内田樹のレビュー一覧
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(以下引用)
人生はミスマッチである。私たちは学校の選択を間違え、就職先を間違え、配偶者の選択を間違う。それでも結構幸福に生きることができる。チェーホフの『可愛い女』はどんな配偶者とでもそこそこ幸福になることができる「可愛い女」のキュートな生涯を描いている。チェーホフが看破したとおり、私たちは誰でもどのような環境でもけっこう楽しく暮らせる能力が備わっている。「自分のオリジナルにしてユニークな適性」や「その適性にジャストフィットした仕事」の探求に時間とエネルギーをすり減らす暇があったら「どんな仕事でも楽しくこなせて、どんな相手とでも楽しく暮らせる」汎用性の高い能力の開発に資源を投入する方がはるかに有益であると私は思う。(P.155)
たしかに「予防」は仕事をふやす。場合によっては「自分のミスではないミスの責任者」というかたちでネガティブな評価を受けることもある。けれども、それがいちばん
効率の良いシステム防御策である。「いいよ、これはオレがやっとくよ」という言葉で未来のカタストロフを未然に防ぐことができる。けれでもカタストロフは「未然に防がれて」しまったので、誰も「オレ」の功績を知らない(本人も知らない)。そういうものである。成果主義は、この「成果にはカウントされないが、システムの崩壊をあらかじめ救ったふるまい」をゼロ査定しする。だから、完全な成果主義社会では、システム崩壊を未然に防ぐ「匿名で行われ、報酬の期待できない行為」には誰も興味を示さない。私たちの社会システムはそんなふうにして次第に危険水域に近づいている。(P.177)
政策の幅が狭いというのは、悪いことではない。それは社会が成熟して、大きな変化を受け付けなくなったということであり、言い換えれば「誰がリーダーになってもあまり変わらない」ようになったということである。(P.267) -
Posted by ブクログ
ネタバレ内田先生と名越先生が相思相愛というのがよくわかった(笑)
まあそれは置いといて、私は中学生の親ではないですが、個人的には学ぶことが多く、勉強になる本でした。ただ対談形式で表記されているのでぱっと見わかりにくいのがちょっと残念。ホントに読んだ方がいい親や人はまず読まないし、理解できない内容だと思うけど、出来る限り万人にわかるようにこういう本は作って欲しい。
特に印象に残ったのは第8章
・あんまり子どもをいじりすぎない
・叱るのは親の敗北
・大事なのはルーティン(繰り返し)、世界に一つしかない花を咲かせようと焦って、土いじりを怠ると根をおろす場所がなくなる -
Posted by ブクログ
村上春樹の世界性、については前々から興味があったものの、わたしは村上春樹の小説にあらわれるあの『非日常性』にあまり惹かれない。それが、今まであまり村上春樹の作品を没頭して読めなかった理由。でも、村上春樹はたぶん、自分の本を必要としていて面白いと感じる人だけ読めばいい、と言っている。村上春樹の小説を面白いと感じる人間の方が文学的感性に富んでいて、わたしはその人間ではないというところにいつも劣等感を感じていたけれど、この本を読んで村上春樹についてはそんなことを考えることすら無意味なのではないか、と思った。村上春樹がキャッチャーインザライで言うところのキャッチャーの役割を社会的に担っているという自覚のもと小説を書いているという内田樹氏の見解に従うのであれば尚更。わたしにはわたしの、村上春樹に対する向き合い方がある。ご本人にとっては不本意かもしれないけれど、それがわたしなのだからしょうがない、と思ってこれからも村上春樹を読もう(もしかしたら読まないという選択肢もあるのかもしれないけど)とおもう。
それにしても、わたしはなんて底の浅い読書しかしていないのだろうと思って愕然とした。浅薄。恥ずかしい。創出も批評もできないならどうやって生きて行けばいいんだろう。分からない。 -
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流行りの内田樹が、今ほどお偉方じゃないけど、でもとっても旬だった頃に書いた本。率直な断定型口調は歯切れよく、100% agree!!!!!!!といかずとも、成る程ね!目から鱗よ、と思える点が幾つかあった。そういう意味では筆者自賛の如く、readable。10年前に『私を代弁しえないマスメディア』をいいあてているのはすごい。見よ、このソーシャルメディア時代を!って感じですよね。論理性や一貫性に固執しすぎず、自分の思考直感に誠実な姿勢が、このひとの魅力なんだろうな。この本のなかに答えを求めるより、この本を思索のきっかけにする、そんな本だと思います。
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(以下引用)
「近代史上もっとも成功した教育システムである「幕末の私塾」がなぜ放棄されて、明治の公教育システムが構築されたのか。(中略)「幕末の私塾」が産み出したのが「回天の英傑」ばかりだったからである。そんなものにぞろぞろ輩出されたのでは近代国家のプロモーションは成り立たない。「政体を転倒するほどのスケールの大きい人間を生み出す教育システムはもういらない」ろいうことを暗黙の前提として、明治以降近代の公教育システムは構築されたのである。(P.28)
今日、社会的上位者には教養がない。かわりに「シンプルでクリアカットな言葉遣いで、きっぱり物を言い切る」ことと「自分の過ちを決して認めない」という作法が「勝ち組」の人々のほぼ全員に共有されている。(中略)別にお嘆きになることはない。だから教養の再生プログラムも簡単である教養のある人間しか出世できないプロモーションシステムを作ればよいのである。そう、「科挙」の復活である。((中略)文部科学省も「教養教育の再構築」などとつつましいことを言わずに、ここは一発「科挙による政治家と高級官僚の登用」を提言してはいかがか。(P.119)
ワクチンは風土病の発生現場でしか作れない。(P.157)
中期計画を立て、数値目標を示して、目標通りの成果を出さなければ研究予算が打ち切られるということになると、研究者たちはまず目標を下方修正するようになる。確実に達成できる目標に引き下げて、プロジェクト自体を矮小化することで生き延びようとする。(P.235) -
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(以下引用)
生物学者が種の多様性の根拠を「生命システムでは、似たような機能を果たすファクターや性質や行動にはある程度なばらつきがあったほうが、システムダウンのリスクを回避する可能性が高い」という事実のうちに見ている。同じ話を国際社会に当てはめてみよう。なぜ、全世界的な規模のグローバリゼーションの圧力にもかかわらず、これほど多くの国民国家や種族や宗教共同体が地球上にはあふれかえり、それぞれの差異を言い立てているのか。それは「エコロジカル・ニッチの多様性」が人類の存続に必須である、ということを人々がどこか身体の深いところで直観しているからである。(P.10)
どれほど合理的で厳密な規定であろうとも、「戦争をするためのクリアーすべき条件」を定めた法律は「戦争をしないための法律」ではなく「戦争をするための法律」である。たとえば刑法199条は「殺人罪」を「人を殺したる者は死刑または無期もしくは5年以上の懲役に処す」と規定しているが「人を殺してもよい条件」は規定していない。改憲論者のロジックは「自衛のため又は公共の福祉に適する場合を除き」という限定条件を刑法199条に書き加えろと言っているのと同じである。(P.24)
憲法九条と自衛隊が矛盾した存在であるのは、「矛盾していること」こそがそもそもはじめから両者に託された政治的機能だからである。平和憲法と軍隊を同時に日本に与えることによって、日本が国際政治的に固有の機能を果たすことをアメリカに期待した。(P.30)
従属はしたくないが、孤独ではいたくない、というのは「腹一杯にご飯を食べたいが、やせたい」というのと同類の不可能な願望である。「自由に暮らすこと」」と「他人と暮らすこと」は両立しない。自由に暮らしたいものは一人で暮らすべきだし、他人と暮らすことを選んだものは、しばしば自由を断念しなければならない。それが世の常識というものである。(P.107)
明治の世に江戸の「異物」が豊かに混在していたことを物語の水準で活写したのは、おそらく山田風太郎をもって嚆矢とする。(P.194)