2012年刊行、小池真理子さんの長編小説。裏表紙の解説を見ると、離婚によって疎遠になっていた父が難病にかかって死に、娘が遺されたワープロ原稿などを発見しそこに父の心の叫びを知る、という話だというので、これこそ私が読むべき本、読んで号泣しなければ! と衝動的に買った。
私も2年前に離婚して家族を失い一人娘と離ればなれになり孤独になった状態なので、まさに「身につまされる話」なのである。
もっとも、本作では冒頭で死ぬ父親は85歳、娘は50代ということで、私にとっては30年以上未来の状況ということになる。
本作は全然エンターテイメントではないし、恋愛小説でもなく、際だったストーリーもない普通小説である。むしろ純文学に属していると言って良い。もともと地味な文体を持つ小池真理子さんの小説世界は、ホラーにおいてはむしろそれが効果的だったりしたが、本作は地味な物語を地味に語り続けているので、とても地味地味である。吉川英治文学賞を受賞しているが、あまり多くの読者を喜ばせなかったのではないかと推察する。
先妻と離婚したのは父が浮気したためで、彼は浮気相手と再婚して更に二人の娘を持つ。老いてパーキンソン病に罹患した父は歩けなくなり、またほとんど口をきけなくなって、やたらと冷たく意地悪な後妻に疎まれて老人ホームへと追いやられる。妻は絶対に老人ホームを訪れない。先妻の娘である主人公の「私」=衿子が、すでにじゅうぶん大人となりかつて母と自分を「捨てた」父のもとに足繁く通い始める。もともと父は3人の娘の内衿子を最も愛していたようだ。娘が来るたびにとても喜ぶ。
文学趣味をもつ父はワープロを使ってたくさんの手紙を送ってきたほか、ワープロ内に日記のようなものを書き綴ってきたことが、死後に分かる。短歌仲間である女性との親交や、密かな浮気のことなども判明していく。遺品の中から裏ビデオとともに、老女のビニ本が発掘されるところは笑った(そんなのあるのか・・・)。死後、生のありようの全てが、裸形となってあからさまになってしまうのである。しかしそれでも、故人の心的な真摯さや重みのある人生の軌跡は貶められることがない、
死の直前、もはやワープロも打つことが出来なくなった父は、娘衿子に「生きてきて後悔してることってある?」と問われ、彼女の考案した「文字表」を使って「かぞく」と答える。ここが最も哀切である。衿子もまた、離婚して孤独に生きており、家族を避けるようにしてきた人間なので、父と娘のふたつの孤独さがダブるのである。
孤独ななかにも灯され続けた「愛」が、晩年の父子のあいだに点滅するさまが、この小説の核心だ。
私は本書をずっと自分の境遇と比較しつつ読んだ。私がこれくらい長生きしたとして、何か病に冒されて娘が果たしてこんなに接近してくれるかどうか、心許ない。もっと徹底的に孤独に私は死んでいくのかも知れない。
本作中、チョイ出の或る作家が
「男はね、最後は家族に戻るんだよ。自分勝手と言われようと何だろうと、晩年になって家族に受け入れてもらえるかどうかが、男の最後の勝負どこなんだよ」
と言うのこ台詞は、私には刺さった。私にはその戻るべき家族がもうない、と思うからだ。しかも、本作の「父」は趣味でやっていた短歌を通して親身な異性の友人と交流しているのに対し、長年音楽をやってきたにもかかわらず私にはそんなリアルな友人は一人も居ないのだ。
地味なこの小説は身につまされることのない多くの読者にとっては退屈かもしれないが、私にとっては、自分の残りの人生を深く考え直させるような、重要な本であった。私も「終活」したくなってきた。