太宰治のレビュー一覧
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ネタバレ太宰治の作品は、『走れメロス』と『人間失格』しか読んだことありません。今度青森県へ行くので縁の物をと思い、手にした次第です。
所々挟まれる古文の引用が長く、難解でその部分は心が折れそうになりました。が、N君とのやりとり、芭蕉の話、売れっ子小説家批判、鯛の切り身、頭の形などなど、思わず笑ってしまう軽妙なやり取りも多く、心に残りました。
今まで抱いていた太宰治のイメージと違う、かわいい一面を見たという感じです。
ラストの、たけとの再会場面は自然に涙が溢れました。「生れてはじめて心の平和を体験した」太宰と「強くて無遠慮な愛情」をあらわすたけが心に沁みました。
読後感が良く、手元において何度でも読み返したいなと思いました。 -
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ネタバレ葉桜と魔笛が読みたくて購入。
私は、ただ美しい物語ではないのではないかと感じた。
妹は本当に彼と付き合って、深い仲になっていた。戦時下、時代的にもしそれが世間にバレたら命を絶たなければならないほどの秘密。
姉の手紙により、姉に知られる訳にはいかず嘘をついた(予めバレた時の用意をしていたのかもしれない)
姉は姉で、妹だけ恋愛を楽しんでいた事に嫉妬心を抱いた。
魔笛を吹いたのは厳格な父親かもしれない。けどそれは妹のためというより、自分も知った事を妹に知らしめるため。
妹が急逝したのは、自ら命を絶ったから。
全て知っていた姉が、抱えきれずに晩年告白という形をとった。 -
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苦い海に浮かぶ安寧の島「津軽」
名家津島家にとっては黒い種
友人にとっては愛すべき厄介な男、薄いつながりの糸でも大きな安らぎにしてきた哀しい人
人生では自分の人生のあざなえる縄に周りをまきこんだひと
作家として私小説という泥の浮き沈みに身を任せ、女体を巻き添えにして沈んでしまった人。生きる悲しみにあふれた生き方に流されていった人。
野獣派とはそれぞれ勝手な生き方を選んだ人々。大雑把に一括りにされた作家のひとり。
「津軽」を読めば心の底に潜んでいた悲しみに気がつく。苦しみにムチ打たれ続けた日々を書いた作品は読者を傷つける。たまたま日ごろ目を背けている自分の些細な出来事が、この苦しみの根源ではないだろうかと少し落ち込む。
太宰は苦しい人生を苦しいと作品で訴えている。
そこには目を背けてきたが、「津軽」を何日か旅した作品は、この旅で終わりにしたら、女や家族を見き込まずに生きられたのではないか。
好きな酒に酔いしれながらも、過去の暖かな思いのかけらを集めて生きていけたのではないか。
「津軽」を読んで生き下手な作家の人生に浮かんだひと時の安寧の島を読んで歩いてみた。
たぶんもう読まないかもしれない読者としてひとつだけ拠り所になった「津軽」だった。
いつだったか読んだ本に中に
太宰は親戚が集まった席で。皆が揃って自分の話に耳を傾けてくれた
と書いていた。
その一言に私は胸を突かれた。
太宰治という作家は誰も聞いてくれない(多分無視されてきた)たくさんの言葉をためて溜めて生きてきた生き下手な人で。だからこうして書き残すほど嬉しかったのはこんな些細なことだったのか。
とずっとこの一文が太宰だと思ってきた。
どこにどんな風に書かれていたか忘れてしまったが。
「津軽」は、これから私が太宰治という人を想うたび、そこに挿した淡い光のような作品になった。 -
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ネタバレ
大好きな本。
・p13 弟と太宰は仲が悪かったが、ふたりで故郷を離れて暮らすとお互いの気性が分かってきた。弟は修治の吹き出物を心配して薬を買いにも行ってくれた
→私自身の兄弟関係にも重なるところがあると感じた。遠く離れた場所へ来ると、お互いようやく向き合う覚悟ができる。みたいなものかな。この弟は2、3年後に亡くなったとあるけど、何でも打ち明けて話せる相手がいるというのは自分で思っているより遥かに心を強くする気がする。
・p23 弘前で暮らすうちに「め組の喧嘩」の鳶の者の格好をしようとして、股引を求めて呉服屋に聞き歩いて、結局消防士用の赤線の引かれた代物を提示されて消沈して諦める
・p59 蟹田のN君は人望も厚い若い町会議員だが、太宰は酔った勢いで出しゃばって町政の質問を仕掛ける。憫笑され、クレマンソーに政治談を仕掛けたドガの逸話を思い出す
・p62 観瀾山でビールを飲んでいるうちに、芭蕉翁の教えに背いて、太宰の気に入らない作家(志賀直哉?笑)の悪口を興奮して言ってしまう。面々は微笑をもって聞いてくれているから止まれずに「その10分の1くらいは僕の仕事を認めてくれてもいいじゃないか」と情けない台詞を吐く
・p67 Sさんに「私の子は貴方(太宰)に似て頭のハチが開いている」と言われて完全に参ってしまい、Sさんの家に誘われても不安になってしまって頼りにしているT君の顔色を伺う(結局行く)
・p101 太宰の気に入らない作家を愛読するMさんの家でその作家の本を見たので、思わず「何か粗探ししてやろう」と読み始めたけれど、なかなか隙のない文章だったから投げ出してしまって、Mさんに負け惜しみを言う
・p161 小学校の頃に初めて海を見た遠足で、服装に拘って色々着込んで行ったのに、あまり進まないうちにへたばってしまって身につけたものをどんどん取り上げられてしまった
→こういう黒歴史のようなエピソードを事細かく、自らの愚行に照れるというより呆れながら、もちろん自虐を込めて切々と書き連ねることができるのが太宰治の強みでしかない。普通の人間には、日記にだってこんなに書くことはできない。恥ずかしいし、情けなくてペンを置いてしまう。そう思うと、太宰治という人間は、自分を卑下してでも相手を楽しませたい人なのだろうと思う。
そして、周囲の人達がこうした諧謔染みた話を笑って受け入れているように、太宰の「相手を喜ばせたい」「自分の情けない話で笑ってほしい」という人間愛のような性質は十分すぎるほど周囲に伝わっている。換言すれば、彼はとてつもなく愛嬌があるのだと思う。実際、出会う人達が、わざわざ駅まで迎えに来たり、次の街まで着いて行ったり、酒や料理で張り切っておもてなししてくれたり、旅の途中だからとお土産を持たせない代わりに後日東京の家に郵送してくれたり(太宰自身は、配給も同等に受けているはずの東京の人間が、地方に行ってひもじい振りして食べ物をねだることに軽蔑を感じていた。直接渡されないことに安心したような記述があったけれど、それでも届いた小包を前に旅先で会った人たちの優しさを実感したようである)、地元の温かい歓迎を受けている。読者はこのことに救われる。太宰の涙ぐましい、いじらしい努力は、周囲の人々にしっかりと伝わっているのだと思える。
・p69 招かれたSさんの家で、Sさんは張り切ってしまって、奥さんに対して、りんご酒だの干鱈だの醤油だの酒だの言いつけたり、子供を連れてこいと言ったり、汚い子を連れてくるなんて失敬じゃないかと追い返したり、砂糖をご近所さんにあげろと言ったり、やっぱりお客さん(太宰)にあげろと言ったり、レコードを流せと言ったり、バッハはうるさいから静かにしろと言ったり、最後には「卵味噌だ」を連呼したり
→これを太宰治は「津軽人の愚直可憐、見るべしである」「友あり遠方より来た場合には、どうしたらいいかわからなくなってしまう」「その日の接待こそ、津軽人の愛情表現なのである」と記述している。太宰自身も、同じ状況で部屋の中で右往左往して電燈に頭をぶつけて割ったことがあると。
面白すぎるし、それが本当なら愛しすぎる。
普段ははにかみやで人見知りな人がそうなってしまうことに、太宰は「都会人よりもはるかにこまかい思いやりを持っている」「その抑制が、どっと堰を破って奔騰する時、どうしたらいいかわからなくなって、」「軽薄の都会人に顰蹙せられるくやしい結果になる」と書いている。
かつて数年だけでも青森の地に住んだ人間として少しでも想像してみるなら、これは、あの環境に暮らす人々の感情として至極真っ当なものだと思う。現代でも、東京駅から新青森駅まで新幹線で4時間近くかかるし、1年の半分近くは雪に覆われる土地である。訪れたり観光したりするハードルが高いと自他ともに認める地域に、時間もお金もかけて、遠路はるばる友人が来てくれるのはとてつもなく嬉しいことだ。今も昔も、その感覚は変わらないと思える。
・p95 外ヶ浜の昔話。津軽の人達は安寿姫と厨子王が津軽の子供であることを信じ、安寿姫が丹後の山椒大夫に苦しめられたことから、今でも丹後の人達を忌み嫌っているらしい。
→三才図会も自信ありげに書き出しながら、最後には太宰に「いはき」と「いはしろ」がごっちゃになっているのではないかと言われてしまっていて、思わず笑ってしまった。川の水や魚の鱗が赤いとか、そんな出鱈目な言い伝えがこんなに色々あるのは知らなかった。やっぱり東北は広い。
・p109 有名な三厩の宿での鯛の逸話。太宰が道端で買った鯛を、宿の女中にそのまま塩焼きにして、と伝えたら、N君が「三等分の必要は無いんですよ」と余計な(?)一言を付け加えたせいで、切り身が5欠片出てきた。
→これで泣きそうになっている太宰と、おおらかなN君との対比が面白い。それでも一晩寝たらサッパリして姉娘式でいちどにどっとやってしまおう、なんて語っているところにこの人の人間性を感じる。
・p116 龍飛の宿にN君と歩いて向かう道中、風景について語る箇所。名所にはすべて、人間の表情が感じられるものだが、2人の歩く海岸にはそうした人の匂いが感じられない。どんな文学的な形容詞も思い浮かばない。
・p195 中里から小泊までのバスの中で外の風景を眺める。十三湖は「人に捨てられた孤独の水たまり」
→記述が分かりやすくてなるほどと思った。確かに、青森県内でも弘前の桜や八甲田山の雪、奥入瀬の新緑などはいくらでも形容のしようがあるけれど、まだ寒さの残る津軽半島の近海を記述しようと思うと、それはただ、岩と海、飛沫と風、そして曇天という言葉にしかならない気がする。人の介在する余地がない環境、人が意味を付与する前の剥き出しの世界も、まだ其処彼処にあるのだということかなと思う。ついでに、龍飛の集落に行きあたった時に「鶏小屋に似た不思議な世界」なんて形容しているのも色々と凄い(こんな表現、現代では許されないのではという思いがある)。
・p121 龍飛の宿で、N君が気を大きくして蛮声を響かせてしまう。そのせいで宿のお婆さんがお膳を下げ、さっさと布団を敷いてしまう。
→また太宰は泣き寝入りすることになる。この小説、前半の道程はずっと飲みすぎである。
・p128 津軽氏や津軽為信、津軽平野についてあれこれと詳説されている。その中で、太宰は「私たちの教科書で『津軽』という名前は阿倍比羅夫ただ1箇所でしか見つけることができないのは誠に心細い」「その間、津軽では、ただ裾をはたいて坐り直し、また裾をはたいて坐り直し、二千六百年間、一歩も外へ出ないで、目をぱちくりさせていただけの事なのか」とめそめそした上で、結局津軽の歴史ははっきりしないけれども、「服従の観念に全く欠けていた」「他国の武将もこれには呆れて、見て見ぬ振りをして勝手に振る舞わせていたらしい」「昭和文壇に於ける誰かと似ている」と綴っている。
・p174 深浦について、旅人に慣れて全く無関心な「成長してしまった大人の表情」「透明に煮えきった野菜」と称し、対比的に、津軽は「生煮えの野菜」「歴史の自信がまるきりないから、矢鱈に肩をいからせて、反骨となり、強情となり、」と言いながら、「この津軽の大きい未完成がどれだけ希望になっているか」「人からおだてられて得た自信なんてなんにもならない」と鼓舞し始める。
→津軽という地域と自身の性質を重ね合わせる当たり、どう読んでも、太宰は故郷を愛しすぎている。深浦や鯵ヶ沢は津軽特有の「要領の悪さ」を持たないらしい。大人とは裏切られた青年の姿である、というp41の記載も踏まえると、自分自身の青い性質を恨みつつ、愛しつつ、津軽の人の性質なのだと地元を巻き込んで、恐る恐るこの辺りの記述をしている姿が思い浮かんで面白い。
・p206 小泊の国民学校の運動会会場で育ての親・たけと再会する。最初、たけは何も言わずに隣で演目を見ている。それからふと立ち上がって二人で八重桜を見に行く。そして、堰を切ったように矢継ぎ早に質問を発する。太宰は自分が兄弟の誰とも似ていないと思っていた。私はたけに似ているのだ。
→ 書くまでもないけれど、やっぱりこの場面は胸が熱くなる。ここまで津軽地方をうろうろと旅して地域を見ながら自らの生き様を探して回っていたように見える太宰治が、最後に自分の本質に辿り着く。太宰治、たけに出会えて、自分のルーツと再び巡り会えて、安心しただろうなぁ。 -
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乙女の本棚シリーズから、ねこ助さんの「ビルディング 乙女の本棚作品集」です。収録されてるのは、新見南吉『赤とんぼ』、中島敦『山月記』、太宰治『魚服記』、堀辰雄『鼠』、夢野久作『ルルとミミ』のイラストの中から、ねこ助さん自身が選んだ作品です。このほかに描き下ろしとして、夢野久作『ビルディング』が新たに収録されています。
これまでの「乙女の本棚作品集」(しきみさん、ホノジロトヲジさん)と同様、『ビルディング』以外の作品については本編を読むことはできません。イラストを眺めながら、あぁ…そうそう、こんなストーリーだったなぁ…と、思い出す感じですので、本編を読まれてからこの作品週を手にしたほうがよいかと感じました。または、この作品集から入って気になるものを本編で読まれるとかもいいですね!
『ビルディング』は巻末から読めるようになっており、そのイラストはねこ助さんらしい繊細なタッチで可愛さと、あとこの作品ならではの怖さを感じることができます。夜中に目が覚めると…みたいな感じ!エンディングにぞわっとしました。
これで作品集は3作品入手しました!リアルの本棚に並べて飾ろうと思ってます(^-^) -
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ネタバレ太宰治の第一創作集。
太宰治をして「私はこの本一冊を創るためにのみ生まれた」と言わしめる一冊で、初期の作品が並び、その後の太宰治の色々な作品の種になるような短編が15入っている。
この『晩年』は太宰治が27歳のときに刊行され、それぞれの短編が書かれたのは太宰治が22〜23歳頃。
そんな若者が書いたとは思えないような、人生や人間の生々しい部分がえげつなく書かれている。
でも、どこかちょっと爽やかさもある。
短編の多くは、創作の苦しみ、世間の冷たさ、無常感のようなものが描かれている。
太宰治がそれまでの人生の中で感じていたことだろう。
この本の中に「私は散りかけている花弁であった。すこしの風にもふるえおののいた。人からどんな些細なさげすみを受けても死なん哉と悶えた。」と書いてあった。
太宰治は自分の才能と創作に自信を持ち、でも繊細で、自分と他者とのギャップに苦しんでいたのかもしれない。
『道化の華』の短編に、そうした苦しみを感じるものが多く書かれている。
大小はあるが、思い当たる人は多いのではないか。
「自分はもっとできる」「いつかすごい人間になる」と思いながら、他者との関わりの中で自分はそれほどでもないことを知り、傷つき、諦める。
しかし太宰治はそこで諦めきれずに、「せめて自分の人生を書き残して死のう」と思い、この『晩年』を始め、作品を残していったのかもしれない。
だからこそ、太宰治の文章には、『血』を感じるのかもしれない。 -
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まず、ラインナップがよかった。
太宰には名作、傑作と呼ばれる作品がたくさんあるが、本書に収められたのはその中でも選りすぐりばかりで、太宰を今まで触れてこなかったような人でも、太宰文学のエッセンスを感じ取ることができるし、太宰特有の暗さ、ニヒルを与えすぎない。
私は太宰のニヒリズム全開の小説は好きではない(むしろ嫌い)なのだが、そうしたものはこの本には入っていない。ラインナップがいい。
この中だったら、特に「斜陽」「人間失格」は本当に良いと思う。どちらも中高生の頃に読んだが、当時は全く違う読み方をしていたと言わざるを得ない。大学生になってから読んで良かった。
前に書いた太宰の新潮文庫の方にも感想を書いたので、そっちで触れなかった作品の感想をちょっとだけ書く。
「斜陽」
戦後の没落貴族の話。衰退していく、没落していく儚さの中にも美しさがあった。しかも主人公は単なる没落で終わらず、既存の道徳感、価値観を乗り越え、まさに「革命」を起こしたのも印象深い。基本的にその二軸で展開されたが、個人的には主人公の恋の革命家要素よりも、母や弟の没落貴族としての美しさが心に残った。
「葉桜と魔笛」
これもいい話だった。恋を知らずに死にゆく妹を気遣う姉の話、かと思ったら、妹は姉よりも色々と知っていて、姉のとった行動が切ないしおもろい。えーーってなった。アホみたいな感想を書いたけどすごく味わい深い作品。
「トカトントン」
ある男が何かに熱中しそうになると、どこからともなく「トカトントン」と聞こえてくる。そして、さっきまで熱中していたものに、スンと冷めてしまう。男はこの「トカトントン」から逃げられない。
寓話っぽい話なのかな?と最初思ったら、最後、その男に対する筆者のコメントがエグかった。
「気取った苦悩ですね。僕は、あまり同情してはいないんですよ。(中略)いかなる弁明も成立しない醜態を、君はまだ避けているようですね。」
さすが、苦悩に向き合う小説家だと思った。
しかもここまでドストレートに抉りにくるのも、凄まじかった。
「ヴィヨンの妻」「桜桃」
「ヴィヨンの妻」が、家庭を放棄し、人生の苦悩から逃れられない、それでいて本当にどうしようもない男、大谷(多分ほぼ太宰みたいなやつ)と、大谷と同じ価値観であるわけでもなく、どちらかというと鈍いような、純粋であるような、逆に鋭いのだけれどどこかひたむきな、女性の話。「人間失格」もだが、この話を読んで太宰って妻寝取られたことあるのかなと思った。
「桜桃」はさくらんぼのことらしい。基本的に本音をあまり言い合えない、雰囲気的な夫婦喧嘩っぽい話で、桜桃は最後にちょっとだけ出てくる。「子供よりも親が大事。」というのはいかにも自分のことで精一杯な太宰らしい。
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3/26 再読
母の誕プレに買って、あげる前にちょっと読み返した。太宰の好きな短編「駆込み訴え」「トカトントン」だけ読んだ。
「駆込み訴え」
「駆込み訴え」は、言うなれば「第五の福音書」だ。
福音書は基本、イエスの使徒などによって、イエスの人物像とその歩みを伝えるために書かれたものだ。しかし、「駆込み訴え」の斬新なところは、イエスの裏切り者、イスカリオリテのユダ視点で見たイエスを描いているところだ。もちろんイエスの教えを賛美する話ではないので、(そもそもユダ執筆となっている時点で既に)新約聖書に入れられる資格はないのだが、「使徒視点で描かれたイエス」というテーマは福音書と同じだ。
最初に読んだ時と比べて、新約聖書の福音書を読んだ経験が効いた。驚いたのは、この「駆込み訴え」が全く他の福音書と矛盾しないように、細心の注意を払って描かれてることだ。なるほど、ユダ視点で、聖書の裏話として書いてみようとなるとこうなるのか、と驚愕させられる。(ユダを選んでるところもちょっと太宰っぽい)この「正史との矛盾のなさ」も、この短編が「第五の福音書」と言えそうな特徴だ。(イエスの「奇跡」は全部ユダが調達したことにしてるのがおもろかった)
他の作品を読んでても、太宰は新約聖書が好きなんだろうな、と思うところはあったが、この短編は、太宰の聖書に通じた面が全開に出た傑作だと思う。
最後に内容に踏み込むと、ユダとイエスの「人間っぽさ」が良い。作中では、ユダはイエスに対して「自分とは正反対」と述べているようなところがあるが、それも結果的にそうなっただけで、ユダとイエスはとても近い人間なのだと思う。どちらも弱い人間で、誰かの助けを必要としてる。(ユダは実際、他の使徒に流されず、正しくイエスの人間を理解していた。)そしてユダは、イエスに愛情的に依存する。これが性的な愛であるかは読み方によると思うが、その愛は最終的に愛憎となって、ユダは「裏切り者」に転じる。そのユダの精神的な弱さや、相手より自分の気持ちの方が理解できない落ち着きのなさが、ユダの口調から猛烈に伝わってくる。裏切り者といえば裏切り者だし、賎民といえば賎民的なのだが、めちゃめちゃ「人間」っぽい。太宰はこういう「人間」を描くのが本当に上手いな、と思った。
「トカトントン」
前読んだときに割と良くまとまった感想を書いていたので、被らないように思ったことをふたつ書きたい。
【「トカトントン」失恋事件】
主人公の男は、なにをしようにも、「トカトントン」という音が聞こえて、何もかもやる気を失せてしまう。その中で、ある女性との恋愛で聞こえてきた「トカトントン」は、これまでの幻聴とは違って、隣で金槌を使っている音が実際に聞こえてきた「トカトントン」だった。それを聞いた瞬間、男はいい感じの雰囲気だったのに、「失恋」してしまう。
男は「失恋したのは私のほうだ」と言っているが、これは女性によって失恋させられたのではなく、幻聴ではない現実の「トカトントン」によって失恋させられたのだ、と思う。この男は唯一、これまでの「トカトントン」から逃れそうな瞬間がこの恋愛だったのだ。しかしそれは、ある種の偶然によって、「トカトントン」の呪いに引き戻されてしまったんだろうな。
【「トカトントン」と戦争】
思えば、この男が最初に聞いた「トカトントン」は、日本がポツダム宣言で無条件降伏したときだった。この男は兵役に行き、中尉と共に玉音放送を聞いた。これがこの後にずっと続く「トカトントン」病を患う原因になったのだとすれば、この「なにをやってもダメだ」という無力感は、すべて日本の敗戦から背負った若者の心情を象徴しているのではないか、と考えられる。
男は、「この悩みは私一人の問題ではなく、他にも同じような悩みを抱えている人がいる気がする」と最初に言っているし、「敗戦をきっかけに無気力になった日本人の若者」をテーマを付けているのかもしれない。
4/4 再読
「ダス・ゲマイネ」
これを読むのは多分、3回目か、4回目くらい。前読んだときはそんなに好きじゃないと思った記憶があるが、今回は割と面白かった気もするし、面白くない気もする。
タイトルはドイツ語で、「俗な」という意味らしい。それも合わせて考えると、「俗」でいることに耐えられない馬場の生き方が痛々しく、沁みる。自分の才覚を信じて何かしよう何かしようとするも、結局は自分がどの程度か、わかっているのは一番自分なのだ。太宰の話には、だいたいの話には太宰役が出てくる。最初読んでいて、主人公佐野が太宰役なのかと思って読んでいたら、あとから太宰本人ご登場でびっくりした。佐野は太宰の善性だけを取り出した存在なのだと思う。それとは対照的に、本人の太宰がこっぴどく悪く描かれる。馬場もちょっと太宰っぽさはありそうだが、太宰からは想像がつかないほど活力的だ。こいつは、「人間失格」でも出てきた友人じゃないか。太宰の周りにはこういう人がいたんだろうな。
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Posted by ブクログ
ふたつともだいすき。女生徒も斜陽も正義と微笑も、表題のパンドラの匣も、太宰治は人の日記を作品にするのがうますぎる。
正義と微笑のR大の同級生への描写、中学の先生についての考え、本当に好き。これをいいな、かっこいいーと思って影響受けちゃって学校で大浮きした。この状況も作品中の孤立派という言葉で正当化できちゃうんだから、なんという学生狂わせ!!「なんじら断食するとき、偽善者のごとく悲しい面容をすな。」これを大切に、大切に、生きていきたいと思う。何事も知識をひけらかさず、淡々と努力できる人になりたい。これも良くないか、まあ現実で会う誰もこのページ見てないし。でもこれを心に決めて生活すると本当に苦しい。この作品の聖書から影響されているところ、引用されているところは、元になった日記だとマルクスからの引用らしいけど、なんで太宰がマタイの6章16節に変えたのか考えると、ちょっとだけ、ほんの少し太宰の気持ちがわかった気がした。お道化。でもこれを作品にするのも三島が嫌った太宰治的と言うか、まあ作家はそういうものなのかなあ。もっと聖書の勉強をして、いろんな経験をして、また何度も読み直したい。一番影響を受けた作品です。きっとこれからも。
長文失礼しました。 -
Posted by ブクログ
表紙や作者の紹介ページで使われるイラストがとても美しい。適度に服装、髪型は本人の雰囲気を残しつつ、完璧に美化されていてイラストレーターの腕の良さにたまげる。
文豪たちの最後の作品を集めた本で、まとめて読むとその文豪らしさがよく感じられて良い。
芥川の「歯車」 私も偏頭痛持ちだからこの現象(閃輝暗点)よくわかる!と共感するとともに、精神病になりやすい家系の人なんじゃないかと邪推してしまった。
太宰の「グッド・バイ」 女性関係の華やかな作者の理想の別れ方を描こうとして、結末までいかなかったのは収集つかなかったのかな、と思った。
梶井「のんきな患者」 若い頃から結核を患ってたから、今回の主人公も病気。よく作品を作り続けたと思うし、結核患者を描かせたらリアリティがピカイチだよね。
中島の「李陵」 平時に読むと、また中国の故事みたいな話を書いてるな。言葉遣いも難しいし、タネがあるんだろうなくらいしか思わないが。
今回少し仕事で辛い時に読んだので、祖国を離れ、善戦したのに家族を皆殺しにされた李陵の苦しみと比べれば、私の悩みなんて大したことないではないかと励まされた。
泉鏡花 「縷紅新草」 ちょうど泉鏡花題材の朗読劇を観た直後に読んだ。その作品も男性(泉鏡花)と若い女性の会話劇だったので全力で演者だった櫻井孝宏さんの声を思い出しながら読んだ。