難波江和英の作品一覧
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ユーザーレビュー
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久しぶりの更新に、まったくもって最近は本を読む暇などなかったことを思い知らされる。あー、発狂しそう。本読めねーような生き方私には向いてない。
で。感想。
これはよかった。
初めのソシュールがちょっと難解で挫折しそうになったんだけども、映画の話につなげて思想のあり方を紹介してくれたりしてること
...続きを読むが、おばかなわたしでも非常にわかりやすい構成になってた。ありがたい。こういう本が読みたかった。
フーコーさんの思想を主に読みたくて買ったんだけど、最後のサイードさん、良かったわ。あれ?これって新近効果?ま、いっか。
わたしは、わたしのままで生きてるとか思ってた、無知な20代前半。でもなんか、そーじゃねーよな、って感じ始めて、こういう本、もっと読んでみたくなった今現在。
私たちはもうすでに、わたしがこうやって日本語でこのレビューを書いているように、言語という縛り、文化という縛り、性別という縛り、時代という縛り、それだけじゃない、色んな縛りのもと生きている。
その中で、今教職についてるから余計感じるのだけど、「個性だなんだ」って、一体何をもっての個性なんだよ、なんか、社会でわけのわからんでっかい支配の中にうまく組み込まれるように、でもそれに何の疑問も持たんでいいように「個性」とかいう言葉を使ってるだけじゃんかよ、という疑問が払拭できなかったわたしに、やっぱりそうか、というか、われわれは自由ではない(自由という言葉をこんな簡単に使っちゃだめなんだろうが、うわべの言葉で言うとそんな感じ)ってことを納得させてもらえたっつうかね。
これを読んで、やらなきゃならないこと。もっとフーコーさん読みたい。読む。んで、もっと極める。
日常生活の中。もっと言葉に懐疑的になる。自分の使っている言葉は、自分が発してるものじゃなくて、いろいろ操作されたものの結果であるってことにもっと自覚的になる。自分の思想は、性別ゆえのものか、時代ゆえのものか、文化ゆえのものか、それらを剥ぎ取ってなお、有効とされるものは何か残っているのか、ってことをもっと考える。
はは。考えて何になる?何にもならんだろうね。でもわたしは、そういう作業を頭の中であれこれ考えていることがとても楽しいのだ。だから。
最後についこの間某テレビ番組を見ていて思ったことをひとつ。
「働く女子の不調」について紹介していた番組だった(気がする。最後まで見てなかった。)んだけど、
「男と違って女は大変なの。」
ということを切実に訴えてる感じがしたのね。男女平等とかいって、女性が社会進出してるけど、男はもっと女のこと考えてよ。女って生理があったり、寒さに弱かったり、体力ないから残業つらかったり大変なんだから、みたいな。
で、お医者様まで出演していて、女の子が不調になることの多くは女性ホルモンが関係している。その女性ホルモンはストレスにすごく弱い。みたいなこと言ってたの。
わたし、その時点でテレビ切っちゃったんだけどさ、
伝家の宝刀ごとく「女性ホルモン」「ストレス」ふりかざして、男に何にもいえない状況作るのってフェアじゃないよって、思っちゃったの。
もちろん、不満はあるよ。わたしも男女差の少ない環境で働いてるからさ。生理つらいし、生理前の情緒不安定さとか、死ぬほど自己嫌悪陥るし。結婚とか出産とか、育児とか、正直このまま普通に働いてたら、絶対無理だって思っちゃうし、もっと楽に働けねーもんか、とか思っちゃうこと、たくさんあるよ。
でも、なんか番組の言い分見て、これ、違うって思っちゃったの。
まぁ、わたしの不満は番組の訴えるとことちょっと違ったってことなんだろうけど、
なんか、女はがんばってんだから、男、理解してよって言い分はあんまりに単純な気がする。そう思うのって、私だけ?
申し訳ないけど、われわれは「男社会」を生きてるのは否定しない。でもそれを、周りの男に理解してよみたいに言うのって、なんか論理がすりかえられてる気がする。それこそそういう「女性的思考」が、なんか違う気がする。
もっと大きな枠組みでそういうこととらえて、これからのこと建設的に考えていくなら、わかる。でも日常の労働環境を、男、どうにか理解して、って、「男社会」で生きてる私たちをもっとちゃんと認めて、っていうか…うーん、まだなんか考えがまとまってないんだけど、不満の矛先が、男社会を認めつつ、その上で男の許容範囲を広げろって訴えてるような感じになんか違和感もったっていうか。なんだろう。周りの男が認めてくれたらそれで満足なの?みたいな。それってなにか、根本の解決になってるの?って思っちゃったんかなぁ。
わたし、そういう思考でいる限り、何にも変わらないと思うんだよねって思うのは、私がすでに男の社会に感化されすぎてるがゆえにそうおもうのだろうか。
うん、まだ一考の余地あり。考えがまとまったらまた書く。
追記:ロラン・バルトの回の「エイリアン」に出てくるレプリーみたいに感じたのかも。
雇用機会均等だとかなんとか言いながら、できるだけ男とフェアな環境になりたがりながらも、実は行動自体が男のやり方と何一つ変わっていない…男社会のまんまっていうか…。
関係のない話なんだが、わたしはとても淡白な人間で、
外見からそのようには見えないとよく言われるのだけど(どんだけ自分欲求不満てきな面持ちしてんだ?って話だ。失礼しちゃう。)性欲ってもんが全然ない。っていうか、好きじゃないんだ。
手をつないだり、人の頭なでたりとか、そういうのは好きだけど、性欲に関しては皆無といっていい。
自分はどっかおかしいのかもしれないと、よく思うのだけど、もしかしたらわたしは、性交って行為そのものが男に屈するものだと思い込んで無意識に抵抗してるのかもしれない。
わたしはもっと、リベラルでありたい。人は多分、囚われすぎているんだ。言葉に、文化に、時代に、性差に。
言葉を発すれば発するほど、何かにとらわれていく。
だからわたしは、絵を描く。
でも、描くこともまた、何かの制約に合っているのだ。
ただ、言葉からは少し、開放されたところにある「見る」ことを通じて存在するアートっつうものに、
囚われてることが、唯一人とのつながりを図りながら、リベラルな状態でいられるんじゃないかっつう勘違いを
今はしていたいのだと、思う。
考える余裕が出た時に、
いつか向き合い、自分の概念をガンガンと打ち壊していくことを、していきたい。という予定を、ここに記して、今はこの思考をここで止めておきたいと思う。
Posted by ブクログ
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読んでいて脳がめきめき動く感じ、すごく気持ちがいい!
この本がきっかけで内田樹さんのファンになりました。
Posted by ブクログ
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・現代思想のパフォーマンス
P326
フロイトの例によれば、「母親の不在」という幼児にとっては極めて根源的な喪失経験に動機づけられて、幼児は記号操作の習得のやむなきにいたる。
母親と想像的に癒合していた幼児にとって、母親との離別の苦痛は耐えがたい。幼児にとって想像的他者の不在が「名づけえぬもの」で
...続きを読むあるかぎり、それがもたらす喪失感は世界の崩壊に等しい。
しかし、「母の不在」を言い表す記号を幼児が獲得し、その記号が他者に認知され、理解されるようになると、「母の不在」という経験のもたらす苦痛は緩和される。苦痛は、苦痛そのものであることをやめて、苦痛の記号になるからである。「母が存在しない」と幼児が宣言するとき、「母の不在」は「母の不在」というなまなましい事実であることをやめて、「母の不在という物語」に書き換えられる。
このパートは一見すると難しいが、よく読むと、非常に普遍的なことが書いてある。私たちが記号操作をするのは、経験に一定の距離を置くためであり、経験に一定の距離を置くことは、苦痛の緩和をもたらす。
簡単な例でいれば、例えば、会社をクビになったとすると、そのことを誰にも話さなければ、それはなまなましい経験であり、ただの苦痛である。しかし、それをひとたび友人に相談するなり、Twitterに書いてみると、それは記号となり、物語に書き換えられる。
オードリーのオールナイトニッポンを10数年続ける若林正恭さんも、一種のラジオ脳が、人生を救うとなにかに書いていた気がする。何か、テレビでよくない事があっても、ラジオがあるから、面白おかしく物語にすることができる。ラジオによって救われた困難や苦痛があると。
幼児の記号獲得という原初的なお話でこそあるが、私は、多くの不快や苛立ちは、記号の欠乏によるものであるという一種のポリシーがある。なにかイライラしているとき、イライラしやすいときは、記号を摂取する。つまり、本を読むのである。それも、文学や哲学など、私が今まで分節化を試みたことのない概念や言語化を試みたことのない言葉が書かれた書籍を、じっくりと数行読む。そうすると、純粋な言語の摂取という体験がフラストレーションを減少させることはままあるのである。どうしても納得いかないときは、自分でも言葉にしてみる。苦しいことがあってもそうである。
我々が記号を使う理由が、経験と一定の距離を置くためであるとすれば、それはもちろん日常にもいかせるはずであり、生かされるべきであろう。
Posted by ブクログ
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ソシュール、バルト、フーコー、レヴィ=ストロース、ラカン、サイードの6人の思想についての簡単な解説と、その思想をじっさいに用いて小説や映画を読み解いた本です。ソシュールの章では『不思議の国のアリス』、バルトの章では『エイリアン』、フーコーの章では『カッコーの巣の上で』、レヴィ=ストロースの章では『お
...続きを読む早よう』、ラカンの章では『異邦人』、そしてサイードの章では『エム・バタフライ』が、それぞれ取り上げられています。
バルト、レヴィ=ストロース、ラカンの章を内田樹が担当しているのですが、その解説のこなれ具合はさすがです。もう一人の執筆者である難波江和英の文章も、けっして読みにくいということはなく、むしろコンパクトで簡明な解説になっていると思うのですが、内田の文章は本当にそれぞれの思想を自家薬籠中のものとして、見事に使いこなしているという印象です。
Posted by ブクログ
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ソシュール、バルト、フーコー、レヴィ=ストロース、ラカン、サイードの6人の思想を紹介。「案内編」「解説編」は参考になった。「実践編」はどれも今ひとつ。バルトの本を読もうと思った。あとレヴィ=ストロースの解説がわかりやすかった。
Posted by ブクログ
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