による家族支配と呪縛がもたらされるようになった。
・父と息子の葛藤はドラマにならない
・圧倒的な支配力をもつ母親が誕生した
・母親の育児戦略は「弱者デフォルト」
・母親の「父親兼任」はきつい
拡大家族論
・賢い男は「家族内序列2位」を選ぶ
・人を傷つけると全能感が味わえる
・ヴァーチャルが実で、リアルが虚な人たち
・連帯する能力の有無が生死を分ける時代
消費社会が進むことで、家族が解体していったといえる。
・「こども」の数が異常に増殖してしまった
・強者には支援する義務が、弱者には支援される権利がある
格差社会は階級社会とは異なる。
・子供が年収で大人を値踏みする社会
・社会的に要請された「身の程知らず」
・「フェアな競争社会」には落とし穴がある
学校教育に希望を託した時代は終わり、資本主義は、貧富格差の拡大を願っている
以下、こうした社会において生きる知恵
コミュニケーション能力とは、相手の体温を感じられるところまで近づくこと
弟子という生き方は、楽だ。
・努力と報酬が相関しない。
・ほんとうの人間的能力は「事後」にしかわからない
・四十代以上は、師弟関係が理解できない
・質のよい情報をフォローする
・自分に居着かない開放感がある
Posted by ブクログ
「人と人の結びつき」をテーマとして、家族、格差社会、教育、コミュニケーション、師弟関係について日本の状況を考察する。著者の身の回りの出来事から、世界の趨勢まで幅広く問題提起し、どうあるべきか自身の考えを提示する。
これまでこのシリーズを何冊も読んできたが、この本はテーマ別によくまとまっていて、とても判りやすかった。例えば近年、日本の社会が経済優先の思想に重点が置かれたため、家族制度が崩壊し、格差社会を生み、教育制度の歪みを生んでいる。特に学校教育については学生が「自身の学力を高めること」ではなく、「少ない努力でいかに学歴を手に入れるか」を競っている状況を指摘する。そしてそれが彼らにとって当たり前であることを、著者は危機的な状況と感じている。
自分も著者の指摘はよく判る。数年前、新入社員に業務の背景を説明していたら「無駄な知識は要らないので、何をやるかを早く教えて欲しい」と言われたことがある。曰く、「最小限の努力で最大のパフォーマンスを発揮するのが自分のポリシーだ」と。彼は能力はありそうだったが、周りと上手く行かなかったのか、結局5年ほどで退職してしまった。
内田樹の本を読むと彼の思想に感化されてしまい、世の中の出来事にいろいろ意見したくなる。でも誰も聞いてくれるわけではなく、何も行動できず、テレビで放送される事件や事故の報道に向かって文句を言うだけの自分が何だか情けない。。。
Posted by ブクログ
痛快で笑ってしまう。
触れることがタブーとされているようなことや、それ言っちゃおしまい、みたいなことをがんがん明るみに出していて、面白かった。
色々考えさせられる。ちょっと、怖さや痛さもある。
Posted by ブクログ
1.内田樹さんが言いたいこと。
相手を理解するには、相手の体温を感じるところまで近づくこと
賢い男は「家庭内序列2位」を選ぶ
格差社会とは、子供が持ち物で大人を値踏みすることが存在する社会。
社会的に要請された「身の程知らず」
お金の管理がルーズすぎる。収入に生活レベルを上げる工夫が出来ない。
身の程知らずの消費行動は、広告代理店が作り出した幻想。ちょっと無理をする生活はマーケットが要請しているから。
家族の解体 (消費を促進するため)
現代の親子関係は商取引に準拠する。
子供を成熟させるために、教育を受けさせるのではなく、出来の良い「製品」を出荷し、家族=「ファクトリー」としての格付けをあげたい、と言う親の自己都合。
「この人についていっても大丈夫」いう確信は、
人生が楽しくなる、目の前が広がるような感覚があるんじゃないかなと、想像する。「わからなさ」について話し合うのがたのしい。師の近くにいると、なんとなく、ぽかぽか、気持ちが暖かくなって、心身がリラックスする。それがわかると、「ああ、この人についていっても、大丈夫だ」と。
2.あなたを決めるのは、消費の仕方であるという国策。
消費単位は家族だったのが、国策「家族の解体」を進めることにより、個別の消費が進む時代になった。
消費は家族の合意が必要であって、ほしいものにも合意が得られず、購入できない事態があった。
しかし、その場合は、貨幣は市場に投じられずに、貯蓄に回される。それでは、市場が活性化しない。「あなたがどのような商品を購入したかによってあなたが決められる。」という消費者哲学に基づき、現代人のアイデンティティが構築されている。
自分の消費活動について、「身の程」と引き比べて、適切であるかどうかについては誰にも口を挟ませないことが日本人の緊急の課題となった。家族解体はその必然の帰結であった。
どのように消費するかは自分が決めること、そして、消費が増えることを、国も、マスメディアもこぞって煽り立てていた結末が、家族の崩壊につながった。
3.日本人の「無教養」と「反知性主義的傾向」について。
消費者行動が変化し、人間の価値が、「何を作るか」ではなく、「何を買うか」になってしまった。また、わずかな労働時間で、巨額の収入をもたらす形態が、最も賢い働き方になり、一方、額に汗して働き、使用価値の高い商品を生みだしても、高額の収入をもたらさない労働は、社会的劣位に位置づけられた。こうやって労働者のモチベーションは傷つけられていった。
子供たちが学ばなくなったのも、この労働間の変質と同じ理由で説明できる。少ない学習努力で、価値の高い大学に入るかが、学生たちの目標になり、意味のあることである。学力を高めることは、もはや学校教育の目的ではない。「努力の少なさ」が競われているので、絶対学力が底なしに低下するのは、論理的に自明なことである。
また、会話の中に、相手の試験の点数が上がるようなトピックは入らないように努力し、そんな日常の努力の積み重ねの上に、「無教養」と「反知性主義的傾向」が構築される。
4.男女雇用均等法がもたらしたもの。
私が近頃思っていること、どうして女性が、出世をしたがるのか、男に負けるのがいやなのかということ、負けるが勝ち、という言葉もあるように、勝ち負けなど決めなくてもいいのに、と思う。
しかし、今の女性は、子供を生んでも、パートナー、夫との仕事にかける時間を競い、自分が不利だと嘆く。時短をもらったら、喜んで子供といる時間を選べばいいのに、仕事ができないとイラつく。私には良くわからない。
しかし、内田先生の言葉を借りると良くわかる。「男女雇用均等法」により、それまでの伝統的な性役割を解体したものだから。
男女の性差をなくし、労働単位としても、消費単位としても差別をしないということになった。それは資本主義にとっても、フェミニストにとっても都合がいいので、すんなりと受け入れられた。
その結果、雇用される者の数はかわらないのに、女性が仕事を継続するので、男性にも非正規雇用が拡がった。
以上が読後のまとめだが、内田樹先生の現代を読む鋭い視線と、判断力がとても痛快だ。
これからも、内田先生の本を読んで、現代の現象を紐解きたいとおもう。
Posted by ブクログ
内田樹氏はいつも、「現代」を鮮やかに切り取って僕たちに示してくれる。この本では、「家族」「学校」といった共同体を軸に、激減してしまった「おとな」がするべきことを説く。
「父親の没落と母親の呪縛」の章では、“現代日本のシステム的に、家庭内に父親の居場所というものはない”といった内容が尋常ならざる説得力を持って語られ、胸をえぐられるようであった。
そして、コミュニケーション能力とは「人と気持ちよく会話する能力」ではなく、「コミュニケーションが成立しなくなったときに対処しようとできる能力」である、という記述が印象に残った。
Posted by ブクログ
デトックスに読みました。
「家庭における父親の居場所」というものに、とても納得してしまいました。
システム的に、父親の居場所と言うものはない。
でも、家庭で自ら機能することを放棄している父親を30年以上見続けていると、
それでいいのかと、
私はどうにかできないのかと、
とても苦しくなります。
父親は、嫌いです。
でも、父親を、不憫に思っています。
どうにかしたいと、
だって、どうにかできる方法を見つけなきゃ、
私が前に進めないからです。
でもそのためには、
父が変わろうとしてくれなければ、
もう私には打つ手立てがありません。
人に変わることを願うことほど、
傲慢な考え方はありません。
どうしたら、いいんですか?
わたしはずっとこのまま、
一人なんでしょうか。
自分の一人を、父親のせいにしているかのようなこの
悪しき循環を、断ち切りたくて、断ち切りたくて。
ほんとうに、困ってしまっているのです。
Posted by ブクログ
まぁ、期待したよりは為になる部分ってのは少なかったかな。けど、なるほどなぁと思える部分、おもろって思える部分があったので...最後の師弟関係の部分はちょっとくどかったかなぁ。
Posted by ブクログ
市場経済の原理を適用すべきでない分野(本書いうところの社会的共通資本)、例えば教育とか地域コミュニティとかについての内田節は共感できるところが多い。これらの分野では、等価交換ではなく、敢えてオーバーアチーブする人が一定程度の割合で存在することで社会が維持されるというのはおっしゃるとおりかと。
クレーマーになって相手に頭を下げされて一時的に快感を得ても、その代償に周りから次第に遠ざけられ、社会的評価を失い、下層社会に落ちていく、だから、いい人でなければ階層の上位には行けないんだという構図は、岡田斗司夫や佐々木俊尚の主張にも通じるものがあるね。
政治的なイシューでは共感できない部分もあるが、こうしたテーマを語らせれば、面白く読めますね。(まあ、言ってることはいつも同じなんですけど)
Posted by ブクログ
本書では、主に日本の共同体が戦前と戦後でどう変化したかについて述べられており、現代に求められるものについての内田さんの考えが示されている。資本主義経済システムの要請からくる反家父長制によって旧式のあらゆる共同体が解体され、個々人に分割されてしまったこと。親子関係しかり、学校教育しかり。経済学科で学ぶ身としては、簡単なミクロ経済モデルを扱う際に登場する「合理的経済人」、つまり「経済活動を行うにあたり完全に合理的であり、自己の利益を最大化するために行動する」と仮定された存在を思わず考えてしまった。この考え方には、人は「この商品は同種の商品の中で最もすばらしい」とか、「このスーパーよりもあのスーパーで買うほうが安い」などといったすべての情報(完全情報)を知っているという仮定が存在する、と習っている。が、それよりも根っこの部分にある重要な仮定として、「すべての人が同じ価値観を持ち、同じものを求める」ことがある。当たり前のことかもしれないが、今日の経済学というものは資本主義経済上に成り立っているのだな、と感じた。
資本主義経済が影響を及ぼしたのは、人々の労働形態のみではなく様々な価値観に対してでもあったことは、今まであまりしっかりと考えたことがないことだった。新たな見方を知ることができたので、この本と出会えてよかったと思った。言われてみればいたるところで「消費者マインド」に支配されているな、とは思う。ただ、家族間の関係やご近所づきあいの希薄化にも一枚かんでいるとは考えていなかった。確かに、共同体が解体すれば、商品の需要者は増える。内田さんが指摘されているように、みなが同じものを求める状態のほうが、企業にとっては生産活動をしやすいし利益を上げることはできるだろう。それでも、私にはそういうシステムが少しさびしく感じられた。実際に以前の時代を生きたわけではないが、なんとなくそう感じてしまった。とはいえ、私が古き良き日本として語られる昔の日本像を知るのは、もっぱらイデオロギー操作に加担したとされるマスメディアからなのだから、皮肉なことである。
読み終わって、内田さんはただただ現在に悲観し文句をつける人物ではないのだと改めて感じた。一見古くさいと思われるようなやり方の中にこそ、日本の今後の生存条件があるのではないか、という主張は、まえがきにあった「『当たり前のこと』に帰着します」という言葉通りだった。やはり、読みやすい文章ではありながらも言葉に重みがあると感じた。ただ、「最近少年犯罪が増加しているとコメンテイターたちがコメントしているが、実際はそうではなく個人の印象である」と批判しているのに対し、内田さん自身も「おとな」比率が5%というのを感覚で語っていることが少し気になってしまった。
今後求められていくのは、親子関係の再編と個人のリテラシー向上ではないだろうか。お互いが助け合うことができるコミュニティや「おとな」を生み出すためには、幼少期に親から受けた印象が大きな力を持つだろうから、まずは親子関係から変えていく必要がある。個人のリテラシー向上というのは、メディアの情報をただ受容するのではなく、疑ってみたり、検証したりすることができる能力を身につけることである。本書の中でも述べられていた、「自分らしさにこだわれ」「集団に帰属するな」という個人主義的イデオロギーのアナウンスに対しても、それを社会的必然性と捉えるのか、他者の考えの押し付けと捉えるのかは個人次第である。流れてくる情報を、はいそうですかと鵜呑みにするのではなく、一度立ち止まって考えてみる。ただ、ともすると「自分らしさにこだわる」ことと紙一重ではあるので、「師匠」を見つけ師事できることが一番の近道なのかもしれない。
Posted by ブクログ
…学校教育は「共同体の次世代を担いうる成熟した市民の育成」のためのもの…であるから、…「成員なちがみな均質的であり、数値化できる能力に従って階層化された集団」よりも、「全員が天才であるような集団」のほうが、危機的状況を生き延びる確率が高い。…の箇所は印象に残りました。何度も読んだことがある内容含まれているのですが、「その何度も」の箇所は難しいことではなく心に留め置きたいことが多いです。
Posted by ブクログ
小難しいことほど
まじめに
肩の力を抜いて
ゆったり
静かに
考えたい
「本」の素敵なところは
わからなかったら
また 振り返って
そこから 読み直してみたり
まったく 別のことをしていたときに
あっ あれ
こういうことだったんだ
と 腑に落ちたり
そんな
「知」の楽しみ
を 内田さんの本は
与えてもらえる
いい時間でした
Posted by ブクログ
【面白かった話し】
・かつては、母親が子どもの実態を把握していて、把握をしていない父親が決定権を持つという構造だったが、今は母親が実態を把握しつつ決定的な影響も持つという構造になっている。母親は子ども以上に的確にその能力を判断し、将来の夢も打ち砕いてしまうがために、閉塞感があふれてしまっている。
・日本は安全で豊かな社会であったために、ネットワークに属さずに孤立して生存が出来るが、安全性に問題がある社会では、ネットワークに属しているかどうかが「格差」どころではなく「生存可能性」に差が出てきてしまう。
・ほんとうの人間的能力は事後的にしかわからないというのが、少し前の時代では通用していたが、今はあらゆることが商取引的になって、就活でも自己PRなどというものをやらせる。何の役に立つかわからない能力はゼロ査定するというのが、今の人事採用のやり方。
・人類は、どうやって同じものをみんなが求めないように、欲望を散らすかということを考えてきたが、今のグローバル市場主義では、みんなが同じ欲望を持ってフェアな条件で奪い合いすることを理想としている。人類が育ててきた知恵を否定する行為。
今の日本社会は、若い人がスタンドアロンで「誰にも迷惑をかけず、かけられず、自分らしく生きたい」というようなことを言えるほど、もう豊かでも安全でもない。「お互いに迷惑をかけたりかけられたりしながら、愉快に生きていく」ノウハウを、若い人たちは身につけていかなくちゃいけない。(p.86)
現代人はつい忘れがちですけれど、「他者からの支援なしには生きられない」ということは人類史の90%においては「それが常態」だったのです。「ひとりでも生きられる」ということが言える社会は、近代以前には存在しなかったし、今もこれからも例外的なエリアにしか存在しない。(p.112)
僕たちが生きている間に遭遇する決定的局面は、すべて「どうしていいかわからない」状況です。結婚相手を決めるときも、就職先を決めるときも、乗った飛行機がハイジャックされたときも、僕たちは「こうすれば正解」ということをあらかじめ知らされていません。どうしていいかわからないけれど、決断は下さなければならない。人生の岐路というのは、だいたい「そういうもの」です。(p.170)
ネット上で求められているのは、「個別的論点について、十分に情報を持っており、推論が適切なので、その判断に信頼がおける人」です。
そういう人って、別に自己宣伝をしなくても、自然に「フォロワー」が増えてくる。自分たちが感知できない微細なシグナルを感知できている人って、やっぱりわかるんです。そういう判断の適切な人というのは、これまではなかなか表に出てきて吟味されるという機会がありませんでしたけど、ネット時代になって、だんだん水面上に顔を出してきたんだと思います。(p.213)
匿名というのは我執ということです。自分のした発言の責任を、生身の自分としては引き受ける気がないということが問題なのは、「責任を取ることのできない妄言を吐き散らす」ことではなく(それもちょっと問題ですが)、それ以上に「どんなことがあっても生身の自分は手つかずのまま温存したい」という我執が見苦しいからです。(p.223)
Posted by ブクログ
(以下引用)
豊かさと親しみは食い合せが悪いんです。金ができるとみんながだんだん排他的になる。でも、まだ日本全体が貧しくなってきて、共和的な貧しさの知恵の必要性を感じ始めている。いつの時代がいいとか悪いとか、一概には言えないと思います。個人が原子化して、親族や地域社会が崩壊したのは、日本が安全で豊かになって、一人でも暮らせるようになったことの代償なんですから。それ自体は言祝ぐ成果なのです。(P.89)
この三種類の社会制度資本(自然資源、社会的インフラ、制度資本)は、専門家によってクールかつリアルな専門的知見によって管理運営されなかればならない。私念や私欲が介在してはならない。当たり前のことです。ですから、社会的共通資本の運営は、政治イデオロギーと市場経済は関与してはならないとされています。政治イデオロギーはどれほど賛同者が多くても、それを駆動しているのは私念です。市場はどれほど規模が大きくても、それを駆動しているのは私欲です。私念と私欲を動機に行動することが「悪い」からではありません。私念は常に誤り、私欲は常に邪悪であるからではありません。そうではなく、私念は私欲は「ころころ変わる」からです。(P.136)
コミュニケーション能力とは、コミュニケーションを円滑に進める力ではなく、コミュニケーションが不調に陥ったときに、そこから抜け出すための能力だということです。(P.166)
我が国のエリート層を形成する受験秀才たちは、あらかじめ問いと答えがセットになっているものを丸暗記して、それを出力する仕事には長けていますが、正解が示されていない問いの前で「臨機応変に、自己責任で判断する」訓練は受けていません。むしろ誤答を病的に恐れるあまり、「想定外の事態」に遭遇すると、「何もしないでフリーズする」ほうを選ぶ。彼らにとって「回答留保」は「誤答」よりましなのです。でもライオンが襲ってきたときに「どちらに逃げてもよいか、正解が予示されていないから」という理由でその場で立ち尽くすシマウマは、たいてい最初に捕食されます。ですから秀才たちに制度設計を委ねると、その社会が危機を生き延びる可能性は必然的に逓減することになります。(P.170)
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最後のほうのコミュニケーションに関する論説にはなるほどと思った。コミュニケーション能力がある、ない、というのは一般的に使われている意味よりももっとシビアだ。厳密には相手に伝える能力ということだが、伝えられない状況でも「いかにして伝えるか」をルールを破ってでも実行できる力であることのようだ。
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家族や教育、コミュニケーションなど、日本社会や日本人について語った本。
人が幼児化し、非常識になり、「当たり前のこと」が通じない世の中になりつつあって、ちょっと落ち着いて世の中についてゆっくり考えてみましょう的な本。
これまでの著者の本を簡潔にまとめたような内容でした。
著者の本をまだ読んだことがない人には、お薦めします。
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本の途中に出てくる教育の話を読んでいて、個人の能力は上がってきているんだから、これからは「情報をキュレートしていく力」と「こじつける力」が大切になりそうというのをやっぱり考えた。
最後の師弟の話もまぁまぁ面白かった。学び方を学ぶ姿勢を学ぶと。これから学ぶことは、自分の今の物差しではわからないことなので、新たな物差しを自分で作り出していくこと。そういうことをしていくこと。学びはまさにそうだなぁと思った。最近修士論文を書いているとまさにそう思う。勉強することの意味が新しい物差しの芽吹きに気づいて、トントンと作り出していくことであると思っていたところだ。