あらすじ
現代思想は何のための道具なの? 二〇世紀を代表する六人の思想家を読み解き、現代思想をツールとして使いこなす技法をパフォーマンス(実演)する。
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Posted by ブクログ
久しぶりの更新に、まったくもって最近は本を読む暇などなかったことを思い知らされる。あー、発狂しそう。本読めねーような生き方私には向いてない。
で。感想。
これはよかった。
初めのソシュールがちょっと難解で挫折しそうになったんだけども、映画の話につなげて思想のあり方を紹介してくれたりしてることが、おばかなわたしでも非常にわかりやすい構成になってた。ありがたい。こういう本が読みたかった。
フーコーさんの思想を主に読みたくて買ったんだけど、最後のサイードさん、良かったわ。あれ?これって新近効果?ま、いっか。
わたしは、わたしのままで生きてるとか思ってた、無知な20代前半。でもなんか、そーじゃねーよな、って感じ始めて、こういう本、もっと読んでみたくなった今現在。
私たちはもうすでに、わたしがこうやって日本語でこのレビューを書いているように、言語という縛り、文化という縛り、性別という縛り、時代という縛り、それだけじゃない、色んな縛りのもと生きている。
その中で、今教職についてるから余計感じるのだけど、「個性だなんだ」って、一体何をもっての個性なんだよ、なんか、社会でわけのわからんでっかい支配の中にうまく組み込まれるように、でもそれに何の疑問も持たんでいいように「個性」とかいう言葉を使ってるだけじゃんかよ、という疑問が払拭できなかったわたしに、やっぱりそうか、というか、われわれは自由ではない(自由という言葉をこんな簡単に使っちゃだめなんだろうが、うわべの言葉で言うとそんな感じ)ってことを納得させてもらえたっつうかね。
これを読んで、やらなきゃならないこと。もっとフーコーさん読みたい。読む。んで、もっと極める。
日常生活の中。もっと言葉に懐疑的になる。自分の使っている言葉は、自分が発してるものじゃなくて、いろいろ操作されたものの結果であるってことにもっと自覚的になる。自分の思想は、性別ゆえのものか、時代ゆえのものか、文化ゆえのものか、それらを剥ぎ取ってなお、有効とされるものは何か残っているのか、ってことをもっと考える。
はは。考えて何になる?何にもならんだろうね。でもわたしは、そういう作業を頭の中であれこれ考えていることがとても楽しいのだ。だから。
最後についこの間某テレビ番組を見ていて思ったことをひとつ。
「働く女子の不調」について紹介していた番組だった(気がする。最後まで見てなかった。)んだけど、
「男と違って女は大変なの。」
ということを切実に訴えてる感じがしたのね。男女平等とかいって、女性が社会進出してるけど、男はもっと女のこと考えてよ。女って生理があったり、寒さに弱かったり、体力ないから残業つらかったり大変なんだから、みたいな。
で、お医者様まで出演していて、女の子が不調になることの多くは女性ホルモンが関係している。その女性ホルモンはストレスにすごく弱い。みたいなこと言ってたの。
わたし、その時点でテレビ切っちゃったんだけどさ、
伝家の宝刀ごとく「女性ホルモン」「ストレス」ふりかざして、男に何にもいえない状況作るのってフェアじゃないよって、思っちゃったの。
もちろん、不満はあるよ。わたしも男女差の少ない環境で働いてるからさ。生理つらいし、生理前の情緒不安定さとか、死ぬほど自己嫌悪陥るし。結婚とか出産とか、育児とか、正直このまま普通に働いてたら、絶対無理だって思っちゃうし、もっと楽に働けねーもんか、とか思っちゃうこと、たくさんあるよ。
でも、なんか番組の言い分見て、これ、違うって思っちゃったの。
まぁ、わたしの不満は番組の訴えるとことちょっと違ったってことなんだろうけど、
なんか、女はがんばってんだから、男、理解してよって言い分はあんまりに単純な気がする。そう思うのって、私だけ?
申し訳ないけど、われわれは「男社会」を生きてるのは否定しない。でもそれを、周りの男に理解してよみたいに言うのって、なんか論理がすりかえられてる気がする。それこそそういう「女性的思考」が、なんか違う気がする。
もっと大きな枠組みでそういうこととらえて、これからのこと建設的に考えていくなら、わかる。でも日常の労働環境を、男、どうにか理解して、って、「男社会」で生きてる私たちをもっとちゃんと認めて、っていうか…うーん、まだなんか考えがまとまってないんだけど、不満の矛先が、男社会を認めつつ、その上で男の許容範囲を広げろって訴えてるような感じになんか違和感もったっていうか。なんだろう。周りの男が認めてくれたらそれで満足なの?みたいな。それってなにか、根本の解決になってるの?って思っちゃったんかなぁ。
わたし、そういう思考でいる限り、何にも変わらないと思うんだよねって思うのは、私がすでに男の社会に感化されすぎてるがゆえにそうおもうのだろうか。
うん、まだ一考の余地あり。考えがまとまったらまた書く。
追記:ロラン・バルトの回の「エイリアン」に出てくるレプリーみたいに感じたのかも。
雇用機会均等だとかなんとか言いながら、できるだけ男とフェアな環境になりたがりながらも、実は行動自体が男のやり方と何一つ変わっていない…男社会のまんまっていうか…。
関係のない話なんだが、わたしはとても淡白な人間で、
外見からそのようには見えないとよく言われるのだけど(どんだけ自分欲求不満てきな面持ちしてんだ?って話だ。失礼しちゃう。)性欲ってもんが全然ない。っていうか、好きじゃないんだ。
手をつないだり、人の頭なでたりとか、そういうのは好きだけど、性欲に関しては皆無といっていい。
自分はどっかおかしいのかもしれないと、よく思うのだけど、もしかしたらわたしは、性交って行為そのものが男に屈するものだと思い込んで無意識に抵抗してるのかもしれない。
わたしはもっと、リベラルでありたい。人は多分、囚われすぎているんだ。言葉に、文化に、時代に、性差に。
言葉を発すれば発するほど、何かにとらわれていく。
だからわたしは、絵を描く。
でも、描くこともまた、何かの制約に合っているのだ。
ただ、言葉からは少し、開放されたところにある「見る」ことを通じて存在するアートっつうものに、
囚われてることが、唯一人とのつながりを図りながら、リベラルな状態でいられるんじゃないかっつう勘違いを
今はしていたいのだと、思う。
考える余裕が出た時に、
いつか向き合い、自分の概念をガンガンと打ち壊していくことを、していきたい。という予定を、ここに記して、今はこの思考をここで止めておきたいと思う。
Posted by ブクログ
・現代思想のパフォーマンス
P326
フロイトの例によれば、「母親の不在」という幼児にとっては極めて根源的な喪失経験に動機づけられて、幼児は記号操作の習得のやむなきにいたる。
母親と想像的に癒合していた幼児にとって、母親との離別の苦痛は耐えがたい。幼児にとって想像的他者の不在が「名づけえぬもの」であるかぎり、それがもたらす喪失感は世界の崩壊に等しい。
しかし、「母の不在」を言い表す記号を幼児が獲得し、その記号が他者に認知され、理解されるようになると、「母の不在」という経験のもたらす苦痛は緩和される。苦痛は、苦痛そのものであることをやめて、苦痛の記号になるからである。「母が存在しない」と幼児が宣言するとき、「母の不在」は「母の不在」というなまなましい事実であることをやめて、「母の不在という物語」に書き換えられる。
このパートは一見すると難しいが、よく読むと、非常に普遍的なことが書いてある。私たちが記号操作をするのは、経験に一定の距離を置くためであり、経験に一定の距離を置くことは、苦痛の緩和をもたらす。
簡単な例でいれば、例えば、会社をクビになったとすると、そのことを誰にも話さなければ、それはなまなましい経験であり、ただの苦痛である。しかし、それをひとたび友人に相談するなり、Twitterに書いてみると、それは記号となり、物語に書き換えられる。
オードリーのオールナイトニッポンを10数年続ける若林正恭さんも、一種のラジオ脳が、人生を救うとなにかに書いていた気がする。何か、テレビでよくない事があっても、ラジオがあるから、面白おかしく物語にすることができる。ラジオによって救われた困難や苦痛があると。
幼児の記号獲得という原初的なお話でこそあるが、私は、多くの不快や苛立ちは、記号の欠乏によるものであるという一種のポリシーがある。なにかイライラしているとき、イライラしやすいときは、記号を摂取する。つまり、本を読むのである。それも、文学や哲学など、私が今まで分節化を試みたことのない概念や言語化を試みたことのない言葉が書かれた書籍を、じっくりと数行読む。そうすると、純粋な言語の摂取という体験がフラストレーションを減少させることはままあるのである。どうしても納得いかないときは、自分でも言葉にしてみる。苦しいことがあってもそうである。
我々が記号を使う理由が、経験と一定の距離を置くためであるとすれば、それはもちろん日常にもいかせるはずであり、生かされるべきであろう。
Posted by ブクログ
ソシュール、バルト、フーコー、レヴィ=ストロース、ラカン、サイードの6人の思想についての簡単な解説と、その思想をじっさいに用いて小説や映画を読み解いた本です。ソシュールの章では『不思議の国のアリス』、バルトの章では『エイリアン』、フーコーの章では『カッコーの巣の上で』、レヴィ=ストロースの章では『お早よう』、ラカンの章では『異邦人』、そしてサイードの章では『エム・バタフライ』が、それぞれ取り上げられています。
バルト、レヴィ=ストロース、ラカンの章を内田樹が担当しているのですが、その解説のこなれ具合はさすがです。もう一人の執筆者である難波江和英の文章も、けっして読みにくいということはなく、むしろコンパクトで簡明な解説になっていると思うのですが、内田の文章は本当にそれぞれの思想を自家薬籠中のものとして、見事に使いこなしているという印象です。
Posted by ブクログ
ソシュール、バルト、フーコー、レヴィ=ストロース、ラカン、サイードの6人の思想を紹介。「案内編」「解説編」は参考になった。「実践編」はどれも今ひとつ。バルトの本を読もうと思った。あとレヴィ=ストロースの解説がわかりやすかった。
Posted by ブクログ
[ 内容 ]
本書の目的は、現代思想の概説ではなく、現代思想をツールとして使いこなす技法を実演(パフォーマンス)することである。
この一冊には、現代思想に貢献した六人の思想家について、案内編と解説編と実践編が含まれている。
[ 目次 ]
1 フェルディナン・ド・ソシュール
2 ロラン・バルト
3 ミッシェル・フーコー
4 クロード・レヴィ=ストロース
5 ジャック・ラカン
6 エドワード・サイード
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
Posted by ブクログ
現代思想をツールとして使い、
「不思議の国のアリス」「エイリアン」「カッコーの巣の上で」「異邦人」
などを読み込んでみる、という指南書的な本。
哲学や思想は、
役に立つものとは思っていなかっただけに、
目から鱗。
でも、
考えてみれば当然か。
物事を突き詰めれば哲学的な問題に当たるわけだから。
本質を見抜く力は、
どれだけその構造を捉えているかに依拠しているわけで、
現代思想が"金棒"になりうるのも自明なのね。
Posted by ブクログ
現代思想の解説だけでなく、その考え方で文学、映画などを読むとどう読めるかを解説した点が面白い
世の中は本当に奥が深い。この思想・技術を持って世界を感じることができれば、もっとおもしろいだろうな。
これらの思想は20世紀のものであるが、21世紀はこれらをベースにどんなに発展するのだろう。
サイードは興味がもたず未読。内田はわかりやすい、すごいね
Posted by ブクログ
哲学にダイレクトに関する本というのを初めて読んだかも。思想家の解説とその思想の例題として小説や映画が紹介されている。なにか踏み込んだゆるがないものに触れたような、自分が賢くなったような気がする。もちろん気がするだけである。しかしまぁ、久しぶりに読むのがつらいのにやめられないという不思議な体験をした。賢くなった幻想の喜びよりも、知ってしまったという恐怖に引きずられた気がする。
Posted by ブクログ
これも、喧騒を離れた生協で、
以前から、内田樹はきになっていたので、拝読。
内容もは「これはマニュアル本ではない」というだけあって、思想を一歩でた思想の実演(パフォーマンス)がテーマで直感でビビビ!ってきた。
ただ、この種の文庫の中では肉厚で、その分、価格に転嫁させられているのにも、ビビビ!ってきた。
Posted by ブクログ
「寝ながら学べる構造主義」の原型かな。
やっぱり内田さんの書いている部分がすばらしく、
僕には面白かった。
ただ、難波江さんのフーコーの部分も面白く、
権力・監視とは何であるか、という勉強になりました。
それからエドワード・サイードも入っており、
僕にとっては、大江健三郎経由で知ったので、
新鮮な感じを受けました。
Posted by ブクログ
ー わたしたちが文章を書くとき、しばしば「言いたいこと」は言葉にならず、逆にそんな考えを自分が持っていると思いもしなかった言葉が頁を埋めていくことがある。「言いたいこと」と「書かれたこと」が過不足なくきちんと対応するということは原理的に起こらない。わたしたちはつねに「言い足りない」か「言いすぎる」かどちらかなのである。
こういうことが起きるのは、おそらく「書く」という行為が、あらかじめ頭のなかにできあがっている抽象的な「言いたいこと」を「言葉に変換する」という単純な行程なのではなく、「言いたいこと」がせき止められ、「言う気のなかったこと」が紛れこんでくる不随意なシステムだからである。 ー
ソシュール、バルト、フーコー、レヴィ=ストロース、ラカン、サイードを“実践”する作品。
懐かしいなぁ〜。学生の頃はよく読んでたなぁ〜。
結局、彼らの研究はよく分からなかったけど、「多様な世界の解釈の可能性」が「この世界の在り方の多様性」を規定するのであって、何が正しくて何が間違っているのかという議論も大事であるが、それ以前に自分の世界の切り方に対して自覚的・反省的であれ、という当たり前のことを学んだのであり、いかに悪しき相対主義に陥らずに、かといって絶対主義的なドグマに囚われないようにするか、その方法論に意識的であることが大事なんだと認識するに至ったことはよく覚えてるな。
Posted by ブクログ
途中までカフェで借り読み。
思想家のメッセージをなぞる解説編と、それを具体例(映画)に当てはめて読み解く実践編のバランスが面白い。
最後まで読んでないけど、ロランバルトのとこはなるほどなぁと思わされた。
P134
鈍い意味とは、映画に出てくるちょっと気になる表象のようなもの?話の筋にも関係なく、作者の意図はもちろん読み取れないのだけど、なんか気になるんだよね、みたいなあれ。
ポニョ見たばっかりだから余計反応してしまった。。
Posted by ブクログ
案内編で紹介、解説編で思想を簡単に解説後、実践編でその思想が活きている作品を取り上げて読み解いている。実践編では例えばソシュールの思想を『不思議の国のアリス』、バルトを映画の『エイリアン』を用いて読み解いているが、この実践編の存在がユニークで成功している。弱冠軽い気もするが、それぞれの思想を一つのツールとして扱うならばこの本のレベルでも十分役に立つと思う。
Posted by ブクログ
代表的な現代思想家についてまとめてある。
単行本よりもかさばらないので新書で購入。
少し難しいけど基本的にはわかりやすく書いてあると思う。自分で内容の整理をしないとダメかも。
ソシュールの章しか読み終わっていない。
Posted by ブクログ
哲学の先端部分にある現代思想。その現代思想の難解な考えを分かりやすく紹介して、「道具」として人生に適用できるようにしようということをコンセプトに書かれた本。フェルディナン・ド・ソシュール、クロード・レヴィ=ストロース、ロラン・バルト、ミシェル・フーコー、ジャック・ラカン、エドワード・サイードなどの現代思想家たちが紹介されている。人々は主体的に存在しているのではなく、実は知らないうちに、さまざまな構造に支配されて存在しているということに気づく。構造主義。関係論。レヴィ=ストロースが気になった。