養老孟司のレビュー一覧

  • 笑いの力

    Posted by ブクログ

    シンポジウムの文字起こしなので読みやすい。
    いくつか印象的な話もあり有意義だった。
    血糖値などは興味深く、子どもの表情については二十年後の今はどうなのだろうかと思ったり。有意義な内容だった。

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    2026年04月20日
  • もの書く人のかたわらには、いつも猫がいた NHK ネコメンタリー 猫も、杓子も。

    Posted by ブクログ

    猫飼い作家さんのエッセイとショートストーリー。
    可愛い猫ちゃんの写真もたくさんで、読んで眺めて癒される。好きな作家さんのエッセイが読めて猫ちゃんも可愛い。

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    2026年04月10日
  • 日本の歪み

    Posted by ブクログ

    1045円

    201P

    めちゃくちゃ面白かった。

    コロナ後、ロシアウクライナ後

    自由意志は存在しないって衝撃

    養老孟司って解剖学者だし、日本のレオナルド・ダ・ヴィンチなんだと思うんだよね。レオナルド・ダ・ヴィンチは人体を描くために人体解剖をしたし、有名な美術家が人体解剖を学ぶ為に養老孟司の東大解剖学教室に出入りしてたって聴いたことある。私の一番の関心は美術で次に科学だから、養老孟司を読み漁ってるのかなと思った。養老孟司の話は理系文系横断的だし、一分野に収まらないのが良い。フェミニストみたいな文系の人の話は文系の話しか聴けなくてつまらない。

    ロシアウクライナとコロナ後に書かれた本だから、その話に終始するかと思いきや、それだけでなく日本が抱えてる様々な具体的な問題について話してて、その中で日本とはどういう国かみたいな哲学的で抽象性の高い日本論についてまで話されてて最高に面白い本だった。

    アメリカと日本は国の成り立ちから宗教、民族構成、風土、持ち味が何から何まで違うのに、今まであった日本的な物を否定して、アメリカ的なものを目指して日本に歪みが出たという以下の本を読んで、アメリカ嫌いが明確になった。バックグラウンドが何もかも違うのに、表面だけアメリカの真似をした事で社会が歪んで崩壊しかけてると感じる。

    日本には日本のやり方があるのに戦後一方的にアメリカのやり方を押し付けられて日本に歪みが出たから、本能的にアメリカ嫌いなんだよね。

    男系だとか女系だとか言ってる人居るけど、よく簡単に日本の神様に触れるよね。祟るのが怖くないのかな?

    人はちゃんと宗教に向き合わないと、カルトが蔓延したり、社会混乱の元になる気がする。何故宗教が原始的な時代か

    旧宗教って一見退屈だし、刺激なくて味わい無くて直ぐには何も得られないように思えるけど、推し活に金貢いだり、カルト宗教とか新宗教ってなんとなく直ぐに救いを感じられるようなドーパミンが出るんじゃないかなと思う。

    宗教っていう授業は公教育には無いけど、人はちゃんとした宗教に向き合わないと、カルトが蔓延したり、社会混乱の元になる気がする。何故宗教が原始的な時代から始まって今まで無くならずに残り続けているのかにしっかり向き合った方がいい気がした。

    人は役割が与えられる方が生きやすい側面だってあるし、物事には良い面悪い面両方あるのに、家制度=悪、家父長制=悪とか、個人個人をひたすらバラバラにする事を正義だと思い込んでるリベラルの思想に不信感がある。LGBT活動家の家父長制反対ってプラカードとかも寒気する。それが幸せだと思ってる人も居るのによく他人に自分の思想押し付けられるなと思う。他人の家族の幸せに嫉妬しててただぶち壊したいだけにしか見えない。

    勧善懲悪的に白黒思考になって、個人主義や自由が正義だとばかり言って、飲み会に行きたくない、結婚式も行きたくない、推し活とか言って、深い話なんて出来ない友達でもなんでもない物に虚構の繋がりを見出して、孤独になっていく日本人を見て少し怖いなと思う時ある。

    「東  平成の天皇、つまりいまの上皇はたしかにリベラルな方です。美智子さんという民間の、しかもカトリックに親しんだ人を后にしたことにも表れている。しかし、「リベラルな天皇」そのものが語義矛盾のような存在です。さまざまな歪みがそのまま放置され、まさにそれを象徴する存在として平成の天皇がいらしたのだと思います。平成が終わって、歪みが正常化するのかどうか。」

    —『日本の歪み (講談社現代新書)』養老孟司, 茂木健一郎, 等著

    「東  多いと思います。そういう人は上の世代に偏っていて、いずれ世代交代するものだと思っていました。しかし、どうやら再生産されているようです。かつては視野が広かった人が、年齢が上がるにつれ頑固な左翼になっていくのを見るにつけ、これは「世代」の問題よりむしろ「年齢」の問題なのかもしれないと思えてきました。養老  大学紛争のとき、学生が全共闘の暴力に対抗すると言って、何をするのかと思ったら竹槍の訓練を始めたことがありました。だから、その感じはとてもよくわかります。「非国民」とか「竹槍」とか、そんなものはなくなると思っていたものが世代を超えてまた出てくる。柳田國男の世界になっちゃうけど、根っこにそういうのがあるんじゃないでしょうか。東  右翼的な「竹槍」みたいなものが根っこにある一方、左翼的な「絶対反対」もまた根っこにある。なかなか変わらないですね。」

    —『日本の歪み (講談社現代新書)』養老孟司, 茂木健一郎, 等著

    「養老  何が悪いのかを遡ると、そもそも東アジアに西洋文明が大きく入ってきたのはアヘン戦争からですから、清がしっかりしなかったからだ、ということになってしまいます。それをやりだすと切りがない。だから僕の頭の中ではやらない。要するに、自分の関係するところで起こったことを人のせいにするな、ということです。」

    —『日本の歪み (講談社現代新書)』養老孟司, 茂木健一郎, 等著

    「東  慰安婦問題についてはもう少し厳密に話したほうがいいと思います。  ただ、繰り返しになりますが、いま僕たちが直面しているのは、加害と被害の関係をはっきりさせることが戦略的に有利になる世界です。たしかに現実は養老さんのおっしゃる通りで、どんな事件でも加害者と被害者が簡単に明確に分かれることはあり得ない。しかし、それでもあえて「被害は絶対だ」と言うことが、大きな政治から小さな政治まで、戦略的に非常に強くなっている時代です。  そういう世界で、すべては成り成りて成った、とか言っていると防衛力が低く、大きなところから小さなところまで全てで負けていくことになります。そういう意味では日本のその感覚はあまり役に立たない。これは日本の戦争責任や慰安婦問題に限った話ではなくて、あらゆるところで起きている話だと思うのです。」

    —『日本の歪み (講談社現代新書)』養老孟司, 茂木健一郎, 等著

    「茂木  この議論は非常に面白いので、少し別の視点から話します。脳の研究をしている立場からすると、そもそも人間には「自由意志」は実体としてはなく、すべては幻想であるとも言えます。脳の神経細胞の活動を記述する法則は、徹頭徹尾物理的、化学的に書けるのであって、人間の意識で左右できるものではない。そうなると、ある行動をとったからと言って、その人の意識的自己に対して倫理的な批判を加えることの理論的根拠は精査が必要です。もちろん、刑事法など、人間の文化は自由意志という「フィクション」に基づいて運用されているわけですが。」

    —『日本の歪み (講談社現代新書)』養老孟司, 茂木健一郎, 等著

    「東  ここで僕が自由意志のことを話すのも資格がない感じがしますが……僕の考えでは、自由意志というのはレトロスペクティブ(遡行的)にしか現れないものなんじゃないかと思います。これは素人の推測でしかないのですが、進化の過程において、意識というのはそもそも、過去の行動で失敗したときに、それを捉え返すプロセスにおいて生じたものではないかと思うのです。何かを決定して行動するという前向きなものではなく、何かを後悔し、「あのとき別のことができたかもしれない」という後ろ向きの働きが、意識というものの基本的な構えなのではないか。


    茂木  素晴らしい。自由意志というのは、まさに、脳が後付けで行う「ブックキーピング」のようなものであると考えられています。つまり、自由意志があってある選択や行動が生じるというよりは、脳が無意識を含めた一連のプロセスで選択したものを、後から追認し、理由付けし、物語化するのが自由意志だと考えられるのです。」

    —『日本の歪み (講談社現代新書)』養老孟司, 茂木健一郎, 等著

    「東  僕は脳科学も認知科学も専門的に学んでいませんが、こういうアイディアを持っているのは、もともと研究していたジャック・デリダという哲学者が、フッサールの研究者であったことに関係しています。フッサールは現象学の創始者で、人間の感覚に今この瞬間に与えられているものが意識の基礎にあると考えました。でもデリダは、そこには時間的な遅れというのが必ず入るはずだと疑義を呈した人です。僕はその議論がけっこう好きだったんですね。  つまり、人間は、デカルトが言ったように「いま考えている、だからいま存在する」ということはなくて、「いま」という時間を少し遅れて作ることによって「いま考えている」を作っている存在なのではないか。行動より少し遅れて「こう考えて行動したはずだ」という意志が作られる。「主体として一貫している」という幻想を作るシステムが人間にはあるのだと思います。「国の主体性」も同様に、基本的にレトロスペクティブに作られている。養老  だいたいそんなところですよね。理屈は後知恵だということです。」

    —『日本の歪み (講談社現代新書)』養老孟司, 茂木健一郎, 等著

    「東  後付けがなくなったら主体性も何もかもなくなってしまう。その点において、さきほど茂木さんはアイデンティティ・ポリティクスは科学的世界観と整合していないとおっしゃったけど、僕はちょっと意見が違う。僕たちは自由意志とか主体とか責任というフィクションを、社会秩序を作るために必要としている。だから一周して、後付けでいいから責任は問うべきだし、自由意志もあると考えるべきである、というのが僕の主張で、同じところに戻ってくる。

    茂木  自由意志はないけれども、自由意志のあるなしと関係なく、社会秩序を作るために責任は問うべきだと。

    東  そうです。「自由意志は後付けだ」という自然科学的な認識と、「自由意志はある」という法的・社会的な制度上の要請は、全く両立するということです。」

    —『日本の歪み (講談社現代新書)』養老孟司, 茂木健一郎, 等著

    「茂木  マッカーサーが「日本人は一二歳の少年」と評したと言われます。暴言のように聞こえて、実は当時の本質を衝いていたのではないでしょうか。子供の頃には親がオールマイティに見えるけど、大きくなるにつれて親もいかに危ういものであったかがわかってくる。国家についても同じことが言えて、格差是正も子育て支援も、国家はオールマイティに力を発揮できるはずなのにしていない、という文脈で批判するのは、根本的に幼さを表しているように思えます。日本国憲法はアメリカからの贈り物ですが、自分たちではあの内容を構想する精神的成熟はなかった。対外的に言っても、日本はいまだに米国の影の中を歩いているように見えます。」

    —『日本の歪み (講談社現代新書)』養老孟司, 茂木健一郎, 等著

    「養老  フランスでは自爆テロを「カミカゼ」と呼んでいますね。茂木  「カミカゼ」という日本語でいまでも語られるくらい、当時の作戦は印象的だったのでしょうか。東  自殺攻撃は日本しかやっていないのですか?養老  広く取れば世界中でありますよね。東  そうですよね。日本でも特攻は神風特攻隊だけでなく、ほかに潜水艇の「回天」などもあったでしょう。戦闘機の特攻隊がいつからここまで強くシンボルになったのかには興味があります。いずれにせよ、特攻は先の大戦の混乱を象徴するものでありながら、英霊に対する思いを集約する核としても機能している特別なアイコンですね。養老  ちょっと関係あるかなと思ったのは、先崎彰容 8さんの『未完の西郷隆盛』という本です。なぜ西郷がこんなに人気なのかを考えるために、いろんな人が西郷について語ったことをまとめたものですが、結論として、西郷が与えた影響は死生観だったと言っています。その死生観はまさに特攻にも通じている。」

    —『日本の歪み (講談社現代新書)』養老孟司, 茂木健一郎, 等著

    「茂木  生物界では、仲間を守るために一部の個体が犠牲になるという現象は普遍的に見られるわけですが、人間の近代的な価値観とは相容れない。アメリカは特攻攻撃がまったく理解できなくて、かなり恐れたということですね。特攻にどんな文化的背景があるのかもわからないから、戦後に歌舞伎まで禁止した。たしかに歌舞伎の演目を見ると、主君のために自らを犠牲にするという美意識が見られます。養老  そんなこと言ったら、『古事記』のオトタチバナヒメから始まるからね。東  たしかに、海に身を投げて、自己犠牲で国を守りましたね。」

    —『日本の歪み (講談社現代新書)』養老孟司, 茂木健一郎, 等著

    「養老  それぞれの立場でそれぞれの経験があるわけで、「明治維新」という一つの全体として考えることは実際にはできないのだけれども、私たちはそういうことにしています。でも実際にはできなかった部分、「全体」から漏れ出てしまった考えにくい部分を西郷さんが背負ってくれたという思いがあるのではないでしょうか。負けて死んじゃったのだからしょうがない、として納得する。判官びいきというか、日本人のなかに負けた側に対する共感が多いのも、自分の中にそういうものがあるからでしょう。」

    —『日本の歪み (講談社現代新書)』養老孟司, 茂木健一郎, 等著

    「茂木  ご自身が生きにくかった理由を書かれたという『バカの壁』は、四五〇万部売れています。日本人が未整理のまま引きずっていたものを、『バカの壁』は解きほぐしてくれた。養老  僕の本が売れたのは、西郷さんみたいな人がいなかったからじゃないでしょうか。茂木  養老孟司 =西郷隆盛説。これは案外当たっているかもしれません(笑)。  アメリカの南北戦争は、いまだに爪痕が残っていますよね。明治維新もそれに類する爪痕があったはずですが、日本には残っていないのでしょうか。もしかしたら抑圧しているのかもしれませんが。」

    —『日本の歪み (講談社現代新書)』養老孟司, 茂木健一郎, 等著

    「茂木  八月一五日を経て、今度は新しい価値観としてアメリカ文化が入ってきます。養老先生はアメリカが嫌いだと常々おっしゃっていますね。

    養老  戦後、アメリカの文化は見事に日本に浸透しました。アメリカの影響で、いちばん大きかったのは使い捨て文化です。僕の先生なんかは、ティッシュで鼻をかんで毎回捨てるのはもったいないからハンカチでかめと言っていました。大学のエアコンも、セントラルヒーティングにするか各部屋につけるかという議論があって、人のいない部屋に空調してももったいないから各部屋になりましたが、最近はセントラルヒーティングが増えてきましたね。  僕らが育った頃は、折につけ「アメリカではこうやっている」でした。ふざけんじゃねえよと思って、そういう反発はいつもありました。それがアメリカ嫌いに繫がっているんだと思います。」

    —『日本の歪み (講談社現代新書)』養老孟司, 茂木健一郎, 等著

    「養老  それはそれでいいけど、なんでこっちがその価値基準を採用しなきゃいけないのかがわかりません。論文も何が新しいかとか、そういうことばかりで、アメリカで出る論文は面白くない。裏も表もない、電報みたいなものばっかりです。こっちがへそ曲がりなのか、アメリカが単純すぎるのかわからないけど。茂木  相手の価値基準に合わせ続けるというのはストレスですよね。内発的な動機がないと、結局、そのような精神性は根付かないように思います。心の安普請になってしまう。養老  日本は明治の頃からずっとそうですね。少し前に農林水産省の有機農業を推進するための会合に出席したのですが、そこで出てくる数値目標がすべて国際的な基準なんです。日本に住む人にとって必要な目標ではなくて、外の基準に合わせるだけになっている。  何にせよ、自分たちの意志や目標ではなく、外のものにばかり合わせていたらストレスになります。近代以降、日本はずっと何かに合わせてきた。でも、日本人はその原因について考えることもなく、無自覚なままです。それが歪みとも言えるし、歪みを解消できない理由ではないかと思います。東  おっしゃる通りだと思います。」

    —『日本の歪み (講談社現代新書)』養老孟司, 茂木健一郎, 等著

    「養老  ただ、戦後で日常生活にいちばん大きく関わった変化は、家制度を変えたことだと思います。日本の家制度は戦後に憲法二四条で潰されました。そういうことを平気でやるアメリカも信じられないし、潰しましょうと言われて「いいですよ」と実行するのも理解できません。家制度なんて外国と関わる話ではなくて、日本国内での話です。長く生活に根付いてきた家制度を本当に潰せるのか、潰したら問題が色々起こるんじゃないかということを考えないで、なんで気軽に「変えましょう」って言えるのか。お墓ひとつとっても個人は基本じゃないし、社会の指導者階級もみんな家制度で動いていた。そういう社会を急に「個人に変えましょう」って、そんなこと本当にできるんでしょうか。」

    —『日本の歪み (講談社現代新書)』養老孟司, 茂木健一郎, 等著

    「東 でも日本は、一九四五年にそれまでの日本を否定してしまった。それが僕たちの難しさだと思います。もちろんいまでも、過去の日本の残滓はたくさんあります。でも少なからぬ日本人が「日本的なものは悪だ」と思い込んでしまった。それが一九四五年の経験です。「日本的なものの中にも良いところがありました」と言うことそれ自体が、「また軍国主義に戻るのか」「戦前に戻るのか」という話になってしまう。それでがんじがらめになってきたのが戦後です。  これからの二一世紀、中国、インド、そしてグローバルサウスの国々がさらに力を持ってくるときに、イギリス =アメリカ型のリベラルデモクラシー一辺倒でうまくいくわけがない。デモクラシーのかたちも多様になっていくと思います。そのときに日本がちょっと違うデモクラシーをやっていたら先進的だったと思いますが、日本は「日本のものはだめなのだ」というシンプルな歴史観を作ってしまった。そこに戻れないので、なかなか出口がない。」

    —『日本の歪み (講談社現代新書)』養老孟司, 茂木健一郎, 等著

    「養老  今年の正月にたまたま、『吾輩は猫である』を読み直したんです。あの話はちょうど正月からだったんですね。正月に猫が拾われて、台所で残った雑煮を食うんですが、歯にくっついてしまって踊りを踊っちゃう。それが漱石の自画像じゃないかなと思うわけです。飲み込めたら栄養になるのに、歯にくっついて飲み込めないでもがいている。もがく姿を家族は「あら猫が御雑煮を食べて踊を踊っている」と笑っている。それが『猫』という作品のおかしさそのものだなと。茂木  そこをそう読むのか!  言われてみるとその通りだ。東  西洋の文明を飲み込めないということですよね。養老  栄養にならないわけじゃないし、飲んだっていいんだけど、歯にくっついちゃってどうしても飲み込めない。それで踊っちゃう。それが漱石であり、当時の日本だった。猫の踊りが『猫』という作品そのものだなと思ったんです。」

    —『日本の歪み (講談社現代新書)』養老孟司, 茂木健一郎, 等著

    そろそろGDPなんて計るのをやめたらいいと思います。なぜ計る必要があるのか、もう一度考えてみてもいいということです。幸せですか。元気で生きていますか。それでいいじゃないかと思います。みんな好きなように生きていればいいんじゃないのかね「日本の歪み」養老孟司

    「養老  そんなことあるわけないよ。だから政治は嫌いです。空理空論とは政治のためにある言葉だと思います。  こんなに問題になる前ですが、僕の研究室に文革時代の中国の留学生がいて、靖国神社に連れて行ったことがあります。「どう?」って聞いたら、「きれいな神社ですね」で終わり。個人のレベルではそんなものです。」

    —『日本の歪み (講談社現代新書)』養老孟司, 茂木健一郎, 等著

    「東 ちなみに、その傾向はいまの日本のリベラルにも流れ込んでいて、たとえば日本人と外国人を区別するのはおかしい、というよくある議論がその一例です。普遍的な制度設計としてはその通りではあるんだけど、現実には、なにか問題が起きたとき、実際には自分の家族と知らない他人だったら家族のほうを助けてしまうのが人間というものですよね。それは避けられないと思うんだけど、断固そんな贔屓をやってはいけないと言い続けるのがリベラルの立場です。」

    —『日本の歪み (講談社現代新書)』養老孟司, 茂木健一郎, 等著

    「東 ちょうどその前にイギリスのエリザベス女王が亡くなり、ウェストミンスター寺院で葬儀が行われました。国家元首の葬儀が宗教性を帯びるのは当然のことです。しかし日本ではそれができない。なぜできないかといえば、要は敗戦したからです。敗戦後に GHQの草案で作られた憲法では、国家が宗教的活動をすること、公金を供することを禁じている。だから体育館で葬儀をやるしかない。でもそれには根本的に無理がある。だから人々は近くの神社に行く。宗教色をなくした追悼なんてできないんです。やっても機能しないんですよ。  炎天下に喪服を着てわざわざ九段下まで来て献花に並ぶ人たちは、それなりの強い気持ちをもって追悼に来ている。そういう一般弔問客をどう遇するかも、本来は国が考えなければいけないことです。しかし実際にはありふれた巨大イベントへ誘導するかのように、無味乾燥な長蛇の列に並ばせただけだった。日本は死を悼む気持ちの受け皿すら作れないのだなと、その光景に日本の衰退を感じました。場当たり的な対応を繰り返し、なんとなくなんとかなっているように見えても、ベースのところで人心の荒廃が進んでいるように思います。」

    —『日本の歪み (講談社現代新書)』養老孟司, 茂木健一郎, 等著

    「茂木  僕は国葬の日、武道館で参列していましたが、儀式の形式を宗教的に中立的なものにすることで、何かが形骸化しているように感じました。そしてそれは、現代日本そのものの姿のように思いました。私は科学者であり、現在得られている知見に照らして、知的な意味で全面的に肯定できる既存の宗教はないと感じています。一方で、生活人としての、あるいは関係性の中での自然な心の動きはその限りではない。宗教的なものを排除することで、心の着地点が失われてしまっている。」

    —『日本の歪み (講談社現代新書)』養老孟司, 茂木健一郎, 等著

    「東  夏に盆踊りが小学校の校庭で行われたりしますが、あれも本当は神社とか森でやるべきものですよね。どういう理屈で校庭になったのかわかりませんが、神社でやると宗教行事で、校庭でやると自治体の無宗教行事になるんでしょうか。いずれにせよ、戦後のこの国は、もともともっていた人の心を安定させるリソースのようなものを、かなり使えなくしてしまっているように思います。それが効率の悪さを生んでいる気がしてなりません。」

    —『日本の歪み (講談社現代新書)』養老孟司, 茂木健一郎, 等著

    「養老  人間のほうも、最近、「墓じまい」などお墓の問題が出ていますが、その問題が出てきたのは家制度を壊したからですね。僕はこれは、戦後社会にとって九条より大きな問題だと思っています。  家制度を壊したことで個人が露出したわけですが、前に東さんが言ったように、元来、日本に「個人」はなかった。日本の民主主義は「家」の平等で、個人で成り立つものではなかったんです。それが「家」という制度が消えて、急に「個人」になったことで墓も先祖も繫がらなくなった。そうすると日常生活の時間的な存続を、どこに落ち着かせていいのかわからなくなります。」

    —『日本の歪み (講談社現代新書)』養老孟司, 茂木健一郎, 等著

    「東 日本はここ二、三〇年で会社も壊しました。昭和期の会社は、重要な中間団体で、よくも悪くも多様な役割を果たしていた。病院や社宅があり、社員旅行での出会いや結婚の斡旋のように、娯楽や共同体構築の機能も担っていた。そのような「家族的経営」は、新自由主義とグローバリゼーションの時代に不合理とされ、いまではハラスメントの温床としてたいへん評判が悪いですが、それで支えられていた部分も見なければいけない。そういうものを全部潰して、全て国家で対応といっても、なかなか機能しない。」

    —『日本の歪み (講談社現代新書)』養老孟司, 茂木健一郎, 等著

    「東  新興宗教の犯罪性が問題になるとすぐに「宗教がダメだ」という論調になるのは、逆に宗教についての考えが貧しいことの表れだと思います。日本では人の心を安定させるシステムがうまく機能していないので、「娯楽産業」という名のもとに変な商売が大量に作り出されている。だれも知らないアイドルに何百万円もつぎ込むのがよしとされているような文化は、ふつうに考えて異様です。そういった歪んだ部分が「クールジャパン」と呼ばれる面白い部分を作り出しているのも事実なのでしょうけど、長続きはしないと思います。」

    —『日本の歪み (講談社現代新書)』養老孟司, 茂木健一郎, 等著

    「養老 オウムの問題なんかもあって、ずっと「古い宗教が安心だ」と言ってきたけど、そのわりに坊さんがサボってやしないか。コンビニより寺の数が多いと言われるのに、ぜんぜん機能しているように見えない。

    東  そもそも「人の悩みを聞く人」が少ないという問題かな、と思います。人が人に真面目に悩みを話す、それを聞く、というまともなコミュニケーションの場があまりに少なく、表面的な社交ばかりしている気がする。

    茂木  八百万の神はいい部分も多いけど、神の敷居が低いということでもあって、いろんなことが「神化」しやすいという問題もありますよね。東  そうかもしれません。「プチ神」みたいなのが多いですよね。

    茂木  「ひろゆき」を神化してしまうような脆弱なメンタリティは何なんだろうと思います。ひろゆきさん本人は、むしろ謙虚だし、自分の限界もわかっている。もちろん卓越している点もあるわけですが。」

    —『日本の歪み (講談社現代新書)』養老孟司, 茂木健一郎, 等著

    「茂木  本当にそうですよね。女性比率を何割にしろ、というのにも同じものを感じます。本当は一人ひとりが違うのに、女性という属性だけでひとくくりにするのは、さきほどのカントの定言命法の危険性とも関わる話です。」

    —『日本の歪み (講談社現代新書)』養老孟司, 茂木健一郎, 等著

    「茂木  イギリスの経済学者チャールズ・グッドハートが言った「グッドハートの法則」というのがあって、それは「パフォーマンスの指標自体が目的になったとき、それは良い指標ではなくなる」というものです。例えば幸福度調査をすること自体はよいが、幸福度を上げることを目標にすると必ずハッキングされるので、指標としても役に立たなくなるということです。  数学が得意で、高校生くらいから数学の論文をたくさん書いている学生がいて、でも共通テストができないために、国内の有力大学ではなく、アメリカの大学に進んだというようなケースを耳にします。これだけだと、日本の受験制度の問題なのですが、では、日本でも論文を書いて大学に入れるようにしよう、ということになると、今度は論文はハッキングできるという問題が出てくる。」

    —『日本の歪み (講談社現代新書)』養老孟司, 茂木健一郎, 等著

    「それはいいのですが、哲学そのものとして見た場合は、言語と現実を一致させることには無理があり、完全な一致は目指しても意味がない。言葉というものは厄介で、人間はいくらでも多様な解釈をするし、むしろそのように何度も再解釈されることによって生き残っていくものです。つまり「言葉を厳密に使う」という発想そのものが厳密には維持できないんです。そのような認識は二〇世紀半ばにさまざまな哲学者によって同時多発的に示されたものですが、いまでも変わっていないと思います。」

    —『日本の歪み (講談社現代新書)』養老孟司, 茂木健一郎, 等著

    「茂木  朝鮮戦争も平和条約を結んでいないので、韓国と北朝鮮はテクニカルには「戦争中だが休戦している」ということですよね。

    東  そもそも日本だってロシアと平和条約を結んでいないので、テクニカルには戦争状態なのかもしれない。」

    —『日本の歪み (講談社現代新書)』養老孟司, 茂木健一郎, 等著

    「東  日本は夫婦別姓より先に同性婚が実現するかもしれませんね。背景には外国からの圧力が大きい。夫婦別姓は外圧がないので一向に進まない。その現状はいかにも日本的だなと見ています。

    茂木  たしかに夫婦別姓には感情的な反対がすごく強いですね。とすると、日本では同性婚をしても、どちらかの姓に揃えなくてはいけなくなるのか。

    東  可能性は大いにあると思います。同性婚でも相手の家に入り、お墓もそちらに入る。家制度を守ったまま同性婚をやることになるのでしょう。

    養老  夫婦別姓に抵抗を持つ人が多いのは、家制度が長く続いたからかもしれませんね。」

    —『日本の歪み (講談社現代新書)』養老孟司, 茂木健一郎, 等著

    「東  韓国は整合性をつけることを頑張っている国ですね。科挙も朱子学も輸入し、名前も中国風に変えている。日本は科挙もやっていないし、名前も変えなかった。中国から取り入れていない部分もかなりあります。」

    —『日本の歪み (講談社現代新書)』養老孟司, 茂木健一郎, 等著

    「茂木  これだけ日米関係が密なのに、なぜ日本人は英語が下手くそなんだろう。国際的に見ても、日本七不思議の一つですね。養老  それはいまの東さんのお話が理由ではないですか。事実だけを言う言語になっていないから、事実だけを言う言語をうまく使えない。東  日本語だと、「どこから来ましたか」「東京です」だけだとぶっきらぼうに聞こえてしまう。「一応東京から来たんですけど」みたいに、余分なことを言うのが「話をする」ことになっている。行為遂行的なコミュニケーションが過度に発達していることがむしろ、外国語でのコミュニケーションを阻害しているように思います。「これはペンだよ」と「これはペンなんだ」のニュアンスの差をいちいち考えていては外国語なんて話せません。」

    —『日本の歪み (講談社現代新書)』養老孟司, 茂木健一郎, 等著

    「茂木  これだけ日米関係が密なのに、なぜ日本人は英語が下手くそなんだろう。国際的に見ても、日本七不思議の一つですね。養老  それはいまの東さんのお話が理由ではないですか。事実だけを言う言語になっていないから、事実だけを言う言語をうまく使えない。東  日本語だと、「どこから来ましたか」「東京です」だけだとぶっきらぼうに聞こえてしまう。「一応東京から来たんですけど」みたいに、余分なことを言うのが「話をする」ことになっている。行為遂行的なコミュニケーションが過度に発達していることがむしろ、外国語でのコミュニケーションを阻害しているように思います。「これはペンだよ」と「これはペンなんだ」のニュアンスの差をいちいち考えていては外国語なんて話せません。」

    —『日本の歪み (講談社現代新書)』養老孟司, 茂木健一郎, 等著

    「人間は、つい、世界の不完全性を問題にしがちだけれども、それはどこかでまわりまわって良いところと結びついているかもしれない。例えば、ガン細胞は困った存在だけれども、時にはガン化するような細胞生理の働きがなかったら、そもそも普段の生命が維持できない。地震が起こるのは災害だけれども、地震を起こすようなプレートテクトニクスの動きがなかったら、地球の安定性の何かが失われるかもしれないし、温泉もない。幸福学や人工知能は特定の評価関数を最適化しようとするけれども、このような思わぬかたちで巡る因果の問題を考えると、表層をなぞっているだけに終わるかもしれない。その意味では、ライプニッツのほうがはるかに深いし、広い。」

    —『日本の歪み (講談社現代新書)』養老孟司, 茂木健一郎, 等著

    「東  最近は哲学者が物理学者と話す、みたいなこともなくなってしまいましたね。茂木  そういうのはやらなきゃだめですよ。最近も『時間は存在しない』(カルロ・ロヴェッリ著)という本があって、現代物理の理論家が書いている本なんだけど、全く画期的な本でもなんでもなく、普通の解説書です。それを日本のメディアは、画期的だとか言って褒める。それについて養老先生が言ったのは、「時間がないとか言われたらお終いだよね」。さすがとしか言えない。時間の謎のようなことを、物理学者だけに任せていると、取るに足らない見解がのさばってしまう。それを商売にしてしまう日本のメディアも問題ですが。  あのホーキングでさえ、一時は「時間は虚数だ」とかどうでもいい話をしてたわけで、物理学だったら物理学という一つの文脈の中にいるとどうしても、どうでもいい話を意味があるように話してしまいがちです。それを外から、「このおっさん時間は存在しないとか言っているけど、実際には時間あるじゃん」とか一言で終わらせられるのは、じつは大事なことじゃないかと。これは粗い例えだけど、岡目八目というか、そういうのが重要なのではないですか。」

    —『日本の歪み (講談社現代新書)』養老孟司, 茂木健一郎, 等著

    「ライプニッツ:一七世紀ドイツの哲学者、数学者、科学者。微積分学や二進法の発明者でもある。汎神論的哲学を提唱し、神が創造した最善の世界における悪の存在についても議論した。」

    —『日本の歪み (講談社現代新書)』養老孟司, 茂木健一郎, 等著

    「東  ただこれは人間世界の本質でもあって、自分の娘が出ている学芸会のお遊戯は面白いわけです。同じことを別の人がやっても全く面白くない。そういう感情を否定しても意味がないし、そもそも歌が上手い人の歌に感動することと、娘の拙い歌に感動することの間に、厳密に線を引くことができるとは思えない。

    茂木  ジャニーズならどんな演技でも感動する、と。実際には学芸会のようなものだとしても。

    東  はい。そしてその素晴らしいと思っている心に優劣はつけられません。だからこの点については、単に、日本では学芸会モデルがコンテンツ業界における成功モデルに組み込まれたというだけでいいんじゃないかな。

    茂木  ジャニーズとか吉本とかね。本当に学芸会です。忖度ばかりで本気で作品を作っているとは思えない。」

    —『日本の歪み (講談社現代新書)』養老孟司, 茂木健一郎, 等著

    「養老  天皇制に関しては、僕の中ではいまでも「触らぬ神に祟りなし」です。触れないほうがいいもの、というか。だから触れない。やっぱり神様なんだね(笑)。茂木  直接お会いになってはいませんか?養老  会ってないです。逃げました。それは、自分が関わることではない、と決めているんです。役人から跡継ぎ問題について聞かれたときも、「人のうちのことに口を出すのは品がいいと思いません」と答えました。東  とても良い話だと思います。茂木  いまは男系天皇と女系天皇についての問題が議論されていますが、それも「触らぬ神に祟りなし」ですか。養老  そうですね。なんでそんなこと議論するのだろうと思います。茂木  そもそも「天皇制」についての議論は日本にとって必要なものだと思いますか。養老  それは「日本」がなにかという意味によるでしょうね。例えば日本の国会議員は、アメリカには敵わないのだから言うことを聞いておくのが現実的だと言います。それなら日本はアメリカの五一番目の州になればいい、と乱暴に言ったことがありますが、もしそうなったら、天皇をどうするかという問題が必ず出ます。まあ州知事くらいでいいんじゃねえのって思いますけど(笑)、そうやって具体的な問題が起きたときに、それぞれが具体的に考えればいいことです。  なんだか「天皇制の問題」というのは、人の問題を背負い込んで「俺のだ俺のだ」と言っているような気がするんです。それぞれの日本人が、本当に天皇の問題を自分のこととして身近に感じているのか。極端な話、天皇がいなくてあなたは困るのか、ということです。いまは天皇の政治利用を禁じて、天皇は政治的に有効であってはいけないということになりましたが、ああいう制度を非政治的だとするのはめちゃくちゃで、無理があります。三島由紀夫が「週刊誌天皇制」と言って批判したように、皇室の話題は身近なようで、「天皇制」そのものとは関係ない。そこはタブーのまま、いまも触れてはいけないことになっている。象徴天皇というのは、まさに「触らぬ神に祟りなし」です。」

    —『日本の歪み (講談社現代新書)』養老孟司, 茂木健一郎, 等著

    「茂木  養老先生が解剖学を選んだ理由の一つとして、戦後に教科書を墨塗りした体験を挙げて、「死体は裏切らないから」とおっしゃっています。死体は死体のまま、解釈ひとつで態度が変わったりしない。天皇が生物学を勉強したのにも、それと共通するところがあるのではないでしょうか。養老  大いにあると思います。正気を保つためにやっていたんでしょう。茂木  正気を保つために蟲を見ていた。養老  神様にまでされてしまって、いい加減にしてくれという気持ちがあったとしたら、ヒドロ虫でも見ているのがいちばんですから。昭和天皇はよく正気でいられたと思いませんか?  そんなに普通の判断が狂っていたわけではないと思いますよ。」

    —『日本の歪み (講談社現代新書)』養老孟司, 茂木健一郎, 等著

    「茂木  アメリカみたいにイデオロギーの国ではないから、「自由と民主主義の実現のために」とはならないですし。東  アメリカがシンプルなのは「起源」がはっきりしていることもあるかもしれません。もちろん、アメリカ大陸にはネイティブアメリカンがいた。けれどもいまの国家がどこから出発したか、その起源ははっきりしている。あれだけ起源のはっきりした実験国家はほかにありません。だから後にいかに複雑なものがあったとしても、起源の理念に巻き戻せてしまうのだと思います。  例えばいまではアメリカはすっかり政治的に正しくなっていますが、そもそもあの国は近代において最も大々的に奴隷制を展開していた国でもあって、人種差別こそアメリカの歴史だったはずなんですよ。けれども、そのねじれすら、建国の理念を持ち出すことで解消してしまう。そして「アメリカはずっとこういう国だったんだ」みたいな物語を作る。そういう力がアメリカにはありますよね。」

    —『日本の歪み (講談社現代新書)』養老孟司, 茂木健一郎, 等著

    「養老  日本はフィクションが作りにくい国ですね。たしかに戦前は天皇制というフィクションが機能していました。でもそれは国内だけの話で、よその国まで持っていっても通用しないですから。前に沖縄でタクシーに乗ったとき、運転手さんに「沖縄と本土のどこが一番違うと思いますか」と聞いたら、「天皇に対する感覚じゃないでしょうか」と言っていました。沖縄との距離感でもそうなのだから、中国や朝鮮とズレるのは当たり前で、ラオスなんか行ったら「ナニソレ」ですよね。」

    —『日本の歪み (講談社現代新書)』養老孟司, 茂木健一郎, 等著

    「茂木  昭和天皇の戦争責任を問うべきという意見もあります。私は同意しませんが、戦後、リベラルの一部には見られた意見だということを、私自身もさまざまな機会に認識してきました。養老  そういう気持ちにはならないですね。だって昭和天皇の開戦の詔勅が、「洵ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ」です。「開戦はまことにやむを得ないんですよ、私の本意じゃないんですよ」と言っているんですから。じゃあ誰が許したんだよと思うけど、本人がそう言うならしょうがない。茂木  西洋の自伝では「私はこういう意志をもち、こういうことを成した」というスタイルで書かれることが多いですが、日本では開戦の言葉すら「やむを得なかった」と、消極的であることは面白いなと思います。これは、繰り返しになりますが、現代の科学における「自由意志」は基本的に存在しないという認識とは実は整合的ですが、社会的、文化的にはポピュラーであるとも、正統であるとも言えない。  養老先生はご自身の生きてきた軌跡に対しても、自分がやってきたというより、こうなっちゃった、と思われていますか。養老  行きがかり、なりゆきです。もちろん自分が決めなくてはならないときはあります。例えば大学を辞めるときには辞表を書かないといけないので、それは自分がやったことですが、そこに至るまでのプロセスは複雑で、簡単に言えることではない。」

    —『日本の歪み (講談社現代新書)』養老孟司, 茂木健一郎, 等著

    「東  近代化に成功した国ではめずらしいかもしれません。専門家に尋ねてみたわけではありませんが、僕はそういう「なりゆき」の世界観や主体観は辺境の国に多い思考パターンではないかと思うんです。日本にはいまだに歴史の古層というか、縄文時代からの思考が残っていて、それはおそらく日本固有のものというより、環太平洋地域に広く分布している、インディアンからエスキモー、ツングースからパプアニューギニアあたりの文化圏の一部でもある。それはたいへん原始的で、たいていは小さな部族のものでしかないのに、日本はたまたまそういう古い思考パターンを保ったまま大きくなってしまった。本当は少数民族に向いているメンタリティなのだと思います。「万世一系」を崇めるというのも少数民族の考え方ですよね。」

    —『日本の歪み (講談社現代新書)』養老孟司, 茂木健一郎, 等著

    「東  近代化に成功した国ではめずらしいかもしれません。専門家に尋ねてみたわけではありませんが、僕はそういう「なりゆき」の世界観や主体観は辺境の国に多い思考パターンではないかと思うんです。日本にはいまだに歴史の古層というか、縄文時代からの思考が残っていて、それはおそらく日本固有のものというより、環太平洋地域に広く分布している、インディアンからエスキモー、ツングースからパプアニューギニアあたりの文化圏の一部でもある。それはたいへん原始的で、たいていは小さな部族のものでしかないのに、日本はたまたまそういう古い思考パターンを保ったまま大きくなってしまった。本当は少数民族に向いているメンタリティなのだと思います。「万世一系」を崇めるというのも少数民族の考え方ですよね。茂木  そんな国が帝国になろうとしたら、そりゃ失敗すると。「大日本帝国」とか「大東亜共栄圏」とか「八紘一宇」とか、日本には向いていなかったんだ。主体概念が、帝国的ではない。養老  身の丈に合っていないんですよ。「経済大国」とか、経済なんて変なモノサシで見るから錯覚が起こっているだけで。」

    —『日本の歪み (講談社現代新書)』養老孟司, 茂木健一郎, 等著

    「東  まさにそうです。東洋を日本で代表させているのはまちがいだし、逆にいえば日本の哲学はもっと大きなアジア的な物差しのなかで読まれるべきだと思います。僕が親しくしているユク・ホイという哲学者がいます。彼は中国語もドイツ語もフランス語も読める。このあいだ YouTubeで、そんなユク・ホイとシンガポールのアーティストが戦前の日本の京都学派の哲学について英語で議論しているのを見ました。司会も日本人ではなく韓国人でした。これからそういう時代になっていくでしょうね。」

    —『日本の歪み (講談社現代新書)』養老孟司, 茂木健一郎, 等著

    「養老  日本にはそもそも個人なんてないですから。人称代名詞だって、一人称と二人称がしょっちゅう入れ替わるんだから。相手に向かって「自分りんご嫌いだろ」と言えてしまう。

    茂木  たしかにそうだ。そのへんも「みんな」になりやすいのと繫がっているかもしれないですね。」

    —『日本の歪み (講談社現代新書)』養老孟司, 茂木健一郎, 等著

    「東  そうですね。僕は最近になって、この国で生きていくのには目立たないことしかないんだとわかってきました。

    茂木  どういうこと?(笑)

    東  言葉通りです。変わっていて目立っている人を潰すという圧力がとにかくすごい。特に四〇代くらいまでは風当たりが強い。五〇代に入ると少し楽になるかもしれない。茂木さんもあったんじゃないですか。茂木  あったかもしれない!

    養老  そういう日本の特性というのは、こんなに狭いところに人が大勢いることが原因だと思います。こんなに人口密度が高い世界ってないですよ。上海や北京を見るとやたら人がいるけど、中国なんて脱税で捕まりそうになったらどこかに逃げてしまえる。でも日本は狭いうえに逃げ場がない。高密度の人間社会ではルールがすごく強くなります。それは昔から思っていました。」

    —『日本の歪み (講談社現代新書)』養老孟司, 茂木健一郎, 等著

    「東  そうですね。僕は最近になって、この国で生きていくのには目立たないことしかないんだとわかってきました。」

    —『日本の歪み (講談社現代新書)』養老孟司, 茂木健一郎, 等著

    「養老  先輩が同じことを言っていました。目立たないに限る、と。その人は安保のときに東大医学部の自治会の委員長をやっていて、ストライキを提案して退学処分になりました。当時の退学は面白くて、指導教官二人のところに毎月面談に行って、一年間おとなしくしていたら復学させてもらえるという暗黙のルールがあった。彼は毎月通って復学して、そのあと教授になりましたが、あるときふっと「目立たないのがいちばんいい」と言っていました。」

    —『日本の歪み (講談社現代新書)』養老孟司, 茂木健一郎, 等著

    「東  公共的であることと、全員が同意することはイコールではありません。日本の未来のための問題提起をしたり、未来を見据えたりすることは、必ずしもその時代に全員が同意することではないはずです。でも、日本ではそれをやろうとすると、私費を投じて世論から身を引き離さないといけない。」

    —『日本の歪み (講談社現代新書)』養老孟司, 茂木健一郎, 等著

    「茂木  養老先生が特異点なのは、全部個人でやっているからなんだね。養老先生の箱根の「バカの壁ハウス」は壁に南伸坊さんが馬と鹿の絵を描いて、屋根を藤森照信さんが作って、という非常に素晴らしい空間なんですが、あれが税金だったら文句を言われている可能性があるということですよね。そう考えると、つまらないものしかできなくなって当然な気がしてきます。」

    —『日本の歪み (講談社現代新書)』養老孟司, 茂木健一郎, 等著

    「茂木  みんなが納得しないから芸術なのにね。今では日本人が大好きな印象派だって、出てきたときはボロクソに言われて、「印象派」っていう名前だって蔑称だったのに。そもそも当時のフランス国家の権威としてのサロン展から排除された画家たちが印象派だった。」

    —『日本の歪み (講談社現代新書)』養老孟司, 茂木健一郎, 等著

    「茂木  改めて、東さんが言った「四〇代までが辛い」というのは本当にそうかもしれません。俺はそのあたりの苦しさはもう抜けた気がする。東  そこを抜けると嫉妬も受けにくくなる。茂木  養老先生は嫉妬を受けないですね。養老  日本社会には「あいつはしょうがねえ」っていう枠がありますからね。茂木  たしかにそれはある!  あずまん、もうちょっとだ!養老  江戸時代にも「寛政の三奇人」というのがいますから。茂木  寛政の三奇人?養老  林子平、高山彦九郎、蒲生君平の三人です。林子平は海防の重要性を説いて『海国兵談』を書き、蒲生君平は天皇陵の荒廃を嘆いて『山陵志』を編纂した人。高山彦九郎は勤王を唱え、江戸時代後期に御所に向かって望拝して、お咎めなしだった人。御所に向かって伏し拝んでいる像が京都の三条大橋にあります。茂木  日本には昔から「あいつはしょうがねえ」で受け流してくれる素地があるんですね。正統枠や、中枢枠とは別に。東  なるほど、奇人枠に入ると楽に生きられる。茂木  南方熊楠がキャラメルの箱に入れた標本を昭和天皇に献上したという話は有名ですが、あれも熊楠だから許されたんでしょうね。」

    —『日本の歪み (講談社現代新書)』養老孟司, 茂木健一郎, 等著

    「東  ロシアは歴史的に、西ヨーロッパに対抗することで国家としてのアイデンティティを作ってきた部分があります。だから確かに異質なんです。ただ、僕たちアジア人から見ると似ているところに線を引いているようにも見えますね。」

    —『日本の歪み (講談社現代新書)』養老孟司, 茂木健一郎, 等著


    「東  そうですね。でもそれも言っちゃいけない。人文系アカデミズムはどうなってしまうのでしょうか。まあ、どうにもならず滅びるのかもしれない。

    養老  それもまたやむなし(笑)。

    茂木  今日において、人文学は政治的正しさと切り離せないということですか。

    東  いまはそうなってしまった。就職とか資金提供のシステムとかとも関係しているのだと思います。

    茂木  生活に直結しているのか。アメリカの大学の人事で、そのような風潮があるということはときどき耳にしますが、日本でもそうだとすると、なんだか残念な気がします。

    東  理工系の研究者は政治的正しさとは違うところで能力が測られていますから、ヘイト発言をする IT系の人がいてもそれだけでキャンセルされるわけではない。いいか悪いかはともかく、いちおうそうなっている。でも人文系は間違いなくキャンセルされる。政治的な正しさから逃れられないわけです。」

    —『日本の歪み (講談社現代新書)』養老孟司, 茂木健一郎, 等著

    「東  二〇世紀にはナチのユダヤ人虐殺だけでなく、スターリンによる粛清、中国の文化大革命、カンボジアのポル・ポトなど、大量虐殺が何度もありました。人類はこれまで実際に、特定の民族集団を消滅させようとしたり、富裕階級を階級ごと消滅させようとしたりしてきた。だから、これからの未来で、ある年齢層をまるごと消滅させようとする「エイジズム・ジェノサイド」国家が現れても驚かない。人間はそういうことをやるやつらです。  だから、成田さんがどこまで真剣だったかは別として、問題は彼個人の善悪の話ではないんですよね。怖いのは、ああいう話が出てくると、もっともらしい理屈はいくらでも作れるということです。例えば健康を指標にして市民ひとりひとりが医療制度そのほかに与える負担を計算し、一定数値を超えている人たちに「高コスト市民」とかなんとか名前をつけ、その人たちの生存権を一定程度制限するほうが社会正義にあたるのだ、というロジックは簡単に作れる。もちろん老人だけではなく、あらゆる集団について、そのような主張が可能です。」

    —『日本の歪み (講談社現代新書)』養老孟司, 茂木健一郎, 等著

    「茂木  川端康成のノーベル賞受賞スピーチが「美しい日本の私」で、対して大江健三郎は「あいまいな日本の私」です。「あいまいな日本」って名コピーだなと思います。あいまいというのは、日本で生きる居心地の悪さも表しているような気がします。」

    —『日本の歪み (講談社現代新書)』養老孟司, 茂木健一郎, 等著

    「茂木  最近、森田草平 16のことを読んだのがきっかけで平塚らいてうに行き着いて、いくつか読んでいたんですが、今の典型的なフェミニストとは違っているように感じました。「元始、女性は太陽であった」とか「若いツバメ」などのゆかりの言葉にも力があります。全体として、平塚らいてうのほうが女であることに肯定的であるような。夏目漱石は、平塚らいてうにインスパイアされて『三四郎』の美禰子を造型したようですね。フェミニストのあり方の違いも日本社会の変化によるのかもしれません。敗戦も大きかったし、朝鮮戦争も転換点だった。希望をもって戦後民主主義を語れた時代は短かったんですかね。」

    —『日本の歪み (講談社現代新書)』養老孟司, 茂木健一郎, 等著

    「養老  日常のあり方でしょうね。僕が「地震待ち」だというのはそのせいです。日常が壊れたら、変わらざるを得なくなりますから。首都直下型地震くらい来れば、平安時代が鎌倉時代になるような、江戸幕府が明治政府になるような、考え方がガラッと変わる可能性はあります。茂木  それ以外では変われないということですか。養老  変わったことがない、ということです。これだけ巨大なシステムを作ってしまうと、システムそのものを変更するのは難しいですから、天災で壊してもらうくらいしか方法がないのではないですか。コンビニに行けば食べ物が手に入る状況では、真剣に考えられないでしょう。  水、エネルギー、食料すべて自力で手に入れなくてはならない状況になると、どうしても日常生活そのものを一つ一つ、真剣に考え直さなきゃならなくなります。そういう人たちが増えてくると、貴族政治から武家政治に変わるくらいの変化が起こるかもしれない。」

    —『日本の歪み (講談社現代新書)』養老孟司, 茂木健一郎, 等著

    「東  それは、鈴木宗男氏が言うように、ロシアはずっとあの位置にあって、基本的に付き合っていかなければならない国なのだからウクライナに全振りしている場合じゃないという話にもつながりますね。僕は鈴木氏の戦争理解は間違っていると思いますが、言いたいことはわかる。短期的な善悪とは別に、長期的なオプションもしたたかに抱えておかなくてはいけない。」

    —『日本の歪み (講談社現代新書)』養老孟司, 茂木健一郎, 等著

    「 話は少しずれますが、僕が出会ったときには養老先生は東大医学部の現役の先生でしたが、養老先生が偉そうだったことが一度もないんですよね。イデオロギーで生きていないからなんでしょうか。例えばいま、人工知能の研究者とか、なんでそこまで偉そうなのっていう人が多いですよ。とりわけ、アメリカで人工知能やっている人たちって、俺たちが世界をつくる、みたいな勢いがある。サム・アルトマンとか、本当のトップは案外謙虚なのですが。養老先生は、なぜ謙虚なのか?」

    —『日本の歪み (講談社現代新書)』養老孟司, 茂木健一郎,

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    2026年04月07日
  • 唯脳論

    Posted by ブクログ

    ヒトは、脳を中心に社会(都市?)を作り、人工物で埋めつくす。制御と統制のため。身体化。昔で言う「国体」??


    読んでいて、寺の伽藍配置もずいぶん脳化しているなと思った。手つかずの自然は置かない。

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    2026年04月05日
  • 猫も老人も、役立たずでけっこう NHK ネコメンタリー 猫も、杓子も。

    Posted by ブクログ

    1287円

    東大医学部で長年学生を教えてる先生が病院に行くのが嫌いって言ってた。私も出来るだけ病院には行かないようにしてる。

    養老孟司は科学的造詣もありながら、文学的造詣がある所が良い。どちらかだけだと物足りない感じする。医学の対象は人だから文学好きが多いのかなと思う。


    「 優れた音楽家は「絶対音感」を持っていると言われます。これは、他の音と比較せずに、音の高さがわかるという能力です。みなさん、音楽の才能がある人だけに与えられた「特殊能力」だと思っていませんか。実は違います。誰でも赤ん坊のうちは、音の高さを区別しています。けれど、成長につれ言葉が使えるようになると、その区別ができなくなるんです。逆にいうと、言葉を使いこなすには、音の高低がわかってはいけないんです。  たとえば、「太郎」という名前の子どもの場合、お父さんお母さんなど誰が呼んでも、つまり、どんな音の「太郎」でも自分のことだと認識できなければ、やりとりが成り立ちませんよね。要するに、人間は言葉が使えるようになるにつれ、絶対音感を失っていくんです。  音の高低がわかるというのは、本来、動物が持っている能力です。つまり、感覚で違いを見分けられるということ。そういう意味では、赤ん坊は動物と同じです。こんな実験もあります。生後一ヶ月の乳児の頭の両側に、母親の母乳と別人の母乳を浸したガーゼを置くと、どんな赤ん坊も、必ず自分の母親の母乳を選びます。同じ実験を父親にすると、まったく違いがわからないそうです。つまり、人間は誰でも、生まれたては感覚で外の世界をとらえているんです。」

    —『猫も老人も、役立たずでけっこう NHK ネコメンタリー 猫も、杓子も。』養老孟司著

    「この「同じ」ということについて考えたことがありますか。「『違う』の反対だろう」って?  そんな単純な話ではないんですな。そもそも、世の中に同じものはあると思いますか。ヒトは感覚と意識を使って生きていますが、実は感覚でものをとらえた場合、絶対に同じということはありません。たとえば、大量生産品が百個並んでいたとする。見た目は同じかもしれませんが、実際には全て違っています。  リンゴで考えてみましょう。リンゴが百個あれば、実際はどれも色や形が違っている。ところが、ヒトはそれらを「リンゴ」という言葉でひとくくりにしてしまいます。一個一個は違っているにもかかわらず、どれも「同じ」リンゴにしてしまうのは、意識がそうさせているからです。つまり、我々の脳は、感覚でとらえた違いを、頭の中で「同じ」にするのです。」

    —『猫も老人も、役立たずでけっこう NHK ネコメンタリー 猫も、杓子も。』養老孟司著

    「私は、マレーシアのキャメロン・ハイランドにも虫を捕りに行きます。高原にある有名な保養地なんですが、そこにはスターバックスがあります。スターバックスのコーヒーというのは、マレーシアだろうと、タイのバンコクだろうと新幹線の品川駅だろうと、ものは同じでしょう。  人はあらゆるものを「同じ」にしようとします。グローバリゼーションの根本がまさにそうなんです。イギリスとアメリカは、共にその最先端にいた国です。とくにイギリスは非常に早くからその動きがあり、世界各地に植民地を持ち「日の沈するところなし」とまで言われました。アメリカの場合は、情報でグローバル化を行った。その手段となったのは衛星テレビでした。」

    —『猫も老人も、役立たずでけっこう NHK ネコメンタリー 猫も、杓子も。』養老孟司著

    「意味があるもの、意味と直結した感覚入力だけで生きるほうが、安心安全で快適と思っているから、人は世界を意味で満たしていく。だから私は都会が嫌いなんです。全ての意味が説明できてしまうから、自分の参考になるものが何もない。  たまには、自分が同一化していることを意識したほうがいいですよ。猫を見るとそれが少しわかる。動物には、絶対に「同じ」がない。彼らの目に映るものは「日々新た」なんです。」

    —『猫も老人も、役立たずでけっこう NHK ネコメンタリー 猫も、杓子も。』養老孟司著

    「今年の梅は、ちょっと遅めでしたね。近所には桜も多いけれど、私はソメイヨシノがあまり好きじゃない。一斉に咲くでしょう。あれがつまらない。一代雑種で、種ができないから挿し木などで増やす。いわばクローンなんですよ。だからみんな開花が揃う。それが苦手。猫みたいに勝手気ままなほうがいいですね。」

    —『猫も老人も、役立たずでけっこう NHK ネコメンタリー 猫も、杓子も。』養老孟司著


    「今は極端で、なんでも言葉にしようとする世の中ですよね。言葉にすると変わらないものになるから。情報化社会ってそういうことです。変わらないもので埋め尽くしていく。そうすると意外にわからなくなるのは、生きているとはどういうことかということなんですね。  言葉が中心であるというのは、非常に欧米的な考え方です。聖書は「はじめに言葉ありき」でしょう。アルファベットなんて、 Aから Zまでの二十六文字で言葉にできるものは全部表せてしまうんです。  でも、本当は言葉にならないものもたくさんある。そういう感覚的な印象を多く残しているのが日本語の特徴のひとつです。オノマトペが多いでしょう。「しみじみ」とか「つくづく」なんて、数え上げたらキリがない。こういうものは、英語や他の言語には変換できません。なぜなら非常に感覚寄りの言葉だからですね。日本人の感性と文化がいかに感覚に寄っているかということを示しています。」

    —『猫も老人も、役立たずでけっこう NHK ネコメンタリー 猫も、杓子も。』養老孟司著

    「 経済関係の人はこう考えます。景気がよくないので結婚しない、それで少子化が起こっているって。でも、明らかにそれだけじゃないですよ。貧乏で結婚できなくて子どもをつくれないんだったら、落語に出てくる、江戸時代の貧乏で子沢山の長屋話なんかありえないでしょう。そう思いませんか。  子どもが増えないのは、根本的には都市化と関連しているからだと、私は思います。都市は意識の世界であり、意識は不確定要素の多い自然を嫌います。つまり人工的な世界は、まさに不自然な世界なんですよ。ところが子どもは自然でしょう。思うようにならない。予定通りにいかない。設計図もない。欠陥品だからといって取り替えるわけにもいかない。そういう存在を「意識」は嫌うんですよ。意識の世界というのは、すべてが「ああすれば、こうなる」というアルゴリズムで動かなければいけないから。  でも、子どもってそうはいかないでしょう。自然そのものなんだから。苦労して育ててみても、どんな大人になるかわからないじゃないですか。うまくいけばタレントになってくれるかもしれないし、犯罪者になってしまうかもしれない。そんな危ないもの、関わらないほうが無難じゃないですか。」

    —『猫も老人も、役立たずでけっこう NHK ネコメンタリー 猫も、杓子も。』養老孟司著

    「そういう考え方をしたら、そりゃ子どもは減るに決まってますよ。そんな危ないもの誰がつくるかって。猫のほうが気が楽でしょ。子どもほど大変じゃないから。むしろ、子どもの代わりになっていますよね、今は。人間の子どもはちょっと重たいから、猫のほうが無責任でいいってことになるんでしょう。  少子化は、人々が自然に対峙する方法を忘れてしまったことに根本の原因があるんじゃないですかね。私はそう思う。なぜ忘れたか。意味で満たされた、意識の世界に住み着いているからですよ。」

    —『猫も老人も、役立たずでけっこう NHK ネコメンタリー 猫も、杓子も。』養老孟司著

    「うちの周りには自然が多いんだけれど、以前は、日本はどこでも自然があふれていました。それを、一生懸命ぶっ壊したんです。人間がやたらに増えたから、ビルやマンションをつくってね。それで近所付き合いをなくしたり。おかしな方向に進んで来ちゃったんですよ。  だから、いつかまた戻るんじゃないですか。自然が嫌だっていう人は少ないでしょう。会社の社長さんなんか、お金持ちになったら山に行ったりゴルフに行ったりしているでしょう。だったら若いうちから行けばいいんです。」

    —『猫も老人も、役立たずでけっこう NHK ネコメンタリー 猫も、杓子も。』養老孟司著

    「生物多様性というのは、本当は「眼」の話なんです。鹿でも狸でも、カブトムシでもゾウムシでも、もちろん猫も、自分の眼で見て、いろいろな生き物がいるよなあと実感するのが生物多様性だと私は思います。そういう実感のない人にとっては、単なる言葉でしかない。 DNAの理解と一緒です。  だから私は、「多様性っていうのは感覚であって、言葉じゃないんだ」といつも言っています。たとえば、アメリカは「人種のるつぼ」と言われますよね。ほんとうは、るつぼじゃなくてモザイク。イタリア人、ユダヤ人、東洋人、アフリカ系、というふうに、見ると細かく分かれている。それが多様性ですよ。人種のるつぼだというのは噓だって、ニューヨークの人自身が書いているのを読んだこともありますよ。  何年か前に東京駅でエスカレーターに乗った時、手すりベルトのところに何か書いてあったんです。ふと見たら「除菌」ですって。現代人は自分が生き物と一緒に暮らしているなんて思いもしないんでしょうかね。誰の身体の中にも体内細菌がいるんです。私の学生時代は、その数一億といわれていましたが、今は百兆いるとか。だから、その「除菌」を見た時に、「腹の中に一兆もバイ菌を持ってるくせに、何が除菌だ」って笑いましたよ。」

    —『猫も老人も、役立たずでけっこう NHK ネコメンタリー 猫も、杓子も。』養老孟司著

    「最近は歯医者さんでも、モニターにつながった顕微鏡があるから、機会があったら、自分の口の中の唾液をちょっと見せてもらうといい。繊毛のある細菌が元気に泳いでいますから。「微生物学の父」とも言われる十七世紀の博物学者、レーウェンフック(アントニ・ファン・レーウェンフック)だって、顕微鏡で自分の口の中を調べてびっくりしているんです、「生き物がいた!」って。  まあ、たいていの人は顕微鏡を覗く機会なんてそうそうありませんから、生物多様性を実感するには、外へ出るのがいちばんでしょう。虫でも動物でも植物でもいい、いろいろ見ることです。」

    —『猫も老人も、役立たずでけっこう NHK ネコメンタリー 猫も、杓子も。』養老孟司著

    「政治家なんて、そういう外の世界を全然見ずに、生物多様性という言葉を使うでしょう。だめですよ、そんなの。  だいたい、世の中みんな同じだと思っているから、多様だって言いたくなるんじゃないですかね。その昔、「人生いろいろ」って言った総理大臣がいたでしょう。あれを聞いて、「いろいろに決まっているだろ、同じ人生送っているやつがいるか」って思いましたね。」

    —『猫も老人も、役立たずでけっこう NHK ネコメンタリー 猫も、杓子も。』養老孟司著

    「ゆとり教育の名の下、「個性を伸ばす」もしくは「個性を尊重する」ことを重視する教育が行われ始めてから、ずいぶんと時間が経ちます。ゆとり教育自体は失敗に終わってしまいましたが、思えば戦後から、「個性」の連呼が始まったように思います。個性とはいったいなんでしょうかね。  私たちは眠っている間、意識を失い、目覚めるとまた意識が戻る。その時、なぜ自分が自分であると認識できるのでしょうか。それは、意識が「私は同じ私である」と認識させるからです。しかし、人は変わるものです。  たとえば、人体の細胞分子は七年でほぼ全てが新しくなると言われています。」

    —『猫も老人も、役立たずでけっこう NHK ネコメンタリー 猫も、杓子も。』養老孟司著

    「つまり、自分というものは、いつも変わり続けているとも言えるでしょう。  ところが意識は、いつまでも同じ「私」を継続させようとします。実際には変わっている「私」がいる一方で、ずっと変わらない「私」もいる。では、変わらない「私」とは何か。それはつまり、情報です。  生年月日、身長体重、家族構成、学歴など、誰もが自分に関する情報を持っていますよね。情報というものは不変です。だからいつだって、私は私であると認識するわけです。」

    —『猫も老人も、役立たずでけっこう NHK ネコメンタリー 猫も、杓子も。』養老孟司著

    「何かを知るということは、知識が増えるということではなく、実は、自分が変わるということです。ところが、そんなふうに考えている人はいないでしょう。  今時の親なら、学校に子どもを預けたら変わって帰ってくるなんて思いもしない。変わるとわかったとしても、子どもが変わってしまうような危ない所に行かせられるかと大騒ぎするでしょうね。子どもも子どもで「変わらない私」を個性だと思い込んでいます。  では、その個性とは一体なんでしょうか。私にすれば、そんなものはハッキリしています。人を見れば、みな違う顔、違う身体つきをしているでしょう。血液型だってそうです。それはまぎれもない個性ではないですか。ところが、多くの人が、個性とは心だと思っている。心が生み出す、人と違った考え方や行動を個性だと勘違いしています。つまり、意識にこそ個性があると信じている。私だけの思い、私だけの記憶なんて言いますが、そうしたものは他人にとっては意味のないものです。」

    —『猫も老人も、役立たずでけっこう NHK ネコメンタリー 猫も、杓子も。』養老孟司著

    「日本の伝統芸能で、個性というものを考えてみましょう。私の東大時代の同僚に、免疫学の権威である多田富雄先生がおりました。彼は能が好きで、高校生の頃から鼓を習っていました。たいていは、師匠の前で鼓を打つと、一言「だめ」と言われたそうです。そういう繰り返しが続き、一、二年した頃に突然「よし」と言われるそうです。それで、次の段階へ進める。この話の意味することがわかりますか。つまり、三日や四日でそっくり真似できるようなことは、個性でもなんでもないということ。十年、二十年と師匠のやる通りにやっていくと、どうしても折り合わない部分が出てきます。それを個性と呼ぶのではないでしょうか。  夫婦もそうではないですか。何十年一緒に暮らそうが、折り合わないところはあるでしょう。それが、夫婦それぞれの個性です。では、折り合っている部分をなんと呼ぶか。それが心ですよ。」

    —『猫も老人も、役立たずでけっこう NHK ネコメンタリー 猫も、杓子も。』養老孟司著

    「心に個性があると思い込んで「個性を伸ばせ」などと言っているから無茶苦茶になってしまうんです。個性というのは最初に与えられた身体です。イチローのように打ってみろ、大谷翔平のように二刀流をやってみろと言われても、普通の人はマネできないでしょう。なぜできないか。それが個性だからですよ。では、どの程度までマネできるのか。先ほど言いましたね、十年、二十年と師匠のマネをして折り合わないのが個性だと。そのくらいの時間をかけなければ、個性なんて見えてこないものなんです。  そう考えると、個性が大切だなんて一生懸命言ってみても仕方がないでしょう。まず、身体が個性であるという認識を正しく持つべきです。小学校の運動会でみんなが並んでゴールするなんていう愚かしいことをする必要はないんです。身体が違えば走る速さが違うのも当たり前。それは認めるべきなんです。」

    —『猫も老人も、役立たずでけっこう NHK ネコメンタリー 猫も、杓子も。』養老孟司著

    「私は長年、解剖に携わってきたから身体が個性だということは嫌という程わかっている。実際、一人一人ぜんぶ違っています。ところが、医学部の学生の中には「先生、この遺体は間違っています」なんて言う者もいるんですな。どこが間違っているのかと聞けば、「教科書に載っているのと違う」と。遺体のほうが間違っていると考えてしまうんです。今時の医者にはお気をつけください。病院で診てもらったら「あなた、間違っている」と言われかねませんよ。」

    —『猫も老人も、役立たずでけっこう NHK ネコメンタリー 猫も、杓子も。』養老孟司著

    「とかく、現代社会は周りの環境を同じにして、感覚を働かせないようにつくられています。オフィスビルの中なんて朝から晩まで同じでしょう。同じ気温で、同じ明るさ、雨も降らなければ、風も吹かない。そういう状況で暮らそうとするんですよ、現代人は。それが快適だ、合理的だって言うんだけれど、私はそれを信じません。  山の中でも歩いてごらんなさい。地面はでこぼこで、木の根や草があり、虫がいる。風が吹き、雨が降ればぬかるむ。小鳥や木々のざわめきなど、様々な音がし、様々なにおいもする。都市での生活は、こういう感覚を遮断しているんです。  そのような環境では、自分を非常に変えにくくなるでしょう。常に世界が同じなわけですから。私は、そういうのは楽しくないだろうなと思いますね。むしろストレスですな。頭の外に出るべきなんです。」

    —『猫も老人も、役立たずでけっこう NHK ネコメンタリー 猫も、杓子も。』養老孟司著

    「 私にしてみたら、本当に、人体くらいわからないものはありません。なんでこうなっているんだろうと思っても、そうなっているものはしょうがないだろうとしか思えないことも多い。  身体の構造って非常に複雑なものです。だから、昔のヨーロッパでは人体を「小宇宙」と言った。今の人は「小宇宙」という感覚を持っていないんじゃないですかね。それこそ、医者に行けば、身体のことが全てわかると思い込んでいませんか。検査をして、血糖値が高いとかコレステロール値がどうだとか。そんなのぜんぜん関係ないですよ。そもそも、自分の身体をどうやって動かしているかということだって、わかっていない人が九割九分じゃないですかね。」

    —『猫も老人も、役立たずでけっこう NHK ネコメンタリー 猫も、杓子も。』養老孟司著

    「今の人たちは、何でもすぐに説明してもらおうとするでしょう。「どうしてですか?  どうしたらいいですか?」って。聞かれるたびに「バカ!」って叱るんです。「そんなことは自分で考えろ!」って。そういう、何でも説明を求めたがる傾向って、メディアでとくに強いと思いますね。  たとえば、殺人事件が起こったとする。報じる側も見る側も、どうしてこうなっただのなんだのとあれこれ言うでしょう。でも本当のところは、わからない。異常なものであればあるほど理解不能でしょう。もし、わかったら私もあなたも異常な殺人犯ですよ。だから、つべこべ言うのは無意味なんです。理屈は後付けなんですから。「わかるわけないでしょう」で終わればいいのに、わかったような気になって、なんでも説明しようとする。そういうの、うるさいと思いませんか。非常識だと思いませんか。  私は解釈をあまり信用しません。「そうも考えられるよね」というところでおしまいにします。文学作品にもあるでしょう。「藪の中」や「羅生門」。事件はひとつでも、解釈は三つも四つもある。それが困るから、神様という存在があるんです。」

    —『猫も老人も、役立たずでけっこう NHK ネコメンタリー 猫も、杓子も。』養老孟司著

    研究費をもらうために文科省に提出する書類にも「有用性」について記入する欄があったんです。この有用性という言葉、言いかえれば「意味があるもの」ということですよね。今の社会は、「ああすれば、こうなる」ということで占められています。何かをする前から、結果がわかっていなければいけない。しかも、なんでも言葉で説明しようとします。  ちょっと、自分の働いている会社の中のことを考えてみてください。どうです? 意味のないもの、つまり有用じゃないものって置いてありますか。  花が飾ってあったとします。それだって「観賞用」という意味を持たせて、「癒しになる」なんて言っているでしょう。そんなふうに、とにかくなんらかの役に立つ、仕事に有用なもので満たされているじゃないですか。これは会社に限りません。我々の住んでいる世界は、すべてのものに意味がなくてはいけない世界なんです。  これは、裏返せば意味のないものは存在を許されない、片付けられてしまうということです。道端に生えている草を「雑草」と言いますよね。誰が植えたわけでもない、勝手に生えてきたものです。そこにあっても意味がないし、なんの役にも立たない。だったら、そういうものは抜いていいとなる。抜いていいどころじゃなくて、なくそうとするでしょう。  それと同じ理屈の事件が二〇一六年に起こりました。相模原の障害者施設で入所者が十九人も殺害された。あの犯人は、「人の世話になるだけで役に立たない人間の人生になんの意味があるんだ」というのが動機になっていた。もっというと、あの事件は、みんながやっている自分の生活の裏返しというか、意味のないものは必要ないという考えそのものなんです。異常な人って、すごく先鋭的に世の中を反映しているんですよね。それがわかっていても、みんな嫌だから、そういう点には触れません。そう考えると、ものすごい事件だと思いませんか。

    「これは、裏返せば意味のないものは存在を許されない、片付けられてしまうということです。道端に生えている草を「雑草」と言いますよね。誰が植えたわけでもない、勝手に生えてきたものです。そこにあっても意味がないし、なんの役にも立たない。だったら、そういうものは抜いていいとなる。抜いていいどころじゃなくて、なくそうとするでしょう。  それと同じ理屈の事件が二〇一六年に起こりました。相模原の障害者施設で入所者が十九人も殺害された。あの犯人は、「人の世話になるだけで役に立たない人間の人生になんの意味があるんだ」というのが動機になっていた。もっというと、あの事件は、みんながやっている自分の生活の裏返しというか、意味のないものは必要ないという考えそのものなんです。異常な人って、すごく先鋭的に世の中を反映しているんですよね。それがわかっていても、みんな嫌だから、そういう点には触れません。そう考えると、ものすごい事件だと思いませんか。」

    —『猫も老人も、役立たずでけっこう NHK ネコメンタリー 猫も、杓子も。』養老孟司著


    「世界は実は役に立たないもので満ちているんですよ。現代社会はそれをすっかり忘れさせてしまうんです。  学校は近代生活の基みたいなところで、教室の中に無意味なものはないし、ゴキブリも出ません。とても不健康だと思いませんか。私はそう思うし、そんなところで何時間も子どもを育てていいのかとさえ感じます。  昔は、学校の外に出たら無意味なものが山のようにあった。だから、そういうものがない聖域として、学校をつくったという理屈はよくわかります。ところが今は、学校の内も外も同じでしょう。意味のある役に立つもので満たされていて、無意味なものの存在は排除される。そんな環境にいたら、子どもだっておかしくなってしまうでしょう。だから、その反動として、「森のようちえん」やフリースクールなんかが出てきたんじゃないでしょうか。  まったく、校庭なんか舗装して何を考えているんでしょうね。あんなもの、土でいいでしょう。掘りかえしてミミズでも出てくれば楽しいし、モグラだったらもっといい。まるだって、舗装された校庭なんか歩きたくないって言いますよ。」

    —『猫も老人も、役立たずでけっこう NHK ネコメンタリー 猫も、杓子も。』養老孟司著


    「 わかりにくいですか。たいていの人は自分というのは、中身があると思っているからですな。たぶんそれは錯覚です。自分なんて動物でもありますよ。そうでしょう。なぜあるかというと、動物は帰ってくるからです。  動物には帰巣本能があるでしょう。なぜ帰ることができるかというと、今言ったような地図があって、その中に現在地を示す矢印があるからです。だからナビができるんですよ。現在地を示す矢印がないと、地図は使えないんです。」

    —『猫も老人も、役立たずでけっこう NHK ネコメンタリー 猫も、杓子も。』養老孟司著

    「だから、猫だって自分で調整してもらうしかないんです。中毒を起こすようなら食べないだろうしね。そういう意味での安心感、自分の身体に対する信頼感ってどんどんなくなってきている。脳みそと身体、どっちを信頼するかといったら、私は脳みそは信用しませんな。」

    —『猫も老人も、役立たずでけっこう NHK ネコメンタリー 猫も、杓子も。』養老孟司著

    「知ってますか。ガン細胞って誰にでもあって、日々、身体が処理しているんですよ。それをやっているのが免疫です。ガン細胞というのは、いわば異物です。免疫は体内にある異物を排除しようとするんです。  極端なことを言うと、身体の中では、毎日毎日ガン細胞が出来ては片付けられている。ガン細胞は、そうやって殺されているんです。だから、免疫力が弱ってくるとガンが発症しやすくなる。つまり、片付けている網の目をすり抜けるやつがいて、それが成長する。時々突然治ってしまう人がいますけれど、それは免疫が異物と判断して処理をするからです。」

    —『猫も老人も、役立たずでけっこう NHK ネコメンタリー 猫も、杓子も。』養老孟司著

    「それにしても、人間は何かにつけ治療をしたがりますな。ちょっと風邪をひいたぐらいで、東大病院まで出かけたりする。そんなもの、ほっときゃ治る。私は病院に行かないし血圧も測らないし血糖値も測らない。健康診断なんて昔から行ってません。医者たちは、あんなもの役に立たないってわかっている。私が現役だった頃、東大の医者たちの健診受診率はたったの四割でしたよ。  そもそも、病院に行って何を言われるかといったら、「病気です」って言われるに決まっている。壊れていないわけないでしょう、八十歳にもなって。病院に行く時は、女房が「すぐ病院行け」って言った時。行かないと機嫌が悪いから。そっちのほうがよっぽど具合が悪い。  言い訳もいろいろしてみるんですがね。私は東大で三千人の医者を育てたので、「俺が育てた医者なんて信用できるか」なんて言ってみたりもします。まあ、通用しませんな。そんな寝言は。」

    —『猫も老人も、役立たずでけっこう NHK ネコメンタリー 猫も、杓子も。』養老孟司著

    「 今、自宅でお産をする人はほとんどいないでしょう。亡くなるのだって、日本人の八割前後が病院になった。人間のふだんの生活から「生まれて死ぬ」という自然の過程が消えて、ふつうではない「非日常」になってしまっているんです。人生は、病院から出てきて病院に帰るんだから、日々の暮らしは「仮退院」ということになります。やれやれ、ですな。  最近の健康ブームもあって、老人たちは治療したら元の身体に戻ると勘違いしていますね。そんなわけないでしょう。歳をとったら病気の三つや四つ抱えているのは当たり前。車だって何年も乗ったらガタがくる。それと同じで、人間も「中古」になるんですよ。六十歳過ぎたら病気なんか治るわけない、病院にばかり行くのは無駄。  死なない人はいないんだから、過剰に不安を持っても仕方がない。そう心得てくださいな。」

    —『猫も老人も、役立たずでけっこう NHK ネコメンタリー 猫も、杓子も。』養老孟司著

    「解剖をやってきたから言えるんですが、肺が黒くない人を見たことがない。北京の大気汚染が話題になっているでしょう。 PM二・五。あんな環境にいたら、タバコを吸わない人だって、肺が真っ黒になりますよ。」

    —『猫も老人も、役立たずでけっこう NHK ネコメンタリー 猫も、杓子も。』養老孟司著

    「吸いたい人は自分で葉を育ててタバコをつくる。私は、それでいいと思う。  別に健康にいいとか悪いとかいう理由で吸ったり吸わなかったりしているわけではないですからね。気持ちがいいから吸っているだけ。だいたい、タバコに限らず、なんでもやりすぎたらアウトでしょう。運動だってやりすぎたら害が出る。お酒だってそうでしょう。「飲みすぎは身体に良くないんだから、酒飲みは酒を飲まずに飲んだつもりになれ。お茶でいいだろう」、そう言っているのと同じですよ。」

    —『猫も老人も、役立たずでけっこう NHK ネコメンタリー 猫も、杓子も。』養老孟司著

    「ヨーロッパでもアメリカでも、世の中にヒステリーが蔓延しているから、イギリスが EUを離脱したりトランプが出てきたりするわけでしょう。つまり、行き過ぎた状況になっているということです。」

    —『猫も老人も、役立たずでけっこう NHK ネコメンタリー 猫も、杓子も。』養老孟司著

    「こんなふうに、食べて寝て遊んで、ときどき仕事の邪魔をする。それが、まるの一日。要するに、必要なことやしたいことだけを、好きな時に好きなようにやっている。羨ましいですな。  私もそうできれば、苦労はない。まるを見ていると、働く気が失せますよ。「なんで俺だけ働かなきゃならんのだ」って。」

    —『猫も老人も、役立たずでけっこう NHK ネコメンタリー 猫も、杓子も。』養老孟司著

    「 人は誰でも死ぬんだから、死は、本来特別なことではないはずでしょう。でも、今は誰もが特別なことにしてしまっている。そうじゃないとわかっていればいいんですが、本当にみんな、そう思い込んでいる。  死体を見るということは現実を見るということなんです。必ずみんなが通ることであって、それを見ることができないというのは、変ですよ。それを変じゃないと言い張って、それが文明人だと言うのであれば、生まれないで死なないでくれと言うしかないでしょう。人間が必ず通るものを見ないのは不自然です。  現代人は、とかく死から目をそらそうとしますよね。それを象徴するのが派出所の看板です。「本日の交通事故、死者二名」。人の死が単なる数字に置き換えられている。そういうものを出しておけばいいという神経が私にはわからない。」

    —『猫も老人も、役立たずでけっこう NHK ネコメンタリー 猫も、杓子も。』養老孟司著

    「人間の根本には、死にたくないという思いがあります。不死願望ですな。人間の面白いところは、そういう死にたくないという思いをなんとか実現しようとすること。古くは、秦の始皇帝が万里の長城をつくったでしょう。あれだけ大きいものをつくると、死なないじゃないですか。現に今でも生きている。ピラミッドもそうでしょう。結局、人は永久になくならないものをつくりたいんだってことですよ。なぜなら、自分がいずれいなくなるから。自分をそこに投影する、というより「俺がつくったんだから、あれは俺そのものなんだ」ということなんでしょう。  人間にとっての支配というのは、まず空間におよびます。そして次は、時間にいく。空間も時間も支配して永久に生きるもの、それがまさにピラミッドです。  ピラミッドは、四辺がそれぞれ東西南北にきっちりと向いている。どっちに向いてたっていいじゃないかと思うでしょう。なぜ、そんなことにこだわったか。それは、東西南北が不変だからですよ。永久に変わらないということを証明したかったんですな。」

    —『猫も老人も、役立たずでけっこう NHK ネコメンタリー 猫も、杓子も。』養老孟司著

    「この文字というものもまた、永久に変わらないものなんです。平安時代の歌なんて、その典型でしょう。詠み人はとうの昔に死んでもういないけれど、歌は現代まで変わることなく生き続けている。文字にそういう性質があることに気がついていましたか。言葉は永久に変わらないという性質を持っているんです。だから、巨大な建造物を言葉に置き換えたんです。ところが、秦の始皇帝は何をやったかというと焚書坑儒。本を焼いて、学者は生き埋めにしてしまった。万里の長城で十分だって。そういう人もいるんです。  人によっては、「文化は永久に生きるものをつくるためにある」と説く人もいますよね。それが、行くところまで行き着いてしまった。それこそデジタルです。これは絶対に消えない。ピラミッドや万里の長城はだんだんボロけてくる。本だって、紙がダメになる。インクもかすれてくる。映画や写真も、経年劣化でフィルムが傷みます。でも、デジタルデータは、まったく劣化しません。」

    —『猫も老人も、役立たずでけっこう NHK ネコメンタリー 猫も、杓子も。』養老孟司著

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    2026年04月01日
  • 虫とゴリラ

    Posted by ブクログ

    916円

    ゴリラを研究してるゴリラ生態学者が、人間の雌よりゴリラの雄の方が共感出来るって言ってて、男女ってそれぐらい違うものだし、それを同じだと見る、女にも男の役割が出来ると思ってる方がおかしい。

    山極 寿一
    (やまぎわ じゅいち、1952年〈昭和27年〉2月21日 - )は、日本の人類学者(人類学・生態環境生物学)、霊長類学者。学位は、理学博士(京都大学・1987年)。京都大学名誉教授[2]、総合地球環境学研究所所長。日本学術振興会奨励研究員、財団法人日本モンキーセンターリサーチフェロー、京都大学霊長類研究所助手、京都大学大学院理学研究科教授、京都大学大学院理学研究科研究科長、京都大学理学部学部長、京都大学総長(第26代)、一般社団法人国立大学協会会長(第26代)、日本学術会議会長(第29代)などを歴任した。京都大学大学院理学研究科博士課程修了。専攻は人類進化学。特にゴリラの生態から、人類の起源を探究する。霊長類学の観点から現代社会の問題も論じる。著書に『森の巨人』(1983年)、『ゴリラとヒトの間』(1993年)、『家族進化論』(2012年)など。東京都出身の人類学者、霊長類学者にして、ゴリラ研究の第一人者である[3]。京都大学理学研究科教授を経て、京都大学総長に就任し、2020年9月30日をもって、任期を終え、退任した。日本学術会議では「安全保障と学術に関する検討委員会」委員を務めており、会長にも就任した。東京都出身[3]。国立市立国立第一中学校、東京都立国立高等学校を経て、京都大学理学部卒業。同大学大学院理学研究科博士課程修了、理学博士(1987年)[4]。カリソケ研究センター客員研究員、日本モンキーセンターリサーチフェロー、京都大学霊長類研究所助手、京都大学大学院理学研究科助教授、同教授を歴任。2014年7月3日に京都大学で行われた教職員による投票(意向調査)で山極が1位となり、翌日4日の学長選考会議で正式に学長に就任することが決まった[5]。 2014年10月1日より総長に就任[3]。京都大学の総長としては初の、戦後生まれの総長となった[3]。河合隼雄学芸賞選考委員[6]などを務めている。伊谷純一郎を師とし、人類進化論を専攻、ゴリラを主たる研究対象として人類の起源を探る。[要出典]病理学者で人工癌研究のパイオニアとして知られる山極勝三郎は遠縁にあたる[7]。

    「養老  日本は地形がものすごく細かいでしょう。飛行機から見るとすぐわかります。ヨーロッパから帰ってくると、なんて細かいんだって、いつも思います。日本の自然は繊細でしかも多様なんですよ。」

    —『虫とゴリラ』養老 孟司, 山極寿一著

    「虫とゴリラ」養老孟司・山極寿一(毎日文庫)
    昆虫とゴリラ。異なる種だが共通するのは「生物」であること。互いに見えないところで何かが繋がっている。ヒトも哺乳類で「生物」の一種のはずが自然を征服して支配した気になってるのではと思う。
    #読書 #読書記録 #本

    「山極  この前、「風土学」を提唱している哲学者のオギュスタン・ベルクさん( 1942 ~)と話をしていたら、日本人の情緒というのは、西洋人の感性とはだいぶ違うという話になったんです。何が違うのかというと、自然観が違う。それを土台にした宗教や哲学の影響が大きいって言うんです。例えば、西洋絵画で「遠近法」が流行した時期と、デカルト( 1596 ~ 1650)が「我思う故に我あり」という考えを提示した時期は重なっていて、遠近法というのは、自分の視点、自分というアイデンティティを固定するものの見方です。いつどこに自分が立っていて、何を見ているのか、非常に明快ですよね。      ところが、日本絵画は「主体」と「客体」の関係が曖昧で、絵巻物でも、解いていくたびにストーリーが変わり、主人公が変わり、見る側はいろんな主人公になりながら風景を眺めて、絵の中のドラマに参入していく。      日本の庭園もひとつの固定された視点から眺めるようにつくっているわけではなく、立つ場所ごとに、自然の中に没入して自然と対話をするようにできている。主体が客体の中にとけ込んでいる。それは、日本人の情緒になって、さまざまな芸術や工芸品を生み、ジャポニスムとして十九世紀末の西洋に衝撃を与えたわけです。      そういう日本人が、七十年代、あっという間に自然を壊してしまった。どうして、あの日本列島の大改造の時代が始まったのか、自然を敬う心を捨ててしまったのか、いまだにわからないって、ベルクさんが言っていましてね。じつは僕もわからないんです。」

    —『虫とゴリラ』養老 孟司, 山極寿一著

    「養老  トルコあたり、崖に穴掘って暮らしてるでしょう。カッパドキア。現代人ってあそこに戻っているんだなって思います。もう少ししたらネアンデルタールだ。いずれ洞窟に住むようになるんじゃねえか(笑)。」

    —『虫とゴリラ』養老 孟司, 山極寿一著

    「山極  虫から見ると人間ってすごい無駄が多い生き物だって思うでしょうね。人間から見ると虫は非常にメカニックな姿をしていて、そういうふうに機能的に見えるのは、生物として無駄のない動きをしているということです。哺乳類は全体的に無駄が多いですが、とりわけ人間は言葉を持って、中枢神経系を働かせることで、自然と一対一の対応をしなくても、頭の中でいろいろ考えて行動できるようになった。それでかえって、無駄がいっぱいできてしまったんじゃないかという気がします。」

    —『虫とゴリラ』養老 孟司, 山極寿一著

    「山極  そうですねえ。言葉を持つことで人間は、生物界で優位な立場を得たと思うんだけど、それ以前からも、人間は道具をはじめとして、自然との間にいろんな緩衝物をつくってきた気がするんです。それによって直接、自然と一対一の対応をせずに暮らし始めて、それが積み重なっていくうちに、自然との「会話」ができなくなった。言葉を持つ以前の人間は、いろんな生物とコミュニケーションをしていたと思うんです。      僕は小さい頃、『ドリトル先生  アフリカゆき』なんかを読んで、「鳥や動物たちと話ができるようになりたい」なんて思っていたんですよ。「動物たちは人間のように、それぞれの言葉を持っている。その言葉を学べば、ちゃんと会話ができる」って本には書いてあって、ずっとそれを信じていたんだけど、真っ赤なウソでしたね(笑)。アフリカのジャングルを実際に歩いてみて気づいたのは、「我々が言葉を持たなければ、彼らと会話ができる」ということでした。      言葉を使わない生き物との会話と、言葉を使った人間の会話の何が違うかというと、養老さんがすでに書いておられますけども、言葉を使うのは「分類する」ことですよね。名前をつけることで、本来は「違う」ものを「同じ」カテゴリーに入れる。      じつはこれ、自然界では起こり得ないことです。そもそも全部が違うものだから、お互いが違うものとしてコミュニケーションをしている。逆説的に言えば、違うからこそ、コミュニケーションをしたくなるんですよね。同じだったら、コミュニケーションを取る必要がない。そういうもので自然界は満ちているのに、人間は分類を始めて、いろんなものを省略して、違うものを「同じ」カテゴリーにどんどん入れ始めた。自然と会話ができなくなったというのは、違いがわからなくなっちゃったということでしょうね。」

    —『虫とゴリラ』養老 孟司, 山極寿一著

    「山極 ゴリラにすれば、脳を大きくしたことの負の副産物にも見えるでしょうね。逆に言えば、それが人間の非常に「人間的な部分」で、そういう無駄が、人間的な社会を生んだのかもしれません。そこがまだ突き止められていない気がします。恋愛というのは、相手がわからないから成立するものですよね。相手がわからないからコミュニケーションするのは、動物もそうなんだろうけれど、人間はそこに、繁殖とは結びつかない、恋愛という妙な接着剤をつくった。共感性を高めて、相手と一体化したい、でも一体になれないというジレンマの中で生まれたものだと思います。」

    —『虫とゴリラ』養老 孟司, 山極寿一著

    「ゴリラやチンパンジー、オランウータンも、彼らは他の個体と触れ合う時に、手を使うんです。ただ人間と違って手の「甲」を使う。というのも腕を前に伸ばすと、手の指が内側に曲がってしまうんですね。そうやって指のフックを安定させて、木の枝につかまっているわけです。人間の場合、腕を伸ばしても、手の指を自由に動かせます。枝につかまる能力の代わりに、細かな器用な手になったのは確かなんですよ。触覚を通じて、人間と人間が、あるいは人間とモノが触れ合うっていうことが、非常に多彩に起こっていたのかもしれません。それが今、養老さんがおっしゃるように、忌避されてしまうのはどうしてなんでしょうね。」

    —『虫とゴリラ』養老 孟司, 山極寿一著

    「山極  動物というのは非常にコンサバティブですから、知らない場所に行きたがらないし、基地となる場所にだけいて、基地の仲間だけと暮らそうと思うわけです。保守的であるのは、身を守るためという合理的な理由もあります。ところが、気候変動や地殻変動が影響したと思うんだけれども、類人猿の祖先や人間の祖先が、それまで暮らしていた地域から未知の場所へ出て行かなければならない事態になってきたんですね。      その中で、最も保守的なゴリラは未知の場所へは出て行かず、むしろ熱帯雨林のど真ん中で暮らすことを潔しとしました。だから逆に、非常に食性を広く持つようになったわけです。豊かな場所で、ほとんどフルーツを食べて暮らしていたゴリラは、フルーツが少なくなった時、何を食べるかっていうと、これまで食物としていなかった、硬い葉や、地上の草を食べ始めて、食料不足をしのぎました。その時、チンパンジーも生息域を広げましたが、サバンナ(草原)までは行かなかった。      その頃、人間の祖先は、ゴリラやチンパンジーの棲む森を後にして、草原へ出て行ったんです。ゴリラにしても、チンパンジーにしても、彼らはそれぞれの五感でもって確かめられる食物を採取して、自分の手で採った食物を、その場所で食べていました。その中で、人間だけが、採取した食料を別の場所に「運んで」、他者に分配するという行動を始めます。他人が運んできた食物を食べるようになった。他人が採取して運んできたものを「食べる」というのは、他人を信用する、その食物を信用するということです。これが、情報化社会の始まりであると、僕は考えています。つまり、食物が「情報化」したわけですね。」

    —『虫とゴリラ』養老 孟司, 山極寿一著

    「自らが採っていない食物を、自らが採ったかのように信用する。それがまずは、人間と、ゴリラやチンパンジーを分けた非常に大きな点だと思います。人間が森を離れることができたのは、食物のある森を離れても、食物を運べるようになったからで、人類の歴史はそこから始まったんじゃないか。」

    —『虫とゴリラ』養老 孟司, 山極寿一著

    「 例えば、人はリンゴという果物を全部、「リンゴ」という言葉でまとめることができる。感覚が中心の動物は、一個一個のリンゴは別のもので、いちいち「全部違う」と思っているんじゃないでしょうか。そのヒントのひとつが、絶対音感なんですよ。動物は絶対音感なんです。音の高さが違うと、「違う音に聞こえる」という、この問題をクリアできない。だから逆に、我々の使っている言葉は、じつはすごく変ではあるんですね。同じって言っても、「物理的には」同じって言えません。それを同じとみなすのが言葉であり、情報なんですよね。」

    —『虫とゴリラ』養老 孟司, 山極寿一著

    「ところが類人猿の場合、ゴリラやチンパンジーは、知識を蓄積しません。その時の事象に留まるだけです。「それらしき行動」が出てきても、その瞬間、真似ることはできるけれども、蓄積し、共有をして、確信が生まれるという、個々の体験が「新たな行動の変化」に結びついていくことはないですね。これがサルと人間の大きな違いだと思います。人間だけが行為を共有し、新しい創造を積み上げることができた。」

    —『虫とゴリラ』養老 孟司, 山極寿一著

    「養老  そう、それはありますけどね、やっぱり、哺乳類の本能的なものもあって、チンパンジーがそうですってね。ゴキブリが嫌いなの。山極  やっぱり、ちょろちょろ動くものは嫌いですよ。養老  動画で見たことがある。チンパンジーの背中にゴキブリが登ってきて、それを一生懸命払い除けて、「ついてるんじゃねえだろうな」って必死にやっていましたよ(笑)。山極  チンパンジーはハエも嫌がりますからね。養老  ヘビ嫌いとクモ嫌いは、明らかに分かれるんです。クモの嫌いな人はだいたいヘビが大丈夫。ヘビの嫌いな人は、クモが大丈夫。」

    —『虫とゴリラ』養老 孟司, 山極寿一著

    「山極  それは初等・中等も、高等教育も、みんなそうなんだけど、今、どんなものにも、すぐに成果を求めますね。「どんな能力がつきましたか」とか。教師の側も「成果をきちんと出してください」って言われるんだけど、「それはまだわからないですよね」って言うしかない。何十年も経って、その子がすごい立派になってるかもしれないし、大失敗をして死ぬかもしれない。それはもう、どっちにしたって「成果」なんです。それでもみんなが、成果や結果をすぐに求める。養老  それでもう、しょうがないから、いま私がやっていることは、一昨日も行ったんですけど、「虫捕り」と称して、保育園の子どもを連れて山に登って、午前中ずっと遊んでるみたいな。それでいいんですよ。以上、終わりって。山極  何かね、「目的」があるのがいいんですよね。昆虫採集でもいいし、植物採集でもいい。サルを見るのでもいいんだけど。何かひとつ目的を持って森を歩いていると、いろんなことに気がつくわけです。」

    —『虫とゴリラ』養老 孟司, 山極寿一著

    「 読解力は、国立系はほとんど百点、私大系になると早稲田・慶應ぐらいでは少し落ちるっていう、国立大系と、私大系で、違うのが面白いでしょう。官僚はとくに東大、国立系が多いわけ。だから、汚職なんかがあると、すぐそれを思い出すんです。      「わかっちゃう」というのは、逆に危ないんですね。つまり、十九人殺しの気持ち、「本当に」わかっちゃうやつは、十九人殺しになるんです。それで、さらに逆転して、私はアメリカっていう社会が、そこで初めて理解できたような気がしました。      アメリカって徹底的にいろんな背景の人が集まってきて、州議会ではなくて連邦議会になったら、そこで通用することは、「普遍的な理性」だけですよ。だから、アメリカはコンピュータが発達するんでしょう。理性を突きつめるとコンピュータになるわけだから。」

    —『虫とゴリラ』養老 孟司, 山極寿一著

    「山極  どうなんですかねえ。だから、僕はよく言うんだけど、「種の境界よりも性の境界のほうが深いんじゃないか」って。つまり、僕は、ゴリラのメスの気持ちはわからないんだけど、オスの気持ちはわかる。それで、ゴリラのことがわからないというよりも、ゴリラのメスのことがよくわからないっていう感じですね。人間の女性よりもゴリラのオスのほうがよくわかるっていう(笑)。」

    —『虫とゴリラ』養老 孟司, 山極寿一著

    「ローマやパリやロンドンにしても、遺跡は残っていますが、暮らしそのものは残っていません。京都にそれが残っているのは、家屋や道具類、庭も含めて、壊さずに残してきたっていう、あるいはそれをつないできたからですね。陶器や着物もそうでしょう。そういうモノに込められた心のようなものが、日本の中に脈々と流れてるからじゃないかなっていう気がするんです。大きな都市ではなかなか残りにくいでしょうけどね。大陸へ行きますと、中国でもインドでもヨーロッパでも、都市って「城壁」で囲まれていますよね。京都が「特別」なのはそこで、城壁で囲っていない都市なんです。城壁はもちろん、都市を守るためのものですが、本来は「結界」です。「ここから先は別だよ」というものを、京都の人は、外国の都市のような城壁じゃなくて、生活の伝統や様式の中につくってきた。あんまり例のない文化だと思いますよ。」

    —『虫とゴリラ』養老 孟司, 山極寿一著

    「それから、日本の木造建築には、結界があるんですよ。物理的な障壁ではないんだけど、「そこから先は入ってはいけない」とか、「そこから先に起こっていることは聞こえていても、聞こえていないことにしよう」とか。しかも、建物の中でもなければ外でもない、「縁側」という不思議な空間が必ず存在しています。これは、西洋の石造りの建築とは違う、日本の文化がずっと持ち続けてきた「曖昧さ」ですね。境界をあえて物理的に設けない「間の文化」なんですね。そういうものが、僕、とても重要だと思っているんですよ。」

    —『虫とゴリラ』養老 孟司, 山極寿一著

    「養老  そのわからなさっていうのは、もう基本的な了解みたいなものなんでしょうね。それから「奇跡」っていうのもあります。奇跡ぐらい、日本人が理解しづらいものはない。ところが、キリスト教の勘どころ、核心は奇跡ですからね、結局。山極  復活なんて「あり得ない」で済ませそうですよね。養老  映画の中でも、ラザロが教会に入っていくと、音楽が流れていて、今日は関係者だけだからダメって、追い出されるんですよ。追い出されたラザロが通りに出ると、なんと音楽が消えていって……ラザロについて行ってしまう、音楽が(笑)。      そういうシーンって、日本人はまず考えないでしょうね。彼らの考える「奇跡」って、なんだか、そういうものなんでしょう。ここでもうひとつ、思ったのは、日本人の場合、演奏する人とか、作曲家とかね、そういうほうが問題になって、聴いてるほうは主人公じゃないんです。だけど、この場合、聴いてるほうがいなくなった時に、音楽が一緒に出て行っちゃう、ついて行っちゃうんですね。」

    —『虫とゴリラ』養老 孟司, 山極寿一著

    「養老  だって、我々はもう客観的な世界に慣れちゃってるけど、あれは神の視線ですよ、客観視してるんですよ。何でも統計でやってますけどね、統計的に見ている世界って、神の世界です、上から見てるんだもの。」

    —『虫とゴリラ』養老 孟司, 山極寿一著

    「養老  いろいろ感覚の話をしてきましたけど。もうひとつね、余計なことをつけ加えると、私、「ヒゲ」をずっと調べていたんです。あれ、ゴリラまであって、人間になるとなくなるんですね。動物のヒゲって、じつは「感覚器」なんですよ。根元に相当数の神経が入っていて、ものを感じているんです。」

    —『虫とゴリラ』養老 孟司, 山極寿一著

    「つまり、もうさっきから話してるように、都会っていうのは人の住む場所じゃない。だとすれば、企業に所属しながら、何らかの仕事をしていくためには、都会にある程度の日数、いる必要があるんだとしたら、それは仕方がない。だけど、都会とは違う場所に、自分が生きる場所をもうひとつ、ふたつ、つくったらいいと。しかも、それこそ IC T(情報通信技術)を使えば、連絡はすぐ取れるわけですから、人の移動にしたがって情報っていうのはきちんと共有できるはず。そうすると、新しい、しかも面白いコミュニティっていうのができるはずだと思うんですよ。それを僕は「二重生活のススメ」、養老さんは「参勤交代」って言っているわけですよね。それはね、制度上のちょっとした改正でできるはず。」

    —『虫とゴリラ』養老 孟司, 山極寿一著

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    2026年04月06日
  • 超バカの壁

    Posted by ブクログ

    744円

    養老孟司ランキング3位

    養老孟司の思想を幾何学で表すと〇だな。

    こんな天災だらけの環境で築き上げられた日本の建築技術って本当に凄いなといつも思う。

    確かにお前サルみたいだよなって言われて怒る人って動物見下してる嫌な人だよね。だからフェミニストは性格が悪いだけだよ。

    「未成年のタレントが酒を飲んで暴れたことがニュースになりました。それが原因で彼は無期限謹慎の処分を受けたそうです。  昔は若い者が酒を飲んで暴れるぐらい当たり前でした。何度もやるのは問題でしょうが、破目をはずした奴をきちんと叱る、それでさらっと忘れてあげるのが普通の世間の常識でした。  注意をしたら若い奴は逆ギレする、若い奴は短絡的になっている、暴力的になっているとよく言われます。しかし実際のところはどうなのでしょうか。昔と比べて今の若者に本当にそういう傾向があるのかどうかは実はよくわからないはずです。なぜなら統計的に本当に暴力的な若者が増えたかどうかについて調べるのは難しい。単純に昔との比較はできません。」

    —『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著

    「言いかえれば若い人が自由にフリーターやニートになれるような国になったということです。昔は就職せざるを得なかったですし、こんなにだれもが大学に行けるわけではなかったのですから。  中学を卒業すれば「金の卵」と言われた時代もありました。中学、高校を出れば引く手あまただから、若い人はいわば騙されて就職しました。私の若いころはそういう時代だったから、フリーターやニートが発生する余地がなかっただけです。」

    —『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著

    「今の大人はよくお説教めかしてこんなことを言います。「昔のおれたちは労働というものをきちんととらえていた。大人にならなくてはいけないとわかっていた。今の若い奴らは、そこがわかっていないから駄目なんだ」  しかし落語にもたくさんフリーターもどき、ニートもどきは出てきます。夏目漱石はそういう人を「高等遊民」と称しました。私も、本当はそうありたかった。でもそれを諦めて今に至ったということです。」

    —『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著

    「エコノミストの日下公人さんからこんな話を聞いたことがあります。戦前は旅館に泊まっている客を巡査が見回りに来た。そこで宿帳の職業欄に「無職」と書く客がいるのを見ると巡査は「きょうは客種がいいな」と言っていたそうです。今ならば無職は怪しまれるところですが、当時は働かなくても食べられるような人は地主のような大金持ちだというのが常識だったからです。」

    —『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著

    「仕事というのは、社会に空いた穴です。道に穴が空いていた。そのまま放っておくとみんなが転んで困るから、そこを埋めてみる。ともかく目の前の穴を埋める。それが仕事というものであって、自分に合った穴が空いているはずだなんて、ふざけたことを考えるんじゃない、と言いたくなります。  仕事は自分に合っていなくて当たり前です。私は長年解剖をやっていました。その頃の仕事には、死体を引き取り、研究室で解剖し、それをお骨にして遺族に返すまで全部含まれています。それのどこが私に合った仕事なのでしょうか。そんなことに合っている人間、生まれ付き解剖向きの人間なんているはずがありません。  そうではなくて、解剖という仕事が社会に必要である。ともかくそういう穴がある。だからそれを埋めたということです。何でこんなしんどい、辛気臭いことをやらなきゃいけないのかと思うこともあるけれど、それをやっていれば給料をもらえた。それは社会が大学を通して給料を私にくれたわけです。」

    —『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著

    「生きている患者さんを診なくていいというのも、解剖に向かった大きな理由です。一番助かったのは、もうこれ以上患者が死なないということ。その点だけは絶対安心でした。人殺しをする心配がないからです。しかし患者さんを診るという行為から逃げ出しても、遺族の面倒だとか何とか実はもっと大変なことがありました。  社会、仕事というのはこういうものです。いいところもあれば、悪いところもある。患者の面倒の代わりに遺族の面倒を見る。全部合わせてゼロになればよしとする。  あとは目の前の穴を埋めていれば給料をくれる。仕事とはそもそもそういうものだと思っていれば、「自分に合った仕事」などという馬鹿な考え方をする必要もないはずです。 NHKの「プロジェクト X」に登場するサラリーマンも、入社当初から大志を抱いていた人ばかりではないでしょう。」

    —『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著

    「最近は、穴を埋めるのではなく、地面の上に余計な山を作ることが仕事だと思っている人が多い。社会が必要としているかどうかという視点がないからです。余計な橋や建物を作るのはまさにそういう余計な山を作るような仕事です。もしかすると、本人は穴を埋めているつもりでも実は山を作っているだけということも多いのかもしれません。  しかし実は穴を埋めたほうが、山を作るより楽です。労力がかかりません。  普通の人はそう思っていたほうがいいのではないかと思います。俺が埋めた分だけは、世の中が平らになったと。平らになったということは、要するに、歩きやすいということです。山というのはしばしば邪魔になります。見通しが悪くなる。別の言い方をすれば仕事はおまえのためにあるわけじゃなくて、社会の側にあるんだろうということです。」

    —『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著

    「向き不向きだけでいえば、私は仕事に向いていないとずっと思ってきました。仕事よりも虫取りに向いていると今でも思っています。虫取りをしている間、自分で全然違和感がない。ただ、そればかりやっていても食っていけないということはわかっています。  向いている虫取りをするためには、どうすべきかと考える。すると、財産も何もないし、とりあえず働くしかない。だから仕事には向いていないと思うけど、やめろと言われるまではやっていていいのではないかと思っているのです。  本気で自分の仕事は天職だと思っている人はめったにいません。仮に虫取りが向いていても、それが仕事になっていいかというと、そうでもないでしょう。もしも虫取りが仕事になるとしてそれが嬉しいかといえばうっかりすると重荷になってしまうかもしれない。楽しんでいられることというのは、ある程度無責任だからこそなのです。」

    —『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著

    「今では世襲というと血縁があるというだけでボンクラに継がせるというイメージが強いようですが、そうではありません。築いてきた看板をだれに継がせるのか。そこには知恵が必要になるわけです。」

    —『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著

    「 江戸時代には五人組という制度がありました。これも今の人は封建的だとか、圧政だと捉えているかもしれません。しかし実は庶民はそれで良かったのです。どうしようもない人は、その村でローカルに面倒を見ていた。ともかく生きる権利ぐらいは確保してやるということにしていました。日本人は基本的にはそういう慣習を持っていたのです。  結局、外へ出したら迷惑がかかるから内輪で何とかしていた。自分のところで使えない人が外で使えるわけがありません。今でも日本の会社というのは、そういう人を必ずある程度抱えています。給料を貰っているけれど、実際はニートみたいな社員です。勤めているふりをしているだけ、というような人です。  東京大学でもそうでした。東京大学という看板には、その下に何人か、ただぶら下がっているだけで食っている人がいます。医学部でも下手に外に出すと問題になるなあという人がいました。働かないけれども問題さえ起さなければいいや、というような人。こういう人を下手に放り出すとかえっていろいろな問題が起こる。結局、そういうことを全部きれいにしようとすると逆に大変になっていく可能性もあるのです。  怠け者をかばうのか、と真面目な人は怒るかもしれません。でもアリの集団のなかで全体の二割しか働いていないとして、その二割だけで集団を作るとどうなるか。するとまたそのなかの二割しか働かなくなるということはよく知られています。  これがシステムの持つ基本的な性質なのです(システムという言葉については後でもう少し詳しく述べますが、ここでは社会全体の仕組みのことだと思ってください)。余剰人員を全部合理化しようとしてもあまり意味がありません。」

    —『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著

    「 そもそも私が育ったころと比べたら今の主婦はなんと暇なことかと思います。そう考えたらニートみたいな主婦がたくさんいます。  ニートや社内ニートに腹を立てたり彼らを放り出したりするよりは、そういう人が働かないから自分がちょっと働くだけで重宝されると思っておいたほうがいいのです。そう考えれば周囲にどんどんニートになってくれ、フリーターをやってくれと言いたくなるかもしれません。まさに努力さえすれば出世できるという社会になっている。  その点においてニートに感謝すればいい。彼らは初めから脱落してくれている。自分の価値を上げてくれているということです。それを働いているほうが怒ってはいけない。」

    —『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著

    「何かになりたいのならば、やってみなければ駄目ですし、あきらめた段階で駄目になります。でも、あきらめるのは別に悪いことではありません。向き不向きは他人のほうがよく見えていることがあるというのは憶えておいたほうがいいと思います。「合わないと思うんですけど、やめてもいいでしょうか」と聞いてみていいのです。」

    —『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著

    「日本人が「私」という言葉を「自己」という意味にしたのは明治以降です。そこで日本の「私」と西洋の「個人」が混同されてしまったのです。英語でいうプライバシー(私事)とインディビジュアル(個人)というまったく別の言葉が日本語では「私」という同じ言葉で表されるようになったのです。  昔の日本での公私の別というのは、それこそ「公」は社会であって「私」とは「家」のことでした。もっと簡単に言えば、「公」というのは天皇家のことでした。天皇家と「俺の家」が「公」と「私」だったのです。その「私」という言葉に明治以降は西洋の「個人」という意味も加えてしまった。それで混乱が生じた。  実際にその言葉の定義通りに何もかもが西洋流になれば別に問題はなかったのです。しかし、どれだけ「私」とは「個人」のことだと国語政策で、言葉の上で定義したところで世間なんてそういうことでは動きません。言葉をごまかしたって社会がそのとおりに変わるわけではないからです。それで、「私」の問題が尾を引いている。  日本人が「自分とは何か」というようなことで一々悩む必要はないのです。本来はそんなことは意識しなくてもわかっているはずです。  仏教は「無我」の必要性を説いてきました。それは、自分がどうだなどと無駄なことを考える暇があったら、他のことでも考えろということです。」

    —『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著

    「『バカの壁』で、テロや戦争がなくならない理由は一元論であると書きました。自分の頭の中に「バカの壁」を築き、その向こう側のことなど想像もしない。起きている自分の意識だけが世界のすべてだと思ってしまう。そうした考え方が悪い形で出たものが、テロや戦争であるということです。」

    —『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著

    「保守的というのは実はそういうことなのです。日々平穏というのは日常どおりのことをやっていて何も起こらないということです。それが実は予防ということです。  それは現代の普通の人の考え方とは違うかもしれません。多くの人は社会が進歩するというのは、どんどん変わっていくということだと捉えがちです。  でも、そうではなくて社会が本当に進歩するというのは、どんどん変化するのではなく日々平穏になっていくことなのではないでしょうか。つまり、我々が今防げない危険をだんだん封じ込めていけるようになることが進歩しているということになる。」

    —『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著

    「 現実に適応しているということは、無駄なことを好まないということです。女性で虫を集めている人はほとんどいません。虫好きの世界は男専科です。虫に限らず、コレクターというのはそもそも基本的に男の世界です。  マッチの箱とか、ラベルとか、切手とか、余計なものを集めるのは男が圧倒的に多い。女性は集めるにしても実用品中心です。フィリピンのイメルダ・マルコス大統領夫人は靴を山ほど集めていました。それも要するに実用品です。使い終わったものが残っているだけ。買い込みすぎて結果的に実用にならなかっただけです。」

    —『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著

    「もしも女性の方が社会的に低い評価を受けるとすれば、それはそういう安定性を低く評価する文化があるからでしょう。女は頑固だ、というときには明らかに安定性を悪く言っている。しかし私はむしろ女性の安定性を高く評価すべきだと思っています。  もちろんこの安定性には欠点もあります。安定しているのはあくまでも自分です。ということは他人から見れば自分勝手だということにもなる。社会性が低いとも思われる。あくまでも個体としての安定性を持っているわけですから、そういう人とはつき合いづらいと思われるでしょう。」

    —『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著

    「政治家というのは基本的には男性的な職業です。そのなかでも小泉首相は極端な人ですから、ものすごく男性的だと言ってもいいかもしれません。  政治家は選挙中に子供を作っていることが多いそうです。それは要するにギャンブル性が高い行為に興奮しているからです。横山ノック前大阪府知事が選挙中に強制わいせつ事件を起こしたのもその意味ではわかります。選挙とはああいうものなのです。いいこととは言いませんが。  選挙はお祭りだといいますが、まさにお祭りの夜の男女みたいになっているのです。お祭りの夜は非日常的な頭になって興奮状態にある。  政治家に女性問題がつきものになるのもそれが理由です。それを昔は格好よく「英雄色を好む」と言っていたわけです。権力を追求するという行為自体がテストステロンという男性ホルモンの作用ではないかという気がします。多少の例外はあるにせよ、女性はあまり政治に関心を持たないでしょう。昔から、女は政治にあまりかかわっていない。その原因を社会構造や差別に結びつけるのはフェミニズムの発想で、実際にはおそらく関係ありません。」

    —『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著

    「女性と同様、動物も頑固です。同じことしかしない。あいつらの習慣を変えさせるのは容易なことではありません。鹿児島で捨ててきた飼い犬が北海道まで追っかけてきたという類の話はよく聞きます。忠実といえばそれまでですが、随分頑固なやつらだともいえます。こいつと住むと決めたら絶対に追ってくるのですから。」

    —『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著

    「世界で最初の公開の解剖がイタリアのパドバで行われました。このとき解剖された二体の遺体はいずれも女性でした。その理由は「より動物に近いから」というものでした。念のために申し上げておきますが、これを言ったのは私ではなく、あくまでも十四世紀の学者ですからね。今そんなことを言ったら大変なことになるくらいはわかります。  別に動物に近いということは悪いことではありません。フェミニストの方は怒るでしょうが、それは動物に対して偏見があるからです。動物差別主義者といってもいい。  実はこれは身体に対する偏見と言いかえてもいい。要するに脳みそが優位だということと、意識の世界が優位だということを勝手に決めているからそういう偏見を持つようになる。」

    —『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著

    「本当のことをいえば人間の社会でも同じことができる。今は必要がないからやらないだけで、女性だらけのアマゾネスの国はできる。逆に男だけの部落というのは出来ない。だから空想の話としても聞いたことがない。そもそも気持ち悪い。  一応男性のほうのいい点をいえば男はロマンチックになります。女性が現実主義ですから、それに比べればそうなる。悪くいうと、女は近視眼的だとなる。哲学者のショーペンハウエルは徹底的に女の悪口を書きました。「芸術は長く人生は短し」という有名な言葉をもじって、「髪長ければ知恵短し」と書き残しているほどです。  その原因のひとつは母親と仲が悪かったからです。彼のお母さんは変わった人で「同じ家から天才が二人出るはずがない」という理由で息子をたたき出したという伝説があるくらいです。彼女の言い分は、「この家からはすでに自分という天才が出ている。もう一人天才が出るわけがない。だから出て行け」という無茶苦茶な論法です。そんなこともあってショーペンハウエルは女嫌いになって、下宿のおばさんを階段から突き落としてけがをさせるという問題まで起こしました。」

    —『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著

    「子供を大事にするというのはどういうことか。それは「手入れ」の問題だと思います。  自然のものというのは、根本的にはこっちが向こうの仕組みを全部理解しているわけではありません。車の修理ならば全部どうすればいいかわかりますが、自然の場合はそうはいかないのです。  だから何か都合が悪いことがあれば相手の反応を見ながら手入れしていくしかない。相手の反応を見ながら手入れしていくというのは、非常に手間のかかることです。  お母さんがうるさいのはなぜか。毎日のように飽きずに、ああしちゃいけません、こうしちゃいけません、こうしなさい、ああしなさいと言い続ける。子供とはそうやって毎日手をかけていかなくてはいけないものだからです。  子供というのは丈夫なところもあるけれども、弱い点についてはものすごく弱い。それは小児科の医者がよく知っていることですが、子供の病気は足が早い。熱がちょっと出たなと思ったら死んでしまうというふうに急激に容体が変化することも多い。」

    —『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著

    「旅行でもきちんとプランを立てて、そのとおりに進んだと言って喜んでいる人がいます。私はそんな旅行はつまらないなと思う。別に時刻表マニアの人をいけないといいたいわけではありません。人の好みはいろいろで構わないのです。自由です。しかし世の中の原則が「ああすればこうなる」式に支配されてしまうのは絶対におかしい。  もちろん、皆が意味不明、予測不可能なことばかりしたら世の中は回りません。旅行も、お金も持たず、時刻表も読めずでは成り立たない。「ああすればこうなる」式でやる人がたくさんいないと世の中は回りません。  でもその原則が通じるのは実は思っているよりも限られた範囲だと知っておいたほうがいいのです。これが第一原理になるとまずい。  それは暗黙のうちに原理主義につながります。だから常に意識的に気をつけておかなくてはいけない。それで私はこのことをいつも言っているのです。」

    —『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著

    「「風が吹けば桶屋がもうかる」ではないですが、「ああすればこうなる」式の蔓延が少子化につながっているのです。子供はああしてもこうなりません。どんなに一生懸命働いても米が不作ということはあります。労働に対価が見合わないといってサラリーマンならば怒って会社を訴えることもできるけれど、農家はお天道様を訴えるわけにはいきません。」

    —『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著

    「都市化はいじめ問題の原因にもなっています。いじめは、今に始まったものではありません。よくいうのは今は陰湿でひどくて自殺者も出るからよくない、昔はもっと陽性だったということです。でもそれは違います。昔は逃げ場があったということです。  要するに人間が生きるためにやらなくてはいけないことが二つに分かれていたのです。対自然と対人間の二つの世界があった。  対人間世界が嫌ならば自然のほうに逃げるという手があった。仮に勉強が駄目だったり、運動ができなかったりしても、魚取りや虫取りが得意だとかそういう些細なことがきっかけになって、いじめっ子だったはずの子供が面倒を見てくれるかもしれない。  そういう世界が半分になってしまったのです。つまり対人間世界だけになってしまった。対人間世界、対自然世界、それぞれにプラス面とマイナス面があります。いじめは対人間世界のマイナス面の一例でしょう。対自然の世界がなくなるということは、対人間世界のマイナス面が相対的に拡大することになります。かつては世界の四分の一だったものが二分の一になってしまうからです。」

    —『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著

    「 ある女性が中学生のときにいじめられたいきさつを書いた本を読むと、その中に出てこない要素があることに気づきました。それは花鳥風月です。天気や花、季節の話が出てこない。いじめられている当人の目が自然に向いていないということがよくわかります。彼女にも世界が半分しかないから、いじめが相対的に重くなって当たり前です。  もちろん自然にもマイナス面があります。洪水に遭ったとか、雷が怖かったとか、そういうことは自然のマイナス面でしょう。プラス面は晴れた日に外に行けばわかる。  同じように対人間の世界にもプラス面とマイナス面がある。先生に褒められた、親に褒められた、お小遣いをもらったというのはわかりやすい対人間世界のプラスです。それから先生に怒られた、親に殴られた、友達にいじめられたというのは対人間世界のマイナスです。そんなふうに世界は四つあったのです。  その本には、先生が何を言った、友達が何を言った、というような人間のことは嫌というほど書いてありました。しかしその日が雨だったのか、風が吹いたのか、月夜だったのか闇夜だったのかがわからない。こういう世界では当然いじめは深刻になるのです。」

    —『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著

    「こういう子供のいじめとは別に大人でもいじめられる人はいます。私の知り合いでも大人になってもそれで悩んでいる人がいました。彼は今は大学教授ですが、かつてはかなりいじめられたものです。その理由は傍目にはわかりやすかった。私ですらいびりたくなる人だったからです。それであるとき、彼に「いじめられるでしょう」と言ったら、案の定「いじめられるんですよ」と答えた。そのいじめのせいで彼は勤務先の大学から出て行くことになったくらいです。  この場合、彼自身にいじめを受けやすい癖がありました。ちょっと鈍感なところがあるのです。子供のいじめとは異なり、単に弱いというようなことではなくて、他人をいらいらさせるところがあるからいじめられる。それに本人は気がついていないのです。  それでも本人が強ければいじめられないのですが、弱いからいじめられる。その点においては人につけ込むすきを与えているのです。そういうすきがあったら、他人はいじめてくるものです。  それをなぜ防御できないかといえば、それも見ているとわかります。いじめられるタイプは自分の筋でしか物事を理解していません。必ず「なぜ私ばかりがいろいろ言われるの」と思ってしまうのです。それは相手の嗜虐性、サド性を誘発する性質を自分が持っているということでしょう。」

    —『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著

    「 たとえば、その人の特徴は、相手が関心を持っているかどうかにかかわりなくしゃべるということでした。しかも、ある種のしゃべりのプロだから非常にきちんと長くしゃべる。これがまずい。そのときに相手の反応を見ていないのです。自己中心的なのです。そのうえ決して強面ではありません。そういう人は大学でもたちまちいびられます。  自己中心的にしゃべり続けるということは、ある意味では相手を無視しているのです。それは相手からみれば、ある意味では、潜在的に自分の方が被害者になります。だから反撃として加害行為に出て、その部分だけを見るといじめになるわけです。こういう流れについて自覚のない人がいじめられっ子なのです。」

    —『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著

    「中国の首相もそんなことがわかっていないほど馬鹿ではないと思います。反日は政策の一環としてやっているわけです。中国共産党というのは結局革命で、武力で天下をとった。正当性は腕力にしかないというのが彼らの根本にあるわけで、その点には十分注意する必要があります。  むしろ北京政府の正当性とは何かということについては、日本政府は絶えず意地悪く尋ねてみるべきでしょう。直接そう聞かなくて回りくどい言い方でもいいのです。新しく誕生した中国共産党だと主張しているけれど、それならばなぜ清朝の歴代の皇帝が住んでいた紫禁城に幹部が巣くっているのか聞いてみればいいのです。」

    —『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著

    「東京外国語大学の学長をやっていた中国の専門家、中嶋嶺雄さんにこんな話を聞いたことがあります。五十年ぐらい前の時点でも中国には自分の村から一歩も出たことがない人が人口の半分くらいいた。逆にいうと、中国の村は、そうやっていても生きていけるところだった。それが今、近代化で壊れていっているのではないかというお話でした。  壊れつつあるとはいえ、まだ成り立っているならば、中国は相変わらず、毛沢東が言った通り農民の世界です。そうすると、今日本にいろいろと言っているのはごく限られた人たちだということになる。  中国の問題は常に彼らの内政問題です。こちらからすれば、中央政府、つまり中国人の脳みそはがちゃがちゃ言っているけれども、身体に相当している部分、農村の人たちのことは何も見えてこない。中国が変化していくときは、内政問題として変化していく。北京政府なんて鶏のとさかであって鶏ではないと思っていればいいのです。」

    —『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著

    「ただし中国の言っていることに正当性がないということと、こちらが潔白であるかどうかは別の話です。人間がよく陥るのは、自分が正しくないといられないという過ちです。要するに自分が負い目を感じていたくない。自分が潔白でありたいというのが、結構日本人に根強い感覚です。  初めから人間は罪を背負っているものである、気がついていなくても何らかの罪を背負っている、ということを意識していない。腹に一物もないということは、いいことだと思っている人が多い。そういう後ろめたさのない政治家は怖い。  その後ろめたさとずっと暮らしていく、つき合っていくというのが大人なのです。」

    —『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著

    「経済の世界というのは基本的に脳の中にそっくりです。耳から入った信号も、目から入った信号も、脳の中では同じになってしまう。それは当たり前だと思うかもしれませんが、実は極めて人間的な機能です。動物はそういう機能をほとんど持っていません。さまざまな感覚を同じにしない。感覚を区別して「違う」とする機能しか持っていない。だから動物は絶対音感の持ち主なのです。  人間は脳内で何でも金に変えられる。一円という単位は結局神経細胞の興奮と同じです。変えられるというのは同じにするということです。一生懸命働いて稼いだ月給とパソコン一台がイコールである、となる。とても一カ月の労働とパソコン一台が引き合うとは思えないということがあるでしょう。動物ならば、その両者を同じだとは思いません。」

    —『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著

    「私も金に恨みは数々あります。母親の借金で、いろいろな人にさんざん嫌みを言われたことがあります。私が大学の教養学部の学生ぐらいのときに騒動が起きました。  母親が保証人になった相手が逃げてしまったのです。借金だけが残りました。  そこで、母親のかわりに謝りに行ったりするわけです。仕方がない、母親が返せないなら息子が働いて返せという話になる。  でも私は金を貸せるのはそっちに余裕があるからだろうと思っていた。若いときは自分の通帳に金が残っているとだれか困っているんじゃないかといつも思っていたものです。政府は必要な額しかお金は刷っていないはずだから、俺のところに金が余っているということは、どこかに足りないところができるはずだ、と考えていたのです。  皆がそう思っていれば、年寄りが無駄に金を郵便貯金に貯めこんでそれが回り回って、要らない橋や道路になるというような事態にはならなかったかもしれません。  入っただけの金を使っていればいい。私はこういう考え方でした。だから結婚した直後、貯金がないと聞いて、女房は呆れていたのです。」

    —『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著

    「「金で買えないものはない」ということと、「金がすべてである」ということは似ているようで実はちょっと違います。そこはよく混同されるところです。「金がすべてである」という考え方に立つと、自分の行動が金に規定されてしまいます。行動の基準が幾ら儲かるかということになる。すると虫とりなんか効率が悪いから馬鹿らしくてやってられないということです。  その分の時間で稼いだお金で標本を買えばいいかというと、そうはいかない。そんなものは楽しみではなくて、買った標本には何もついてこない。それこそヒルもついていなければ、風も日光もそのときのにおいも、そばにいたやつの顔も何も入ってこない。そういう標本は死んだ標本です。記憶に残らない。最終的にやる作業は、顕微鏡で真剣に見ることだという点では同じでも、見る側の気分が全然違う。  金で集めるタイプのコレクターは面白い虫をいっぱい持っています。しかしそれは持っているというだけで、貯金通帳の金と同じです。貯金通帳に入っている金というのは、使ったらこうだと想像する楽しみがあるだけです。お金を使う権利を持っているというだけの話です。」

    —『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著

    「「金で買えないものはない」といっている人よりは、それ以外を知っている人のほうが現実は広い。金で買えるものはいろいろあるけれども、金で買えないものもあると思っていたほうがいいのです。  そういうものを知っているほうが面白いということです。人間は金以外の動機で動くものなのに、ほとんどの人はそうではないと思っている。  金とは単なる権利だということがわかっていないからです。金でヤンキースを買うことはできるけれども、ヤンキースの四番になることはなかなか出来ません。球団を買って無理に四番に座ったら野球にならない。」

    —『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著

    「嫌みな言い方ですが、潤沢な研究費があってした仕事は、研究費がした仕事であって、おまえがした仕事ではないだろうということです。  ほぼ同程度の能力なら、金を与えたやつのほうがいい仕事をするに決まっている。そうなると金で研究はある程度買えることになる。すると買えない研究とは何かという問題に突き当たる。  別の言い方をすれば、本当の価値とは何かという問いにぶつかるはずです。お前しか生み出すことができないものは何だということです。  こういう疑問は、人間は何のために生きるのかということと直結しています。自分の行為が金になるとかならないというのは、一種の偶然に左右されます。その時々の状況に左右される。それはだれでもわかっている。」

    —『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著

    「 学問がすべてだと言っているのと、お金がすべてだと言っているのは同じです。「何々がすべて」という考え方は大方怪しいと思っておいたほうがいい。愛がすべてというのも同じようなものです。この手の言い方こそが一元論から来ているものです。お金がすべてなのではありません。「俺にとってはお金が大事だ」と言っているだけのことです。」

    —『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著

    「もちろん他人がケアをしてあげたら、自分で気づくよりも早く治るということはあるのかもしれません。しかし経験からいうと、他人にケアしてもらうより自分で考えなければ役に立たないんじゃないかという気がするのです。心理学者の河合隼雄さんは、「相談を聞くといっても、話を聞くだけですよ」と言います。河合さんはあくまでも相手が自分で発見する手伝いをするだけだというのです。  そういう手伝いは河合さんのような相当なキャリアの持ち主だから出来るわけで、なかなか他人の心の傷のケアなんて簡単にはできません。下手に立ち入り過ぎると逆効果になるのが落ちです。フロイトが一番警戒していたのは、女性の患者さん相手に恋愛感情が成立してしまうことでした。それで結果が良くなることもありますが、悪くなることも十分にあり得ます。  結局、心の傷というものは自分で治すのが一番なのです。それを最近は何か他人が癒せるかのように思ってしまいがちです。だから心理療法士やカウンセラーになりたがる若い人が多いのでしょう。」

    —『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著

    「心のケアは、もちろん深刻な人については施す必要があります。しかし昨今は、余計な人まで気にしてしまっている気がします。甘ったれるんじゃない、と思います。  私自身のケースでいえば、トラウマのようなものがあったからといってひどい目に遭ったという話ではないわけです。もちろん損はしたかもしれませんが、マイナスしかなかったはずがない。もしかすると、非社交的になったことで内省的だけど物を考えるようになったということもあるかもしれません。ただ、得したところについては自分では当たり前だと思って気づかないのです。」

    —『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著

    「仮に戦争よりも阪神淡路大震災のときの方が被害者の心の傷が大きかったとしたら、そういう伝統的な考え方が変わってきたのかもしれません。それはつまり都市化が進んだことと関係があります。都市の人間は、物事を人のせいにしなくてはおさまらないものなのです。都市は人間が作ったものですから、そこで具合が悪いことが起これば、だれか他の人間がそれをやっているという結論になる。  日本人は水に流すという知恵を忘れてきたようです。段々、日本人はかつての日本人ではなくなってきている。  もともと日本人は世界でもっともそういう災害に対して強い人たちだったはずです。なぜならば、歴史上記録にあるマグニチュード六以上の地震の一割が日本で起こっていて、噴火の二割が日本で起こっているのです。その日本の陸地面積は世界の四百分の一にすぎません。〇・二五パーセントしかない陸地の上で世界的な大災害の一割、二割が起こっているということは、かなりひどい災害国家なのです。そこでずっと生きてきたわけですから、本来災害に対する耐性は世界一だった。」

    —『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著

    「人間が無意識にフェロモンなどの影響を受けているということが知られるようになったのは比較的最近のことです。でも昔からそういうことは事象としては知られていました。たとえば女学校の寄宿舎で、生徒の生理の周期が一致してしまうという現象です。それは互いに口に出していなくても感じていたとしか思えない。おそらく無意識に匂いを感じ取った結果だと考えられます。  動物でも同じようなことがあります。例えば、妊娠一日目、二日目のハツカネズミのところに、そのおなかの子の親ではない雄を入れると流産する。雄が何かしたわけでもないのに、それでも前の雄の子供を流してしまう。これは新しい雄のフェロモンのせいだと考えられています。その証拠にフェロモンを感じ取る鼻中隔にある嗅覚器を働かなくすると流産はしません。」

    —『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著

    「極端な言い方をすれば年をとっても働いていいのは、個人で働いている人です。人間国宝が百歳になって働いていてもだれも文句は言いません。物を相手にしていれば他人に迷惑はかけないからです。  もしも一生働きたいというのならば、そういう仕事を考えるか、技術を身につけるしかありません。私の母親は九十歳を過ぎても医者をやっていました。  何と危険な、と思われるかもしれません。しかし実は年を取ってからは医療というよりも顔見知りの患者の話し相手、まさに心の傷の癒し相手みたいなものでした。福祉事業に近い仕事です。」

    —『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著

    「そういう立場でなければ言論の自由なんて成り立ちません。私はオープンに書いているのですから、向こうがオープンな場で反論すればオープンに返事をすることもあり得るでしょう。しかしオープンに言っていることに手紙という形でプライベートで反論してくるのは変だと思うのです。」

    —『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著

    「臓器移植の是非という問題は本来は医師会が決めていくべきことなのです。倫理が行動の規則だとしたら、職業倫理というのはある種のマニュアルです。  私が死体は生きている人と同じだろうと言ったときに、医学部の先生で、本気で悩んでいた人は助かったと思います。もちろんそんなことを考えていない人は何も感じなかったでしょうが。原則を持つ、職業倫理を持つというのは大事なことなのです。」

    —『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著

    「しかし、いずれにせよ、こういう調査をしてもはっきりした結論が出ないということがわかればそれはそれで非常に大切なことなのです。システムにおいて因果関係というのはそう簡単に証明できるものではない。「よくわからない」ということがよくわかりましたということでもいいのです。何だか屁理屈を言っているように思われるかもしれません。しかし科学理論の世界でいうところの「カオス理論」はこういう考え方に近いのです。」

    —『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著

    「これが暗に言わんとしていることは、つまり、学問、特に科学の世界では、ある客観的な前提の上で客観的な真実があるという形で物を論じてきた。しかしどうやら現実はそうではない。こういう単純な距離という問題、線の長さというような問題でも、客観的な長さなんてものは実は存在しないということがわかってくる。それは「アンチ客観主義」といってもいいでしょう。カオス理論もフラクタル理論もそうです。  世間の人は科学的な結論というのは一義的に定まっていて、正しい答えがあるとどこかで信じている。それは既に時代おくれだよということを優秀な科学者はすでに言っていたのです。  話をテレビに戻せば、社会の問題でも同じことが言えるわけです。暴力番組を見せたら子供に悪い影響があるというような単純な因果関係で論じることが困難になってきた。単純な是非を論じることが難しくなった。別に、何もわからないから何でもありだということを言っているのではありません。」

    —『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著

    「 今の社会で、ここで述べているような考え方はなかなか理解されません。皆が暗黙のうちに科学的客観性、一元的現実というものを考えの前提に置いてしまっているからです。  だから私はいつも NHKの批判をするのです。客観、公正、中立なんて大嘘だろう、というのにはそういう意味があるのです。しかし、どうもそれがあまり理解してもらえないようです。」

    —『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著

    「もっと一般論でいえば、「理路整然とした話くらいうそはない」ということです。なぜならば、自然や人間社会が理路整然としているはずがないからです。  理路整然ということは秩序がきちんと立っているということです。でもそれだけでは済まないということは物理でもはっきりわかっている。ここに理路整然とした秩序が立てられたとしたら、そのときには別なところへ無秩序が引っ越している。ごく単純化していえば、こうして無秩序が増えることを「エントロピーが増大する」というのです。」

    —『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著

    「エントロピーの法則が唱えられたのは十九世紀ですが、その本当の意味が今の人にどこまで理解されているか。おそらく九割九分は理解されていません。その証拠に、都会ではカラスが邪魔だから片付けろと言っています。これでカラスを片付けたらハトがのさばるかもしれません。そうしたらハトのフン公害が発生するはずです。  秩序を立てたら無秩序がどこかに引っ越すということです。  邪魔だからという単純な理由でカラスを殺しまくったら何か弊害が出てくる。でも、カラスを殺せと言っている人は、昔はこんなにカラスがいなかった、カラスが増えていることが自然じゃないんだと考えるのでしょう。それをいうなら昔は人間がこんなに一箇所に大量に住まなかった。無理やり都会を作ったからカラスが増えたのです。」

    —『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著

    「エントロピーの法則が唱えられたのは十九世紀ですが、その本当の意味が今の人にどこまで理解されているか。おそらく九割九分は理解されていません。その証拠に、都会ではカラスが邪魔だから片付けろと言っています。これでカラスを片付けたらハトがのさばるかもしれません。そうしたらハトのフン公害が発生するはずです。  秩序を立てたら無秩序がどこかに引っ越すということです。  邪魔だからという単純な理由でカラスを殺しまくったら何か弊害が出てくる。でも、カラスを殺せと言っている人は、昔はこんなにカラスがいなかった、カラスが増えていることが自然じゃないんだと考えるのでしょう。それをいうなら昔は人間がこんなに一箇所に大量に住まなかった。無理やり都会を作ったからカラスが増えたのです。」

    —『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著

    「そうするとかえって困る可能性がある。人間はある程度無秩序な状態を容認するしかないのです。だから社会は「自由」を重要なものとしているわけです。  経済学は現実には役に立たないということがよく指摘されるようになりました。それは当然のことで、極めて複雑な社会システムを扱う際に、学問のわかりやすい原理を導入して予測がつくと思っているのが間違いだったということです。少なくともそのことを経済学は証明してくれている。 NHKの調査について述べたことと同じなのはおわかりでしょう。  ここで、経済学をやっても意味がないと考えてはいけないのです。こんなに一生懸命やったのに、やっぱり答えが出ないということがわかった。よくわからないということがわかった。それは意味のあることではないでしょうか。  実はどんな社会を作っても、何らかの意味ではみ出てしまう人は出てくるのです。江戸時代にも木枯し紋次郎のようなアウトローが出るわけでしょう。つまり全員丸もうけのようなことにはならないのです。」

    —『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著

    「国語の試験ではよく、「筆者の言いたいことは何ですか」という問いがあります。これがよくおかしいと話題になる。解答の選択肢を見た筆者自らが「正解がわからない」「こんなこと言いたくなかった」と文句をいうのです。  そもそも変なのは、「筆者の言いたいこと」の正解を要求していることです。それは誤解の自由がないということを入学試験が教えているのと同じです。でも、誤解の自由というものは存在しているのです。」

    —『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著

    「普通、誤解されて怒っている人は、誤解されることによって損するのは自分だという考えを持っています。でも私は誤解して損するのは相手だというふうに思うようにしているからです。  たとえば『唯脳論』において、こちらの言ったことを誤解している人がいるとする。それで損をするのはその人のほうだと思うのです。もちろん、おかしな解釈をしたことで、瓢簞から駒のように得をする可能性だってないわけではない。それは相手の自由です。そう考えなくては言論が成り立ちません。」

    —『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著


    「そのとき私は、「誤解、誤解とおっしゃるけれども、女房と二十年一緒にいたって何考えているのかなんかわかりゃしない。だから、人間が誤解するのは当然だ。そんなことに構わずにいいと思うものを作ってください」と言ったのです。当然、 NHKも良識的に考えて作るんでしょうから、それでいいじゃないですかと言った。  誤解するのはその人の勝手です。それを無理やり止めることはできない。だからこちらはできるだけきちんとやるしかない。そうすれば誤解した相手が損をする確率が高くなるということです。」

    —『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著

    「 もう少し穏当な考え方は「私」に帰ることだと思います。自分の発言が東大という世間で問題になった。学問をするうえで自分が正しいと思うことを言わざるをえないが、別にもともとこちらは世直しをしようと思っているのではない。もしも発言によって世間で余計な軋轢を生むのならば、「私」として書いていくしかない。「私」として書いていくぶんには、憲法で、思想、信教、表現の自由は保障されているのだから、だれにも遠慮することはない。そう思ったのです。  大学を辞めた理由のひとつはこういうことでした。」

    —『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著

    「自分の筋というものにとらわれると損をします。自分に対する自分の意見なんて、自分に対する他人の意見よりもはるかに軽いことが多いのです。そんなことに深刻になっているのは、若い証拠です。そういうときなんか、自分はないと思っているのがいい。「私は人の言いなりです」でいいのです。」

    —『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著


    「もちろん流されているときに経験したことが、また何か考えるきっかけになります。そうなることも狙いのひとつなのです。  こっちが意識的に動くのではなくて、引っ張り出されないと経験できないことというものがたしかにある。それがわかっているから言われるとおりにするのです。犬も歩けば棒に当たるかもしれない。  はじめから自分の筋というものを決めてしまい、自分の好みにこだわって仕事を選んでいたら、チャンスが減ってしまいます。そういう気楽さは場合によっては不まじめだとか軽率だととられるかもしれません。しかしある程度軽く動けるくらいにならないと人は使ってくれません。」

    —『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著

    「私も若いときは頭でっかちでした。それが切りかわったのは、中年になってからです。  一番、役に立ったのは解剖でやっていた様々なことです。解剖そのものだけではなく、ある程度の管理職的な仕事をしていた。それに育てられたと思います。うまくいこうが、トラブルが起ころうが、自分で責任を持つ。それを続けていくと、ひとりでに大人になってくる。」

    —『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著



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    2026年03月30日
  • ヤマケイ文庫 「身体」を忘れた日本人 JAPANESE,AND THE LOSS OF PHYSICAL SENSES

    Posted by ブクログ

    フランスでいただきますに当たる言葉がなくて戸惑ったな。

    養老孟司が東南アジアの森が好きなのは分かるよ。日本の森より東南アジアの森の方が手付かず感が凄い。人間が手をつけると生態系崩れて生物が死ぬらしいね。ツーリズムって皮肉だよな。

    日本の科学ノーベル賞受賞者とか、日本の優れたアーティストとかって長野県出身とか田舎が故郷の人多いよね。私は田舎で育つほうが子供は賢くなる気がする。都会に住んでても頻繁にアウトドア的な遊びをさせてあげてる親は賢いんだろうなと思う。

    C.W.ニコル・アファン
    1940年英国ウェールズ生まれ。作家、環境保護活動家、探検家。
    カナダ水産調査局主任技官、エチオピア・シミエン山岳国立公園長などを歴任後、1980年長野県に居を定める。
    1986年、荒れ果てた里山を購入し『アファンの森』と名付け、森の再生活動を始める。
    2002年「一般財団法人C.W.ニコル・アファンの森財団」を設立し、理事長となる。
    著書に『勇魚』(文藝春秋)など多数。
    2020年、79歳で逝去。

    「ニコル  養老さんは口数が少ないですから、最初はちょっと怖い感じがしました。 ―――養老先生は以前にアファンの森に来られたこともあるんですよね?養老  花粉症の委員会のあと、「日本に健全な森をつくり直す委員会」という NPOにも、ニコルさんと一緒に参加するようになって、そこの活動で来ました。ニコル  今日は、また、アファンに来ていただいてありがとうございます。私は養老さんをすごく尊敬しています。今日は、こうやってお話しできるのが、光栄でうれしいです。」

    —『ヤマケイ文庫 「身体」を忘れた日本人 JAPANESE,AND THE LOSS OF PHYSICAL SENSES』養老 孟司, C.W.ニコル著


    『「身体」を忘れた日本人 JAPANESE, AND THE LOSS OF PHYSICAL SENSES』養老孟司,C.W.ニコル

    神対話だった。
    何を大切に生きたいかだよな、きっと。
    ニコルさんのことを、私は勝手に出会った人の中で一番強い人だと思っていたが、この対話でよくわかった。

    #読書メーター
    bookmeter.com/reviews/120266…

    【身体を忘れた日本人/養老孟司】の名言/格言
    木は木目に沿って割れるから、板は割って作った方が合理的なんですよ。今は機械でビューっとまっすぐに着るから、あとで反り返ったりする。材料に合わせて仕事をするおことが手間だっていう時代になっちゃったんですね。

    「限界集落をみんな「かわいそう」みたいに言うんだけど、全然違いますよ。若い人がいなくても年寄りが暮らせるくらいにいいところなんですよ。しかも、子どもたちが都会に来いって言ったって行かないんだから。ただ、そういうところは年寄りががんばっちゃって、若い人が入れないんですよ。年寄りが「後継者がいない」って嘆くんだけれど、そう言ってる年寄りがいるから、若い人が来ない。  だから、若い人は田舎のなかの田舎に行くといい。もともと人は少ないし、 20 ~ 30年待てば近所の年寄りは全部いなくなるから、好きなことができる。田舎を活用するいろいろなアイデアが実現してくると思いますね。それで、明治維新と言ったんです。」

    —『ヤマケイ文庫 「身体」を忘れた日本人 JAPANESE,AND THE LOSS OF PHYSICAL SENSES』養老 孟司, C.W.ニコル著

    「養老  都会の生活は変化がないですからね。いつもエアコンで部屋の温度は同じ、風は一切来ない、明るさも一定。これじゃあ、感覚が完全に狂っちゃいますよ。

    ニコル  都会の人は家畜化してると思う。

    養老  都会の人は弱いですよね。僕は、それ一番よく象徴してるのが、第二次大戦のときにナチスに殺されたユダヤ人だと思う。ユダヤ人って結局都会の人なんですね。だから、抵抗しないで 300万人も殺されてる。普通なら、そんなことあり得ないよね。誰かが抵抗するでしょう?『ミヒャエル・コールハース』っていうドイツの古い小説があって、 16世紀に農民が王様と徹底的に戦ったという話なんだけど、農民ってそういうことやるんですよ。都会の人には、ああいう強さがなくなっちゃった。」

    —『ヤマケイ文庫 「身体」を忘れた日本人 JAPANESE,AND THE LOSS OF PHYSICAL SENSES』養老 孟司, C.W.ニコル著

    「ニコル  最近、大きなゲーム会社の下請けをやってる会社が本社を東京から長野に変えたんです。社員が 60人ぐらいいて、若い人は東京に残ってるけど、子どものいる家族はみんな長野に引っ越し。  その会社の社長さんも、東京で自分の子どもを見て、こんなところで育てていいのかなって思ったみたい。社員の人も、創造力が弱くなって前のゲームをまねしたゲームしかつくれなくなったから、きっと自然の中に行けよって思ったんですね。」

    —『ヤマケイ文庫 「身体」を忘れた日本人 JAPANESE,AND THE LOSS OF PHYSICAL SENSES』養老 孟司, C.W.ニコル著

    「養老 だから、何やっても「きれいごと」になってるんですよ。虫採りに行っても、とにかく犬の死骸でもなんでもひっくり返して、虫を集めるっていうようなしつこさっていうか、泥臭さがなくなって、スマートな人ばかりになっちゃった。  顔つきも変わりましたね。僕、ブータンに行くと、それをしみじみ感じるんです。ブータンはまだ国中が田舎みたいなもんだけど、日本人とそっくりな人がいるなって思うと、その人は首都ティンプーの役人なんですよ。都会人っていうか、日本人は、みんな役人みたいな顔になっちゃったんです。」

    —『ヤマケイ文庫 「身体」を忘れた日本人 JAPANESE,AND THE LOSS OF PHYSICAL SENSES』養老 孟司, C.W.ニコル著

    「ニコル  養老さんは、前から、都会と田舎を行き来する参勤交代のような仕組みをつくったらいいとおっしゃってますけど、僕はほんとうにいいじゃないかと思ってますよ。  僕は、ここに住んで 33年経ちますけど、親のお金はなかったし、「カブ」は野菜のカブしか知らない。でも、ここには自分の家も、畑もある。銀行にお金はないけど、赤字はない。財団もつくった。物書きで、元は外人です。こんなこと、ずっと東京か大阪にいたらできたと思う?  〝 Absolutely impossible !〟(絶対無理)」

    —『ヤマケイ文庫 「身体」を忘れた日本人 JAPANESE,AND THE LOSS OF PHYSICAL SENSES』養老 孟司, C.W.ニコル著

    「僕は、ラオスに虫を採りに行くけど、向こうの人は買った虫を食べてますよ。それに、カニクイザルは虫が好きで、クモの巣を全部はらって虫を食べてますから。カニと虫は食感が似てるのかもしれない。」

    —『ヤマケイ文庫 「身体」を忘れた日本人 JAPANESE,AND THE LOSS OF PHYSICAL SENSES』養老 孟司, C.W.ニコル著

    「子どもたちはだんだん外で遊ばなくなってしまったんです。だから、トラウマを持った子どもたちが生きた森に来れば、心の窓が開くんじゃないかと思ってやりだしたんです。今は、障害のある子どもたちに来てもらっています。盲学校とか、養護学校とか。東日本大震災で被災した子どもたちも呼びました。」

    —『ヤマケイ文庫 「身体」を忘れた日本人 JAPANESE,AND THE LOSS OF PHYSICAL SENSES』養老 孟司, C.W.ニコル著

    「養老  そう。僕は何もしない。子どもたちが虫を採ってきて「これなあに?」って聞いたら、名前を教える。福島虫の会の「プロ」も一緒に行ってるから、ちゃんと答えてくれるしね。子どもたちにすれば、名前がわかるのが、結構励みになるんですよ。  でも、それだけ。よけいなことはしないほうがいいんです。自然の中に行って、何が面白いかなんて口で説明してもしょうがない。虫採りもそうですけど、アファンの森みたいなところに来て得るものって、実は言葉にならないんですよね。だからそれを説明しろっていうのが一番困る。だから、「何でもいいから、ともかく自然の中に行け」と言うんです。「気分が変わるだろう?」「おなかすくだろう?」って。」

    —『ヤマケイ文庫 「身体」を忘れた日本人 JAPANESE,AND THE LOSS OF PHYSICAL SENSES』養老 孟司, C.W.ニコル著

    「ニコル  養老さんはきっとご存じでしょうけど、最近、西洋では、学級崩壊を起こすような子どもたちは、〝 Nature Deficiency Syndrome〟、つまり「自然欠乏症候群」ではないかと言われて、問題になっています。子どもたちが、集中できない。我慢できない。すぐキレる。友達がつくれない。それは、自然の中でちゃんと遊んでないからじゃないかというんです。  デヴィッド・スズキ先生(カナダの生物学者)が書いたものを読んだら、カナダの子どもは平均 1日に 8分しか外で遊ばないのに、テレビやゲームの画面を見ている時間は 6時間!養老  ほう。ニコル  これじゃ、脳のバランスがおかしくなる。聴覚や嗅覚がだんだんと退化して、コンピューターの一部分になっちゃうんじゃないかなと心配になりますよ。  別の本にも、子どもたちに「どうしてこの公園で遊ばないの?」と聞いたら、「だってこの公園にはコンセントがないから」って言ったという話が書いてあった。公園に行っても、遊び方がわからないから、遊べないんですね。」

    —『ヤマケイ文庫 「身体」を忘れた日本人 JAPANESE,AND THE LOSS OF PHYSICAL SENSES』養老 孟司, C.W.ニコル著

    「養老  だから、オスはいらないんですよ。インドネシアに行ったときに、男はみんなたばこ吸ってブラブラしてるから、「あなたは、いつ働くの?」って聞いたら、「たとえばコーヒーの取り入れとか」って言ってました。そういうとき働くんですよ、男は。」

    —『ヤマケイ文庫 「身体」を忘れた日本人 JAPANESE,AND THE LOSS OF PHYSICAL SENSES』養老 孟司, C.W.ニコル著

    「養老  キイロネクイハムシといって、昭和 30年代に、兵庫県宝塚市の池で採れたのが最後です。恐らく田んぼとか、近くの古い池にはいたんだと思いますけど。最初に発見したのは、明治の初め頃に日本に来たジョージ・ルイスっていうイギリス人なんです。横浜の豊顕寺っていうお寺の池で。」

    —『ヤマケイ文庫 「身体」を忘れた日本人 JAPANESE,AND THE LOSS OF PHYSICAL SENSES』養老 孟司, C.W.ニコル著

    「ニコル  もうどこにもいないんですか。

    養老  ダメですね。池も年中いじるから。  あと、いま、猛烈な勢いで減ってるのはトンボなんですよ。その原因として、一番疑われてるのはネオニコチノイドという農薬です。」

    —『ヤマケイ文庫 「身体」を忘れた日本人 JAPANESE,AND THE LOSS OF PHYSICAL SENSES』養老 孟司, C.W.ニコル著

    「養老  そうです。生き物は甘くない。だって、我々は、 1個の細胞ですら、化学的にきちんと記述できないんですよ。 1個の細胞の中には、遺伝子が 2万個近くもあって、タンパク質が数えきれないほど入っている。しかも、それぞれ立体的な形が違う。それを全部書き出されても、誰も読めませんよ。つまり、細胞の正体は、厳密な意味では不明なんです。それをいじって何かできたといっても、「正体不明のものをいじったら、別の正体不明のものができた」というのと同じなんですよ。」

    —『ヤマケイ文庫 「身体」を忘れた日本人 JAPANESE,AND THE LOSS OF PHYSICAL SENSES』養老 孟司, C.W.ニコル著

    「ニコル 日本には野生の熊が生存している。それだけで、自慢するべきことだと思うんです。英国で絶滅したのは 1000年前ですよ。ですから、ヨーロッパの国に行くと、まず僕は「山に住んでいる」と言っただけで尊敬される。そして、「熊のいる森がある」と言ったら、もうそれが勲章です。」

    —『ヤマケイ文庫 「身体」を忘れた日本人 JAPANESE,AND THE LOSS OF PHYSICAL SENSES』養老 孟司, C.W.ニコル著

    「ニコル  だいたいにおいだけでお互いにわかってますから、「僕ですよ」と。カナダではしょっちゅう会っていて、そのときも挨拶をしていました。カナダでは熊をいじめないから、よく人の前に出てくるんです。  養老さんも行かれたというプリンセス・ロイヤル・アイランドにはアメリカクロクマが住んでいますが、その 10%が白いんです。シムシャン族という先住民がそれを「スピリット・ベア」と呼んですごく大事にしています。だから、人間を怖がらないし、襲ってもこない。  シムシャン族の伝説では、「昔地球が氷河で覆われたときに、生き物はみんな困った。人間も困った。それで、人間が神様の使いのワタリガラスにお願いしたら、神様が氷を解かして緑を戻してくれた。そのとき、また生き物たちが勝手なことをしないように、神様が残したのがスピリット・ベアだ」というんですね。

    ―――その熊はアルビノなんですか?

    ニコル  そうじゃないです。目は黒いですから。遺伝子の組み合わせで白くなっていると思います。たぶん、氷河期にはこの島も氷で白くて、体が白いほうが目立たなくて有利だった。そのあと、氷河が解けて森ができたら、今度は白いと目立って、黒いほうが目立たない。でも、この島では、白くて目立っても不利じゃなかったから、体が白くなる遺伝子が生き残ってきたんでしょう。」

    —『ヤマケイ文庫 「身体」を忘れた日本人 JAPANESE,AND THE LOSS OF PHYSICAL SENSES』養老 孟司, C.W.ニコル著

    「日本語では、言葉と気持ちの関係性が固いんです。だから、自分の気持ちが言葉に直接いっちゃうんです。ところが英語だと、言葉と対象の関係性が固くて、自分がどう思っていても、言葉を変えることができない。これを客観的と言うんです。逆に言うと、英語はうそがつきにくい。うそをつくときは「真っ赤なうそ」になるんです。  日本語は気持ちと結びついていて、対象との関係は自由だから、すぐ「私は悪くありません」とか「すいません」となってしまう。だから日本語は「語るに落ちる」んです。しゃべっていればすぐ本音がバレちゃう。それをやらないためには、官僚答弁をすればいいんだけど、今度は、そういう言い方をしてごまかしているんだっていうことがバレちゃう。」

    —『ヤマケイ文庫 「身体」を忘れた日本人 JAPANESE,AND THE LOSS OF PHYSICAL SENSES』養老 孟司, C.W.ニコル著

    「じゃあ、英語で書くときに、そういう事実を省略すればいいじゃないかっていうんだけど、そこを省略すると英語の文章にならないんですよ。言葉とものとが固着してるから、何も言ったことにならない。だから、裁判制度も全然違ってきて、英語は証拠主義で証言主義になっちゃう。ものとの関係が非常にきついので、もし自分の都合のいいようにものを言おうとすると、真っ赤なうそをつかざるを得なくなる。だから、証拠とか証言に当たっていくとうそがバレるんですよ。一方、日本の場合は自白主義になるんです。しゃべらせていけば、ひとりでに悪いと思っているかどうかバレちゃう。」

    —『ヤマケイ文庫 「身体」を忘れた日本人 JAPANESE,AND THE LOSS OF PHYSICAL SENSES』養老 孟司, C.W.ニコル著

    「ニコル  「いただきます」とか「もったいない」とか「ごちそうさま」とか、そういう丁寧な、感謝を表す言葉が日本語は実にきれいですね。」

    —『ヤマケイ文庫 「身体」を忘れた日本人 JAPANESE,AND THE LOSS OF PHYSICAL SENSES』養老 孟司, C.W.ニコル著

    「僕が書いているものはかなり例外的じゃないかと思う。『バカの壁』みたいなものを書いているときでも、日本語的に書いていない。それは、解剖とか昆虫などでニュートラルに書くことを訓練されたからです。どちらも人間世界があまり関係ないので、それをどういうふうに人間世界と論理的に関係づけるかということですから、情緒的じゃない。」

    —『ヤマケイ文庫 「身体」を忘れた日本人 JAPANESE,AND THE LOSS OF PHYSICAL SENSES』養老 孟司, C.W.ニコル著

    「養老  わからないことがあるということを、必ず留保としておいていないと謙虚にならないんです。学問をするためには自分がものを知らないって前提がある。いまは本当の意味で学問をする人はいないと思いますね。「ネットで調べればわかる」「俺はバカじゃない」というのが裏にあって、説明されればわかると言うんです。  自然に接したらそれは消えます。たとえば、これから雨が降るのかどうかは、山の中では命にかかわるかもしれない。でも、わからない。そのとき、説明されればわかると思っている人の答えは「危ないところに行かなければいい」でしょう?  そうすると、世界はどんどん狭くなる。それで今度は退屈だと言って、極端な場合は自殺する。自分の命を自分のものと勝手に思ってるんです。自分でつくったわけでもないのに。」

    —『ヤマケイ文庫 「身体」を忘れた日本人 JAPANESE,AND THE LOSS OF PHYSICAL SENSES』養老 孟司, C.W.ニコル著

    「養老  「自然に触れてほしい」というのは僕も言いたい。免疫系をちゃんとコントロールできるようにするためにも、それが必要ですね。いま、若い人の 1割がうつ病だと言われますけど、それも人工物にばっかり囲まれているせいでしょうし。

    ニコル  子どもの骨が弱くなって、折れやすくなっているのも問題です。  おととし、英国のナショナルトラストの人が僕に話を聞きに来ました。日本で、子どもたちが外で遊んでいるかとか、木に登ってるかとか、質問した。ナショナルトラストは国立公園より土地が広いですけど、向こうでは、何十年もの間、子どもが木に登っていいかどうかって議論があったそうです。毎年、何人かケガをしたから。でも、 2年くらい前からそれを議論しなくなった。なぜなら、誰も登ろうとしなくなったから。その代わりに、自分のべッドから落ちて大ケガする子が 3倍に増えたそうです。」

    —『ヤマケイ文庫 「身体」を忘れた日本人 JAPANESE,AND THE LOSS OF PHYSICAL SENSES』養老 孟司, C.W.ニコル著

    「養老  ニコルさんもそうだけど、僕は武道をやっている人と比較的仲がいいんです。武道をやるといっても、プロとして競技をやっている人じゃない人です。そういう人は、自分で考えている人が多いんです。  古武術家の甲野善紀さんは、もともと東京農大に行かれていて、日本人の食環境のことを考えているうちに、自分の身体がテーマになった。フランス思想が専門の内田樹さんは、大学で教えると同時に合気道をやっていていた。定年になってから凱風館という道場をつくって、子どもを集めて正座から教えていますよ。」

    —『ヤマケイ文庫 「身体」を忘れた日本人 JAPANESE,AND THE LOSS OF PHYSICAL SENSES』養老 孟司, C.W.ニコル著

    「ニコル 「一番怖いところに行く」って武道ですよね、養老さん。怖くなかったかといったら、とんでもない、怖かった。でも人に、「あいつは臆病だ」とか、「できなかったな、ざまあみろ」って言われるほうが僕は怖いですね。僕は強かったと言いたいわけじゃない。養老さんの言う覚悟、僕の言葉では〝 dignity〟、威厳があったと言いたいんです。」

    —『ヤマケイ文庫 「身体」を忘れた日本人 JAPANESE,AND THE LOSS OF PHYSICAL SENSES』養老 孟司, C.W.ニコル著

    「ニコル  僕からは、「日本の森と川と海岸を美しく豊かにする方法いくらでもあるから、それをやってみませんか?」ということです。  私は、 50年前の日本の自然を見て、素晴らしいと思ったから日本に住み着いた。もし、いま日本に来たら、日本人にはならなかったでしょう。日本はずいぶん変わってしまった。日本人は迷子の「ジャパン人」になって、何をしたらいいかわからなくなっています。だから僕は、自然も、子どもたちも 50年前の姿に戻したい。」

    —『ヤマケイ文庫 「身体」を忘れた日本人 JAPANESE,AND THE LOSS OF PHYSICAL SENSES』養老 孟司, C.W.ニコル著

    「ニコル  私は、 50年前の日本の自然を見て、素晴らしいと思ったから日本に住み着いた。もし、いま日本に来たら、日本人にはならなかったでしょう。日本はずいぶん変わってしまった。日本人は迷子の「ジャパン人」になって、何をしたらいいかわからなくなっています。だから僕は、自然も、子どもたちも 50年前の姿に戻したい。」

    —『ヤマケイ文庫 「身体」を忘れた日本人 JAPANESE,AND THE LOSS OF PHYSICAL SENSES』養老 孟司, C.W.ニコル著

    「ニコルさんと対談しないか。そう言われて、二つ返事で引き受けた。これまでに何度かお会いしているけど、好きな人ですからね。  自称ウェールズ系日本人。体格が良くて、酒飲みで、率直で、勇敢で男らしい。いうなれば昔風。私は年寄りだから、本当は昔風の男が好きなのである。  まだある。ニコルさんは、言わずと知れた森好き、生き物好き。これ以上、なにか言うことがあるか。」

    —『ヤマケイ文庫 「身体」を忘れた日本人 JAPANESE,AND THE LOSS OF PHYSICAL SENSES』養老 孟司, C.W.ニコル著

    「昨日は島根県の匹見で虫採りをした。山道のわきに生えている草を掬って、ゾウムシを捕まえる。何種類か採れる。山道を歩いていくにつれて道端の草の種類が変わってくる。日当たりも違うし、尾根にだんだん近づいて、谷川からの距離が遠くなる。だから植物が変わり、虫の種類も違ってくる。ところで、何匹も採れるけど、この虫はどの草を食べているんだろうか。そう思って、確認しようとするけれど、なかなかわからない。一時間ほど経って、まだ一キロも進んでいない。ああ、これじゃあ寿命が終わっちまうよ。  でもこういう生活がしたかった。それができて嬉しい。昨日は津和野の地倉沼に行って子どもたちと虫採り。子どもなんてどうでもいい。私は虫を採りに来たんだからね。でも私がなにもしなくても、子どもたちは虫をどんどん見つけて、ワアワア言って、それで遊んでいる。なんだ、俺と同じじゃないか。  ニコルさんは熊が好きらしい。どこか似てるもんね。村長には人と熊と、どっちが大切か、と訊かれたらしい。昨年、大菩薩で虫採りをして、車で降りてきたら、村の道を熊が歩いていた。熊もいまでは藪漕ぎするより、道を歩く。そのほうが楽でしょ、どう考えたって。野生の草より栽培している作物のほうがおいしいに違いない。動物だってそう思うから、畑を荒らす。人家に近づく。  人は生き物と共存している。お腹の中には百兆の細菌が住んでいるという。それでも除菌!  というのが現代人である。自分の口の中も見たことがないらしい。顕微鏡でちょっと見てみたら、微生物がたくさん、元気に泳ぎ回っていますよ。  ニコルさんはそんなことはよく知っている。日本人がひたすら壊している日本の自然を守っている偉い人である。どうして日本人が自分でやらないんだろうね、本当に。」

    —『ヤマケイ文庫 「身体」を忘れた日本人 JAPANESE,AND THE LOSS OF PHYSICAL SENSES』養老 孟司, C.W.ニコル著

    「我々は何であるか。我々はなぜ存在するのか。我々は誰なのか。「我々は何であるか」という問いに関して、養老孟司先生ほど深い知識と洞察を持つ人は、どこを探してもいないでしょう。先生はありとあらゆる状態の人体を調べ、研究してこられました。人体のあらゆる部位の機能に精通していらっしゃいます。私のような人間は、彼の知識に及ぶべくもありません。  ですが、私も動物学を学び、その後、フィールドワーカーやハンターとして活動する中で、解剖したり、または単に食用とする目的で屠殺することもありました。そしてミミズからクジラまで、ありとあらゆる動物のデータを、現地で集めてきました。人間と哺乳類の間には、相違点よりも類似点の方が多いということに、私はいつも驚かされていました。「なぜ我々は存在するのか」という問いは、シンプルかつ複雑なものです。ですが、私には、考え方の根本的な指針がありました。それは、人間が地球上の他の全ての生物と DNAを共有している、という考えです。私たちの祖先は、海から現われ、地上のあらゆる環境を生き抜くよう適応しました。火の使い方を学ぶはるか前から、走ったり、跳んだり、登ったり、避けたり、隠れたり、追いかけたり、捕まえたり、戦ったりしていました。石を投げたり、棒で叩いたりできるようになりました。周囲の環境に注意を払うようになり、あらゆる身近な生物に関する深い知識を得ました。」

    —『ヤマケイ文庫 「身体」を忘れた日本人 JAPANESE,AND THE LOSS OF PHYSICAL SENSES』養老 孟司, C.W.ニコル著

    「あらためて言うまでもないが、人間はこの地球という星の自然の中で育まれ進化してきた。今は様々なテクノロジーの進化で、およそ森などの自然環境とは隔絶した環境の中で多くの人が暮らしているが、そうした自然環境からの隔たりは、人間の心身両面に様々な形で問題を生じさせていると思う。  ただ、そこで起きた問題を医学やテクノロジーの発達で何とかしようという傾向が現代では主流となっている。そのため、人々の身体も感性もこれからますます瑞々しさを失い、機械の部品のような状態になっていくのではないかと危惧される。  それこそが文明の進歩だと漠然と考えている人が少なくないように思うが、これは見方を変えれば奴隷である。昔は鞭で叩いて奴隷を指図したが、これからの時代は「これは貴方達のためだから」という言葉で奴隷化が行なわれるようになると思う。そうした奴隷化されない方法の一つが、先ほど述べたように一日僅かでも人間が作ったものではない木々などを観、それに触れることなのだろう。そうした環境を通し、人間も育み、他の生き物も育んできた大きな自然の力に直に触れることが大切なのだと思う。」

    —『ヤマケイ文庫 「身体」を忘れた日本人 JAPANESE,AND THE LOSS OF PHYSICAL SENSES』養老 孟司, C.W.ニコル著

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    2026年03月29日
  • 読まない力

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    養老孟司、ラオスの話多すぎ

    何故歴史が苦手だったかって言ったら、歴史って要は思想やん。歴史から思想性を抜くことは無理やろ。

    「政治家に倫理を求めるのは「八百屋で魚を買おうとするようなもの」だからである。政治は倫理ではない。現実の取り扱い方である。その政治家が「倫理」だというのでは、本気のはずがない。何かの宣伝に決まっている。」

    —『読まない力 (PHP新書)』養老 孟司著

    「予測ができない、つまりランダムさを増す可能性があるものを、文明人は許さない。だからゴキブリや雑草が嫌いなんだろうが。ゴキブリの行動は、予測不能だからね。こうした暗黙の秩序の金縛りにあった若者のなかから、ヒステリーを起こして、ついにはトラックで秋葉原に突っ込むやつが出たりする。  人間は意識だけで生きているのではない。なんと、人生の三分の一は、確実に意識がない。でも、その時間なんか「ない」と見なすのが文明である。眠って意識がなくたって、身体は生きているではないか。意識こそむしろ、身体の部分的な機能にすぎない。その意味での「全き人間」を、近代文明は忘れてしまった。」

    —『読まない力 (PHP新書)』養老 孟司著

    「東南アジアを訪れると、働いているのは、いつも女性である。男はなんだかブラブラしている。そんな感じがする。男が働くのは、収穫期のように、とくに人手が必要なときだけである。日常の細かい仕事はほとんど女性の独壇場なのであろう。  それなら日本では、いつから男が働くようになったのか。これは長年の疑問だが、いまだによくわからない。天照大神は女神で、日本は「女なしでは夜も明けぬ国」だったはずなのだが。  女性の社会進出が不足だということと、女性の寿命が長いこととは、無関係ではないであろう。社会的なストレスが男にかかっている可能性があるからである。男女の寿命を同じにすることが、よいか悪いか、いちがいにはいえない。しかし社会への参画が不平等だと指摘するなら、同時に寿命の不平等も指摘すべきであろう。」

    —『読まない力 (PHP新書)』養老 孟司著

    「知的障害という言葉は、あまり好ましい言葉ではない。多くの「普通の」人たちだって、ある意味では知的障害ともいえるからである。  現代社会は特定の知的能力だけを徹底的に要求する。それが学校の成績であり、言葉の能力である。しかしヒトの知的能力は、それだけに限られるものではない。」

    —『読まない力 (PHP新書)』養老 孟司著

    「知的障害という言葉は、あまり好ましい言葉ではない。多くの「普通の」人たちだって、ある意味では知的障害ともいえるからである。  現代社会は特定の知的能力だけを徹底的に要求する。それが学校の成績であり、言葉の能力である。しかしヒトの知的能力は、それだけに限られるものではない。」

    —『読まない力 (PHP新書)』養老 孟司著

    「私は戦後のドサクサ時代に中学、高校に通った。通った学校はカトリック系の私立で、なかに修道院があった。おかげでさまざまな国籍の神父さんから、勉強を習った。私の英語の先生はドイツ人、ベルギー人、アイルランド人、日本人だった。日本人を除き、ほかの先生たちに教師の資格があったのか、たいへん疑わしい。  そうした「公式には正しくない」、もし「検定」があれば通るはずのない教育のおかげで、私は損をしただろうか。日本の世間に適応するという意味でいうなら、損をしたに違いない。しかし日本の世間だけが世間ではない。おかげでどんな外国に行っても、私は楽に行動できる。」

    —『読まない力 (PHP新書)』養老 孟司著

    「自殺に関しては日本はキリスト教国になるべきか。それなら自殺は罪で、昔はお墓にも入れてもらえなかった。神様の与えた命を自分で勝手に始末してはいけない。日本では、腹を切ればチャラにするという思想がいまだにあるから、自殺が減らない。共同体の規律が厳しかった昔ならともかく、いまでは自殺はいささか時代遅れ、やめたほうがいい。  日本は殺人は少ないが、自殺が多い。これは攻撃性が内向するからだと考えられる。他人を殺すより、自分を殺す。どちらにしても「殺人」なのだが、自殺は殺人だと思われていない。戦争の末期にバンザイ攻撃になったのも、自殺の一種であろう。どこまでもしぶとく生き延びる。日本の世間はそれを美徳とはしないのである。」

    —『読まない力 (PHP新書)』養老 孟司著

    「花鳥風月が欠けた世界では、いじめはどうしても拡大してしまう。人間世界だけが世界になってしまうからである。」

    —『読まない力 (PHP新書)』養老 孟司著

    「 現代世界が抱えている問題は「ああすれば、こうなる」で片付くものではない。ハエやカに象徴される問題である。もちろんそれは、ハエがいたり、カがいたりして、生活するのに困るという意味ではない。生物はきわめて複雑微妙なシステムである。それを破壊するのはハエ叩き一つで済む。しかし作るのは容易どころではない。じつはまったく「作れない」のである。」

    —『読まない力 (PHP新書)』養老 孟司著

    「日本はことほどさように災害列島なのである。陸地面積は世界の四〇〇分の一しかない。ネコの額のようなその陸地で、歴史上の大噴火の一割、大地震の二割が起こってきたという。それが日本人の心性に与えてきた影響は無視できないはずである。」

    —『読まない力 (PHP新書)』養老 孟司著

    「 二週間、テレビも新聞もなしにブータン旅行をした。そのあいだの事件といえば、ロンドンのテロ(二〇〇五年七月)くらいか。それもブータンでは話題にならずじまい。  じゃあ何が話題かというなら、とくにはない。後生を願ってどう功徳を積むか、くらいのことだった。  いまどきそんな世界があるものか。そう思う人が増えるのを都市化という。いくら都市化して、便利になって仕事がはかどったとしても、人間がいずれ死ぬことに変わりはない。  昔ならひと月かかった仕事が、いまなら三日でできる。それなら百年生きる代わりに十年生きれば済むことにならないか。」

    —『読まない力 (PHP新書)』養老 孟司著


    「人を機械と見たらどうか。これは西欧文明では、ド・ラ・メトリの『人間機械論』以来の主題である。私見だが、レオナルド・ダ・ヴィンチは解剖図を描くときに、人体を機械と見立てている。どちらも科学史のうえでは、大変に古い人というべきであろう。  科学技術はさまざまな機械をつくった。しかしそれはあくまで無生物としての機械で、生物は創れない。今回の騒動について、いちばん気になったのは、そのことである。科学技術は進歩したと常識的にいわれているにしても、そこで隠されている最大の問題は「生物は創れない」という点である。大腸菌一つ、創れないのである。  科学が進歩すれば、それができる。それをいうなら、科学にできないこと、人間にできないことは何か。科学が進歩すれば、万能なのか。生物をまともに考えている人なら、生物や生態系を人間が創り出せるなどという妄想はもたないはずである。生命に関する技術とは、すべて既存の生物をいじっただけである。遺伝子を導入したって、「すでに存在する細胞」に遺伝子という物質を入れるだけである。細胞を創ったわけではない。」

    —『読まない力 (PHP新書)』養老 孟司著

    「百万単位の人たちが、例年初詣に戦の神様を参拝する。それなら日本人は相変わらず軍国主義者か。  お祈りは個人のものであって、その中身を他人がどうこうできるものではない。西洋の教会を訪れて、武運長久を祈ったところで、それは祈る人の勝手である。それを神様が聞くかどうか、それは神様のほうの都合である。それならこの種のことは、個人に任せておけばよろしい。それをあえて問題にするのは、何か別な意図があるからであろう。それは無視するしかない。私はそう思う。」

    —『読まない力 (PHP新書)』養老 孟司著

    「大国にはものがいいにくい。長いものには巻かれろ。それも保身術であろうが、正直にいえば、私はそれを好まない。小国の国民としては「手前勝手もいい加減にしろ」と、ときどきいいたくなるのである。」

    —『読まない力 (PHP新書)』養老 孟司著

    「 帰国したら、高校生が大麻の乱用で逮捕されたという新聞記事を見た。大麻ならブータンにはいくらでも生えている。放牧している牛馬が食べない草が残るので、大麻が多いのである。大麻を食べると、牛馬も具合が悪くなるらしい。地元の人はそんなものは使わない。法律で禁止したら、一部の若者が大麻を吸うようになった、とガイドが笑って話していた。  大麻がいくらでもあるところでは、若者は大麻など吸わない。日本では高いお金を支払って密売の大麻を買う。ブータンの人が松茸が日本で高く売れるのに気づいたのは、十年前だという。世界は広い。しかし、それを若者に上手に教えるのはむずかしい。」

    —『読まない力 (PHP新書)』養老 孟司著

    「おれおれ詐欺も、一種の芝居であろう。日本人は真面目で、人生は一面で芝居だという感覚がない。それでダマされる。もっとも生活にある種の余裕がないと、人生を芝居にはできない。それでも一世一代の大芝居というくらいで、昔の人は芝居の効用を知っていた。  西洋人は日本人より明らかに芝居上手である。西洋の古い町にある大きな建物は、教会でなければ劇場である。劇場とはそこで芝居をする場所である。その場所をあれだけ立派にするのだから、芝居の価値が高いのだとわかる。  世界は日本人より芝居上手が集まっている。だから私は大方のことは芝居だと理解することにしている。それならダマされにくいからである。九・一一は大騒動になったが、あれも劇場性がきわめて強かった。だからその公式説明にしても、芝居の筋だと思って聞いている。  派手なことほど芝居である可能性が高い。たとえ芝居でなくても、誰かが芝居に仕立ててしまうこともある。ダイアナ妃の事故も一種の芝居であろう。芝居は公認の筋書きのほかに、さまざまな筋書きがありうる。芝居だと思っていれば、違う筋書きを聞いてもビックリすることはない。」

    —『読まない力 (PHP新書)』養老 孟司著

    「北京政府の反日でイライラする人もいるらしいが、反日にも利点はある。飛行機の荷物室に入って密航する人がいたくらいだったのが、さすがに密航は減ったようである。反日には密航者を根本的に減らすという効果があるはずである。日本なんてとんでもない国だと思ってもらえば、日本に来たいと思う人が減る。その意味では、強く反日をいう北京政府は、密航対策に効果的な手を打ってくれている。日本政府は北京政府に感謝すべきであろう。留学生も減るだろうし、そのぶんをほかの国から受け入れることができる。」

    —『読まない力 (PHP新書)』養老 孟司著

    「北京政府の反日でイライラする人もいるらしいが、反日にも利点はある。飛行機の荷物室に入って密航する人がいたくらいだったのが、さすがに密航は減ったようである。反日には密航者を根本的に減らすという効果があるはずである。日本なんてとんでもない国だと思ってもらえば、日本に来たいと思う人が減る。その意味では、強く反日をいう北京政府は、密航対策に効果的な手を打ってくれている。日本政府は北京政府に感謝すべきであろう。留学生も減るだろうし、そのぶんをほかの国から受け入れることができる。  そもそも日本なんかとんでもない国だという宣伝に素直に従って疑わない人に、日本に来ていただく必要はない。そんなバカは要らない。反日宣伝にもかかわらず日本に来る人たちは、現実的かつマトモな判断をする人であろう。そういう人なら安心して歓迎する価値がある。  そんなふうに考えていけば、反日はけっして悪いことばかりではない。」

    —『読まない力 (PHP新書)』養老 孟司著

    「世の中という複雑怪奇なもの、そんなもの、私に分かるわけがない。しかしそれを変える単純な方法を、私は一つだけ知っている。それは、その世の中を見ている自分全体を変えてしまうことである。  極端な話、世の中が暗いなら自分が躁状態になればいい。なんと、すべてが明るく見えるはずである。それじゃあ、本当の自分が消えてしまうじゃないか。冗談じゃない。いくら変えようとしても、変えられないものを「本当の自分」というのである。  変わってしまうくらいなら、それは本当の自分ではなかった。それだけのことであろう。どうせ我をもつなら、そのくらい強くもたなければ、生きてはいけない。それが難しいかといったら、簡単である。本当の自分なんて、変えてみなけりゃ、分からないんですからね。」

    —『読まない力 (PHP新書)』養老 孟司著

    「長いあいだ、私は自分がマトモじゃないと思って生きてきた。そもそも医学部を出て解剖をやること自体、あまりマトモではない。医学は患者さんを救う仕事で、死んだ人をどうこうしたって仕方がない。  自分がマトモではないと思えるのは、当たり前だが他方にマトモな多数の人たちがいるからである。そのマトモでない私が書いた本が、いまでは予想を外れて売れたりする。  そうなると、いくら私でもいささか心配になる。もしかして、私はマトモなんじゃないか。マトモでないと思っている人間がマトモに見えるとしたら、その分だけ世の中が変だという結論になる。じゃあ世の中、どこが変なのか。」

    —『読まない力 (PHP新書)』養老 孟司著

    「未来が見えることは、本当にいいことか。そろそろそれも考えなければならない。一寸先は闇。それが怖いのは当然だが、怖くない人生は面白い人生か。自殺が増えるのは、これと関係ないだろうか。  先が見える道と見えない道と、どちらを選ぶかといわれたら、私はよく見えないほうを選んできたような気がする。それがよかったかどうか、神様しかわからない。しかしともあれ、退屈だけはしないで済んだ。」

    —『読まない力 (PHP新書)』養老 孟司著

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    2026年03月29日
  • 自分の頭と身体で考える

    Posted by ブクログ

    生と死、意識と無意識、

    養老孟司の良さは上品さだよね。

    養老孟司、東南アジアが大好きでよく行くから、Xで言われてる婚活界隈では地雷系男子なの好き。しかも女買う為とかではなく、虫取る為に行ってるのも痺れる。

    養老孟司さんて、あそこまで異常に本を書く人って事は、正直実は病んでる人なんだろうなと思うんだけど、自分が辛かった経験とか被害者だって言うのも気づけないぐらいめちゃくちゃマイルドに言うんだよね。そこも昨今の被害者ビジネスとは対極に居る人だなと思う。

    言い切られた方が安心するし気持ちいいけど、それをしないから、養老孟司は読み手によっては何が言いたいのかわからない人でもありそう。

    養老孟司さんて、何かを悪く言い切る事が絶対無い所が本当に頭の良い人だなと思う。私ならそれは耐えられない。何かを悪いと言い切りたくなっちゃう。これは恐ろしいのではないか、危険ではないか、とか本当は何が嫌いかをめちゃくちゃマイルドに言う人。養老孟司さんの凄さってこの伝え方のマイルドさだな。何かをバカにしたりも絶対にしないから、そういうのを読み取る大変さもあるかもしれない。


    甲野 善紀
    (こうの よしのり、1949年 - )は、東京都出身の日本武術を主とした身体技法の研究家[1]。古武術に関する著書を多数出版、メディアにも積極的に出演しており、これらの活動を通じて日本人古来の身体運用法「古武術身体操法」の普及を目指している。1949年、東京生まれ。幼い頃から野山の自然を好み、育った多摩地方の丘陵が宅地開発されるのを悲しんで、将来は自然の中での牧畜に従事しようと、明星高等学校卒業後、東京農業大学畜産科に進むが、畜産及び現代農業全体が効率最優先の工業化を目指していることに失望して、この道を断念(大学中退)[2]。それに代わってさまざまな健康法や修行法、さらに思想、宗教等の方面に関心を広げていった。1971年、合気会本部道場に入会し、山口清吾師範の元で5年間、合気道を稽古する。また1972年には根岸流を前田勇師範に、1975年には鹿島神流を野口弘行師範に学ぶ。1978年に武術稽古研究会「松聲館」を設立(2003年に発展的に解消)。1980年代より、日本武術の研究者として数々の著書を発表、当時一部で生まれていた古武術ブームも相まって(1990年に専門誌「月刊秘伝」が創刊)、その名が広く知られるようになる。また、当時一部にしかその存在が知られていなかった武術家・黒田鉄山にスポットを当てるなどして、武術界の発展に努めた。
    1992年、医学博士で解剖学者の養老孟司との対談が実現、『古武術の発見』(1993年、光文社)として書籍化される。以後、さまざまな分野の著名人との対談が書籍で人気を博すことになる。1999年頃、桐朋高校バスケットボール部の監督金田伸夫が甲野の活動を知り、甲野から教わった内容を部活に取り入れたところ、その後まもなくしてインターハイ出場、全国高校選抜大会ベスト16まで勝ち進むことに成功し、NHKでドキュメンタリー番組「自分で考えろ~桐朋バスケットボール部 金田伸夫監督~」(2001年製作)として放送されるなど、当時話題を集めた(その後金田は独自に「古武術バスケ」と呼ぶメソッドの普及に努めている)。さらに2000年代初頭、読売巨人軍の投手であった桑田真澄が、ある理学療法士の勧めから甲野の活動を知り、甲野から約2年間身体運用に関する教授を受けた。そして2002年のシーズンで4年ぶりの二桁勝利を果たし、「桑田復活の陰に古武術あり」とまで言われた[3]。その後も、卓球の平野早矢香や、バスケットボールの小磯典子にも指導し、それぞれで成果を挙げたことで、その知名度を高めた。2005年前後、スペースシャトル・ディスカバリー号での宇宙ミッションに向け、宇宙飛行士の野口聡一が船外活動での効率の良い体の使い方を求めて、甲野に指導を受けた[4]。2007年から3年間、神戸女学院大学の客員教授を務めた。2009年秋、数学者の森田真生と『この日の学校』を立ち上げ、各地で受験や資格を取るためではない学問そのものと向き合う講座を開いた。2010年頃より、東京大学工学部教授の國吉康夫による依頼を受け、ヒューマノイドロボットの高度な身体スキル実現に向けて実験協力を行った[5]。その後も、日本各地で講演会や講習会、稽古会などを開き、活動を行っている。剣術、居合術、槍術、杖術、体術等の日本武術を研究・指導し、こうした武術の身体操法をもとに、各種武道やスポーツのみならず、楽器演奏、舞踊、介護医療、工学といった分野への応用・貢献を目指している。特に介護の分野では、実際に介護福祉士・介護支援専門員の岡田慎一郎などが、「古武術介護」と称し甲野が紹介した技術を使用し普及に努めている。

    「言葉として「説明」という形をとった途端に、単線処理になる。なぜかというと、言葉がそうだからです。言葉というのは、時間軸の上をただひたすら、単線的に進行する。同時に言ったら、意味は何も分からないですものね(笑)。  だから、漫画になるんですよ。漫画はセリフと絵とが同時並行処理ですから、非常に受けるわけです。  フランス語の「イストワール( histoire)」という単語には「物語」と「歴史」という意味があります。けれど、歴史を単線的に「語る」というのは、無理があるのです。だから、我々は歴史を語る時におかしくなってしまう。  歴史に言語の形式を嵌めてしまうから、どうしてもイストワール、つまりヒストリー(物語)になる。  だけど、実際に起こっている出来事は、歴史書のように時間軸上を、単線的に進行しているわけないんですよ。まさに同時並行で進行しているわけでしょ。」

    —『自分の頭と身体で考える (PHP文庫)』養老 孟司, 甲野 善紀著

    「そうなんです。あれは明らかに音声なんです。音声は時間軸上を単線的に進行するから、そうすると、どうしても時間が掛かる。ですから、西洋人にとって、黙読を発見するというのは、大発見なんです。本を声を出さずに読むというのは、ヨーロッパでは一種の悪魔の所業に近かったのです。昔の本というのは、必ず音読するものだった。  だから、甲野さんのやってるのは、速いわけです。同時並行処理だと当然、速くなる。そして速くするために、甲野さんは支点を外すんだとおっしゃってるわけなんですね。つまり支点が動くんですね、逆に言うと、支点が複数あるから速いとも言えます。普通、支点は一個しかないですから。そこで甲野さんが「固定的な支点をなくしていく」と言うとどうしたって、聞いている人は固定的な支点があるものと思って話を聞きますから、「分からない」ということになるんだと思います。」

    —『自分の頭と身体で考える (PHP文庫)』養老 孟司, 甲野 善紀著

    「たとえば物理化学は極端に言えば、もともと天体の動きからできてきたのです。天体の動きに対して、擬人法を嵌めても、駄目に決まっています。つまり「お月様はどういう考えで、地球の周りを回っているのか」という質問は、成り立たないのですよ。  けれども、生き物を見た瞬間に、話が違ってくるわけです。だって、生き物の非常に大きな特徴は、ある意味では合目的性ですから。そこを抜いてしまうと、生き物ではなくなってしまう。つまり無生物になるわけです。  ジャック・モノーが『偶然と必然』という本を書いた時に、その中で生物の特徴を三つ挙げたのですが、その一つに、合目的性って入っています。  モノーは生物学を近代科学にしたというか、自然科学にした人の一人です。言葉をかえれば物理化学的な生物学を作ったとも言えます。そのモノーが生物を対象に扱う時は、生物の性質の中に、いきなり「合目的性」ということを入れてしまうんですよ。そのくらいに生物の特徴的な性質だから、生物学の中に合目的性が入ってくるのは、これは当たり前なのです。」

    —『自分の頭と身体で考える (PHP文庫)』養老 孟司, 甲野 善紀著

    「だから、モノーのようにそれを前提の中に、組み入れてもいいし、僕のように合目的性とは何かということを、別な形で説明してもいい。ともかく、そういうものを抜きにした世界というものが世界だと思っているのは、ただそう思ってるだけのことであって、その人だって、甲野さんがそういう言い方をした時に、それを聞かないというのは、何か理由があるわけですよ。「そんな話を受け入れたら、こっちの商売が成り立たない」というわけでしょ。つまり、全く合目的的に行動しているわけです(笑)。それだけのことなんですよ。  僕はそういう人を頭の固い科学者って言うんですが、それと「科学とは何ぞや」ということは、実は関係ないのです。だからそういうことにこだわるのは、もう馬鹿げているというか(笑)……。東大を出て、こういう仕事をしていたら利口だって思ってるのは、偏見ですよ。だって、そうでしょ、慶応の医学部を出たって、大真面目でサリン撒いたりするんです。僕はどうしてもああいうのは理解できない。それで反省までしている。四十過ぎているわけでしょ。反省するならはじめから撒くなよと言いたい(笑)。」

    —『自分の頭と身体で考える (PHP文庫)』養老 孟司, 甲野 善紀著

    「こういうふうに教わったから、こういうふうにやりますと。それで、上九一色村で工場建てて、サリンを作った。何であんな物を作って撒くのか、なぜ霞ヶ関に撒くのかって聞けば、全然、当人には理由は分からない。「あのあたりに撒け」と言われたから撒いた、というんでしょ。やはり人間って、どこの大学を出てようと、どんな職業についていようと、そういうふうに、わけの分からないことを、たくさんする生き物ですよね。  頭の固い人たちの頭の中って、甲野さんのような、ある意味で当たり前の説明を聞くとグチャグチャになるんじゃないんですかね。そういう説明を受け入れた瞬間に、自分の世界が壊れる。それが怖いから受け入れないわけでしょう。おそらくそういう恐怖があるから拒否するんですよ。  そういう人の住んでいる世界というのは、自分で勝手に作った、非常に弱い世界ですよね。そんなものは人工的な世界でプレハブの家みたいなものです。プレハブの家じゃ、科学はできません。武道もそうだと思いますが、そんなことは当たり前じゃないですか。ただ、最近はプレハブにすがる人が、すごく多いのかもしれない。」

    —『自分の頭と身体で考える (PHP文庫)』養老 孟司, 甲野 善紀著

    「だって、そうでしょ。意識の歴史なんて、たとえば二十代の人だったら自分の意識については、二十何年しかないんです。けれども、身体については、何十億年という歴史があるわけですから。  ところが、その身体の方を、自分の思う通りになると思ってるから、薬飲んだり、バイアグラ飲んだりしてる。それで死んでしまう人までいる。それは当たり前なんです。体のほんの一部である頭で、身体をコントロールしようとするから、変なことが起こるのは当然なんです。また、本気で意識によって体をコントロールできると、思っている人がいますからね。」

    —『自分の頭と身体で考える (PHP文庫)』養老 孟司, 甲野 善紀著

    「そうなったら今度は「誰でも大学へ行けるという時代に大学も出ていないのは恥ずかしい」ということになってしまって、別に大学に行きたいと思ってもいない者まで、大学をめざすようになってしまいました。戦時中、ちょっと変わったことを言うと「非国民」とかいうレッテルを貼られたようですけれど、今では大学に行っていないというのは、「非国民」ほどではないにしても、何か後ろめたいような、そんな雰囲気がありますよね。」

    —『自分の頭と身体で考える (PHP文庫)』養老 孟司, 甲野 善紀著

    「だって、講演に行くにしろ何にしろ、必ず経歴には「何年、東大卒」って書かれる。ということは、要するに卒業させてもらっていないんです。いつも「何であんなに楽に卒業できたんだろう」って思っていたのですが、「なるほど、ずっと卒業しないんだから、楽だったんだ」と納得しました。  僕は以前から「東大で入試を通ったら、卒業証書をやれ」という意見だった。入試に受かって卒業証書をやれば、後は本当に勉強したい奴だけが、大学に残るだろうということです。そうすれば、ほとんどの学生はいなくなりますよ。現に外交官試験に受かったり、司法試験に受かれば、辞めてしまうんですからね。べつに卒業しなくていいんです。  すると、いつまで経っても学歴が残ってるということは、未だに東京大学を卒業してないということなんです。それが学歴の意味ですよ。それが共同体なんです。「俺は何とか会に属している」というヤクザと同じで、暗黙のうちにそこに属しているんです。  そうすると、そこに属しているから、そこの共同体の信用を落とすようなことはしないだろうというのが、実利的な意味なんですよね。そして、もう一つは、そこに属しているんだから、もしかしたら、偉い人に口きいてくれるかもしれないとか、そういうことでしょう。だから、ただ今現在だけを見てその人を評価しているわけではないんですね。実は学歴というのは、共同体の所属を表わしている、という意味しかないんです。」

    —『自分の頭と身体で考える (PHP文庫)』養老 孟司, 甲野 善紀著

    「科学が発達すれば経済的にも潤う、ということなんでしょう。けれども、池田清彦さんじゃないけれど、僕は科学を信じてませんよ。科学は方法論ですもん。何にも保証しません。  何でああいう方法論が発達したかというと、キリスト教世界にしても、ユダヤ教世界にしても、イスラム世界でも、社会的な押しつけというのはさっきのお話の保険制度どころじゃなく徹底的にすごいから、それに対抗し実証してみせるために科学は発達してきたのです。「そっちはそんなことを言うけど、グダグダ言っていないで、実際にやってみてごらん。こうなるじゃないか」とやるわけです。つまり、そういう社会的な押しつけの解毒剤として発達したわけです。  日本人はそんなきついことを言いません。何しろ『藪の中』、『羅生門』ですから。三人三様の話をしたら、どれかが本当かもしれないし、全部嘘かも分からないという、そういう世界だから、べつに科学は要らないんですよ(笑)。だから日本人は本当の科学はやらない。いい加減というか、適当で済ましてしまう。」

    —『自分の頭と身体で考える (PHP文庫)』養老 孟司, 甲野 善紀著

    「科学の本来の素直な役割は、やはり「知りたい」ということではないでしょうか。知りたい、本当のことを知りたいという、知的好奇心。日本の場合は、科学はそういう役割は持ってない。日本のいわゆる科学というのは、西洋からすごい船や機械が来ると「えっ、そんなことできるの?」という具合に、やってますね。日本の科学は西洋の科学とその基盤が全く違います。今、ここでしているような話というのは、僕は、科学ではなくて、常識だと思うから、世の中がものすごい非常識ということになるけれど、逆にあちらから言えば、こちらが非常識ということになっているのでしょうね(笑)。」

    —『自分の頭と身体で考える (PHP文庫)』養老 孟司, 甲野 善紀著

    何故ここまで本を読むのが楽しくて仕方なくて好きなのか考えたんだけど、読書すると、人と会って話すより深いコミュニケーション取れたような気になるからかな?読書って人とのコミュニケーション欲なのかな?

    「その点スポーツ選手でも、この間 NBAを引退したマイケル・ジョーダン選手の動きは違いますね。全く無駄がない。現在は、私の動きにとても関心を持って下さっている、昔バスケットボールの実業団にいて、今は、中学、高校で体育を教えている方が、道場で私の動きを体験してから「ジョーダン選手の動きの原理が分かってきた、彼は体をひねって使っていないんだ」とあらためてバスケットボールの体の使い方の総見直しに入られているんです。けれども、そうするといわゆるバスケットボールの基本と全く違ったものを教えなければならなくなるそうで、今、喜びながらも悩まれています(注:その後この高校は東京代表となってインターハイに出場した)。」

    —『自分の頭と身体で考える (PHP文庫)』養老 孟司, 甲野 善紀著

    「武道なんかも、言ってみれば、消した世界の上ですからね。日本独特の、消すと消さないがあると思いますよ。消す、消さないの二重構造の複雑さというようなものを、ちょっと理屈にしてみようかなと思っているんです。  それから、実際にあったことであるにもかかわらず、きれいに消えてしまった、というのもある。終戦直後に、教科書の都合の悪いところに墨を塗ったでしょ。これはきれいに消されたんですね。これを経験したのは僕らの世代だけなんですが、それは特殊なことだった。だから教科書の検定が、相変わらず続いてる。」

    —『自分の頭と身体で考える (PHP文庫)』養老 孟司, 甲野 善紀著

    「他人に伝えられないことはないも同じだっていうのは、これは日本人にはとても理解できないことですね。つまり重要なことというのは、文字や言葉に言い表わせないというのが、日本の文化の特色のように言われていますから。それこそ不立文字で有名な禅とか武術とかそういう体の感覚の世界では当然の常識ですからね。何しろ武術の方でその妙境を詠んだ道歌に、    妙の字は若き女の乱れ髪    ゆふにゆはれずとくにとかれず  というのがあるのですが、この「ゆふ」というのは、「結う」と「言う」にひっかけて、「とく」というのは「梳」あるいは「解く」と「説く」をひっかけているのですから(笑)。」

    —『自分の頭と身体で考える (PHP文庫)』養老 孟司, 甲野 善紀著

    「だから僕は日本人として暮らす方が芸が要ると思っているのです。本当に難しいです。だからいわゆるグローバリゼーションがたいへんなのも、やはり芸が必要だからですね。それだけの芸があるかということを問われているような気がします。だから戦争するとか金を稼ぐということでは、日本の共同体は有能だということを証明してきたわけですよね。負けるには負けたけれど一応戦争はこなしてきた。バブルで経済も一応はこなした。問題は、その先です。だから生き残るというのが何を意味するのか、ということでもあるわけです。」

    —『自分の頭と身体で考える (PHP文庫)』養老 孟司, 甲野 善紀著

    「それは危ないものを封じ込める智恵なのでしょうね。解剖も全く同じですよ。出てきた時はものすごく胡散臭いはずなのです。  だってベサリウスには処刑場の骨を盗み出したという逸話が残っている。それこそ医学における古武術みたいなものです。本当に古流という感じです。だから基礎医学では一番古い流派だって言って威張ってるわけ。けれども、どこかで今では解剖なんてもう仕事にならんと思っている。僕が方法論を学べばいいんだよって言っても、おそらくもう分からないと思います。  古くなってくると、こうなっちゃうんですよ。だから解剖やってる当人たちにしてみれば「今の専門化していく世の中で、俺どうなっちゃうんだよ」ってなる。もうどっち行っていいか分からなくて、お手上げ状態になってるんですよね。解剖の世界も一種の修行ですから。」

    —『自分の頭と身体で考える (PHP文庫)』養老 孟司, 甲野 善紀著

    「 何度も言いましたが、あくまでも私自身のためにやっていることが、より真剣であればそれは、結果として、他の人たちの参考にもなるでしょう。それが自然だし、それで十分だと思います。時には人のために命を張ることもあるかもしれませんが、それもあくまでもそのことに自分が充実感をおぼえるからでしょう。」

    —『自分の頭と身体で考える (PHP文庫)』養老 孟司, 甲野 善紀著

    「昔だったら出家遁世で、山へ入って塚原卜伝じゃないけど鍋蓋の試合でいいわけですけれど、今はどうもそういう時代じゃないから、どうしたものかなと思っています。東南アジア、たとえばマレーシアの田舎にでも引っ込もうかと、しょっちゅう思うのですがね。  思い切って個人になってしまうのなら、それはそれでいいわけですし、面白いと思うんです。別に僕が出家遁世したからって、世の中がどうなるわけでもありません。さっさと閉会の辞を述べて、述べなくてもいいんだけど、一種の蒸発ですね。」

    —『自分の頭と身体で考える (PHP文庫)』養老 孟司, 甲野 善紀著

    「今回はこれだけ現在の日本の共同体に対して辛辣な発言をされたのに、それでも全く品が悪くならないというのは、言ってみれば毒舌がその人個人のうさばらしではないからでしょうね。  現代の武道界に、養老先生ほどの品のある人がどれだけいるか。武道界に限らないかもしれないけれど、いわゆる剥き出しの権力欲みたいなものが見えてしまうというのは、はっきり言ってやはり品が悪いです。品の問題というのは共同体の洋の東西を問わず、人を観る上で重要な要素だと、私は思います。剥き出しの我欲が絡んでいるのは、どうしても絶対に品が悪くなります。  私は人間の価値の中で品格の問題というのは、とても重要だと思います。この品は付け焼刃ではできませんから、隠していても必ずどこかに現われます。養老先生はこれだけ過激な話をされたのに品が全然崩れない。人としての風景のいい、あらためて見事な方だな、と思いました。」

    —『自分の頭と身体で考える (PHP文庫)』養老 孟司, 甲野 善紀著

    「たぶん僕が損得でものを言っているのではないからですよ。僕がいわゆる反体制が嫌いなのも、体制を糾弾しているようで、それがどこかで自分たちの利害と関わっているように見えるからなのです。そうするともう汚いし、情けない。」

    —『自分の頭と身体で考える (PHP文庫)』養老 孟司, 甲野 善紀著

    「養老さんとはスキー場で知り合った。といっても、スキー仲間というわけではない(いや、実際、一緒にスキーしたこともある)。新潟の A RAIというスキー場で毎年やっているシンポジウムで初めて同席させていただいたのである。わりと低めの小さな声で、しかもかなり早口でしゃべるので、最初は何を言ってるのか全然わからなかった。ぼくも江戸っ子でかなりの早口だったので、かつてはよく聞き取れないと文句を言われたものだが、その比ではない。しかし、養老さんには誰もが一目置いており、また、そのしゃべり口調にもかなり慣れているらしく、その周囲にはつねに笑い声が絶えなかった。みんなが笑っているのに一人わからないのも悔しい。それで、他の人はともかく養老さんが話すときだけ必死に耳を傾けているうちに、だいぶ聞き取れるようになった。もしかしたら、これも養老さんの作戦なのかもしれない。とにかく、あまりまじめな話をした覚えはないのだが、幾度かマージャンをやったことがある。奥様ともお嬢さんともやった。連日四、五時間にわたるシンポジウムの後で朝までマージャンをやるのはぼくらだけだった。奥様の話だと「お仕事しているのかと思って部屋をのぞくと、いつもテレビゲームをやっている」とのこと。その一点でぼくは養老さんにすごい親しみを覚えるようになった。」

    —『自分の頭と身体で考える (PHP文庫)』養老 孟司, 甲野 善紀著

    「ぼくのように海外調査ばかりやっている人間の中にも、本当の観察ができる人間はほとんどいない。そうした観察眼はそう簡単に身につくわけではない。しかし、養老さんは別格である。さすがに解剖学者にして昆虫採集の名人だけあって、目がつねに細部にまで行き届く。ただ読んでいるだけでも、その光景がくっきりと浮かんでくる。見事としか言いようがない。」

    —『自分の頭と身体で考える (PHP文庫)』養老 孟司, 甲野 善紀著

    自分の頭と身体で考える 甲野善紀 養老孟司

    まさにまさに。ルールと慣習に縛られたスポーツ。師は、弟子に技を伝承する。本来、守破離で技を磨いていくものなのに、村の権威に胡座をかいてしまうことは悲しい。
    愚直に関心を集め続けることができる姿勢を美とすることが日本の一つの美だと思う。

    「養老  歴史学は書かれたものに基づいて書きます。それをラテン語ではファクタ =ディクタと言う。「書かれた事実」という意味ですね。いまの言葉で言えばインテリジェンスで、書かれたものから判断していくのです。新聞を読んで、その裏に何があるかということを判断していくのと非常に近い作業です。  それとは違って、モノに基づいてやるのは考古学です。これは歴史とは違うのです。日本ではその考古学が学問として体を成していない。それが、例の「神の手」の事件でばれてしまった。  僕は、歴史学は文献学だからだめだと言うつもりはありません。でも、文献学には文献学の限度があります。にもかかわらず、モノの視点を持った歴史学はほとんどない。一生懸命やる人はいるけれど、なかなか一般的ではないところがあります。」

    —『本質を見抜く力―環境・食料・エネルギー PHP新書』養老 孟司, 竹村 公太郎著

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    2026年03月28日
  • 子どもが心配 人として大事な三つの力

    Posted by ブクログ

    デカルトが大好きな養老孟司さん

    養老孟司は栄光学園4期生

    赤ちゃんがクレヨンとか何でも口に入れようとするのは免疫を高めようとする本能らしい。昔の子供が多くて子育てが雑だった時代の方が、それをお母さんが止める目が行き届かなかったから昔の人の方が免疫力が高いらしいw今の人花粉症が異常に多いのも、そういう過保護から来てるって、腸の研究してる医者が言ってたよ。

    自己肯定感って言葉あるけど、肯定否定以前にそんなに自分に興味がない。何で自分に目を向けなきゃいけないのかよく分からない。めちゃくちゃどうでもいい。自己肯定感って言葉自体がなんか自分に興味を持たなければならないみたいな圧を感じて苦手。

    子育て世帯に寄付したいけど、それが政治みたいなランダムな寄付ではなくて、自分に少なからず縁があった人に出来るなんて有難くて幸せなことだと私は思うけどね。少なくとも詐欺師に金奪われたり、ホストに貢ぐよりは良い使い方には違いないと思うんだけどな。お金は回りものだし、良い使い方したいから。

    宮口 幸治
    (みやぐち こうじ)は、日本の児童精神科医・医学博士。立命館大学総合心理学部・大学院人間科学研究科教授[1]。神戸市出身[2]。京都大学工学部を卒業し建設コンサルタント会社に勤務後、神戸大学医学部に再入学し、卒業。卒業後は、神戸大学医学部附属病院精神神経科、大阪府立精神医療センターで働き、児童精神科医として精神科病院や法務省宮川医療少年院、女子少年院に勤務した。2016年より立命館大学産業社会学部教授に就任[3]。また、困っている子どもたちの支援を行う「日本COG-TR学会」を主宰している。2020年には、『くらげバンチ』にて『ケーキの切れない非行少年たち』を原作とした漫画連載が始まる。子どものこころ専門医、日本精神神経学会精神科専門医、医学博士、臨床心理士[4][5]。

    高橋 孝雄
    慶應義塾大学医学部小児科学教室 教授。1957年生まれ。東京都出身。1982年慶應義塾大学医学部卒。小児科を専門に選び、小児神経学を学ぶために1988年に渡米。マサチューセッツ総合病院小児神経科、ハーバード大学医学部などの勤務を経て1994年に帰国。その後もマサチューセッツ総合病院神経科、Assistant in Neurologyを兼ねる。2002年に慶應義塾大学教授(医学部小児科学)に就任、学内では、副病院長、医学部長補佐を歴任。その間、12年にわたり感染対策、医療安全、研究倫理などの危機管理に携わった。学外では、小児科学会会長、国際小児神経学会理事、小児神経学会理事長などを歴任。

    小泉 英明
    (こいずみ ひであき、1946年 - )は、日本の物理学者、脳科学者。東京都出身。弟は文化人類学者で大阪大学名誉教授の小泉潤二。妻はソプラノ歌手で国立音楽大学教授の小泉惠子。十二代市川團十郎は幼稚園の同期生[1]。1962年東京学芸大学附属世田谷中学校卒業。1965年東京都立日比谷高等学校卒業。1971年東京大学教養学部基礎科学科卒業、日立製作所入社[2]。偏光ゼーマン原子吸光法の創出と実用化により、1976年東京大学理学博士。日立基礎研究所所長、日立製作所役員待遇フェロー。東京大学先端科学技術研究センター客員教授、日本工学アカデミー副会長。内閣府日本学術会議連携会員。欧米・豪州の研究機関のアドバイザーを兼務。中国工程院外国籍院士・東南大学名誉教授。科学技術振興機構領域総括・研究総括、日本分析化学会会長[3]。

    高橋和也
    自由学園男子部(中等科・高等科)を経て同最高学部(大学部)を卒業。 早稲田大学大学院(教育学研究科学校教育専攻)を修了したあと、1986年に自由学園本務教員となり、男子部長を経て2014年4月 から副学園長を務めていた。 共著に尾木直樹編著『子どもが自立する学校』(青灯社)がある。


    「病院に来てくれさえすれば、そこで医療は成り立ちます。でも連れてこられない子どもたちは、病院とは縁のないままに放っておかれてしまいます。それでどうなっていくかというと、さまざまな問題行動を起こすようになり、しまいには何かの事件の加害者になって警察に逮捕される。それで少年鑑別所などに収容され、初めて「ああ、この子にはこういう障害があったのか」と気づかれる。これでは病院の出る幕はありません。  また、たまたま病院で診察することができれば、心理検査を行うなどして、医師はその子どものどこに問題があるかがわかります。ただ残念ながら、見立てが終わったあとは医師ができることは実はあまりない。患者さんが多すぎて時間が取れないこともあり、投薬治療をするか、心理士にカウンセリングをしてもらうか、しばらく様子を見るか、いいところを見つけて自信を持たせてあげるか。その程度のことしかできないのです。」

    —『子どもが心配 人として大事な三つの力 (PHP新書)』養老 孟司著

    「宮口 厄介なのは、学校のテストの点数を見ただけでは、なかなか判断しづらいことです。テストの点数というのは、基礎的な認知の力はもとより、学校でいろいろ覚えたこと、本人のやる気、親の経済力をはじめとする家庭環境など、さまざまな要素が絡んで、総合的にアウトプットされたものだからです。  もちろんテストの答案用紙を見れば、繰り上がりの計算ができないとか、文章題の内容が理解できていないとか、何ができないかはわかります。でもほとんどの親も教師も、その根本原因がどこにあるかがわからないと思いますね。  そこで私は、認知機能の弱さに原因がある場合もあることを見つけ、さらにそれを改善するために、「コグトレ」という教材をつくったのです。」

    —『子どもが心配 人として大事な三つの力 (PHP新書)』養老 孟司著

    「少年院に来る子どものなかには、仲間のなかで下に見られて〝パシリ(使い走り)〟扱いされたり、いじめられたり、命じられて悪いことをやらされたりしていたために、たとえば「悪いことをすると、よくやったと悪友から褒められる」など、自己評価が歪められているケースが少なからず見られます。そうなってしまうと、自分を正しく知ることが非常に難しくなると言わざるをえません。」

    —『子どもが心配 人として大事な三つの力 (PHP新書)』養老 孟司著

    「虫とり、たしかにいいですね。空間的な認知能力、鳴き声や羽音など音に対する認知能力、さまざまな能力が鍛えられます。子どものころから虫とりを楽しめば、認知能力は鍛えられますね。」

    —『子どもが心配 人として大事な三つの力 (PHP新書)』養老 孟司著

    「でもご両親には、本能的に「子どもの心を読み取る力」が備わっています。両親の遺伝子を半分ずつ受け継いで生まれ、同じ家で暮らしているのですから、子どもの様子を見ていれば、本能的に異変に気づけないわけがない。もし気づけないとしたら、ネットをはじめとするさまざまな情報に邪魔されて、その能力が衰えているのでしょう。養老  目の前の子どもの状態よりもネットの情報を参考にしてしまう風潮はたしかにあると感じます。高橋  養老先生のご著書には、時折そうした切り口が出てきますよね。「何かが違うと感じる、でもよくわからん」といった具合に。私は、世の中から「賢人」と称される方が違和感を抱いた場合には、その声に丁重に耳を傾けるべきだと確信しています。  大人は自分の価値観をむやみに押しつけるのではなく、まずは子どもの声に耳を傾けて、代弁してあげることから始めるべきではないでしょうか。」

    —『子どもが心配 人として大事な三つの力 (PHP新書)』養老 孟司著

    「子を授かり、子を育てるというのは、本来、喜びであるはずです。そうならない原因の一つは、社会全体が若い世代に、「少子化のいま、子どもをつくって、立派な大人に育てなさい」というプレッシャーを、暗黙裏にかけていることにあるのではないでしょうか。それにより「子どもが欲しい」という本能的な欲望が抑えつけられている部分があるように思えてなりません。」

    —『子どもが心配 人として大事な三つの力 (PHP新書)』養老 孟司著

    「諸外国が導入しているから日本でもやってみます」などという浅い考えでは、むしろ将来、必ず痛い目をみますよ。」

    —『子どもが心配 人として大事な三つの力 (PHP新書)』養老 孟司著

    「その辺りの感覚を、メディアアーティストの落合陽一さんが「情報は質量のない世界だ」と表現しているのはおもしろい。多くの人は、「自分たちは自然科学をベースにした教育を受けている。それに基づいて考えれば、質量のある世界で起こることが現実だ」と思っています。けれどもよくよく考えると、それもかなり当てにならない。結局は頭で考えた世界ですから、自然科学の体系は質量のない世界と見ることもできる。  質量のある世界と質量のない世界をどう結びつけるかが、問題になってくるような気がします。」

    —『子どもが心配 人として大事な三つの力 (PHP新書)』養老 孟司著



    「大きな問題としてあげられるのは、親たちが自分の育児に自信をなくしていることです。そもそもこの世に「正しい育児法」が存在するかどうかも疑問ですが、それを是として、「正しい育児」とはどういうものか、答えをネットに求める傾向があるのです。情報を〝つまみ食い〟するのに、ある程度信用できて、一番お手軽なフィールドがインターネットだということでしょう。  ネットを検索すると、実際、「正しい」と思われる情報がたくさん出てきます。なかでも自分の考えに近く、役に立ちそうな情報を拾い読みしていくと思うんですが、そのときに陥りやすい問題があります。それは、自分が実践している育児と比べて、少しだけレベルの高い方法に「正しさ」を求めがちだ、ということです。  そうなると、もうキリがない。「これは自分より正しい」「こっちはもっと正しい」となって、ネット検索が「正しい育児」という〝鬼〟をつかまえる〝追いかけっこ〟のようになる。これが「負け続ける育児」につながってしまうのです。  たとえるならそれは、「どんな栄養素を摂れば、病気にならない体をつくれるか」と、正しい栄養の摂り方を求めてネット情報を集めまくるようなものです。検索すれば「亜鉛が不足すると、こんな症状が出ます」「鉄分が不足すると、こんな病気になります」といった具合に、たくさんの情報が出てきます。  しかし、どんなに体に大切な栄養素でも、大量に摂ればいいというものではない。足りないと病気になるということと、摂れば摂るほど健康になるということはまったく別の話ですが、どうも育児でもそれと似た誤解が広がっていると思います。」

    —『子どもが心配 人として大事な三つの力 (PHP新書)』養老 孟司著

    「義務教育とは、「子どもがイヤがっても、義務として学校に行かせる」ことではない。子どもが「学校に行きたい」と望めば、それを権利として認め、教育機会を与える義務が親にある、ということなんですよね。このことを知って、その通りだと、ハッとさせられたことを覚えています。」

    —『子どもが心配 人として大事な三つの力 (PHP新書)』養老 孟司著

    「当時は子育てに対する社会的な要請が強くて、バイアスがかかっていた半面、共同体は機能していました。たとえば悪ガキがいれば、周りの大人たちが「このまま放っておくと、ろくな大人にならない。地域の仲間として受け入れるわけにはいかなくなる」と思って、叱ったり、説教をしたりする。そういうことが昔はふつうにありました。 ところがいまは、共同体で子どもたちを育てるという意識が圧倒的に薄れています。共同体が消えていくのと並行して起きている現象だと思います。 「子どもを正しい大人に育てるのは両親の責任だ」と言われればその通りですが、その延長で、社会が無関心になっているのは問題です。もっと社会全体が子どもたちの教育に責任を持つべきですね。」

    —『子どもが心配 人として大事な三つの力 (PHP新書)』養老 孟司著

    デカルトが大好きな養老孟司さん

    「一方、しつけという大切な問題もあります。重要なのは発達に応じた順番です。生まれてからの数年間はしつけよりも愛情と関わりが大切なのです。これは教育の基本であって、約六百年前の世阿弥の『風姿花伝』にも教育論が明瞭に整理されていますね。最初はこの世界に興味を持たせることから始まるのです。  昨今増えているように、まだ土台が築かれていないこの時期にお受験のためにがんばらせるような教育を与えるのは感心しません。意味がないと言ってもいいくらいです。基本的な神経回路が構築される時期に必要なのは、自然環境からの本物の刺激です。情報が削ぎ落とされた人工物では、基本的な神経回路が正しく形成されません。」

    —『子どもが心配 人として大事な三つの力 (PHP新書)』養老 孟司著

    「 実体験の具体的な例でお話ししますと、例えば、家庭のテレビがあります。色をつくりだすのに、赤・緑・青( RGB)の光の三原色を基本にしています。初期のブラウン管テレビでは、希土類金属が発する鋭い輝線スペクトルを単純に重ねてさまざまな色を出していました。一方、自然の世界は、まったく違います。なだらかだったり尖っていたりする複雑なスペクトルが重なりあって最終的な色が現れてきています。脳のなかの色覚受容体の個人差によっても見えているものは異なります。  音だって同じです。ピアノの音は素敵ですが、周波数スペクトルを計測すると基本は音叉の響きに近い正弦波です。自然の音、たとえば雨だれや風や葉ずれの音、そしてせせらぎや波の音は、とても豊かな広い周波数を持っています。幼いときに、自然と触れ合うことによって、豊かな幅広い感覚系が育まれるのです。  自然界の形をよく見てみると、縦線も横線も、そして曲線もとても豊富です。一方、人工の世界は、たとえば都市を見ると、横や縦の直線が異常に多いことがわかります。プラスチックの造花を部分的に拡大してみても、大きな変化は見られませんが、自然の花々は拡大すると次々と違う世界が広がります。このように豊かな情報を乳幼児期に取り込むことが、一生の宝になると私は思います。」

    —『子どもが心配 人として大事な三つの力 (PHP新書)』養老 孟司著

    「だから脳が柔らかな幼少時は特に、自然のなかに身を置き、同時にたくさんの人と接して、できるだけ多くの実体験をさせることが大事なのです。子どもに限らず大人も、現代人はそういう実体験の大切さに対する認識が希薄になってきていますから、もっと危機感を持たなければいけないと思います。バーチャル体験への依存が高まると、「知っている」という思い込みがどんどん強くなることも問題です。」

    —『子どもが心配 人として大事な三つの力 (PHP新書)』養老 孟司著

    「たとえば赤ちゃんが食べ物に手を突っ込んで、なかにある何かを取ろうとしているとします。そのときに親や周囲の大人が「手が汚れるからダメよ」と食べ物を取り上げたりすると、赤ちゃんは神経回路を刺激する機会を阻害されたことになります。  またハイハイしているときにぶつからないように物をどかしたり、転ばぬ先に手を差し伸べたり、大人が赤ちゃんの行動に必要以上に手出しをするのは、神経回路をつくるという、子どもにとって大事な時期に、刺激をシャットアウトしてしまいかねないのです。  もちろんケガや病気にならないよう見守り、保護してあげることは大切ですが、行きすぎは禁物です。きつい言い方をすると、極端な過保護、過干渉は、脳神経科学的に見ると、赤ちゃんにさるぐつわをはめて手足を縛るようにして脳神経回路を構築できなくしてしまう過程に近い、ということです。」

    —『子どもが心配 人として大事な三つの力 (PHP新書)』養老 孟司著

    「舞台芸術の人たちって、ときどき、「神が降りてきた」というような表現を使いますよね。舞台の上で感極まると、自分の意志ではないように身体が動いていく。それは舞台芸術の最高の状態だと。梅若さんは、立禅(立って行う瞑想)のなかでその状態に入れるときがあるのです。  脳科学から言うと、「神が降りてくる」とは、演技への集中が極まると、前頭葉の働きがピタッと止まった状態らしいとわかりました。鍛錬を積んで、身体と一体化した演目が、前頭葉の判断・指令を必要とせずに、自動化されて演じられたとも捉えられます。梅若さんは「脳の高度な指令とは関係なく舞っていたのか」と少しガッカリしていましたが、それこそ至上の舞だったのだと思います。」

    —『子どもが心配 人として大事な三つの力 (PHP新書)』養老 孟司著

    「舞台芸術の人たちって、ときどき、「神が降りてきた」というような表現を使いますよね。舞台の上で感極まると、自分の意志ではないように身体が動いていく。それは舞台芸術の最高の状態だと。梅若さんは、立禅(立って行う瞑想)のなかでその状態に入れるときがあるのです。  脳科学から言うと、「神が降りてくる」とは、演技への集中が極まると、前頭葉の働きがピタッと止まった状態らしいとわかりました。鍛錬を積んで、身体と一体化した演目が、前頭葉の判断・指令を必要とせずに、自動化されて演じられたとも捉えられます。梅若さんは「脳の高度な指令とは関係なく舞っていたのか」と少しガッカリしていましたが、それこそ至上の舞だったのだと思います。」

    —『子どもが心配 人として大事な三つの力 (PHP新書)』養老 孟司著

    「夢中になれる何かがあることは、幸せを感じる大きな要素の一つだと思うのですが、ネットゲームのように人工的につくられたものはつい行きすぎて、刺激が強くなりすぎるから良くないのですか?養老  まず夢中にさせることを目的としていること自体が、噓くさいですね。だからそこにはまると、幸せになるどころか、脳に過剰な刺激を与えて危険になるのです。  もっとも虫に夢中になっている私だって、崖から落っこちそうになったり、うっかりするとクマに襲われたり、けっこう危ない目に遭っています(笑)。安全が保障されていなければ夢中になれない、ということでもない。危険も込みで夢中になれる、危険に遭遇することもまた本望と思えるなら、その人は幸せですよ。」

    —『子どもが心配 人として大事な三つの力 (PHP新書)』養老 孟司著

    「たとえばファーブルは、自分自身が周囲の人たちとは違う、変わっていることを自覚していました。「野良仕事に出かけるおばさんたちが、朝、しゃがみこんでアリを見ている自分を見かけ、帰ってきたときもまだ同じことをしているのを見て、『あの子、変わってるね』としゃべっていた」という話を、ちゃんと書き残しています。  そう言われることを怒っているのでも、恥ずかしがっているのでもなく、「あー、やっぱり自分は変わった子に見えるんだろうな」と、淡々と受け止めています。」

    —『子どもが心配 人として大事な三つの力 (PHP新書)』養老 孟司著

    「何かに関心を持ち、もっと深く知りたいと思えば、自然と夢中になって、のめりこんでいくものです。もちろん人によって、関心の持ち方は違います。大事なのは、誰かに教えてもらうのではなく、自分自身で突き止めたい何かを見つけ、意欲的に取り組めるかどうか。そこが、何かに夢中になれる人と、なれない人の違いでしょう。  私はよく「勉強は自分の頭を整理することですよ」と言っています。逆に言えば、自分が見ている世界の見方を整理するために勉強するのです。学者が「根本原理を一つ発見した」と言えば、それは「頭を整理して、原理がわかった」ことにほかなりません。」

    —『子どもが心配 人として大事な三つの力 (PHP新書)』養老 孟司著

    「養老先生にいろいろなことを教わったなかで、いま、「伝説の解剖学者」とも呼ばれた三木成夫先生のことを思い出しました。大学に入った当時、東京医科歯科大学で助教授をしていた三木先生にたのみこんで、「骨学」の授業を取らせていただきました。とりわけ「人間はもともと、入り口が口で、出口が肛門の一本の管、ただのチューブだった」という三木先生の論理は印象的でした。  管の外側を構成しているのが皮膚、筋肉、神経などの「動物器官」で、管の内側は腸管や循環器、腎泌尿器、生殖器などの「植物器官」だという。その通りだと感動したことを覚えています。」

    —『子どもが心配 人として大事な三つの力 (PHP新書)』養老 孟司著

    「たしかに巨万の富を築いたがために、失うことの恐怖から逃れられず、幸せどころか不幸になる人も少なからずおられます。  かつて、米国の大富豪のご厚意で、ニューヨークの別荘を、お手伝いさんやシェフ付きで、二日間だけ自由に使わせていただける幸運に恵まれたことがありました。けれども、二日間幸せな時間を過ごしてみて、その素晴らしい経験だけでもう十分有難いと思いました。たしかに自家用ジェットも快適で便利だったし、外洋航海用の自家用船舶も、楽しいクルーズも素敵でした。心から感謝するばかりです。  けれども私は貧乏性なのでしょうか。養老先生がおっしゃったように、まさに今いるその場で「自足」できることが幸せなんですよね。そして好きな実験をしたり、初めての経験にワクワクしたり、新しいことをとことん考えるのが楽しくてしかたないのです。それに我欲の少ない人々の環のなかにいることが、とても幸せですね。」

    —『子どもが心配 人として大事な三つの力 (PHP新書)』養老 孟司著

    「ともすれば都市化のなかで失われていきかねない「人間らしさ」を取り戻すためには、知識や情報を頭で得るのではなく、自然のなかに身を置いて、五感を通して自分の周りで起きるさまざまな現象を感じ取ることが大切だ。  脳化社会の先を切り拓くのは、泥だらけになって遊びながら自然体験を積んでいる子どもたちなんだ──。  自分で自分の命を絶ってはいけない、ということをずいぶんおっしゃっていたこともよく覚えています。そこは生徒たちの心にもかなり響いたようです。講演後の質疑応答でも、「死を経験するのは本人ではなく、残される他者であるなら、死刑は刑にならないのではないか」「なぜ人は、自分の意思とは関係なく生まれるのか。そのような人生を生きる意味はどこにあるのか」「人工知能が人間を教えるようになると、人間が教える授業にどんな意味があるのか」などの質問が出ました。」

    —『子どもが心配 人として大事な三つの力 (PHP新書)』養老 孟司著

    「ともすれば都市化のなかで失われていきかねない「人間らしさ」を取り戻すためには、知識や情報を頭で得るのではなく、自然のなかに身を置いて、五感を通して自分の周りで起きるさまざまな現象を感じ取ることが大切だ。  脳化社会の先を切り拓くのは、泥だらけになって遊びながら自然体験を積んでいる子どもたちなんだ──。  自分で自分の命を絶ってはいけない、ということをずいぶんおっしゃっていたこともよく覚えています。そこは生徒たちの心にもかなり響いたようです。講演後の質疑応答でも、「死を経験するのは本人ではなく、残される他者であるなら、死刑は刑にならないのではないか」「なぜ人は、自分の意思とは関係なく生まれるのか。そのような人生を生きる意味はどこにあるのか」「人工知能が人間を教えるようになると、人間が教える授業にどんな意味があるのか」などの質問が出ました。」

    —『子どもが心配 人として大事な三つの力 (PHP新書)』養老 孟司著

    「自由学園とはどんな学校なのか、まず創立の経緯から教えていただけますか。高橋  ともにクリスチャンであり、ジャーナリストであった羽仁もと子・吉一夫妻が一九二一年に創立した学校で、二〇二一年にちょうど百周年を迎えました。羽仁夫妻には三人のお嬢さんがいて、その子どもたちを託したいと思える学校が見つからず、それならば自分たちの手でと、意を決してつくったのです。  創立者の羽仁もと子は、青森県八戸市の出身で、十六歳のときに東京への遊学を決意して故郷をあとにしました。その後、紆余曲折を経て、報知新聞社に入社。かねての念願が叶って、日本初の女性新聞記者の一人になりました。  時代はまだ明治の終わりごろですから、女性ゆえに取材先でからかわれたり、相手にされなかったりすることが多かったようです。それでも社内には、偏見なく女性の力を認める男性上司たちがいて、女性の視点で書いた記事がしだいに評価されるようになったといいます。」

    —『子どもが心配 人として大事な三つの力 (PHP新書)』養老 孟司著

    「私が中学を受験したころは、まだ、いまで言う偏差値のようなものがあるわけではなし、自分が数値化された評価で序列化されているという意識は希薄でしたよね。ましてや私の進学した栄光学園は、できて四年目の新しい学校でしたから、定まった評価もなくて。  でも先ほどの高橋先生の共同作業の話で思い出しましたが、同じ小学校の同級生が集まって、自分たちで勝手に勉強会をやっていました。受験する以上、システムは変えられないからと、どうすれば試験を切り抜けられるか、知恵を絞り合ったり、わからないところを教え合ったりしていましたよ。」

    —『子どもが心配 人として大事な三つの力 (PHP新書)』養老 孟司著

    「いま、高橋先生のお話をうかがっていて、「君子の三楽」という孟子の古い言葉を思い出しました。立派な人物の三つの楽しみとして、「父母兄弟が健在であること」「天や人に対して恥じるところがないこと」の二つに並んで、「天下の英才を教育すること」をあげているのです。子どもを教育する、言い換えれば自分の頭で考える人間に育てるというのは、大変な喜びだということです。」

    —『子どもが心配 人として大事な三つの力 (PHP新書)』養老 孟司著

    「栄光学園の思い出をもう一つ。授業が全部終わると、全員が上半身裸で校庭に出ていって、ラジオ体操をしたことを覚えています。真冬でもやっていました。いまもその伝統は続いているようです。やめると言うと、同窓会が文句を言うらしくて。「自分たちも辛い思いをしながらやったんだから、後輩の現役生もやれ」なんて、変な伝統になっています。」

    —『子どもが心配 人として大事な三つの力 (PHP新書)』養老 孟司著

    「私も森のことに関わっていて、なかでもすごいと感動したのは「神宮の森」です。ご存知のように、あの森は東京の真んなかにつくられた人工の森です。林学者や造園家たちが「百年を経て自然の林相になる」ことを目指して英知を結集したのですから、壮大なスケールです。「神宮林」と呼ばれる伊勢神宮の森もそうですね。式年遷宮といって、二十年に一度、社殿と神宝を新調して、天照大御神に新宮におうつりいただく祭事があります。そのときに使われる新宮のもっとも神聖な心御柱は、この神宮林から伐り出した、樹齢二百年のヒノキです。  そもそも神宮林は、将来の遷宮を視野に入れ、造営用に必要な木材を自給自足することを目標につくられました。自由学園の植林もそうですが、時間の単位が何十年、何百年ですから、物事を「長い目で見る」という視点も育まれますね。」

    —『子どもが心配 人として大事な三つの力 (PHP新書)』養老 孟司著

    「学問や研究というのは本来、即座に結果が出るものではない。ところが科学研究にもお金がかかるものだから、研究費の申請に際しては、何の役に立つかを明確に示さなければならなくなった。私はそんなふうに結果で研究内容を限定されるのが窮屈だし、どう出るかわからないのに結果をあたかも確実に出るかのように書類を書くことに抵抗があるので、「いりません」と言うしかない。とはいえ自分で研究費を稼げるかというと、どうしても限界があります。  そんなこんなでこの年になって、ようやく気づきました。国とか政治は、「いつ、誰の役に立つかわからないこと」を長い目で見守り、応援していかなくてはいけないということに。長年、「参議院は五十年より手前のことは考えない議会にしろ」と言ってきたのは、そういうこと。国の運営には、長い目で見ることが必要だということです。  とりわけ教育は、そういう姿勢が求められる、一番身近な問題だと思いますね。十年、二十年先には大人になって、国を、世界を背負っていくのですから、どういうふうに子どもたちに育ってほしいかを考えれば、おのずと教育の重要性がわかるはずです。」

    —『子どもが心配 人として大事な三つの力 (PHP新書)』養老 孟司著

    「私も子どもが苦労しながらその子ども自身になることを認め、励ましたい。逆に言えば、大人の尺度で子どもの考えや気持ちをねじ曲げてはいけないと思っています。」

    —『子どもが心配 人として大事な三つの力 (PHP新書)』養老 孟司著

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    2026年03月28日
  • 日本のリアル 農業、漁業、林業、そして食卓を語り合う

    Posted by ブクログ

    養老孟司読んでると満たされる

    養老孟司さん東南アジアに詳しいの好き

    この少子高齢化社会で、もっと若いうちに家庭持って子を持った人達を評価して欲しいんだよね。街中で子供がうるさいなんて言うババアはそのババアを山に捨てた方がいいんじゃないかな?

    新宗教と旧宗教は違うよね。旧宗教の叡智は科学を凌駕してるから様々な世界の旧宗教について勉強するのは好きだな。

    私もこれフランスで生活してみて、同じこと思ったんだよね。フランスの個人主義って皆が孤立しないように家族とかじゃなくても他人助け合うコミュニケーション有りきの中で成立してるものなのよ。

    でも日本の場合そういう知らん人達がお互いを気にかけて孤独にならないように助け合う文化が無いまま、個人主義だけ欧米の真似したから孤立して生活保護取るしかないとか、自殺者が増えたり、カルト新興宗教に入ったりしてる気がする。背景にあるものを無視して安易に取り入れんなって話だと思うよ。

    岩村暢子
    イワムラ・ノブコ
    著者プロフィール
    1953(昭和28)年、北海道生まれ。大手広告会社を経て、キユーピー(株)顧問。食と現代家族の研究を続け、著書に『変わる家族 変わる食卓』『「親の顔が見てみたい!」調査』『普通の家族がいちばん怖い―崩壊するお正月、暴走するクリスマス―』『家族の勝手でしょ!―写真274枚で見る食卓の喜劇―』。第二回辻静雄食文化賞受賞。

    岩澤 信夫(いわさわ のぶお、1932年(昭和7年)1月28日 - 2012年(平成24年)5月4日)は、境循環型の稲作農法である冬期湛水不耕起栽培を提唱し、普及活動を展開した農業技術者。

    畠山 重篤(はたけやま しげあつ、1943年10月7日[1] - 2025年4月3日[2])は、日本の養殖漁業家、エッセイスト、京都大学フィールド科学教育センター社会連携教授[3]。「牡蠣の森を慕う会」」(現「特定非営利活動法人森は海の恋人」)の代表を務めた。

    鋸谷茂
    森と木の研究所代表。1953年福井県生まれ。10代から自家山林の管理を行う。福井県に奉職し、林業普及指導員として県各地の山林を観察しながら、自家山林で育林の省力化について研究を続ける。日本初の科学的な密度管理に基づく間伐方法として、「鋸谷式間伐」を提唱。2009年福井県を退職。2010年森と木の研究所を立ち上げ、林業の現場で施業を実施しながら施業の合理化に関する研究を現場目線で進めている。間伐手遅れの人工林を健全な山に育成する巻き枯らし間伐は、全国のボランティア団体で女性や子供たちの手によっても行なわれている。全国で講演や体験会を行ない、林業実践研究者としても精力的に活動している。


    「ところが、今ではお盆や正月に帰る故郷がない人が増えています。それはどういうことかというと、結局のところ、日本人は戦後、絆をお金に換えてきたんですね。  昔は、仕事もしないでブラブラしている人間が親戚にいても、みんなで助け合ってなんとか食わせていました。それが今では、親戚を頼れなくなったので、それぞれが保険に入ったり、行政の福祉サービスを受けたり、あるいは生活保護を受けるしかなくなっています。  そのような社会の中で、途方に暮れている人もいるはずですよ。社会はどんどん個にバラけていきましたが、日本にはアメリカ風の自助の精神はありません。戦後の新憲法は、独立した家族が集まって集団をつくり、国家を運営していくという理想像を描きましたが、日本人の中では自助の精神はあまり育たず、伝統的な「長いものには巻かれろ」式の考え方でやってきたのですから、「これからは個として生きろ」といきなり言われても、どう生きてよいのかわからない人は多いはずなんです。」

    —『日本のリアル 農業、漁業、林業、そして食卓を語り合う (PHP新書)』養老 孟司著

    「そうですね。嫁姑問題とは別の問題になっているのに、同じ言葉で語るからわかりにくくなっているんですね。  そして、各家庭のプライベートな空間は「それぞれ違うのが当然」と考える人も少なくなってきたんでしょうね。一九六〇年前後に、地方から都市周辺に働く若い世代がたくさん流入してきて新しい家庭をつくり始めたとき、自分たちの故郷の家のやり方を恥ずかしいことのように思って、「ふつう、どうするの?」と周りを見回して合わせようとし始めたと聞きます。ちょうどテレビや雑誌も、これからの「新しい家庭像」を語り始めたから、プライベートな各家庭の中のことまで、「各家それぞれ」ではなくなってきた。だから、各家のやり方やルールなど、子どもやお嫁さんに伝えるものもなくなったのでしょうかね。」

    —『日本のリアル 農業、漁業、林業、そして食卓を語り合う (PHP新書)』養老 孟司著

    「養老  その世代の理工系出身で新宗教に入っていった人たちは、必然性があったから理工系に進んだわけではありませんよね。岩村  そうでしょうね。一九六〇年以降生まれの人たちは、受験方式も変わり、大学の選び方も変わっていく中で進学した世代です。「信じられるもの」を求めて理工系に進んだわけでもなく、理工系でやりたいことがあったわけでもなく。偏差値の見合うところを文系・理系問わず受けたら、たまたま理工系の学部に受かったけれど、何をしたいのか、どう生きたいのかがわからない、という話もよく彼らから聞きました。血を見るのが苦手なのに、成績がよかったから医学部を受けて入ってしまったとか。養老  それは、まさに僕が現役で教えていた頃に問題になったことですよ。八〇年代から九〇年代にかけて、そういった学生が多くて本当に困りました。成績がよければ、高校の先生は医学部進学を勧めるんですよね。そうやって入ってきては、うまくいかなくて転科した学生が何人もいました。」

    —『日本のリアル 農業、漁業、林業、そして食卓を語り合う (PHP新書)』養老 孟司著

    「養老  僕は中学・高校とカトリックの学校に行ったので、「旧宗教は何をさぼっているんだ」と思っていました。岩村  旧宗教に行っても、「答え」を教えてくれないんですよ。自分でよく見つめ考えなさいとか、座禅を組みなさいとか言われるだけで。そう言われても、一九六〇年以降生まれの世代は、マークシート方式で、まる暗記式の試験に対応した勉強をしてきた第一世代ですから、「答え」は自分で探すものでなく教えられるもの。待てないんです。」

    —『日本のリアル 農業、漁業、林業、そして食卓を語り合う (PHP新書)』養老 孟司著

    「岩村  偏差値が高い、成績が優秀っていうのも、記憶された知識で測られるようになりましたものね。具体的な実践力などはマークシート方式じゃ測れないから。食に関していえば家庭科教育だって変わったんです。一九六〇年以降生まれの人たちが受けた家庭科教育は、たとえば栄養素を覚えて、それを網羅的に組み合わせるような「献立て」の立て方だったりする。そこでは、焼き魚とミカンと牛乳なんていう奇妙な献立ても「摂りたい栄養バランス」にかなっていればマルがつくようになっていたんです。そして、実際に食べて美味しいか、それを上手につくれるかは、軽視されるようになってしまった。  知識、情報に重きが置かれるようになって教育現場で行われる「体験教育」も一日体験的な「情報」のように変わってきたんだと思います。身につける体験教育ではない。」

    —『日本のリアル 農業、漁業、林業、そして食卓を語り合う (PHP新書)』養老 孟司著

    「 二〇世紀に、ヴィクトール・エミール・フランクルというユダヤ系オーストリア人の精神科医がいました。収容所体験を基に『夜と霧』を書いたことで有名です。彼は、自分が何のために生きるかについて一切述べず、果ては「人生の意味は自分の中にはない」と言っています。この言葉を日本の若者に言ってやりたいですね。  フランクルは、第二次世界大戦でナチスのユダヤ人迫害が激しくなってきた頃、アメリカに留学するチャンスを得ました。留学すればナチスから逃げることができる。しかし、彼は思い悩みつつ、「たとえ行き先が死の収容所であっても、両親とともにいよう」と決めるのです。自分の人生を自分以外の人間に預けるといったことは、現代人はまずしないでしょうね。でもこれって、ある意味ではすごく楽になるんです。」

    —『日本のリアル 農業、漁業、林業、そして食卓を語り合う (PHP新書)』養老 孟司著

    「自分の個性や自分らしさを大切にするようにと、家庭でも学校でも言われて育ってきたんです。そして「自分らしさ」「自己」は周りとの関係抜きで見出せると思っているし、私らしく生きることが自己実現だと思って、悩んでいるんですから。」

    —『日本のリアル 農業、漁業、林業、そして食卓を語り合う (PHP新書)』養老 孟司著

    「しかし、考えてみると、テレビやゲームがこれだけ普及した時点で、現実は必要なくなったんでしょうね。もともと現実は面倒くさいものですから。それで、現実から離れた「体験」を求めているのでしょう。日常は、都合のいいところだけ切り取って「体験」するというわけにいかない、厄介なものですからね。大自然は味わいたいけど、ちゃんと虫除けして、シャワーもトイレも完備してね、とリゾート地で「自然体験」を求める気持ちも同じで。」

    —『日本のリアル 農業、漁業、林業、そして食卓を語り合う (PHP新書)』養老 孟司著

    「日本はもともと自然が豊かな国です。しかし、オーストラリアという国はもともと自然に余裕がなく、ちょっとした環境の変化が生物界に大きな影響を与えてしまいます。  この違いは面白いことに、両国の生物学の違いにつながります。日本の生物学では有名な「棲み分け理論」が生まれた。環境が豊かで幅広いものだから、その中でお互いが損をしないように、どう棲み分けるかということがテーマになる。でもオーストラリアの生物は厳しい条件で暮らしているから、環境は生き物にどのような影響を与えるか、というテーマになるんです。」

    —『日本のリアル 農業、漁業、林業、そして食卓を語り合う (PHP新書)』養老 孟司著

    「今、日本の政府が一番お金を出している生物学の研究は、京都大学の山中伸弥教授がやっている iPS細胞(人工多能性幹細胞)の研究でしょう。あの研究は何をやっているかというと、あえて乱暴なたとえをすれば、競走馬を育てるのと同じことをやっているんです。イネを育てたり、品種を改良したりするのとも根本は似ています。  つまり、ロケットや自動車を製造するのとは違う。世間では、農業をもっと工業化させるべきだと言う人もいますが、農業は工業化させるべきではないし、そんなことができるはずがないんです。  農業に何より求められるのは多様性だと思います。千葉の農業と東北の農業は違っていて当然であり、農業は個々でいいし、バラバラでいい。それを行政や農協が無理に一律にしようとし、まとめようとして干渉し続けてきたから、うまくいかなくなったんでしょう。」

    —『日本のリアル 農業、漁業、林業、そして食卓を語り合う (PHP新書)』養老 孟司著

    「政府がずっと機能していないラオスでは、まさかのときに助けてくれるのは華僑会です。マフィアもそうだと思います。マフィアっていうと悪いものだと、みんな思っているけれど、政権が安定していない社会では、地元民はしょっちゅう入れ代わるトップではなく、マフィアを頼って政府とは関係のないシステムをつくってしまうんですね。実は僕、それが今日本に足りないんじゃないかと思っているんです、正直言って。こういうことが起こったときに、政府に頼ってもしかたない。」

    —『日本のリアル 農業、漁業、林業、そして食卓を語り合う (PHP新書)』養老 孟司著

    「 勉強が嫌いな人ほど、独学に向いているんですよ。」

    —『日本のリアル 農業、漁業、林業、そして食卓を語り合う (PHP新書)』養老 孟司著

    「公共性ということで言うと、僕は山のゴミも気になっているんです。山の中の道路の脇に自動車を止められるようになっているスペースがあるでしょう。そういうところを通りかかったとき、僕は必ず車を降りて周囲を見るようにしているんですが、付近はゴミ溜めのようになっていますよね。古くなった電気製品や家具が放り込んであったりします。「ゴミを捨てるな」という看板も立っているんですが、これがまた美観を損ねる。」

    —『日本のリアル 農業、漁業、林業、そして食卓を語り合う (PHP新書)』養老 孟司著

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    2026年03月27日
  • 「他人」の壁

    Posted by ブクログ

    養老孟司、精神科医になりたいと思ったことあるらしい。

    確かに言語化って言われすぎると、言語化されてない部分を読み取ろうとする努力を怠りそうな感じもするな。

    ゲロ自体が嫌いなんじゃないよ。自然の中のゲロは臭くないけど、都市化された都会の中で嗅ぐゲロは臭いから嫌い。ゴキブリも森の中で見たら別に気持ち悪くないから。都会はこういう風にゲロとかゴキブリみたいないじめの対象を作り出すから嫌いなんだよ。

    「名越  多いというか、いつもそうですよ。だって僕、理解なんていいとこ 2 ~ 3割で、最後はワンフレーズだけ相手に伝わればいいと思っていますから。逆に言えば、相手の話していることを理解できなくても、ワンフレーズが壁を越えて自分の心に残れば、それはもうある意味で成功だと。だってね、僕のマネージャーってもう 10年近く一緒にやっている人で、非常に優秀で、僕のことを大切におもんぱかってくれている人なんだけど、それでも仕事を一緒にしていると、けっこうな大きい齟齬が生じるわけですよ。こんな違いがあるんだと。でね、もうそうなったら、一般の会社員の方が、たまに仕事で会うくらいの人だったら、まあ、通じている部分なんて、奇跡的に多くて 3割、集中していて 2割弱、ぼおっと聞いていたら 5パーセントとかね。それでいいと思うんです。だから、ワンフレーズがもし本当に伝わるなら、それはすごいことなんですよ。それすら残らないことのほうが多いんだから。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「養老  学校教育でいえば、国語とか英語の読解もそうじゃないですか。典型的ですよ。その文章から何を読みとるか、人によって随分、違っちゃうんだから。それなのに「その理解は間違いです。正解はこれです」って、何が正解なんだって。名越  そうなんですよ。うちの子どもなんか見ていても、算数の問題の解き方も、なんでこんなややこしい解き方するんだろうって思うんだけど、それでいいと思うんです。本人が不自由に感じたら勝手に変えるから。文章もそうですよね。「その解釈は間違っている」って誰が言えるんだろうと。親としては、なんかそういう感覚を大事にしたいんですよ。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「僕はよく講演とかでも言うんだけど、「あれ、なんかおかしいな」「これってなんだろう」と感じたら、その問題をずっと抱えておくんですよ。納得せずに疑問を持ち続けることが大切なんです。そのときは解けないかもしれないけど、「おかしい」という気持ちだけ憶えておく。そうすると、 3年とか 5年とか、もしかしたら 10年、 20年くらいい経って、ふっと解けることがあるんです。でも、多くの人は忘れるんです。なんで忘れちゃうかというと、未解決のままの記憶が頭に残っていると不快なんですよ。その不愉快さを消すために「まあ、世の中そういうもんだ」として、仮の答えを出してそれで納めてしまう。そういう人のほうが多いですね。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「ただ、承認欲求が悪いというんじゃなくて、大事は大事なんですよ。それ自体を否定しているのではなく。たとえば、行きつけの飲み屋に行って、店主から「いらっしゃい」と明るく言ってもらえたらうれしいけど、あいさつしても無視されたりしたら、「あれ?」と不安になったりね。承認してほしいんです。あるいは、人が仕事や趣味を通して自己実現を果たしていくうえでは、大きなエネルギーとなることもあります。だから、この感覚を完全に否定したり、無視したら人間社会は最悪なんで。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「名越  養老先生は先ほど、お若い頃はご自身でも「他人を理解しようと考えていた」とおっしゃいましたけど、そういうときはどうされたのですか。たとえば、大学の中での人間関係を、ご自分なりに模索されたりとかしたわけですか。養老  いや、僕は飲み屋へ行きました。大学はたしかに生活する時間が一番長い場所ではありましたけど、接触する人間の数でいえば多くありませんから。特定の人に限られますからね。そういう人とはかなり親しくはなりますけど、数はどうしたって限られます。名越  同じ人と同じようなテーマの話を繰り返しているだけだと。飲み屋さんにいる人間は不特定多数ですからね。養老  そう。理論が通じない人がいたりね。大学の人間とはいろんな意味で違う。前提として共有する価値観がないから。だから、人との接し方を覚えたという意味では、僕の場合は、飲み屋が一番大きかったんじゃないですかね。学部も関係なしに集まるし、全然知らない人とも会いますから。そういう人とコミュニケーションをとる。しかも、当時の僕もまた、明るい酒を楽しく飲むというよりは、いろいろ悩んで、もう飲むしかないっていうような、どっちかというと重たい気分で飲んでいましたから。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「名越  まさにそうなんです。そういう意味では、その時間が一番勉強になったという気がしますね。実はカウンセリングを見に行くためというより、いや、もちろん大きな目的の1つではあるのですが、その後の飲み会が楽しいから行っていたというのはありますね。それがすごく大事なことで。極論すると、終わった後に飲み会がない勉強会って、無駄じゃないかとさえ思うんですよね。もちろん、厳密に言えば意味はありますけど、ほぼ無駄なんじゃないかと。養老  賛成です。そのことに意外とみんな気づかない。名越  当然、勉強会で得られる情報や知識はありますけど、結局のところ、それは功利的な知識しか身につかないといいますか。自己啓発セミナーとかにハマる人もそうなんだけど、あれやると余計に自意識過剰になってしまうこともありますしね。無理してやっているもんだから、今度は効果を確かめたくなる。そうすると、余計に「相手はどう思ったんだろう」って、相手のことが気になる。結局、そこで得た情報の先にある現実、つまり未来に対して、実際にどう当意即妙に対処するかというのは、その人の知識の量ではなくて、人としての厚みのようなものに表れますから。逆に言えば、飲み屋の席なんかで、人間力みたいなものを日頃から鍛えていないと、未来に起こる未曽有の出来事に対応できないと思うんですよ。ただ、最近の飲み屋さんは、女性客のほうが多いなんていう話もあって、男は飲み屋に寄らずに家に帰って寝ちゃうというもんなぁ。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「養老  それ、駄目なんだよ。やっぱり、「わかる」とか「気づく」の処方箋は、感覚を磨けってことだからさ、答えを言ってしまうと。それにはできるだけ、多様な状況に身を置くことがいいんで、1つには飲み屋もそうだし、もっと感覚を鍛えられる場に、身を置いてみる機会が必要なんです。一番いいのは田舎へ行って、森とか川とか、自然に触れることなんだけど。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「名越  それと、誤解がないと正解もないというか、本当の正解って誤解から届くのかもしれないですからね。こないだ、たまたま『日本海大海戦』(東宝)という、三船敏郎とか加山雄三が出ていた昔の映画を観たんですけど、バルチック艦隊がどういうコースをたどってウラジオストックへ向かうのか、日本海軍が模索するわけです。どんなに諜報網を駆使してもわからない。海軍は焦るんですけど、霧が濃くて航路を誤った日本の駆逐艦が、迷って、迷って、ようやく仲間に追いついたと思ったら、それがバルチック艦隊だった。何が言いたいかというと、ひょうたんから駒のような、誤解から生まれる正解ってあるわけです。養老  誤解があるからもっと深い正解に至るとかね。あるいは正解の幅が広がるとか。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「養老  意味がないものはいらねえっていう世の中だから。不正解だから意味はないと。僕が虫の標本を見ていると「それ、なんか意味あるんですか」って聞いてくる。逆に聞きたいけどね、おまえに意味があるのかって。おまえが無意味に生きていることを俺はちゃんと許容しているじゃないかと。名越  それは言いたくなりますわな(笑)。養老  真面目に言えばさ、虫は論理的に意味がわからないことがたくさんあるから、だからしておもしろいんだ、ということなんだけど、それも答えるのがめんどうになる。楽しいからやっているんであって、別に意味なんて求めてやってない。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「名越  でも、わかります。それは仏教を勉強していても感じますよね。仏教って宗教の側面以上に、哲学とか心理学の側面のほうが大きいんですが、一番驚いたのが、「分別は妄想である」と。「無分別智が仏の智慧である」って書いてあるんですよ。無分別っていうのは、一般の言葉でいえば「バカ」ということですからね。ところが、総体的な主観とか客観とかの分別を離れた、いうならば真実の智慧が「無分別智」だと。そこへ到達しなければならないと。とても世俗化して言うと、「盗っ人にも三分の理」みたいに、悪とか善も、もっと広い見地で見て、その2つの力が世界をつくっているというふうに見なければ、本当の真実は出てこないんだよという。たとえばそういう極めて印象に残る深い言葉が出てくると、そんな凄い悟りに到達するには、思考を止めないとダメだと、無分別智の域には行けないぞとなる。この思考を止めるということがすごく肝心で。ところが、実際にはどういうことになるかというと、「そうか、無分別智を理解しなければいけないんだ」と、ますます思考しようとするんですよ。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「養老  だからもう、そんなことまで心配をしはじめると、自分は医者なんかとてもじゃないけど無理だということになる。解剖だったら遺体はもう亡くなっているから、これ以上亡くなるということはない。やってみるとわかりますけど、あんなに気持ちの落ち着く作業はないですよ。今でもそう思います。だって、解剖するでしょう、そのいじった結果は全部、自分に戻ってくる。責任問われるのはこちら側だけなんです。解剖が進んでいくと、手が切れたり、足が取れたりするわけだけど、それを誰がしたかといえば自分ですからね。そういう意味では、自分がやった結果だけがきれいにそこに出る。遺体に責任は一切ありません。一方で、生きている人間との対人関係というのは、相手が勝手に動きますよね、当たり前だけど。それによって、こちらも対応する。責任の所在があいまいです。何か問題が生じたときに、誰のせいだかよくわからない。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「養老  そういえば、関係ないんだけど、僕が解剖した人って肺がみんな真っ黒だったんですよ、それこそ煙草を吸わないお婆さんも。肺が黒くなる理由って知っていますか。これ、他のところでも言っているんだけど、消化できないゴミが中に入って、それを細胞が食べて貯めていくからなんです。だから吸っても吸わなくても、肺がんになる確率は大差ない。何が言いたいかというと、そういうことも観察するとわかる。名越  先生は本当にスパスパ吸いますからね(笑)。でもそういえば、喫煙者の数は急速に減っているのに、肺がんの患者数が比例して減ったという話は聞きませんね。養老  いや、むしろ上がっていますよ。こんどデータを見てみてください。だから僕は、肺がんの原因は禁煙だと冗談で言っているんです。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「養老  もちろん、目もそうだけど、あと手ね。目と手の解剖は一番嫌だった。相手の手を握らなきゃいけないでしょう。特に僕らの時代は素手でやっていましたからね、手袋をはめないで。そうすると、一番、嫌なのは手ですよね。腹なんていいんですよ、表情がないから。名越  ああ、それはもう絶対にそうでしょう。手は一番生きているように見えますし、絵描きでも漫画家でも、手が違和感のないように描けたら一人前どころかそれ以上って言いますもんね。ほんの微妙なニュアンスが違っているだけで違和感が生じる。そして死んだ人の手でも、生きているように見えますもんね。ぞくっとする。死んだ人は怖くなくても、死んだ人の手をまじまじと見るとそりゃあ怖い。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「養老  もちろん、目もそうだけど、あと手ね。目と手の解剖は一番嫌だった。相手の手を握らなきゃいけないでしょう。特に僕らの時代は素手でやっていましたからね、手袋をはめないで。そうすると、一番、嫌なのは手ですよね。腹なんていいんですよ、表情がないから。名越  ああ、それはもう絶対にそうでしょう。手は一番生きているように見えますし、絵描きでも漫画家でも、手が違和感のないように描けたら一人前どころかそれ以上って言いますもんね。ほんの微妙なニュアンスが違っているだけで違和感が生じる。そして死んだ人の手でも、生きているように見えますもんね。ぞくっとする。死んだ人は怖くなくても、死んだ人の手をまじまじと見るとそりゃあ怖い。養老  手は非常に表情がありますから。だから、いじらなくても、なんか嫌でしょう。それは解剖をはじめて 10年ぐらいのときに思った。なんで俺、手が嫌なんだろうなと。ああ、そういえば、動いてねえな、動かない手って見たことねえなって。手は怖いですよ。日常生活だと動かない手はない。そういえば、イタリアのホラー映画で、手をうまく使ったすごく怖いのがあったんだけど、あれは手の意味をわかっているんだ。だから握手という行為はすごく象徴的でね。儀式としておもしろい。だから、飲み屋のカウンターで、隣のおじさんの手を握るんですよ、そうすると「わっ」と逃げるんだ。ああ、やっぱり手を握るって特別な意味があるんだってわかる。名越  表情が読めない不気味さという点では、生き物ではないですけど、能面ってあるじゃないですか。あれもそうですよね。僕の母方の本家が町医者やっていまして、子どもの頃はよく、そこへお風呂を借りに行ったんですけど、その応接間に能面が飾ってあったんですよ。そうすると、その部屋へお菓子を取りに行ったりすると、どうしても目に入ってきちゃうんですよ。見てしまう。ものすごく恐ろしかったですね。もう、走って出たことを覚えている。あれも表情が変わらないという面ではね。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「養老  臨床心理の河合隼雄さんが、カウンセリングの秘訣は何ですかと人から聞かれるたびに、「相槌の打ち方ですな」といつも言っていました。相手の話に対して、どこでどう相槌を打つか、極論すればそれだけなんだと。話を聞いていないと相手は怒りますから、さっき言ったように暖簾で受け流すように聞きながら、それを相手に理解させるために相槌をタイミングよく打つ。名越  うなずくことによって、相手を承認しているという面がありますよね。逆に言うと相手は承認されたい。日本人はよくうなずく民族かもしれないですね。昔、野口晴哉先生の講演録を読んでいたときに、「あれ、俺のやってきたことって何だったんだ」と強烈に感じたことがありましたよ。ある日、野口先生のところに年頃の娘さんがやって来て、自分が長い間交際してきた男の人を激しく罵ったんだそうです。「先生、聞いてください!  こんなひどい男なんです!」というような調子でね。で、先生はそれを 1時間ばかりずっと聞いていて、散々悪口を言い続けた女性が「はぁ」と息をついだ。その瞬間に野口先生が、「で、式はいつにするんですか」と言ったというんです。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「養老  昔から言うじゃないですか、夫婦げんかは犬も食わないって(笑)。あれは本当のことです。他人の夫婦げんかに立ち入って、どっちの味方をしても絶対にダメなんですよ。カウンセラーでもない限り、触れないに越したことはない。そこまで文句言うということはもう、くっついちゃって離れられないんだからね。もちろん実際にはそんな単純じゃなくて、もっと複雑な事情もあるだろうけど、未練がなかったら文句も言いませんからね。特に女の人はそうで、はっきりしていますからね。本当に嫌ならさっさと縁切っていなくなりますよ。文句を言う前に目の前から消えちゃう。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「人間を構成している成分は、 7年で 100パーセント入れ替わるんですよ。だから僕は、人間は川のように流れ移り変わるんだと、本当の自分など存在しないと言っている。「同じ俺」なんていない。だから、聞いたふりをする。そこらへんのコツみたいなところが、ありがたいことに年を取ると多少できてきてね。逆に人の言うことは気にならなくなってくる。僕の評価は僕が決めることじゃなくて、他人ですからね。他人が勝手に決めることを、いちいち気にしてみても大きな意味はないわけで。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「人間を構成している成分は、 7年で 100パーセント入れ替わるんですよ。だから僕は、人間は川のように流れ移り変わるんだと、本当の自分など存在しないと言っている。「同じ俺」なんていない。だから、聞いたふりをする。そこらへんのコツみたいなところが、ありがたいことに年を取ると多少できてきてね。逆に人の言うことは気にならなくなってくる。僕の評価は僕が決めることじゃなくて、他人ですからね。他人が勝手に決めることを、いちいち気にしてみても大きな意味はないわけで。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「たしか、横浜市の統計だと、独身世帯が 4割に迫ってるんですよ。名越  僕もその記事、なにかで見たことあります。かなり前から結婚して縛られるのが嫌という流れはあると思います。とりあえず自由でいたいというか……。養老  たしかに結婚というのは制度ですから、いうならばある種の縛りですからね。形式的に縛られてしまう。いろんな形でね。もう 20年くらい前の話なんだけど、銀座のクラブへある人に連れていかれたときに、お店の女の子たちとママと、僕とで「結婚と同棲はどちらがいいか」という、まあちょっとアホみたいな議論をしたわけなんですが、僕とママが同意見で、絶対に結婚したほうがいい、しないとダメだという考え。一方で、若い子たちはほとんどが「同棲のほうがいい」と言うわけです。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「少子化と都市化は一体の問題なんですよ。まあ、保育園が足りていないとか、教育費にお金がかかるとかいう事情もありますけど、根はもっと深いところにある。ただ、僕に言わせると、子どもを育てることと、田んぼで稲を育てることは、根本的には同じことだと思っているんです。自然をコントロールなんてできないけど、手入れして育てることはできる。自然に対して手を入れて維持していく。僕は『手入れという思想』(新潮文庫)という本を何年か前に書いたんだけど、子どもというのは自然なものであって、放置しておくと野生児になってしまうけど、かといって親が完全に管理して思うようになるかというと、そうじゃないんですよ。心を込めて毎日「手入れ」をしてあげて、そして見守ってあげる。それを全部思うようにしようとするから、いろんな問題が吹き出てきているわけでしょう。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「だから、親は遠目から見守るしかないんです。それしかできないし、それでいい。見守る覚悟さえ持っていれば。勝手に走り回って、小一時間で勝手に生き生きするんですよ。ところが、現実はどうかというと、今の子どもというのは、夜遅くまで塾へ行っているでしょう。学校で 6時間も我慢したのに、終わってまた塾へ行く。夜の 10時頃に地下鉄に乗ったりすると、子どもが車内を走っているんだよ。あぁ、この子らは昼間、走らせてもらえていないんだなと思うわけ。夜の 10時にようやく自分の時間になっている。森とか林とか、さっき言った神社の境内とかを走れないから、しょうがないから地下鉄の中を走っている。これね、何かと言ったら、ただの虐待ですよ。日本中の子どもが塾しか行ってないということは、子ども全体が虐待されている。なんで夜中に子どもが、こんなところを走り回らなきゃいけないんだと思うよね。しみじみ感じる。だから、こんな社会で子どもが増えるはずがないんでさ。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「つまりそれは管理なんですよ。子どもが完全に管理されている。でも、本当は一番管理しちゃいけないのが子どもなんです。なぜなら子どもは自然だからです。遠くから見守るだけでいい。手入れというのは、バランスをとっていくという、日本人が自然に対して昔からずっとやってきた典型的なことですよね。いわば日本文化の自然に対する典型的な態度なんです。それをコントロールしようとする。「手入れ」と「コントロール」は違うんです。「手入れ」は相手を認め、相手のルールをこちらが理解しようとすることからはじまるけど、「コントロール」は、相手をこちらの脳の中に取り込んでしまうことですから。対象を自分の脳で理解できる範囲内のものとしてとらえてしまい、脳のルールで相手を動かせると考えてしまう。ところが、自然を相手にするときというのは、そんなことができるはずがないんです。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「山へ行くでしょう。そうしたら、虫というものを僕の脳を超えたものとしてまず認めるんです。そのうえで虫のルールを知ろうと試みること。これが自然と向き合うときの基本的なやり方です。それで何を申し上げたいかというと、今回のテーマは「知る」とか「気づき」とかいうことなんですが、そのためには、最終的には感性を磨いていくしかないわけです。そこには根本的なこととして、自分の人生に対する考え方というものに、必ずつながってくると思うんですよ。自分の人生にしっかりと向き合う必要がある。つまり、その人の人生というのを1つの「作品」ととらえる考え方が、古くからあった。それがすごく大事なことだと僕は思っているんです。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「言っちゃ悪いけど、あんまりできがよくない学生がぶつぶつ愚痴をこぼすわけです。そういうときに僕は言うんだけど、君の人生という絵は君にしか描けないんだよと。たとえキャンバスがボロボロの安物で、絵の具もそんな高価なものではないかもしれないとしても、それで完成した絵は君だけの絵であって、それが人生という作品なんだと。そういう発想が昔は今よりあったと思うんですよ。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「比叡山の千日回峰行というのは、修行という1つの象徴的な例としてあげられたと思うのですが、もちろんそこまで例外的にハードなものでなくても、聖徳太子も解説を書いたとされ、日本仏教にかなり影響を与えたとされる「維摩経」が、修行というものの意味を考えるうえで、1つの参考になるかもしれませんね。日本仏教の原点は大乗仏教ですが、その教えは、理論である「法」と、心を落ち着かせその機能を引き出すための「行」と、日常生活の中で行う「方便」に大別されるんですが、出家して修行ができる人というのは昔も限られていて、多くの庶民は社会の中で生活していかなければなりませんから、そうした中で浮上してきたテーマが「方便」。つまり、「法」や「行」だけでなく、一般社会に溶け込んで人に親切にしたり、世の中に貢献したりする「方便」を合わせて実践することで、より完成度の高い悟りを開くという考え方です。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「真言密教では「方便こそ究竟なり」と言っているんですね。苦しんでいる人の助けになりなさいということで、もっと言ったら、自分よりも幼き者とか、弱い者の助けになりなさいということ、それが一番の修行になると書いてあるんですよね。いいことをしなさいと。それが最大の修行だと書いてある。実際、密教では、「法」も「行」も、最終的には「方便」の実践を経て鍛えられ、そこで完成されると考えられています。つまり、「方便」というのは非常に大事で、今でいえば会社や学校、地域のコミュニティなどにおけるあらゆる関わりが「方便」には含まれています。積極的に世の中に関わり、行動し、周りの人を幸せにしていくことが、悟りへの道につながるという教えです。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「そういう形で人生をつくっていくという気持ちが、今は非常に希薄になっているという気がします。だから、他人をわかろうとか、わかりたいとかいう話をする前に、ここらで考え方を一度大きく変えてみて、いうならば「人生作品」とでもいう考え方に、向き合ってみる必要があると思っています。まずは自分が今、この時代に生きていて、その自分の人生を作品として完成するにはどうしたらいいか、どんな絵を描き上げればいいのか、それを模索できるようになれば、生きていく意味が大きく変わりますし、何より何倍も人生がおもしろくなる。下手な絵でもいいんで、下手なら下手なりの完成度というものがあるわけですから。とにかく描きはじめてみる。宗教が教えるべきことって、そういうことじゃないかと思うんですよね。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「仏教というのは、 2500年以上もの間、受け継がれてきた生き方の指針ですから、非常に現実的であり、ときに合理的でもあります。さっきも「方便」の話をしましたけど、大乗仏教では、行や方便は多くの人がイメージしているような浮世離れしたものでもなく、極度にストイックなものでもなく、一般社会の人々の生活と密接に関わっているものです。もちろん、それは現代社会にあってもです。たとえば、先ほどの「維摩経」でも、あるいは密教のお経ではもっと端的に、「欲から自由になることは、欲を持たないということではない」ということが強調されています。つまり、重要なのは「お金や物を持たない」ということではなく、「お金や物をどんなに持っても、それに縛られてはいけない」と教えているわけです。無理して名誉を遠ざけるのではなく、名誉を得てもいいから、決してそこにとらわれてはいけないということですね。「欲しい」という気持ちを無理に抑える必要はないし、抑えても意味はないということなんです。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「人生が1つの修行ということであればそう言えるかもしれませんね。仏教の修行にも階梯がありますから、それを放棄しているわけですからね。あと、江戸時代でも、士農工商の中から一番身分の低かったはずの商人がどんどん経済力をつけていって、おそらく周囲からは「なんだこいつら」みたいな、いうならば今でいうベンチャーみたいなもんだし、やってることはいわゆる生産活動ではないものだから、「こいつら楽して稼ぎやがって」みたいな、やっかみも一部にはあったと思うんです。そういうときに、石田梅岩(江戸中期の思想家)あたりが「商道」というのをつくって、商売は一生かかって自分の人格を完成させる修行の場だという考えを確立したでしょう。あの人なんか、滋賀の小さい商いの番頭さんだったのに、その商道の考えが全国へ広がるんですよね。なぜかというと、そういった一生を通じた自己錬磨という考え方が必要とされたということです。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「若いうちは簡単なことになかなか気がつかないんですよ。僕の年になったらよくわかるんだけど、いつも言うのは、俺が死んでも俺は困らねえもんって(笑)。そうでしょう。今日、名越さんと 2時に会うって約束してさ、行く途中で坂の上で車にひかれてりゃ、困るのは出版社と名越さんでしょう。わたしは全然困らないんですよ。自分の死に一番関係ないのが自分だからね。そう考えたら、自分の生死って、自分のものじゃないんですよ。釈迦の側から見れば単なる迷惑でね。それと、死のもう1つ手前にあるのが病でしょう。自分が病気になったらどうしようって、違うんだよね。僕だったら女房に病気になられると一番困るんだ。女房は苦しいとか言っていれば済むけど、こっちは自分でメシ作ったり、いろんなことしなきゃならなくなるからさ。もちろん半分は冗談の世界だけどね(笑)。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「自分の死なんて関係ないというと、「かっこつけやがって」とか言うわけです。強がっているとかね。僕だって死にたいと思っているわけじゃない。不安がないわけではないです。でも、どうせ死にたくないと思っても、そんなの無駄でしょう。わかりやすく言うと、僕たちは毎日、必ず寝ますよね。そのまま死んでしまったらどうなるか。どうもならないでしょう。慌てるのは残された家族であって、死んだ本人にとっては、何も気づかない。だから関係ないと言っているんです。中には、死というものから遠ざかりたくて、家族のつながりも面倒くさくなり、子どもは産まないという人もいるかもしれない。そういう面はあるかもしれない。だから、もっと簡単に考えて、遠くから見守っていればいいんだって、子どもなんていて当たり前なんだって言うんだけどさ。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「話が「少子化」から「子ども」や「自然」との乖離にいって、最終的には「人生作品」とか「修行」という話に移ってきているわけですが、話を少子化に戻しますと、結局は 1人でいたほうが楽だということなんです。「俺はこのままでいいよ」と。たしかに、結婚して奥さんと大げんかしたりね、子どもの学校のことでちょっと悩んだりするのは、一見すると面倒なことでストレスなのかもしれないけど、さっきの「方便」じゃないけど、やっぱりそういうことの日々の繰り返しで、自分が変わってくるわけですよ。その変わるチャンスを、しっかりと自分に与えてやらないといけない。僕はそう思います。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「意識がつくっている社会という意味で、「意識化」と言い換えてもいいのかもしれません。子どもを産むなんていうのは、本来なら自然の行為ですからね、得だとか損だとか、合理的だとか非合理だとかを、脳の中であれこれ理屈を並べて考えてやることではないはずです。もっと本能的なものですよ。ところが、頭で考えてやろうとすると、子どもは一気にいなくなるんです。育てるのが不安で大変だから。その一歩手前が、さっきも言った結婚をしないという選択でね。これはつまり、社会があまりに「意識化」されすぎている1つの現れじゃないかと思いますね。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「意識がつくっている社会という意味で、「意識化」と言い換えてもいいのかもしれません。子どもを産むなんていうのは、本来なら自然の行為ですからね、得だとか損だとか、合理的だとか非合理だとかを、脳の中であれこれ理屈を並べて考えてやることではないはずです。もっと本能的なものですよ。ところが、頭で考えてやろうとすると、子どもは一気にいなくなるんです。育てるのが不安で大変だから。その一歩手前が、さっきも言った結婚をしないという選択でね。これはつまり、社会があまりに「意識化」されすぎている1つの現れじゃないかと思いますね。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「そのとおりですね。だから、世の中が「意識化」すると、人の相手を見る目が喪失するんですよ。目が濁る。感覚で感じられなくなるから。学校でも、先生が生徒一人ひとりの特徴を、感性で識別することができなくなっている。極端にいうと、みんな同じに見えてしまうんですね。そうするとどうなるかというと、生徒は「僕には個性がないんだ」と感じるようになる。だから、「脳化」や「意識化」は、社会から個性をも喪失する危険性をはらんでいるんですよ。こんなこと言うと怒られるかもしれないけど、国会で「妾論争」なんかやっていた時代のほうが、ある意味ではよっぽど健全だし、健康的だったし、正常だったんじゃないかと、僕なんかは思いますよね。法的な話とは別に。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「 「意識化」とか「脳化」の弊害って何かというと、頭でわかろうとすることでしょうね。何でも脳の中で言葉に置き換えて、説明がつくと考えている。それでわかった気になっている。「よし、俺は気づいたぞ」なんて思っている。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「動機をわかってしまった瞬間に、まるで乗り移られたようになったりしてね。いや、本当にそうならないとも限りませんよ。ですから、やはり繰り返しになりますけど、「わかる」ということが、言葉にできない感覚的なものなんだということが、社会の考え方の中からすっぽりと落ちてしまっているんでしょう。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「学校教育の影響というのも非常に大きいんですよ。学校で教わることって、言ってみれば建前ですから。意識化して建前だけを教えているわけですから。僕は勉強とは山に登ることだと比喩的に言っているんですけど、つまり高いところに登って視野を広げることなんです。見える範囲が広がるということは、人間として成長することですから。僕は子どもの頃から虫が好きで、親からは「くだらないことばかりしているな」と叱られましたけど、一方で虫のことを調べるわけだから知識が必要になります。標本を作るときに、どの薬使ったらいいとかね。英語で書いてあるのもあったり。そうすると、自分の好きなことを徹底的にやり続けるためには、「あ、この教科が役立つな」とか「これをもう少し勉強しよう」とかがわかってくる。「学校の勉強って役立つじゃん」と気づくんです。そういうときがやってくるんです。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「高いところに登って視野を広げると言われましたけど、たしかにそうで、僕は世の中の仕事の 8割くらいは、全体像が見えてくるとおもしろくなると思っていて、学校の勉強も同じことが言えるかもしれません。先生の場合は、山で虫を追っかけまわしているうちに、それこそ意識化ができない様々なことを、自然と学んでいった。でもね、そういうことを、子どもを持つ親御さんに言うと、今度は「山や森に行くとどんないいことがありますか」とか聞かれませんか。「具体的な効果は」とか。僕はよく聞かれますよ。そこへ触れることが大切なんであって、その結果として何が起こりますかなんていうことは、本当は聞いちゃいけないのに聞くんだよね、今の人は。森に行ったらこれだけ偏差値が上がるなんてことはないんでね。健康面でいえば、森へ行くとこれだけ内臓にいいという数値が出ましたとか、血圧がこれだけ下がりましたとか。そういう方向にもっていきたがる。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「たぶん今の養老先生の言葉が答えみたいなもので、「ただやる」ということが大切なんですよね。「行」というのは、どんな意味や効果があるかを考えないで、「ただやる」。ダイエット本とか、お金が貯まる本とか、いわゆるハウツー本の延長のような感覚なんでしょうね。「この本を読んだら 10キロ痩せられる。だから読もう」というような。プラスアルファの実利を求めてやってくる。でも、ハウツー本と「行」はまったく違う。「行をしたら、こういう具体的なプラス効果がありますよ」という実利は、仏教では明示はされていません。単純な効果は明らかにされないまま、「ただやりなさい」と要求される。滝行をやるなら、先入観を持たずに「ただ打たれなさい」と。坐禅をするなら「ただやりなさい」と。ところが、そう言うと「それじゃやる気にならない」とか、「具体的な効果や可能性が見えないとやれない」という答えが返ってくる。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「そうなんでしょうね。実際、テレビの解説なんかでもあるんですよ。禅を組むとこういう神経に働きかけてとか、滝に打たれると身体にこういう効果が、とかね。それ自体は噓ではないのですが、でも、理論的な説明ばかりを先に頭に入れてしまうと、「行」の意味がなくなってしまうわけです。せっかくトライするのに、まあ少なくとも大いに薄れてしまう。「行」というのは自分自身が変化する体験なんですが、どう変化するかは当人にはわかりません。わからないはずの「変化した後の自分」を勝手にイメージして、ありもしないゴールへ向かって「よし、あの悟りの世界へ行くぞ」なんて歩いていっても、それはただ、事前に自分でイメージした「悟り」の感覚を、脳内で再生産しているだけです。つまり妄想が成立してしまう。僕は毎晩、瞑想をしていますけど、それを人に言うと「自分もやってみます」となるんだけど、「リラックスをしよう」なんていう気持ちでやると、だいたい失敗します。あと、「行」の話と同じで、「瞑想はどんな効果がありますか」とか「瞑想をするとどんな感覚が起こりますか」とか。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「瞑想すると仏さまが現れて、まばゆいばかりの光に満たされて……と。たとえそうなったとしても、何千ルクスの光が見えたとしたって、何日か続いたら人間は飽きますよ。ただまぶしいだけで。そんなの悟りじゃないんでね。散歩とかもそうじゃないですか。「気分転換のためにいつもと違う道を歩いてみよう」というのは、別に悪いことじゃないんだけど、でもあんまり「気分転換だ、気分転換だ」って目的として考え続けていると、せっかくのノイズみたいなものが、入ってこなくなるんですね。ノイズは意味がない邪魔なもんだと思っているから。虫と一緒でしょう。いなくてもいいノイズだから。どうせ風が自分の頰をなでて爽やかな気持ちになるとか、木々の匂いがして、それが脳に効果的なのかとか、そういう方向の気分転換を、あらかじめ脳の中で、意味として想定してしまっているから。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「言葉にとらわれていることに気づかない。だから、先ほどから言っている意識化でいうと、「行」というのは、わからないままに「ただやる」ことで、言葉で説明ができる限界を超えることができるんです。言葉は便利な道具なんだけど、往々にして人の心にブレーキをかけます。その限界を破る1つのきっかけを「行」は与えてくれているわけですから。しかも、「行」といっても、何時間も坐禅して瞑想するとか、滝に打たれるとかじゃなくて、気持ちを切り替えられるならなんでもいいんです。これは他でも書いたんですけど、僕なんかは「眼鏡を丁寧に拭く」という行為を、いわば頓服薬的な「行」として日常生活に取り入れているんです。眼鏡をゆっくりと丁寧に拭くだけで、頭の中でごちゃごちゃしてたことが、すーっと整理されていくんですよね。眼鏡がきれいになることが目的ではなくて、丁寧に拭くというプロセスが大事だということ。だから、部屋の掃除とか、アイロンがけなんかでもいいと思いますよ。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「それがわかってもらえない。僕は精神科医ですけど、医師の経験からいっても、プラスアルファの実利だけを示しても、人の行動は変わりません。カウンセリングしていても、一番大事なことだけを「これを覚えておいてな」ってしつこく言うんだけど、実行する人は 1割くらいかな。こちらは理解してもらおうと、しつこく言うんだけど、相手は相手なりに理解をするわけでしょう。生活習慣病の人に「こうしたほうが体にいいですよ」「こうしないとだめですよ」とデータを示し、医師の立場で説明したとしますよね。これはまさに「実利」なんですが、だいたいの人は行動を変えることができない。できても一時的ですよ。プラスアルファの実利なんて、人を動かす力なんかない。本気で変える気があるなら、人生のどこかで、頭の中のステージを全部ガランと音を立てて変えてしまわないとダメですね。人生の方向性そのものを大きく転換させるという。そういう人もまれにいます。多くはないですが。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「森林セラピーってそういうことなんですよ。会社の上司のこととか、恋人とのトラブルとかね、のっぴきならない悩みで落ち込んだり、怒りが止まらなかったり、食欲がなくなったりね。そうやって精神が追い詰められているような人は、森へ行ったほうがいいんですよ。今すぐにね。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「あと、森や山へ行けというと、みんな「仕事が一段落したら」とか「時間の余裕ができたら」って言うでしょう。でも、対人関係がギスギスして、人にも言えないような問題を山ほど抱えている人ほど、抱えたままでいいから今すぐ行ってこいと言うんです。医学的にもそちらのほうが、効果がはっきりわかるんですよ。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「僕は森も好きだけど、最初にはっきりと感じたのはお寺に通いはじめてからですかね。結界が張られている真言密教のお寺の中に入ったら、頭の中の大半を占めていた世俗的な悩みが、瞬間的にふっと小さなものに見えましてね。手を合わせたら心がすーっと落ち着いていく。「なんか癒やされているなぁ」くらいの感じだったんですけど、 2年、 3年と通ううちに、「これはちょっとすごい力だな」と。言ってみれば、社会という枠組みの外側に出たような感覚なんでしょうね。それによって自分の気持ちが相対化するという。ああ、そうか、自分は相対的なものに悩んでいたんだと。人の悩みというのはすべからく相対的なものです。だから、さっきも言ったように、死は悩みにならないでしょ。死は絶対的なものだからさ。死んだ後は、自分はこの世にいないんだから、悩む必要がない。それを「死と生」というふうに観念的に相対化するから悩むんです。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「たしかに、効率面でも合理性がありますしね。都会と田舎の2つの世界が、どちらかに偏らずにバランスがとれる。だから、そういうところも含めて、1つには森林セラピーということ。漠然ともやもやしている人よりも、進行形で心が極度に追い詰められているような人こそ、できたら森林セラピストと 2、 3時間歩いてね。ここで呼吸をしましょう、目を閉じてみましょうとかやってみる。そうするとね、舞台がガラっと全部変わるときがある。自然に入ると、今まで自分がもがいていたのが、1つの社会の中のさらに小さな事象にすぎなくて、社会の外側には世界や自然があるっていうことを、頭じゃなくて体が感じる。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「まさに、人がお寺に行って気持ちがすっと軽くなったとか、明るくなったとかいうのは、その人が無意識のうちに、境内や仏像や、それらを含むお寺の「場」と同調したということでしょうね。自然も宗教施設も、場の力というものがあります。場と同調すると、自分の立ち位置や役割ががらりと大きく変わりますから。それまでは、誰々の伴侶の私とか、誰々の恋人の私とか、会社の課長の私とか。でも、自然の中に入ったら関係ない。お寺へ行ったら関係ないんですよ。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「なんというか、歩いたら足からわかるというか。風を感じれば毛穴からわかるというか。それも限界がありますけどね、表現としては。だから結局、ここでわかっていると思っていても、本当はその状況の中に自分が巻き込まれたときに初めてまるっとわかるみたいなことでしょうね。そういうことを、それこそ丸っきりわかってくれないっていうか。知り合いの山へ行って、杉林の間伐でもやったら、それは気持ちがいいに決まっているんです。でもその理屈はいちいち言わない。「これこれ、こんな風に気持ちがいい」「だから心身にいい」なんてことはね。たとえば今ね、天気がよくて、これが会議室じゃなくて林の中でさ、葉っぱが風にそよいでいるのを見ていたら、気持ちがいいもん。黙っていてもいいんですよ。雲が見えて、青空が見えて、木が見えて。別にそれでいいんですよ。説明しようがない。どうしても知りたいなら、自分で行って感じるしかない。僕とはまた違う感じ方になるでしょう。あるいは、「ただ寒いだけだった」「疲れた」と後悔するかもしれない。それはそれで仕方ない。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「だから、医師の立場でいえば、「会議室から出て自然に触れる」ということに対する、心理療法的な効果だってあるんです。二日酔いが治ったりするんだからね。起きて森でも歩いていれば。だから森林セラピーというのがあるんで、そういう対処療法も立派な1つの医療なんです。僕だって年に何回かは頭痛がして、薬飲むことがありますからね。そういう意味では、どんな目的や動機であっても、「森に行ってくる」って発想して行ってみることはいいことですけどね。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「あの、これ僕よく若い人にも言うんだけど、日本には本当にたくさんの宗教資産がありますからね、恩恵にあずからないと、もったいないんですよ。一説には、寺は全国に 7万 7000、神社は 8万 8000あるというんです。京都や鎌倉ほどの有名な観光地じゃなくても、どんな街だって 10分とか 15分も歩けば、なにかのお寺や神社に行きあたりますからね。そういうところは拝観料なんてとりませんし。つまり、昔の人たちがせっかく残してくれた莫大な宗教資産を、我々は今、ほとんどタダで利用できるんです。そういう国に住んでいる。これは本当にもったいないことなんですよ。仏教というのはもともと、日常生活に取り入れられる哲学であり、教えなんですけど、それが全然活用できていない。仕事で出張に行ったとか、打ち合わせであまり来ない駅で降りたりしたときなんか、ちょっと歩いてお寺でも見かけたら、ふらっと入って、何も考えずに手を合わせてね。そういう時間が日常にあるだけでも、気持ちの持ち方というのは大きく変わってくると思いますよ。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「ほとんどそうでしょうね。「あ、もういいや」って怒るのを止める心理の裏には何があるのかというと、よくわからない。そもそも内的な世界の悩みって、表に見えてこないから、なかなかわかってあげることができない。頭に棘が刺さっていたら「痛いだろうな」とわかるけど、頭痛だと表面的にはわからない。ましてや悩みはもっと複雑で、つまり隔離されている苦悩ですよね。でもそれって、往々にして状況が変わった瞬間に「あれ」って夢から覚めるようなことがあるんです。もちろん、必ずじゃないですよ。そういうことがすごく多いんです。それというのは、さっきから言っている「わかる」とか「気づく」ということもそうで、何がきっかけで「あ、そうか」となるかわからないんですけどね。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「同じですよね。篠栗町で弟子を連れて合宿するという話をしましたけど、本当に反応がわかりやすいですよ。終わると「先生、良かったです、素晴らしかったです!」って目をキラキラさせて言うんですよ。まるで僕がすごいカウンセリングをしたり、すごいことを教えたかのような顔して。だから、僕はすごく得をしているんですよ。でもそうじゃない、森のおかげなんです。森の中を適当に歩いてね、お寺を3つくらい巡ったらさ、誰だって生き生きしてくるんですよ。それで以前、福岡のテレビ番組で、その篠栗の森へ行ってみましょうというような企画があったのですが、その良さみたいなものを、テレビを通じて視聴者へ言葉で説明するのって、ものすごく難しいんですよ。はっきり言って無理なんです。そうでしょう。「とにかく行ってみろ」としか言えない。「先生、どういう効果がありますか」とか聞かれても、「いやぁ、そこへ放り込んでみるしかないですねえ」と僕は思っている。ただ、さすがにテレビなんでそうもいかない。なので、意識化した言葉を並べて説明するわけなんですが。まあ、伝わっていないですよね。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著


     「現代人は生きそびれていますよ」と僕はよく言っているんだけどね。ネット見ると山ほど情報があるんだけど、ああいうものは全部、死んでいますから。死んでいるという意味は、固定しているでしょう。明日になっても変わらない。いつまで経っても同じなのが情報なんですよ。でも人間は情報じゃないし、自然も情報じゃない。諸行無常ですから。それを取り違えるからおかしなことになる。ネットの中のものは全部そうですからね。新しいものは次々出てくるけど、そのまま全部が固定しちゃう。そういう情報はたしかに便利かもしれないけど、生きてはいない。死んでいる情報とだけ対峙して、それではあなたは、生きていることとは違うんだよというところに、人生のどこかで気がついてほしいんです。

    「会社員だって無機質な会議室にいるより、外へ出て空気を吸って考えたほうがいいんだから(笑)。デカルトも言っているじゃないですか。「世間という大きな書物を読むために、自分は書斎を出た」と、『方法序説』に書いていますよ。まぁ、あれは物理的に外へ出るということもあるけど、枠から飛び出ていろんな仕事をして、いろんな経験をしなさいという意味もありますけど。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    「だから外へ出ろというんです。「逍遙学派」というのが昔からありますからね。「逍遙」というのは散歩の意味で、アリストテレスは散歩をしながら講義をしていたらしいし。ただまあ、思うんだけど、やっぱり男の生き方って、西行から芭蕉まで、けっこう旅をしたり、うろちょろ動いていますよ。剣豪も塚原卜伝が山中に 1人で暮らしたりね。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    虫採りなんて典型的にそうです。虫が好きな人に「おい、行こう」と言ったら、みんな絶対行きますから(笑)。会社や家族の妨害がなければ、全員が絶対行くって言う。そういう連中を、僕も含めて無機質な会議室に閉じ込めておくと、きっと頭がおかしくなりますから。人ってそういうもんでしょう。生きているんだからさ。やっぱり、そういう子どものような気持ちを、70歳になっても80歳になってもなくさないんですよ。虫採りに行ったらバカに戻ってね。実は6月にも、4、5人で台湾へ行ってカミキリムシを採ってくるんですよ。案内してくれるのが周君という台湾の人で、北京でインセクトファームをやっている人なんだけど、台湾は地元だから当然詳しい。「案内してよ」と言ったら、「その頃は北京で仕事をしているから、夫婦の往復の旅費を出してくれたらガイドしてもいい」と言うから「いいよ、出すよ」と。北京から台湾への飛行機代なんて安いからさ。それで案内してもらってね。カミキリムシって、高いところを飛んでくるんですよ。知っていますか。それを長い竿で採るわけ。バカですよ、こんなもん(笑)。でも楽しいんだ。

    「だから、トランプじゃなくても、変な人が出てくる理由があったんです。英国の EUからの離脱も根っこは似ていて。どの国も政党を見ると、ナショナリズムを標榜している政党が票を伸ばしていますよ。ドイツだろうが、フランスだろうが、オーストリアだろうがね。だから、トランプが台頭するのも当然といえば当然なんで。しかし多くのメディアはそう考えなかったですね。そう言わなかった。トランプは負けると。日本もアメリカも、マスメディアは軒並み、そういった方向の逆側の考え方に取り込まれた。」

    —『「他人」の壁 (SB新書)』養老 孟司, 名越 康文著

    なぜメディアや多くの人がこれを「結果」という視点でとらえられないのかというのは、本当に強く感じます。そこへ踏み込んでいる評論家って少ないですよね。結果ととらえれば、もっと本質的なプロセス、つまり、なぜこういう結果になったかという、自分たちの根源にある欺瞞とか、過ちに気づくはずなんですよ。つまり、本質的なことにね。なのに、「トランプ現象が起きた、大変だ、じゃあどう対応したらいいんだ」という方向に行きがちですよね。良くも悪くも、今までの自分たちのやり方がこれを招いたという考え方に至らない。だから本質に気づくことができない。これまでの日常がトランプを生んだんだという、そこの部分へ行けないんです。「いよいよ政治の末路だ」って、いやいや、政治の末路なんて歴史上で今までも何度もあったじゃないかと。唐や漢や、周が倒れるときも、末路みたいなことはあったんだっていう。

    名越康文

    「新聞だって「大衆迎合のポピュリズム路線はダメだ」と社説で書くんだけど、大衆が多数決で決めているんだからさ。じゃあ民主主義って何なんだという話。そうじゃ

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    2026年03月27日
  • 江戸の智恵 「三方良し」で日本は復活する

    Posted by ブクログ

    徳川 恒孝
    (とくがわ つねなり[1]、旧字体:德川 恆孝、1940年〈昭和15年〉2月26日 - )は、日本の実業家。徳川宗家第18代当主[1]。学習院大学政経学部政治学科卒業[2](学位:政治学士)。元日本郵船副社長。公益財団法人德川記念財団初代理事長(現在は名誉理事長)。WWFジャパン名誉会長。公益財団法人斯文会名誉会長。公益社団法人東京慈恵会元会長。一般社団法人横浜港振興協会元会長。早稲田大学エクステンションセンター八丁堀校特別講演講師。公益財団法人日本美術刀剣保存協会名誉顧問。一般財団法人軽井沢会理事(2010年時点)。



    「歴史的に見ると、われわれの社会はだいぶ変わった成り立ちをしています。それがプラスに働く点も多い。ところが、日本の独特さを世界に説明しようとすると、はたと言葉に詰まってしまう。日本というものを世界に理解させる言語や方法がはたしてあるのだろうか、という疑問があります。」

    —『江戸の智恵 「三方良し」で日本は復活する』養老 孟司, 徳川 恒孝著

    「そこで問題になるのは言葉の使い方です。日本の社会や文化を語るうえで、「権力」や「経済」「主義」など、明治以降に輸入された言葉ばかりを使って話すと、どうしても議論の焦点が外れがちです。でも、たとえば「家」や「天下」というのは江戸時代からある言葉だから、直感的に理解できる。「権力機構」などといわれるともうお手上げで、わかったような、わからないような話になってしまう。」

    —『江戸の智恵 「三方良し」で日本は復活する』養老 孟司, 徳川 恒孝著

    「技術でも思想でも、とにかく新しければよい、というのは迷信です。ビジネスの世界で最初にコンピュータが導入されはじめたころは、皆が「知っている情報を、わざわざ機械に入力する必要がどこにあるのか」といっていました。それが健全な感覚というものです。たしかにデータが十年も蓄積されると、便利なこともあるとわかるのですが、私自身、コンピュータを扱いながら、心の中で「これは愚かな機械だ」と思っていました。しかしおかしなもので、いまやコンピュータなしでは誰も仕事や生活ができなくなっている。携帯電話もそうで、これは便利だと思う機械に依存しているうちに、考えることをやめてしまう。手でものを書くことも忘れる。」

    —『江戸の智恵 「三方良し」で日本は復活する』養老 孟司, 徳川 恒孝著

    「ところが世界には、多様な意見を認めない人たちがいる。それはものの見方に原因があります。  たとえば日本産とアメリカ産のリンゴ、梨がそれぞれ二個ずつあるとします。産地と品種の違いで見ればリンゴと梨は計四つ、リンゴは計二つです。しかし、それらの違いを捨てて、果物という概念だけで括れば、それらは「一つ」になる。リンゴや梨という具体名を「果物」という言葉でまとめると、リンゴも梨も違いがなくなってしまう。このように、世界中を言葉によって概念化すると、行き着くところは、この世に存在する一切を一つの「神」と呼んで崇めること、つまり一神教の信仰につながります。」

    —『江戸の智恵 「三方良し」で日本は復活する』養老 孟司, 徳川 恒孝著

    「一方、リンゴや梨一つひとつの違いを見つめれば、一〇〇個なら一〇〇通りの存在を考えることにつながる。これが八百万の神を信じる「多神教」の考え方です。八百万の神へ向かうのはどちらかといえば感覚的な国民で、一神教へ向かうのは観念的な国民です。その違いが、日本という国が理解されない理由ではないでしょうか。」

    —『江戸の智恵 「三方良し」で日本は復活する』養老 孟司, 徳川 恒孝著

    「 美というのは、観念よりも感覚と結びつきやすい。数学者の藤原正彦さんは「数学では美的感覚が重要」とおっしゃっています。数学のように抽象を突き詰めていくと、やがて観念を超えて感覚の世界に近づく。一見、矛盾するようで、じつは何の不思議もありません。数学者が「エレガントな解答」を求めるのは、そこに美があるからで、「数学は無味乾燥でつまらない」という人は、下手な論理にとどまっているということです。」

    —『江戸の智恵 「三方良し」で日本は復活する』養老 孟司, 徳川 恒孝著

    「だんだん観念的になってきている。僕は以前からそれを「脳化社会」と呼んでいます。身体で感じることよりも、脳で考えることが世界だと思うのが現代人で、脳化というのは都市化にともなう現象です。  しかし、それは本来の日本人の姿ではありません。先ほどお話ししたように、感覚はいくら脳で考えても数値にできません。国民の幸福度や将来の希望について、国が細かく統計を取ってそれをどうするのか。たとえば、 GDP(国内総生産)で測ればラオスやブータンはアジアの最貧国ですが、これらの国へ行って感じる豊かさはアジアでも随一のものです。仮にアンケートを取ったとしても、彼らは自分の国が貧しいとは答えないでしょう。」

    —『江戸の智恵 「三方良し」で日本は復活する』養老 孟司, 徳川 恒孝著

    「江戸時代には、「金持ちが偉いんじゃねえや。お天道様に顔向けできるように働いている奴が一番偉いんだ」というようなモラルが広く浸透していました。一方、お武家様のほうは、「食わねど高楊枝」です。商人たちもあくどい商いをすると仲間はずれになる。」

    —『江戸の智恵 「三方良し」で日本は復活する』養老 孟司, 徳川 恒孝著

    「先ほど触れた海外と日本の関係についてお話ししたいのですが、明治以降、「日本人が日本語を使っていること」によってわれわれが享受したメリットは、計り知れないものがあると思う。世界の国にとって日本語は基本的に「暗号」です。われわれが話している内容は、そのつど解読しなければならない。情報が外に洩れないという点で、われわれはかなりの恩恵を受けています。いまでも日本人同士で海外に行くと、その国に対していいづらいことを日本語で話すでしょう。  一国のなかで、日本ほど均質に、そして特殊な言語を使っている社会はありません。さらに日本語がもつ特性は、われわれのものの見方に決定的な影響を与えます。言葉が思考をつくることについては、文科系の学問ではきちんと分析していないのではないでしょうか。」

    —『江戸の智恵 「三方良し」で日本は復活する』養老 孟司, 徳川 恒孝著

    「沈黙することは「多数派に従うこと」ですから、あとになって、じつは日本は、またはわが社は違う意見だったのである、と意見文書を送っても、何の効果もありません。いうべきことを、いうべきときに話さなければ、会議に出ても何の意味もないというのが、偽らざる気持ちです。」

    —『江戸の智恵 「三方良し」で日本は復活する』養老 孟司, 徳川 恒孝著

    「僕も昔は、英語と日本語で論文を書いていました。しかしある時点から、英語でものを考えることの怖さに気がついた。言葉の流通というのは国同士の力関係で、ある言語は残り、ある言語は潰されていく。われわれにどこかで「言葉を守る」という意識がないと、取り返しのつかないことになりかねません。」

    —『江戸の智恵 「三方良し」で日本は復活する』養老 孟司, 徳川 恒孝著

    「外国語を使うというのは、母国語にない発想でものを考えることです。これは思想の問題といってよい。八百万の神の日本語の世界と一神教の英語の世界は、大きな違いがある。それはキリスト教の聖書をご覧になればわかるでしょう。『新約聖書』の「ヨハネ福音書」は、「初めに言葉ありき」という一節から始まります。また『旧約聖書』の「創世記」の最初に、神が「光あれ」というと世界に光が満ちた、という記述があります。これは電気の灯りが世界を照らすようなもので、都市文明の思考そのものです。」

    —『江戸の智恵 「三方良し」で日本は復活する』養老 孟司, 徳川 恒孝著

    「母国語で科学を教えられる国はアジアで日本だけ」

    —『江戸の智恵 「三方良し」で日本は復活する』養老 孟司, 徳川 恒孝著

    「最近、海外の大学の先生方のお話を聞くと、日本の学生の学力低下が著しく、ほとんど一流大学で一流の先生のゼミナールには入れないし、入ろうとする学生もあまりいないといいます。中国、台湾、インド、韓国などの学生が目をギラギラさせながら突っ込んでくるエネルギーと、いまの日本の若い衆のエネルギーの量があまりに違いすぎることに愕然とするというのです。」

    —『江戸の智恵 「三方良し」で日本は復活する』養老 孟司, 徳川 恒孝著

    「 誤解を恐れずにいえば、いくら格差社会といっても、インドやパキスタン、バングラデシュとは次元が違う。日本はいまだにヨーロッパ諸国やアメリカより失業率が低いのですから。ヨーロッパの多くの国では若年層の失業率が二〇~二五パーセントに達し、職を失った若者が街に溢れています。不景気に加えて、トルコ人やアルジェリア人、アラビア人などの移民労働者が低賃金で働くためです。いまの日本は幸い、まだそこまで追い詰められていません。しかし今後、アジアから賃金の安い外国人が流入してくるとしたら、若者も安穏とはしていられないでしょう。」

    —『江戸の智恵 「三方良し」で日本は復活する』養老 孟司, 徳川 恒孝著

    「僕は、いわゆる文法型の英語教育も受けましたが、別のスタイルの教育も経験しているんです。子供のころイエズス会の学校に通っていて、その学校に、ベルギー人神父がつくった英語のスピーチクラブがありました。リンカーンの有名な「ゲティスバーグの演説」やジョージ・ワシントンの大統領就任演説を暗記したおかげで、だいぶ意思疎通ができるようになった。それでも、母国語と違って英語はやはり不便です。どれほど正確に文章を書いたつもりでも、文法が合っているか、相手が内容を理解しているかは、きわめて心許ない。さらに相手に伝わるニュアンスまでは、絶対にわかりません。」

    —『江戸の智恵 「三方良し」で日本は復活する』養老 孟司, 徳川 恒孝著

    「うちの女房はお茶をやっていますが、海外でお茶会を開くと、けっこう人が集まるそうです。そういう事業には国からまったくお金が出ません。  僕は「事業仕分け」のとき、「お金があれば仕事ができると考えるのが最もつまらない」と感じました。たしかに研究費の額を見れば、どのぐらい大きな仕事をしたかがわかる。でもそれは、自分がやった仕事なのか、お金がやった仕事なのかわからない。僕のやっている解剖学にもともと研究費がつかなかったせいもありますが(笑)、研究者は自分自身の手で成し遂げた、納得のいく仕事をするという夢をもたなければいけないと思う。」

    —『江戸の智恵 「三方良し」で日本は復活する』養老 孟司, 徳川 恒孝著

    「私の直感ですが、かつて王室があり、それを廃止してしまった多くの国が、いまになってやはり国の中心に王室があったほうがよかったと感じているように思います。選挙の勝ち負けや、権力の奪い合いとはまったく関係のない王室が、その国の文化の維持や、国民の幸福を心から願う姿を見ているからでしょう。これは単なるノスタルジアではないように思います。  観光資源のお話ですが、最近、あちこちの城下町で城を復元しようという計画が進んでいます。それがきっかけになって人が集まるようになるのは、とても良いことです。江戸城は明暦の大火(一六五七年)で本丸から天守閣までが消失したのですが、江戸の街の都市計画を優先するということで、天守閣は再建されませんでした。それ以来、天守閣がないことが平和のシンボルとなり、江戸城がずっと存続しているわけです。」

    —『江戸の智恵 「三方良し」で日本は復活する』養老 孟司, 徳川 恒孝著

    「そもそも文化や伝統とは、お金や経済性の問題とは相容れないものであり、もっと長い目で見て守り伝えていくべきものです。その意味で、日本で皇室を潰せと主張している人はあまりいないのであって、僕は「最悪でも観光資源として皇室を残すべきだ」と主張しています。」

    —『江戸の智恵 「三方良し」で日本は復活する』養老 孟司, 徳川 恒孝著

    「僕は基本的に、日本人はこのままでいいと思います。メディアがいくら悲観論を煽っても、それほど響かないでしょう。明日、東京に大地震でも起これば別ですが。  二百五十年間続いた徳川幕府の治世のなかで、日本人は長いあいだ平和を謳歌していました。ところが明治維新のころには、あれだけ数多くの人材が出てきたわけですから、現在の日本にも、草 に有為の人材がいるはずです。  昔から、「英雄時を得ず」といいますが、いまはまだその時ではないのかもしれません。しかし、外見は怠けているように見える若者のなかに、それこそ坂本龍馬になるような逸材がいるのかもしれない。極端な話、そういう若者たちが無聊を慰めつつフリーターやニートに身をやつしているとすれば、むしろそのほうを警戒しなければなりません。」

    —『江戸の智恵 「三方良し」で日本は復活する』養老 孟司, 徳川 恒孝著

    「明治維新のときがそうだったように、日本という国は歴史上、何か事が起これば、これまでと違う人が必ず出てきます。僕はその点について、なかば確信に近いものをもっている。多神教の日本は多様な文化的遺伝子を受け継いでいて、そのなかから必ず「変わった人」が出てくるはずです。  近年でも小泉純一郎氏のように、それまで権力の傍流で、党内で誰からも相手にされなかった人がいきなり政治の表舞台に立ち、歴史に残るような長期政権の時代を築きました。ここ数年、日本の総理大臣が毎年のように代わっているのは、政治家自身の問題もありますが、それ以上にわれわれの社会が一神教的になってしまい、多様な考えを認めず硬直化していることのほうに原因があるのではないでしょうか。変人を許容できない社会から英雄は絶対に生まれませんし、またそうした社会は早晩、弾力性を失って衰えるしかない。  その意味では、最近の日本が老いも若きも非常に堅苦しくなってきて、社会が多様化していないことが心配です。世の中、少し外れている人がいてもいい。その点、昔はよくできていました。礼儀作法がきちんとしていたので、それぞれの個人的事情は礼儀のなかに隠すことができた。人間社会が成り立つ程度の礼儀作法さえきちんとしていれば、あとはいろいろで構わない、ということになります。」

    —『江戸の智恵 「三方良し」で日本は復活する』養老 孟司, 徳川 恒孝著

    「日本人は縄文以来の「森の民」だといわれます。キリスト教やユダヤ教、イスラム教などの宗教は、広大な乾燥地帯で生まれたもので、日本の宗教とは発想が大きく違います。たとえば日本には、人が森と一緒に生きていくという考え方がある。また、山や川は豊かな恵みをもたらす一方で、噴火や洪水などの災害を及ぼす怖い面もあります。だから、「どうか人間に災害や災厄を及ぼさないように平らけく安らけくお鎮まり下さい」と祈り、自然のもつ良い部分だけをいただこうとして、神道が育ってきた。その意味で、日本人の人間の生き方自体が、自然と密着しているわけです。  四季折々の季語を盛り込んだ俳句を詠み、折々の季節にちなんだ和菓子がお菓子屋さんの店頭に並ぶという、自然に対する鋭敏な感覚。僕が女房に「あの着物を着たらいいじゃないか」と話すと、「花(の季節)が違うから駄目」といわれて、何のことかがよくわからない。こっちは厚い背広と薄い背広を季節に合わせて着るだけですから。季節を感じるセンスというか、日本独自の美学がある。その点、中国やその他のアジア諸国とも大きく異なります。」

    —『江戸の智恵 「三方良し」で日本は復活する』養老 孟司, 徳川 恒孝著

    「ヨーロッパでは中世以来、田舎に住む人を馬鹿にするところがあるでしょう。最も典型的なのが、いわゆる「森の人」です。いまでもイギリスにそういう感覚が残っていて、村の人々に嫌われている男が薄暗い森の中をさまよい歩き、それを判事が保護するという話が、テレビドラマなどに出てきます。グリム童話の『赤ずきん』に出てくるオオカミが、人の言葉を喋る。あれも「森の人」の象徴で、『ヘンゼルとグレーテル』に登場する魔女も森の住人です。ヨーロッパ人の抱く一つの象徴的な生き方なのかもしれません。  ヨーロッパにおける森は、悪魔の住む薄暗い場所でした。比較的明るい日本の森と違って、ヨーロッパの森は本当に暗くなりますから、悪魔が住んでいたと思われていたのです。世界的にヒットした映画『ハリー・ポッター』シリーズでも、森は不吉で恐ろしい場所として描かれています。」

    —『江戸の智恵 「三方良し」で日本は復活する』養老 孟司, 徳川 恒孝著

    「興味深いのは、中国文明を取り囲む日本やモンゴル、チベット、ベトナム、ラオス、タイ、カンボジアはいずれも仏教国であることです。また、インド文明の周辺国であるブータンやミャンマー、スリランカも仏教国です。つまり都市文明の中国が真ん中にあり、その周りに数々の仏教国が位置している。 その理由はおそらく、仏教というものが自然に根差した宗教で、自然が豊かな地域でなければ生き残らないからです。そして日本は、地理的に自然の影響を受けやすい。ご存じのように、日本列島は北米プレートとユーラシアプレート、太平洋プレート、フィリピンプレートの四つの境目に位置しています。地震が頻発し、多湿で雨がよく降ります。これは大陸の乾燥した安定した気候とは、まったく比べ物にならない。」

    —『江戸の智恵 「三方良し」で日本は復活する』養老 孟司, 徳川 恒孝著

    「 隣国はさておき、日本のことを考えるならば、日本人はもう少し自分の特徴や置かれた立場について認識したほうがよい。少なくともいまの時点では、中国とはもう少し距離を置いて付き合ったほうがよいということです。より距離を近づけるとすれば、先ほど申し上げたモンゴルやベトナム、ラオスのような中国文明の周辺諸国です。そのほうが日本にとって具合がよいということに、かなりの確信をもっています。」

    —『江戸の智恵 「三方良し」で日本は復活する』養老 孟司, 徳川 恒孝著

    「 「一神教文明」と「それ以外の文明」という対比で見ると、多神教は一神教より、いろいろな面で柔軟だと思います。とくに一神教が怖いと思うのは、妥協のない点です。互いに半分ずつ分けようとか、無駄な戦いを終わらせて両者とも浅傷で引き下がろう、というふうな折り合いがつけにくい。オール・オア・ナッシングの世界です。」

    —『江戸の智恵 「三方良し」で日本は復活する』養老 孟司, 徳川 恒孝著

    「宗教の問題を解決しなければ、社会がうまく回らない。この宗教問題を世界に先駆けて解決した国は日本です。しかし、それは日本という他の宗教文明と離れた島国という地理的条件と、宗教のもつ危険な一面に気がついた織田信長や徳川家康のような指導者がいたことによるもので、とても例外的なものだと思います。では日本人は無宗教かといえば、「日本教」とでもいうような自然崇拝的な宗教心がある。とても特殊なあり方ですから、世界中の国々が日本流に従うのも難しい。にもかかわらず、宗教問題の解決なくしては、世界の紛争はおさまらない。宗教を基にした対立は、むしろますます激しくなっていますね。」

    —『江戸の智恵 「三方良し」で日本は復活する』養老 孟司, 徳川 恒孝著

    「一神教を信じる人々にとっては、たとえば病を得て「神様、仏様」と祈る日本人の振る舞いは驚天動地でしょう。「頭痛にはこの神様、腹痛にはあの仏様にお祈りすれば効能がある」といっても、外国人はなかなか理解しません。だから僕も、あまり力説したところで、わからないものはわからないので、仕方ないと諦めています。でも僕は、逆に外国人から「君たちには信仰心がないのか」と聞かれたら、「信仰心がある」と答えている。「ミスター・トクガワは何を信じているのか」という質問に、「それは山であり、空気であり、神であり、先祖であり、この世に満ち溢れているすべてのものだ」というと、彼らは目を丸くするのですが(笑)。」

    —『江戸の智恵 「三方良し」で日本は復活する』養老 孟司, 徳川 恒孝著

    「 日本は鎖国体制のなかで、資源と人口のバランスということを世界で一番早く理解して、対策を考えた国です。華やかな元禄文化から厳しい享保の改革に移行したのは、まさにこの問題に直面したからで、そこから生まれた江戸の文化は、あまり金のかからない市民生活のなかでいかに多くの娯楽を育て、人々が楽しく暮らしてゆけるか、を真剣に追求したものでした。質素倹約と、のびのびとした市民生活の両立です。お花見も、朝顔や菊づくりも、俳句や川柳をひねるのも、落語を楽しむのも、気楽で金のかからない楽しみです。」

    —『江戸の智恵 「三方良し」で日本は復活する』養老 孟司, 徳川 恒孝著

    「日本人の国際会議下手や外交下手は有名ですが、一つは真面目すぎるというところがあります。総理の靖国神社参拝をめぐって揉めたころに、『文藝春秋』が別冊(二〇〇六年八月臨時増刊号特別版「私が愛する日本」)を出して、日本に住む外国人に「日本人の良いところ」を語らせたことがありました。面白かったのは、「日本人はいったとおりの時間に来るし、約束どおりのことをする」点で、大方の意見が一致したこと。それを読んで、僕は「いったとおりに来ない、やらない」が世界標準だとわかりました。  つまり日本人は世界の標準から外れていて、日本の常識で世界を測ってはいけないというのが教訓です。しかし、多くの日本人はそうは思っていない。外国人と付き合うときには、普段どおりきちんとやろうと思うでしょう。」

    —『江戸の智恵 「三方良し」で日本は復活する』養老 孟司, 徳川 恒孝著


    「日光にも素晴らしい木がたくさんありますが、種類が違うのかもしれませんね。日本の古い神社・仏閣はそれぞれ深い森を守っています。先ほどの信仰の話に戻りますが、森を守るのも神社・仏閣の大切な役割だと思います。   WWF(世界自然保護基金)は FS C( Forest Stewardship Council =森林管理協議会)の設立を支援して、森林認証制度の推進に取り組んでいます。再生される森林資源から作り出された紙や製品に、 FS Cマークを入れています。ちょっと宣伝ですが。」

    —『江戸の智恵 「三方良し」で日本は復活する』養老 孟司, 徳川 恒孝著


    「日本人はもともと遵法性が高い人々です。やるべきことをきちんとやろうとする気持ちがある。それはやはり、「いったとおりに来る、いったとおりにやる」という江戸以来の文化の伝統で、われわれは、そういう良い部分を残しながら生きていくことができるのではないかと思っています。」

    —『江戸の智恵 「三方良し」で日本は復活する』養老 孟司, 徳川 恒孝著

    「その結果、いま何が起きているか。貧乏でも暮らせる社会から、貧乏で暮らせない社会に日本が変わりつつあります。これも、日本の伝統として好ましくないと思う。  そもそも、貧乏でも明るく楽しく暮らせる社会が江戸だったわけで、僕は江戸の小咄のなかでも貧乏咄が一番好きですね。あれは本当に貧乏を笑い飛ばしているんですよ。  たとえば、尾羽打ち枯らした浪人が二人で日向ぼっこをしていた。一人の浪人が「金はかたきじゃ」と切り出すと、もう一人がしみじみと、「本当に」といって、そのあとに「久しくかたきに巡り合わない」という、仕舞いのセリフをいうわけです(笑)。  もう一つは、暮れの大掃除がやっと終わり、「これで来年は良い年になる」と思って戻ると、座敷の真ん中に不精髭を生やした中年の男がいる。「お前は何者だ」と尋ねると、「貧乏神です」という。そこで、その男を追い出して「今度こそ、来年は良い年になる」とホッとしていたら、上のほうで「そんなに押すな、また落ちる」という声がした、という話(笑)。  かと思うと、落語に「お金をいくら捨てても儲かって、金ばかりがやってきてしかたがない」という話があって、江戸時代の人たちは、お金の世界を笑い飛ばしていた。いまの人たちは、笑えますかね。本気になってホリエモンを批判していますけど。」

    —『江戸の智恵 「三方良し」で日本は復活する』養老 孟司, 徳川 恒孝著


    「私は、日本は古いアメリカだと主張しています。ご承知のとおり、数万年のスパンで見ると、かつて日本にはユーラシア大陸のあちこちから、さまざまな人々が渡ってきました。つまり長い歴史で見れば、日本人はある意味で「外来者」であり、僕自身もミトコンドリア DNAを調べてもらったところ、母方のルーツは中国南部でした。いまでは、そういうことがわかるわけです。  遺伝子を調べていくと、人類はアフリカ大陸から少なくとも三回、移動を繰り返しているといいます。その三回の移動で伝えられた遺伝子をすべて受け継いでいる地域は、世界で日本だけ。だとすれば、数万年のスパンで見れば、日本は結局、移民で成り立っている国であり、古いアメリカ合衆国だともいえるわけです。逆に、アメリカがうんと古くなって、そこから何千年か経って国が成熟すると、日本になるといえなくもない。」

    —『江戸の智恵 「三方良し」で日本は復活する』養老 孟司, 徳川 恒孝著

    「聖徳太子が西暦六〇四年に「十七条憲法」を定め、「和を以て尊しとなす」といったのはなぜか。おそらく生い立ちの違う人々が集まり、喧嘩ばかりしていたからです。記録には残っていませんが、その反省をもとに、和を尊ぶ日本社会をつくってきたことが、われわれの血脈になっているのだと思います。」

    —『江戸の智恵 「三方良し」で日本は復活する』養老 孟司, 徳川 恒孝著

    「先の通常国会への提出は見送られましたが、民主党は選択的夫婦別姓制度の導入に前向きです。夫婦別姓は、社会の構成単位を「家」でなく「個人」に置くという意味で、家制度の問題と大きく関わってきます。「家」を考えるうえで大事なことは、一代で終わらないということです。代々、子供を産んでは育てるということを繰り返していくわけですから、どうしたって継続性を考えます。なおかつ毎世代、子供には白紙からものごとを教えていかなければいけない。空っぽの脳に何を入れていくかがつねに問題になるので、おのずと継続性が出てくるのでしょう。日本の社会は、それを比較的上手にやってきたと思う。  そもそも、なぜいまあらためて夫婦別姓を決める必要があるのか。血統という意味からいうと、夫婦を別姓にすると、今度は「子供は父親と母親のどちらの姓を名乗るのか」という問題も出てきます。  女性が夫婦同姓であることによって、どれだけ不自由を被っているのか。戸籍上は同姓でも、いまほとんどの企業は女性が仕事をする際に旧姓を認めています。」

    —『江戸の智恵 「三方良し」で日本は復活する』養老 孟司, 徳川 恒孝著

    「ある一面だけから見て「不平等を平等に」というのは、短絡的です。僕の場合は昔、母子家庭で、母が医者として働いていました。その母が晩年、「私は女で得をした」としょっちゅう話していました。実際、女性でよかったという面はかなりあるはずで、いまの男女平等主義や均等主義はかなり偏っているのではないでしょうか。少なくとも、よく考えられたやり方とは思えません。  何事においても特殊なケースが起こり得ることを考えれば、どんなシステムを採用しても問題が起こることは明らか。ですから、システムの自由度の大きいほうがいい。変えるべきはシステムそのものよりも、むしろ、それを運用する私たちの考え方のほうです。」

    —『江戸の智恵 「三方良し」で日本は復活する』養老 孟司, 徳川 恒孝著

    「極端な家庭の場合、若い母親がぽつんと狭い部屋にいて、子供とサシで向き合いながら二十四時間暮らしている。旦那さんは家におらず、両親を頼ることもできない。そのような環境で母親は次第にノイローゼ気味になり、母親も子供も切羽詰まった状態に追い込まれてしまう。一方、あるケースでは、母親の過度の教育と厳しすぎるしつけで子供を押し潰してしまう。それが、事件を起こした若者の家庭に共通するバックグラウンドです。  昔はお嫁さんとお姑さんが同居していたから、子供は母に叱られればお婆さんのところへ行き、お婆さんに叱られれば母のところへ行くと、優しく迎えられたものです。子供にもその程度の智恵はあった。母親と対立しても、逃げ場がありました。だから宿題をサボったり、テストの点数が悪かったりして母親にこっぴどく叱られても、お婆ちゃんのところに行けば「お前はいい子だよ」で済んでしまう。そうしたバランス感覚を、日本の社会が失いつつあります。家庭は子供にとっては最初の世間ですから、これがなくなっては一番最初の社会訓練ができない。」

    —『江戸の智恵 「三方良し」で日本は復活する』養老 孟司, 徳川 恒孝著

    「さらに、多くの日本人は自分の血統や家系に興味をもちます。日本文明は長い年月のなかで、じつに多くの変化を断絶なしに、平和のうちに積み重ねてきました。縄文時代に弥生人が入ってきたことはあっても、ユーラシア大陸の民族移動の歴史のように、先住民とその文明を全滅させたり、徹底的に破壊したりしたのとはまったく違います。比較的文明が発達した大国のなかで、そうした幸運な歴史をもつ国は、日本がほとんど唯一です。宗教観なのか自然観なのかわかりませんが、日本では自然との一体感も、今日に至るまで維持されてきた。それを「日本教」とか「大和教」と名づける人もいます。  もともと「仏教とは何ぞや」「神道とは何ぞや」という感覚ではなかったのでしょう。そもそも神道は村の鎮守を祀り、穢れを祓うものでした。ある意味で神道とは便利なもので、一度お祓いを受けると、身についた穢れがすべて落ちるという。こんなありがたいことはないと、いつも思っているのですが(笑)。」

    —『江戸の智恵 「三方良し」で日本は復活する』養老 孟司, 徳川 恒孝著

    「神が人間を支配している社会では、「ラマダン(断食をともなうイスラム教ヒジュラ暦第九月の名称)のあいだは日の出から日没まで食べ物を口にしてはならない、水も飲めない、たばこも吸えない」などのオーダー(命令)が人間に優先します。日本人の行動を支配しているのは宗教よりも「世間」なので、目に見えるような戒律はまずありません。  それでいて、わが国には抜きがたい宗教観あるいは自然観、文化観がある。そこが不思議な、世界的にも異質な文化ではないかと思います。」

    —『江戸の智恵 「三方良し」で日本は復活する』養老 孟司, 徳川 恒孝著

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    2026年03月26日
  • 養老孟司の人生論

    Posted by ブクログ

    研究=虫取りと同じ純粋行為

    美空ひばりと養老孟司同い年らしいw

    養老孟司って女より虫が好きで虫目当てで海外行くらしいけど分かるよ。虫以下の価値の女多いよね。

    なんで読書と言えば小説なのか分からない。科学ほど面白くて奇想天外な物語無いのに。

    「 ぜんぜん考えないで、ノー天気に暮らしていても、考えた挙句に、死ぬことなんて考えたってムダだと悟るのと、結論は同じです。だから考えたってムダかというと、そんなことはないでしょう。昔の人はうまいことをいいますね。「大賢は大愚に似たり」。いちばん賢い人は、いちばんのバカに似てる。そういうことでしょ。  大賢と大愚はそっくりなんだけど、じつは大違いなんですよ。どこが違うかって、状況が変わってみないと、そこがわからない。大愚の人だって、運がよければ、一生そのまま上手に過ごしちゃうかもしれません。それなら大賢と区別がつかない。死なんて一生考えないで、上手にポックリ逝っちゃった。それでもいいわけです。見ようによっては、人生の達人ですわ。実際には運がよかっただけですけど。  歳をとるにつれて、私は運ということを考えるようになりました。たいていの人がそうなのかもしれませんね。若いときは、運なんて考えてませんでした。そもそも私は博打をやりませんからね。でもここまで生きてくると、運ということをしみじみ考えます。そもそもここまで生き延びてきたこと自体、「運がよかった」んでしょうが。同年生まれで、すでに死んだ人もたくさんいますからね。美空ひばり、江利チエミ、小林千登勢。六十五歳で私の本がバカ売れしましたけど、六十四歳で死んでたら、そういう目にはあってません。べつに売れたからいいというわけじゃないですが、こんな歳になって、妙なことが起こるもんだと思います。これも運のうちじゃないですか。」

    —『養老孟司の人生論 (PHP文庫)』養老 孟司著


    「人生って、そんなものかもしれませんね。母と父は熱烈な恋愛結婚だったと聞かされてました。父は三十四歳で死んでますから、そのあと母は十二分に嘆いたんでしょうね。それで、変ないい方ですが、元がとれちゃった。もう未練が切れちゃったのかもしれません。それで、自分が死にそうになったとき、夢のなかで会いにいった人は両親であり、妹たちである、つまりは身内だったってことです。  それで当然なんですね。「夫婦は他人」っていうじゃないですか。私の母の話は、死がだれにとって重要か、それをよく示してます。身内、つまり親しい人なんですよ、あなたの死が重大事件になる人たちは。  自分ではどうでもよくたって、身内にとっては話が違います。自殺されていちばん苦しむのは、親しい家族です。「どうして死んだの」と思う。それが心の傷になります。これを二人称の死といいます。他人の死はしょせんは他人ですから、三人称です。自分の死は一人称。これはどうでもいい。それはもういいました。私は二人称の死だけが、じつは本当の死だと思っています。逆に、だからなかなか死とは思えない。親子兄弟、親しい人の死は、長いあいだ納得がいかないんです。」

    —『養老孟司の人生論 (PHP文庫)』養老 孟司著


    「性格は変わらないって?  じゃあ、躁うつ病はどうなりますか。「躁」と「うつ」では、大変な違いですよ。ネアカとかネクラとか、若い人はいいますけど、それなら躁うつの人は、どっちなんですか。「どっちでもなく、両極端に振れるのが、その人の個性なんだよ」。それならネアカもネクラもないでしょ。  私の女房がよくいいますよ。「あんたに会ったころは、ずいぶん暗い顔をしてた」。いまはそんなことはいいません。あのころは暗かったけれど、いまは暗くないんです。じゃ、私の性格はネアカかネクラか。人はどっちにもなるんですよ、状況や頭の具合しだいで。  ほかの本にも書きましたけれど、じつは心に個性はありません。そう認めるしかないんです。心に個性があってもいいんだけれど、それは他人には無関係です。私だけにわかって、他人にはわからないこと、それは他人にとって意味がありません。私だけの感情、これも無意味です。なぜなら、定義により、他人はそれを理解しないからです。」

    —『養老孟司の人生論 (PHP文庫)』養老 孟司著

    「知り合いに小学校の先生がいます。虫取りが好きで、ときどき一緒に山に行きます。こちらは定年後で暇ですから、虫取りに行こうよって誘うんですが、子どものころと違って、相手に暇がない。近頃は小学校の先生には、夏休みもないんだそうです。夏休みがあるから、虫取りに行ける。それで先生になったのに、これじゃ詐欺じゃないか。私なら、そう騒ぎますが、友人はまじめな人ですから、そんな騒ぎは起こしません。そういう人を誘惑しちゃいけないと思って、こちらも我慢します。本人も我慢の世界ですが、どうでもいいこちらまで、おかげさまで我慢の世界です。それがお勤めというもの。だれでも我慢させちゃう。  だから定年になるとホッとする。その気持ちは複雑ですね。長年勤めたところに、もう必要ないといわれる。でも自由になって、責任がなくなります。どちらがいいか、それは人によって違うでしょうね。」

    —『養老孟司の人生論 (PHP文庫)』養老 孟司著

    「もちろん、自分には変わらない面だって、当然ありますよ。虫が好きなんていうのは、まったく変わってない。それは個性でしょうという人もあるかもしれませんが、虫の好きな人なら、ほかにもたくさんいますよ。大勢知ってます。べつに私だけが虫が好きなわけじゃない。個性というより、虫好きという、人間の種類なんじゃないですかね。そう思えば、人間にもいろんな種類がありますよね。女好きなんて、虫好きより多いんでしょうね。」

    —『養老孟司の人生論 (PHP文庫)』養老 孟司著


    「デカルトの『方法序説』だと思いますが、「世間という、より大きな書物を読むために」、自分は書斎を出たという記述があります。この本は、研究者になろうと思った若い私に、大きな影響を与えた本のひとつです。大学院の入試のあいまに、この本を読んでいた記憶があります。  前章で死について論じました。そういう考え方だって、引き取りのような仕事をするなかで、覚えてきたことです。からだで覚えたことですから、ある種の自信がありますね。世間的にいうなら、無茶に聞こえそうなことでも、そうした自信があれば、平気でいえます。それがこうした「実業」から得た知識のいいところですよ。でも、いわゆる研究とは違いますわ。だから私は、解剖学とはなにかとか、死とはなにかとか、そんなことを考えるようになったんです。」

    —『養老孟司の人生論 (PHP文庫)』養老 孟司著

    「じつは私は、ものごとの理解が遅いんです。こんな本を書いたりしているから、早いと思う人もいるでしょうが、いまでも他人のいったことを、一年間考えたりするんです。だから、ただいま現在のことを、あれこれ議論するような会議は、徹底的に苦手です。その場の議論についていけないんです。だから会議では意見をいわなくなる。教授会で意見をいったのは、十三年のなかで一回だけですからね。なにしろ一年考えて、それからやっと返事ができるんですから。蛍光灯もいいところです。  答えは自分なりにはわかっていることもあるんですよ。でもそれが言葉にならない。そのときは、まだ他人に上手に伝えられないんです。ある問題について、その周囲をできれば全部、考えようとする。私にはそういう癖があるんです。それからなにかいう。だから本がたくさん書けるんだと思います。本には、これまで考えてきたことを、ゆっくり書くんですから、それが可能です。」

    —『養老孟司の人生論 (PHP文庫)』養老 孟司著

    「でも対象がいま生じていることだと、それに対して適切に返事ができないんです。いまの状況をかいつまんで、端的に反応し、表現する。それができません。だから政治の議論が苦手なんですよ。周囲の問題を含めて、いちおう自分なりに全部考えて、それから返事が出てくるんですから。」

    —『養老孟司の人生論 (PHP文庫)』養老 孟司著

    「でも人生は長いんです。六十五歳で、突然本が売れたりするんですからね。世間でいう「運、根、鈍」の「鈍」です。私が鈍だというと、笑う人もいるでしょうが、鈍なんですよ、私は。運の話はもうしました。」

    —『養老孟司の人生論 (PHP文庫)』養老 孟司著

    「紛争後二年ほどして、大学が落ち着きました。そろそろいいだろうというので、その前から考えていた留学をしました。オーストラリアに行ったんです。一年あまり住んだ、はじめての外国です。ですからいまでも、オーストラリアには土地勘があって、居心地がいいですね。  最低二年の留学の予定で、あちらの心臓財団から滞在費を出してもらいました。ところが着いて数ヶ月で、恩師から連絡があって、助教授に決まったから、すぐ帰れというんです。一人で怒ってました。いくらなんでも、そりゃないよ。  これには先生のほうにも前科があるんですよ。大学院を卒業したとき、すぐに留学しようと思いました。就職口もなかったんです。講座の助手は二人で、それはすでに埋まってましたからね。それでイギリスに行こうと思って、あちらの奨学金を申請するつもりだったんです。ところが先輩の女性が助手でいました。この方は同級生結婚で、旦那さんのほうも研究者だったんです。その旦那がイギリスに急に行くことになったという。だから奥さんのほうもイギリスに行きたい。ついては私と同じ奨学金を申請するというわけです。私のほうは、こっちが先約だと頑張った。そこで恩師が、私のほうを助手に採用する。そのかわり奨学金の申請を下りろという。推薦状をふたつ書くわけにいかないというのです。それで大喧嘩して、それでも最後にこちらが折れて、助手になったんですよ。」

    —『養老孟司の人生論 (PHP文庫)』養老 孟司著

    「だから「あんたのいうことは哲学だ」といわれたんでしょうね。いまでもいわれますもの。「先生の話は哲学的で、むずかしいですね」、と。  哲学者に「哲学だ」っていわれたことすらあります。亡くなられた科学哲学の大森荘蔵先生と、科学哲学会で話したこともありました。学会の演壇での対話でした。本人は、「どこが哲学だ」と思ってました。いまでも思ってます。「ただの常識じゃないか」って。私は数学者でも物理学者でもないんですよ。それこそ、あんなむずかしい理屈はわかりませんわね。「学問に日常を求める」、「日常に学問を求める」、それを哲学というんでしょうね。その意味なら、たしかに私は哲学をやってたんですよ。「死体なんかいじって、どこが日常だよ」。ふつうはそう思うでしょうよ。だから死体は日常だと、説明したんですよ、こんなにふつうなものはないって。だれでも死体になるんですから。」

    —『養老孟司の人生論 (PHP文庫)』養老 孟司著

    「学問は真理を追究するものです。真理とは、普遍かつ不変のものです。つまり場所が変わっても成り立つし、時代が変わっても成り立つ、そういうものです。  そんなものを、別にそのつもりもなく、私は追いかけたらしいんです。いま思えば、私の恩師、中井準之助先生もそうだったと思います。ことの本質を常に突く人でしたから。本質とはつまり真理の別名でしょうからね。  自分は「変わらないもの」を追いかけてきた。それを本当に意識したのは、つい昨年、平成十五年のことなんです。じつは小熊英二さんの『〈民主〉と〈愛国〉──戦後日本のナショナリズムと公共性』(新曜社)という本を読んだのがきっかけでした。ずいぶん分厚い本ですが、ともかくこれを読みました。題名でわかると思いますが、「民主」は戦後を象徴する言葉で、「愛国」は戦争中を象徴する言葉です。このふたつの言葉をめぐって、戦中戦後を生きた知識人、具体的には丸山眞男や吉本隆明のような人たちですが、こうした人たちの「言説」を、ていねいに追究した本です。」

    —『養老孟司の人生論 (PHP文庫)』養老 孟司著

    「小熊さんの本はまさに言説を扱ったんです。言説の歴史は「黙っていた多数」には当てはまりません。とくに日本の場合には、当てはまらないんです。黙っていること自体が、ある種の強い表現なんですから。もう古いですが、「男は黙って、サッポロビール」というコマーシャルがあったでしょ。「でも『いわなきゃ、なにもわからない』じゃないか」。言説だけが存在するものだとすれば、もちろん「いわなきゃ、わかりません」。西洋人はとくにそう思う人たちです。なにしろ「はじめに言葉ありき」ですからね。  でも人間は生きて動いてます。つまり言葉と同時に、「やること」を見なければならないんです。念のためですが、小熊さんの本を批判しているんじゃないんですよ。あれはあくまでも、言説を中心に置いた歴史なんですからね。あれはあれでいいんです。ただ、それをそのまま戦後史だと誤解されても困る。言説の歴史はああだったかもしれませんが、たとえば私自身はそのなかに入らない。」

    —『養老孟司の人生論 (PHP文庫)』養老 孟司著

    「ともあれこうして、解剖学というのは、すべての責任が自分に戻ってくるという意味でも、きわめて「確実な」ものです。若い私は、そこに魅かれたのだと、いまになって思います。そうした気持ちを準備したのは、小さいときの戦争と、その後の体験です。」

    —『養老孟司の人生論 (PHP文庫)』養老 孟司著

    「「科学は物語じゃない」。まじめな科学者なら、そういうでしょうね。だから私は『唯脳論』(青土社/ちくま学芸文庫)を書いたんですよ。科学だって、しょせんは脳の紡ぎだす物語じゃないですか。そんなことをいうと、政治関係の集会に、いきなり無政府主義者が出てきたような感じになるんでしょうね。みんなが首相をどうする、政策をどうするという議論をしようと思っているのに、「政府なんかいらない」っていうヤツが突然出てくる。その場の話が壊れちゃうと思うんでしょうね。  べつに壊れませんよ。科学にだって、面白い物語は山ほどあるんですから。  私が最初に書きおろした本ですが、『形を読む』(培風館/講談社学術文庫)にその一例が書いてあります。ライヘルト・ガウプ説です。「哺乳類の耳小骨は、爬虫類では顎の骨だった」。これなんか、なんとも面白い説ですよ。発表当時は「夢の産物」なんていわれたんです。「そんなものは、科学じゃない」って。なにしろ進化の話ですから、状況証拠しかないわけです。  ウェゲナーの大陸移動説もそうでしょ。「実証が欠ける、夢物語だ」。そう批判される。ともかく、聞くだけは聞いてもらったとしても、たかだか「仮説じゃないか」といわれます。  若いときに、それはよくいわれましたな。「仮説じゃないか」って。おかげで、歳をとるにつれて考えるようになりましたよ、「仮説じゃないものがあるか」って。学会で大方の人が信じてるなら「仮説じゃない」んですが、大方の人が信じてなけりゃ「仮説」なんですよ。それだけのことです。」

    —『養老孟司の人生論 (PHP文庫)』養老 孟司著

    「 学問が対象別になってる。それだけじゃありません。日本の教育では、方法論を教えないことが多いんです。なぜって、学問は対象だと思ってるからですよ。だから畳が腐るほど勉強したって、経済なら経済しかわからないってことになるんです。だって経済しか勉強しないんだもの、あたりまえでしょうが。  それなら、「方法論って、どう教わればいいんだ」。包丁の使い方って、「身につけるもの」なんですよ。身につけるためには、自分で長い間やってみるしかないんです。なんだってそうでしょうが。一日で包丁の使い方を覚えようったって、そうはいきませんわ。読み書きソロバンと同じです。それだって、身につけるには、小学校の六年間くらいの時間はかかってますよ。」

    —『養老孟司の人生論 (PHP文庫)』養老 孟司著

    「デカルトは本が薄い。話が短いんです。これもいい。和歌俳句の日本人みたいです。脳を重視したのもデカルトですよ。大脳生理学の祖といわれてます。私も世間に誤解されて、「脳科学者」なんていわれることがありますが、より正確にはデカルト主義者といわれたいですね。デカルトが怒るかもしれませんけどね。「俺はお前みたいに、明晰でないこと、はっきりせんことは書かん」。まあデカルト本人はとうの昔に死んじゃってますから、勘弁してもらいましょう。」

    —『養老孟司の人生論 (PHP文庫)』養老 孟司著

    「美人とは、じつは顔の造作だけの問題じゃありません。そこに誤解があるんですよ、きっと。顔の造作が世にも稀だから、つまり「特別」だから、美人なんだ。そう思ってるんじゃないんですか。  そうじゃない。造作があたりまえに近くなればなるほど、見るほうの好みがうるさくなるんですよ。いちばん平均顔に近づくと、見る側の鑑賞力も最大値に近づく、つまり「ものすごく好みがうるさくなる」んですよ。だからフツーに近くなるほど、採点がうるさくなるんです。ちょっとした口の曲がりとか、左右の非対称とか、そういうことで減点が百点になったりする。はじめっから徹底して非対称だったりすると、減点十点くらいで済むのに。そう考えると、極端にあたりまえの顔というのは、極端に少ないことになるんです。  だから美人かどうかは主観の問題だといわれたりする。見る側の問題だということが、わかっているわけです。認知に関する人間のこうした性質は、おそらく一般的なものだと思われます。それが美人にも、ノーベル賞にも出ているんですよ。  顔の造作とか、研究業績とか、そうした「対象」は正規分布します。偏差値になるわけです。ところが、それに評価が入るわけです。評価は直接に脳がするんですから、まさに主観というしかない。「いい」とか「悪い」とか、結局はいうんですよ。  その評価に関する脳のはたらきは、十分には調べられていません。私はその性質について、議論しているわけです。その評価は、正規分布の中央に近づくほど、「うるさくなる」と思われます。なぜかって、それがいちばんフツーの対象だからですよ。フツーでないものに、厳密な好みを作ってみても、生物としては意味がないじゃないですか。そんな対象には、めったに出会わないんですからね。フツーのなかでも、特にフツーな顔、それが美人なんです。」

    —『養老孟司の人生論 (PHP文庫)』養老 孟司著

    「いわゆる常識では、「その人が選ぶのは対象だ」と思っているわけです。私はそうではなくて、自分が選ぶのは方法だと決めた。そうしたら、こんなことになっちゃった。どんなことになったかって、いわゆる科学の世界からはみ出しちゃった。でもそれはべつにどうでもいいわけです。医学部をせっかく出たのに、医者になりそびれたのと同じで、せっかく科学をやったのに、科学者になりそびれた。同じことです。  これはじつは、人生のなにごとにも通じる話でしょ。嫁さんをもらうんだって、同じことじゃないですか。だれに決めるかって、ふつうは考えるけど、どうやって決めるかってこともある。「だれ」は対象ですが、「どうやって」は方法です。「だれ」の場合には、以前なら三高とかなんとかいいましたでしょ。収入が高い、背が高い、学歴が高い。そういう条件になったりする。これは美人やノーベル賞と同じで、なかなか決まらない。好みがうるさくなるからです。「どうやって」なら、自分で探す、親に探してもらう、知り合いに頼む。これは対象にはあまりうるさくない。自分で拾ってきたんだから、仕方がない。親がいうから仕方がない。信用できる知り合いがいいというんだから、いいんじゃないか。  無責任みたいですが、結婚なんて、やってみなけりゃわからないところがあります。それなら方法しだいでも、十分にうまくいく可能性があります。現に昔は対象ではなくて、方法だったんですからね。  いまの人は対象を選ぶことこそが、自分の選択だと思い込みすぎてるんじゃないんですか。それを「方法」だと考えてみると、対象に関する「うるささ」が減ります。仕事もそうでしょ。問題は仕事という対象そのものじゃありません。「仕事をどうやるか」、つまり仕事から自分がなにを得てくるかでしょ。「給料に決まってるじゃないか」。すぐにそう思っちゃう。秀吉の草履取りの話があるじゃないですか。どんな仕事であれ、そこから自分が得るものがどれだけあるか、それが重要なんです。」

    —『養老孟司の人生論 (PHP文庫)』養老 孟司著

    「世間で生きていれば、純粋行為は成り立たないことが多い。小便の例で示したとおりです。もちろんフツーの小便なら純粋行為です。でも世間で生きるということは、他人を考慮するということです。他人のことを考えるから、うっかり外で小便はできない。他人が見ている、見ている可能性があるという状況では、純粋行為は成立しにくいんです。「この非常時に、虫なんか、取りやがって」。戦争中なら、そういわれたでしょうな。ところが小便は、だれでもかならず、いつでもするんです。だから純粋行為なんて、決して稀なものではない。  もっぱら純粋行為をする人とは、つまり子どもですね。子どもは天真爛漫、他人がどう思おうと、好きなことをしてます。それですよ。だから大学の人は、世間に出すと、どこか子どもっぽいところがあった。  もともと大学が「象牙の塔」といわれたのは、大学の塀のなかに純粋行為を保存するためだったと思います。それを「大学の自治」といったんです。なんの役に立つか、学問なんて、そんなことを考えてやるものじゃない。まして金が儲かる、有名になる、偉くなる、そういうこととは関係はない。ひたすら「真理を追究する」。つまり大学は修道院に似ているんですよ。修道院はもっぱらお祈りをするわけですが。」

    —『養老孟司の人生論 (PHP文庫)』養老 孟司著

    「明治時代、東大の解剖学の教授に、田口和美という先生がいました。この人は日清戦争を知らなかったという逸話が伝えられています。たぶんウソだと思うんですが、でもそういう雰囲気はあったんでしょうね。学問をやる人は、世俗のことに関わらない。それを象牙の塔というのです。法学部の助教授が、フツーの雑誌になにか書いたら、お前はジャーナリストになるつもりかと、教授にいやみをいわれた。私が大学に入ったころでも、そういう雰囲気はまだありました。  ところが世間が変わってきたわけです。「真理の追究」なんて、だれも信じない。大学の人自身が、信じてない。あの紛争は、むしろそのことを明らかにしてしまいました。国立大学なんて、そもそも税金を遣う。それなら、みなさんのお役に立つことをして、遣った税金を還元して当然だろう。その後はそういう時代になっていくわけです。  私は研究活動を虫取りと同じ、純粋行為だと思っていたわけです。ところが、やってみると、そうはいきませんわ。あたりまえですけどね。なんの役に立つとか、いい仕事だとか、つまらない仕事だとか、いろいろいわれる。私はいわれたってかまわないんですが、世間とお付き合いするなら、「かまわない」というばかりではいかない。  だから、世間で生きるようになる、つまり「大人になる」と、あまり純粋行為をしなくなるのです。むしろ周囲を配慮して、なにかをするようになる。」

    —『養老孟司の人生論 (PHP文庫)』養老 孟司著

    「カトリックなら、歴史上にいわばさんざん「悪いこと」をしてきていますから、「うしろめたさ」が身についています。新しいということは、それが「ない」ということです。そういう宗派が「自分は正しい」と思い込むと、当然ながら社会的に危険な面が出てきます。だから「むずかしい」んですよ。イスラムはカトリックより新しく、プロテスタントはさらに新しい面を持っています。ましていわゆる新興宗教は、いうまでもありません。  どんな宗派であれ、私はべつに分け隔てをしているのではありません。ただ社会と関わるときには、新しい宗派ほど、周囲には用心が必要だといっているのです。これも「あたりまえ」じゃないですか。アメリカとイスラム原理主義の喧嘩は、やや新しい宗派どうしの争いです。アメリカはプロテスタント、それもファンダメンタリズムの国ですからね。」

    —『養老孟司の人生論 (PHP文庫)』養老 孟司著

    「ところが大きな社会的事件は、一般的なようで、そうでない面を持っています。だから戦争や紛争の話をしたわけです。同じできごとが、立場によって、まったく違って見えるんですからね。同じ事件に巻き込まれても、違う経験をしちゃうわけです。  もちろん個人的なことでも、それはじつは同じです。自分の親の死は大事件ですが、赤の他人にとっては、なんのこともない事件です。でも、他人の親の死を、その人にとっては大事件だろうと察することはできます。なぜなら自分の親の死と、置き換えることができるからです。追体験ができます。  ところが社会的な事件では、その「置き換え」がむずかしいんです。リストラされた社員が、リストラする社長の立場を理解するか、あるいはその逆ならどうか、ということです。社員は社長じゃないし、社長は社員じゃないですからね。そのあたりから、ふつうの人の想像力の限界に近づくんじゃないでしょうか。クビになった社員が、社長も大変だろうなと同情するとは思えませんからね。それができるためには、社長に一度なってみないとダメかもしれませんね。でも社長になると、平社員時代のことなんか、すっかり忘れちゃったりしている。」

    —『養老孟司の人生論 (PHP文庫)』養老 孟司著

    「突然のようですが、デカルトはその意味でじつに興味深い人ですよ。「我思う、ゆえに我あり」。これが自己意識そのもので、意識の本質とはじつは「それだけ」だといっているんです。同時にすべてはそこから発している。よく解説されるように、考えている自分がいて、その存在だけは疑えない。そういうことだけではありません。意識を端的にいおうとすると、結局はデカルトに尽きてしまうんです。意識というのは、要するにそれじゃないか、ってことです。しかもそこから自己同一性がはじまるんですよ。  そう思えば、デカルトに決定的に対立する論点こそが、本来の「無我」です。考えてる私なんか、ない。そういっているんですからね。いまの人にそんなこといったって、通じないでしょう。いまの人にとっては、「考えている私しかない」んですから。だけどその「考えている私」を具体的に追究すると、刻一刻、違ってきてしまう。考えていることだって、瞬間ごとに少しずつ違ってきますからね。それが諸行無常ってことでしょうが。万物流転といってもいい。「考えている私」というのは、つまり意識のことです。意識は一日に最低一回は、かならず消えます。寝ちゃいますからね。いったん消えますが、しばらくするとまた出てくる。目が覚めるわけです。また出てきたときに、まず「私は私、同じ私」と確認します。目が覚めたときに、「ハテ、私はだれでしょう」と思ったことがありますか。思ったって、別に不思議はない。寝る前の私と、目が覚めたあとの私が、「同じ私」だなんて保証はありませんからね。」

    —『養老孟司の人生論 (PHP文庫)』養老 孟司著

    「なんの話かといえば、自分で考えて、本を書いたら、仏教思想の解説になっちゃったという話です。  なぜか。日本語を使ってるからでしょうね。日本語は明治以降、さまざまな抽象概念を西欧から借り入れました。その際にいろいろ造語をしたわけですが、その基本になったのは、おそらく仏教用語なんですよ。だって、それ以前の抽象用語といったら、仏教の用語しかないんですからね。日本史では仏教伝来が大きく扱われますが、これはたしかに大事件でしょうね。お経をなんとか読もうと思って、カナまでできたという話がありますからね。お経にいわば振り仮名を振っていく。そこでカナができてくるというわけです。」

    —『養老孟司の人生論 (PHP文庫)』養老 孟司著

    「体を動かすことと、ものを考えること、このふたつには深い共通点があります。だから宗教はどちらもするでしょ。すでに述べたスリランカのお坊さんは、日本で瞑想を教えてるんだそうです。どういう瞑想法かというと、自分の体の動きにひたすら集中する。いま指を動かすのなら、自分が指をどういうふうに動かしているのか、それに集中する。それ以外のことは考えない。考えちゃいけない。ここでは体の動かし方と、頭の訓練が同時に行なわれています。」

    —『養老孟司の人生論 (PHP文庫)』養老 孟司著

    「こうした個人的な事情だけでないとすれば、そういう奇妙な気持ちがどこから生じたのか。幼稚園に代表される、すべての外の世界、日本ではそれは要するに「世間」です。それなら私の人生の主題は、じつは世間と自分との折り合いじゃなかったかと思います。それが人生の主題であるなら、私が医者にならない、科学者にならないのは当然です。どちらも相手は世間じゃありません。医者なら相手は患者さんで、科学者なら自然です。  その世間を代表するのが家族です。家庭のなかで世間を代表するのは、ふつうは父親です。ところが私の父は、私が四歳のときに結核で死にました。当然ながら、母親がその役を果たすしかありません。祖父母は同居してませんでしたからね。核家族なんですよ。その母親が決して世間との折り合いがいいほうではない。べつに悪いというわけではないんですが、とことん自己流なんです。母が自分で書いた本を読んでいただけば、そのあたりはおわかりいただけるのではないかと思います(養老静江著『ひとりでは生きられない──ある女医の 95年』、集英社文庫)。」

    —『養老孟司の人生論 (PHP文庫)』養老 孟司著

    「高年者向けの雑誌で、定年後の自分流の生き方なんて、特集してるじゃないですか。それまではいかに「自分流」じゃなかったかということでしょ、それは。そのうえ若者にも「自分流」の生き方なんて、勧めてます。  なぜ勧めるかといえば、自分流でないのが常識だからでしょ。それなら自分流が可能かといえば、この国は「自分流より世間流」というしかないんですよ。だから二世なんでしょ、議員さんでも、お医者さんでも。多くの人が自分の生き方を「そういうものだと思ってる」わけです。」

    —『養老孟司の人生論 (PHP文庫)』養老 孟司著

    「日本の世間だって、仕事ができなきゃダメです。でもそれは、お前がちゃんとやらないと、ほかの人に迷惑がかかるぞ、って意味でしょ。じつは仕事自体より「うまく」やることのほうが大切なんです。きちんと、まじめにやってる。それで仕事が、はかがいかなかったら、それは本人のせいじゃない。いってみれば、当人をそういうていどにしか作らなかった、神様のせいですわ。「ちゃんとまともに働いて、あのていどなんだから、それはそれで仕方がない」。そう思ってもらえます。」

    —『養老孟司の人生論 (PHP文庫)』養老 孟司著


    「日本の世間だって、仕事ができなきゃダメです。でもそれは、お前がちゃんとやらないと、ほかの人に迷惑がかかるぞ、って意味でしょ。じつは仕事自体より「うまく」やることのほうが大切なんです。きちんと、まじめにやってる。それで仕事が、はかがいかなかったら、それは本人のせいじゃない。いってみれば、当人をそういうていどにしか作らなかった、神様のせいですわ。「ちゃんとまともに働いて、あのていどなんだから、それはそれで仕方がない」。そう思ってもらえます。」

    —『養老孟司の人生論 (PHP文庫)』養老 孟司著

    「 自分の生き方を説明するには、自分のことだけじゃなくて、世間のほうも説明しなけりゃならないんです。それをやろうとすれば、世間を「意識化する」ことになります。そこがいちばん面倒くさいんです。そもそも世間の約束事は「いわないこと」になってるんですからね。だから「男は黙って、サッポロビール」なんでしょ。  努力・辛抱・根性の例に戻りますが、「東大の医学部を出て」というと、すぐに「一生懸命に努力して勉強して」と思われちゃう。だからそりゃ違います。私が努力・辛抱・根性をつぎ込んだのは、対世間ですよ。それがなにより苦手だったんですから。  六十五歳になって、本がほぼ三百万部売れて、驚きましたよ。これ変だよ、って。いうなれば、世間に「受け入れられた」形になったんですからね。でもおかげさまで、世間と格闘した甲斐があったとは思います。格闘しているうちに、自分も変わり、世間も時代とともに変わってきたんでしょうね。それなら素直に喜ぶべきなんでしょうね。」

    —『養老孟司の人生論 (PHP文庫)』養老 孟司著

    「もちろん、ふつうは科学と人生論を分けるわけです。そのほうが便利だからでしょう。でも人生は便利ならいいというものではない。近代社会はそれをそろそろ理解しはじめたと思います。便利中心にやってきたら、なんだか世界がおかしくなった。そういうことを、連日感じさせられます。科学の世界でも、科学中心でやってきたら、なんだか変になったんじゃないか、と思うことがあります。「人生論が科学だなんて、とんでもない」。それはそれでいいのですが、すでに述べたように、叙述と根拠を「対にする」という見方をすれば、科学とそれ以外のものを厳密に分ける必要はないと思います。そういうつもりで、この本を書きました。それが成功したかどうか、それはまったく別です。なにしろ、はじめての試みですから。  この先、もっとよく考えなければならないと思っているところです。」

    —『養老孟司の人生論 (PHP文庫)』養老 孟司著

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    2026年03月25日
  • こう考えると、うまくいく。~脳化社会の歩き方~

    Posted by ブクログ

    養老孟司のフェミニズムへの疑問めちゃくちゃ分かる。

    養老孟司さんてなんとなく薄い闇を抱えてるのが分かるんだよね。そうじゃなきゃ本とかあそこまで書かなそう。

    日本中都市化したつまらなさって分かる。東京って息が詰まるもん。東南アジアの田舎感いいよね。

    スポーツ選手って勉強させたら理系だと思うよ。私も子供の頃から運動神経が異常に良くて、暇だったから勉強したら文系科目全然出来なくて、理数系しか出来なかった。


    「もう一つの現実はリアリティです。これは日本語で「真善美」と訳すべきだと私は思っています。真に近いものこそ現実だと思ってる人の典型は数学者です。ただし、現実感が普通の人とはまったく違う活動に付着している。我々の場合は知覚的入力に近いところに現実が感覚として付着している。数学者の場合はもっと奥に入った脳の中の出来事を現実だと考えている。  その典型は哲学の中にたちまち出てくる。お気づきのように非常に有名なのはデカルトです。彼はすべては疑えると言った。なぜかと言えば、同じ感覚を与えてやれば時計を持ってるかのような感覚を起こす。ですが時計が本当にここにあるのかどうかわからない。しかし、デカルトは、そういうことを考えている自分の考えだけは疑えないと言った。デカルトはご存じのように数学者です。数学者は脳の中で起こることを実在であると考える人たちです。  一番古い代表はプラトンです。プラトンにとっては実在するものは「イデア」です。イデアというのは典型的に抽象的ですが、完全な世界です。だからプラトンにとって実在するものは人間で言えば人のイデアです。じゃ個々の人々というのは何か、具体的な人は感覚に与えられるが、それはイデアの不完全な現れです。」

    —『こう考えると、うまくいく。~脳化社会の歩き方~ (扶桑社BOOKS文庫)』養老 孟司著

    「 宗教というのはそれを教えるものである、そういう役割を果たしてきたものじゃないかという気がします。それが現在弱くなってきたのは、人工化が非常に強くなったからです。死んだらヒトはこうなる。じつはそんなことはわからないわけです。わからないものを、なんとか頭の中に収める。そういう役割を本来宗教は持っていたように思います。  つまり、昔の人が暮らしていたときに自然が演じていた役割のようなものを、宗教がその後社会の中で持ってきた。ですからお釈迦様の話のように、生老病死という言葉が、四苦八苦の四苦ですけども、昔から日本の言葉の中に残っています。それも人間の自然性を指してるのだろうと私は解釈しています。だから宗教のはじまりは自然宗教なんですね。」

    —『こう考えると、うまくいく。~脳化社会の歩き方~ (扶桑社BOOKS文庫)』養老 孟司著

    「じゃあ中国はどうか。思想も諸子百家というようなさまざまな考え方の後、二〇〇〇年後はどうなったか。儒教だけが生き残ってまいります。諸子百家の中で儒家だけが生き残ってきたということは、東京のこういう建物の中に生き残る昆虫はゴキブリだけだというのとほとんど同じことだというふうに私は考えてます。  つまりそれだけ環境が単純化したんだということです。儒教の中に、つまり論語の中に自然に対する言及はありません。論語は何というか、論語は日本で言われるときは「厩の火事」になります。「厩の火事」という落語がありまして、それは孔子様の弟子が先生のところにすっ飛んでくるわけです。「先生、厩が火事です」。そうすると孔子が何と言うかというと「人間に怪我はないか」と聞くわけです。孔子は偉いという話になるんですが日本では落語になるわけです。これは中国では美談だけど日本では落語になるというところにご注意ください。つまり馬という自然は、中国人にとっては人間のためのもの以外の何ものでもない。」

    —『こう考えると、うまくいく。~脳化社会の歩き方~ (扶桑社BOOKS文庫)』養老 孟司著

    「我々の文化はなぜか知りませんが、そういうものを非常にきれいに切る習慣があります。これを日本語でよく「けじめ」とか何とか言っていますが、まあきちっと切る。生きている人と死んでいる人は違うものだよということをまったくの常識として皆さん方はどこかでお持ちだと思います。  でもよく考えてみますと、そういうふうな切り方はうまくいかない。うまくいかない証拠にですね、脳死問題が浮上してまいります。実際に脳死の人を死んだ人と見なすか見なさないか、という議論を読んでいますと、面白いことを皆さん言っています。脳死の方を見て、とても死体とは思えなかったという方もある。皆さん方が死体とはこういうものだと、非常にはっきりとした観念をお持ちだということがよくわかる。しかし本当にそうかと考えますと、簡単ではないことがすぐわかります。」

    —『こう考えると、うまくいく。~脳化社会の歩き方~ (扶桑社BOOKS文庫)』養老 孟司著


    「そう思ったときに初めてピンとくるのは、昔から言われています「文武両道」です。文武両道は何かと言いますと、首から上が文、武はこれは首から下です。首から上と首から下、両者を完成しないと侍としてペケだということ。じゃあ一体何を完成するのか、そこで表現という言葉が改めて出てくるわけです。日本の伝統文化を考えますと、ものの見事にこれに言及していることがあります。すなわち「道」です。」

    —『こう考えると、うまくいく。~脳化社会の歩き方~ (扶桑社BOOKS文庫)』養老 孟司著

    「 私は近代化という言葉を使うよりは、むしろ戦後の日本は特に「都市化」と言ったほうがいいんじゃないかと思っています。このほうがはるかに具体的に話がわかるような気がします。  そう考えたときに今申し上げたような東南アジアのいろんな国に起こっている現象が直ちに理解できると思います。私はベトナムへ行くためにバンコクを通りましたが、バンコクもまったく都市に変わりつつあります。二月にはクアラルンプール、それからジャカルタにまいりましたけど、こちらも大変な大きな都市です。そういった都市化が戦後の日本で急速に起こったことを、おそらく多くの方も思い出されるんじゃないかと思います。その一番わかりやすい例は、日本じゅうの町に銀座ができたことだと私はよく考えます。」

    —『こう考えると、うまくいく。~脳化社会の歩き方~ (扶桑社BOOKS文庫)』養老 孟司著

    「そういうことが起これば、それは不祥事と見なされます。先日、私は九州にまいりまして、こういうホールでお話をしていましたら、足元をゴキブリがはっていました。これは典型的な不祥事です。つまりゴキブリはこういう空間には出てきてはいけないのであって、なぜいけないかというとそれは自然のものだからです。  つまり設計者、内装者はそこにゴキブリが出てくるということを全然計算に入れていません。したがってそれはあってはならないものです。ですから、そういうものが出てきますと大の男が目をつり上げて追いかけていって踏みつぶしていますが、それはこういった自然の排除という原則がいかに強く都市空間では貫徹されているかということを示すように私には見えるわけです。  こうやってつくり出された人工空間は世界中どこでもまったく同じ性質を持っています。そういったものを城壁で囲うというのは案外利口な知恵でして、この中だけだよ、という約束事が成り立ちます。ですから、ちょっとでもここから外へ出れば、再び自然の浸透が始まる。そしてそこから離れるほど自然が強くなってくる。  つまりこの中はすべてが人の意識でコントロールしうるという世界ですが、この外に行きますと次第に意識でコントロールできない部分がふえてまいりまして、最終的には完全に我々がコントロールできない世界、すなわち自然がそこに出現してまいります。」

    —『こう考えると、うまくいく。~脳化社会の歩き方~ (扶桑社BOOKS文庫)』養老 孟司著

    「男と女も完全には切れていません。男と女が最初に決まるのは染色体。女は X X、男は X Yという性染色体を持っています。これはどうして決まるのかというと、両親のそれぞれから一個ずつもらうので、 Y染色体を持った精子が受精すると男になり、 X染色体を持った精子が受精すると女になるわけです。 X染色体と Y染色体は重さが違うので精子を分けることができる。そうすると、男女の産み分けも可能になります。  しかし、そこでかっちり男と女の区別が決まっているのかというと、そうではない。たとえば、妊娠してから七週までの間の胎児は、我々が顕微鏡で見ても男と女の区別はできません。染色体を見ればわかりますが、それ以外はまったく違いがない。七週を過ぎると、卵巣か精巣になる部分の区別ができるようになります。」

    —『こう考えると、うまくいく。~脳化社会の歩き方~ (扶桑社BOOKS文庫)』養老 孟司著

    「 それを、私たちは大多数は区別できるからということで決めてしまっている。なぜ決めるかというと、私たちが社会をつくるからです。社会的に決定された性を英語ではジェンダーといい、自然に決定された性をセックスといいます。しかし、セックスはじつは切れないから、ジェンダーのほうで切ってしまって、お前は女になれということになるわけです。  私がフェミニズムについて疑問を持つとすれば、フェミニズムの原理は根本的に現代社会、すなわち都市に依存した考え方の上に立脚しているからです。自然のほうから見ると、そもそもフェミニズムの意味は成り立たない。つまり、自分が男か女かわからないという人がまず出てきてしまうからです。そうすると、それはジェンダー、社会的な性の問題ということになります。」

    —『こう考えると、うまくいく。~脳化社会の歩き方~ (扶桑社BOOKS文庫)』養老 孟司著

    「バリ島に行って帰ってこない若い女の子がいますが、あれは田舎に帰っているのではないかという気がします。今では日本中都市になってしまっていて、帰る田舎がないから、あのようなところへ行くのでしょう。私もブータンやベトナムに行きますが、非常にホッとします。昔の日本の田舎そのものだからです。田舎が世界に移り、日本全体が都市になってしまいました。」

    —『こう考えると、うまくいく。~脳化社会の歩き方~ (扶桑社BOOKS文庫)』養老 孟司著

    「かつて、そういうことを研究した人がいるかどうか調べてみると、やっぱりちゃんといるんですね。チャールズ・ダーウィン。あの進化論で有名なダーウィンです。彼はミミズの研究でも有名でして、ミミズで何をしたかというと、西洋のミミズというのは、日本のミミズと違って、自分で穴掘ってその穴の中に入っている。その口を葉っぱで塞ぐんですが、ダーウィンが調べたのは、穴を塞いでる、その葉っぱだったんですね。  ミミズが葉っぱで穴をどうやって塞ぐかというと、葉っぱには先の尖った端と鈍い端があるわけですが、たいがいのミミズが、その尖った端を引っ張りこんで蓋をするわけです。ダーウィンはいろいろなミミズの穴を調べて、そのことを発見した。  暇な人もいるもんだと思うけれど、そこでやめないのがダーウィンのえらいところでして、次にどうしたかというと、今度は自分でミミズを飼ったんです。箱の中にミミズと土を入れて、葉っぱの代わりに紙を切って入れてみた。  そうやって、尖った端と鈍い端をつくって、どっちの側から引っ張るのかを観察したら、やっぱり尖ったほうから引っ張りこんでるんですね。なんでミミズが、葉っぱの一方が尖ってて、もう一方が丸いということをわかっているのか。これは、いまだにわからないんです。だから、動物が世界をどう見ているのか、じつはよくわかっていない部分のほうが多い。」

    —『こう考えると、うまくいく。~脳化社会の歩き方~ (扶桑社BOOKS文庫)』養老 孟司著

    「そこで、私は考えるんです、長嶋さんに物理の勉強させたらどうかなあと。でも、あの方には学生時代からいろいろと逸話がありまして、どうも物理をやらせても駄目じゃねえかって気だけはなんとなくしたりする(笑)。ところが、やってることは、完全な物理学なんですね。あの人ぐらいホームラン打てる人はなかなかいない。  だとすれば、彼は古典力学であるニュートン力学をほかの人よりマスターしているはずなんですが、それがいわゆる物理になると、わからなくなるわけです。そして、問題はそれがどういうことかということです。」

    —『こう考えると、うまくいく。~脳化社会の歩き方~ (扶桑社BOOKS文庫)』養老 孟司著

    「お墓に持っていけるものというのは自分に身に付いたものです。家も持っていけません。土地も持っていけません。お金も持っていけないですが、自分の身に付いた技術は墓に持っていける。だからそれが自分の財産だと。」

    —『こう考えると、うまくいく。~脳化社会の歩き方~ (扶桑社BOOKS文庫)』養老 孟司著

    「ちょうどそのころ私は奄美大島へ行っていまして、インターンのころで、フィラリアの検診に行っていたんですが、奄美が日本に返ってきて間もないころで、奄美に対して日本政府が特別にお金を出しました。そのお金を奄美の人は何に使ったか。  当時の奄美には各部落をつなぐ道路がほとんどありません。南半分へは古仁屋という町から毎日午後二時になると一斉にポンポンポンと船が出ます。それは何かというと、各部落行きの船。一日に一便なんですね。そういう状態でした。その各部落、何百人という人口ですが、そこに政府のお金で全部鉄筋コンクリートの小学校をつくった。それが頭にあったものですから、鎌倉市というものがまったく逆さに見えました。ちょうど逆のことをやっているなと。」

    —『こう考えると、うまくいく。~脳化社会の歩き方~ (扶桑社BOOKS文庫)』養老 孟司著

    「まず第一に、人間の身体です。これは人間がつくってない。勝手にできてきた。だから、こういうものはないことにする。隠しちゃう。だから僕が脳の標本を持って歩くと、みんなおかしな顔をするんですが、よく言うんです。東京というのは一三〇〇万の人間が住んでいるが、小指一本落ちてないじゃないかと。それは当たり前か当たり前じゃないかということなんです。私はどちらかというと、当たり前じゃないという感覚なんですが。多くの方がそれで当たり前だと思っている。  何が言いたいかというと、都市化がどんどん進みますと、たぶん困るのは子どもじゃないかという気がする。なぜか。子どもは自然なんですね。都市は人工です。意識がつくったもの。だから、この中に子どもは入れてくれません。ある年齢にならなければ世の中に入れてくれないんです。なぜなら、子どもはまだ自然だからです。訓練し終わって、一応のことがわかるようになって、人間の約束ごとがちゃんと使えるようにならなければ、世間に入れてもらえません。だから、子どもの扱いを見ていると、逆に都市化の状況がわかるような気がする。」

    —『こう考えると、うまくいく。~脳化社会の歩き方~ (扶桑社BOOKS文庫)』養老 孟司著

    「ここ一〇年ほど、さまざまな会合で話をさせていただく機会が増えた。ここに採録してあるのは、そうした講演の記録である。あらためて読み直して、こんなことを話したかしらと、本人が忘れていることもあるから、記憶はアテにならない。  話を文章にするのは、だれかやってくださった人がいる。ここに採録されたものも、すべてそうである。まずその方々に感謝の意を表したい。これはなかなか大変な作業である。それは出来上がってきた原稿を見るとわかる。話が通じていない場合には、原稿がメチャメチャである。もちろんそういうものは、ここには入っていない。  他人の話を文章にする。こうした作業には、言語に関するその人の能力がいちばん明瞭に出る。私はそう思っている。聞く耳がなければならないし、それを文章にする能力がなければならない。だから上手下手が著しい。いまでは講演の記録をとって、会誌などに発表するのはふつうだが、たいてい最後に私自身が目を通す。そのときに恐ろしく手間がかかるときと、まったく手を入れないで済むときがある。その手間がそのまま原稿の良し悪しを示している。本人の話の良し悪しは言わないことにする。  大学での講義は若いときからやっているが、一般の人を対象に話をするのも、本人にしてみれば、ほとんど同じことである。ただし講義の場合には、知識を伝えようとすることが多い。これは話しているほうもつまらないが、ふつうは聞いていてつまらない。知識は詳細で、詳細を訊きたがるのは、本当の関係者だけだからである。」

    —『こう考えると、うまくいく。~脳化社会の歩き方~ (扶桑社BOOKS文庫)』養老 孟司著

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    2026年03月25日
  • 寄り道して考える

    Posted by ブクログ

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    女が読書と言えば小説しか読まなかったり、文系が多いのは人から切り離されるのが嫌だからだよ。正直、花とかも男の方が好きな人多いし、男性が女性に花をプレゼントするのは男側の自己満説が濃厚だと思う。日本の華道も初めは男しかやってなかったし。女の承認欲求とかも虫からとかじゃなく人から承認されたいと思うのも女が人間関係とか人に強い興味があるからだし。


    「まず話のとっかかりとして、僕と養老さんの幼い頃の話からはじめましょうか。  僕は関西の人間と思われているようですが、じつは昭和三年東京で生まれました。しばらく前まで大田区の区役所のあったあたりのようです。三島由紀夫は生まれたときの記憶を持っていたという話ですが、僕はとてもそんな天才ではありませんから、この頃の記憶はほとんどありません。断片的なイメージはありますが、それもあとで人から聞いた話が混ざっていますので、自分の記憶としては定かではないのです。ただかすかに覚えているのは、久が原のマッチ箱のような小さな家に住んでいたということくらいです。  東京を離れて大阪に移ったのは五歳のときです。父親が勤めていた外資系の会社をクビになったので、友達から借金して大阪で、自分で会社をはじめたのです。父親は京都大学の物理出身でしたから、そのときのコネを頼ったということもあると思います。」

    —『寄り道して考える (PHP文庫)』養老 孟司, 森 毅著

    「中学は北野中学というところへ行きました。中学時代の僕は、マセていましたけれど、とても弱虫でした。これは母の影響です。母は文学少女がそのまま大人になったような人で、当時流行った文学書が本棚いっぱいに並べられていました。でも、あまり系統的ではありませんでした。夏目漱石、坪内逍遙、国木田独歩、シェイクスピアと一通りありましたが、全集がそろっているわけではなく、ポツポツと数冊ほどあるという感じ。つまり母の好みです。  だから僕はその中から気に入った本を読んでいったわけですが、漱石もはじめに読んだのは『坊っちゃん』や『吾輩は猫である』ではなく『坑夫』や『草枕』。『坊っちゃん』や『吾輩は猫である』は、うちにはなかったのです。  おまけに母は大の宝塚ファン。小学校時代は、母に連れられてよく劇場に通いました。そのうちに宝塚の生徒がうちに遊びに来るようになりました。こんな環境だとマセないほうがおかしい。  弱虫のほうは筋金入りです。時代が時代ですから、教練といって一種の軍国教育があったのですが、手榴弾を投げれば手前へポトリ、俵上げはうしろにドサッという具合で、もうクラスのお荷物です。かけっこでも、僕のうしろに人がいたためしがありません。」

    —『寄り道して考える (PHP文庫)』養老 孟司, 森 毅著

    「僕は、昭和二十四年に、母の意志でカトリックの中学校に入学しました。それが厳しい学校で、ちょうど当時の世相とまったく逆の教育をしていたところでした。一種の軍隊教育でした。校長がドイツ人の神父で、先生たちもドイツ人でしたから、かなり異色だったと思います。  始業のベルが鳴ったら、その場で「きをつけ」です。ボールを持っていたら足元に置いて「きをつけ」。そしてベルが鳴り終わったら、駆け足で校舎の前まで走っていって、起立状態で整列、建物に入ったら沈黙、椅子に座ったら先生が入ってくるのを瞑目で待ってる。それで二時間目が終わったら全校生徒が庭へ出てきて、全クラスの授業が終わるまで、夏でも冬でも上半身裸で行進です。全校生徒が出てきたら、今度は体操。これが普通に行われていました。」

    —『寄り道して考える (PHP文庫)』養老 孟司, 森 毅著



    「 僕の学生生活を振り返って一言で言うなら、他の学生と比べて、大人になるのが遅れたということになるでしょうか。そのまま遅れて、いまになっても人より十年くらいは遅れているのかなという気がしています。  なぜかと言えば、僕の中学・高校は完全に隔離されていたからです。男子校ですし、神父さん、つまり先生も全部男、女の人は購買部のおばさん一人しかいないというのが有名な話で、いまだに卒業生はみんなそのことを言うぐらいです。その代わりと言ってはなんですが、ありとあらゆる国の人がいたので、外国人にはすっかり慣れることができました。そういう意味では、特殊な環境だったと思います。」

    —『寄り道して考える (PHP文庫)』養老 孟司, 森 毅著


    「ただ、僕の環境において、もう一つ輪をかけて特殊だったのは、学校環境と家庭環境が百八十度違った、つまり二重の生活を送っていたということです。ですから、自分のなかで、あっちとこっちとをまとめるまでが大変でした。  父親がいないということも一因になっているような気がします。こんな僕にとって、世の中に適応するのは、非常に難しかったのです。それに加えて、僕の母がちょっと変わっていて、本当に自分の生き方を通した個人主義の、社会というのがそもそも頭になかったような人でした。社会的概念や一般的な常識、そして、そもそも世の中というものが存在するということを、相当年をとってから、だんだんと知ったのではないかと思われるような人でした。そのような環境で育てられてますから、皆目世の中というのがわからないわけです。しかし、その分僕には、「世の中」という意識が人より多分にあったような気がしています。」

    —『寄り道して考える (PHP文庫)』養老 孟司, 森 毅著


    「森さんのお話をうかがっていて考えたのですが、自分が何者であるかということを社会的に早く認知させようという動きが、どんどん進んだときにどうなるかというと、非常に答えは簡単です。「士農工商」なのです。あの制度のように、生まれたときから自分の身分、つまり自分が何者であるかが決まっていれば、何も問題はありません。ですから、いまの時代は、どんどんあの制度に戻っているような気がしてなりません。自分が何者であるか説明が要らないというのは、実に楽な社会ですから、若い人が安定を求めるのは、その心理だと思うのです。」

    —『寄り道して考える (PHP文庫)』養老 孟司, 森 毅著


    「これも僕の旧制高校時代の話です。養老さんの頃でもまだそうだったと思いますが、学部を越えての仲間というのがけっこう多かったように思います。これは、大学に行っても同じことです。理系とか文系とかいうことは関係なく、交流が活発でした。理系文化と文系文化がクロスしないのはよくないということは、かなり昔から言われており、とくに情報科学などは、クロスしなければいけない典型的な分野です。  ところが、いまの学生は「僕は理系ですから」「僕は文系ですから」というタイプが増えているようです。たとえば僕らの時代の医学部は、かなり文系的な考え方をする人間が多くいました。ですから、作家などの文化人をかなり輩出しました。それは、医者という存在が、人間との社交や文化の核になるなど、人間を扱う商売であり、社交業であったからです。それがいつのまにか、専門家志向のようなものが強まってきているような気がしてしかたありません。  どうしてクロスするのがいいのかというと、その理由は単純明快です。クロスしている人のほうがおもしろいのです。たとえば、心理学者の河合隼雄さんは数学出身です。それから精神科医の中井久夫さんは、最初は法学部でした。文系から理系へ、あるいは理系から文系へと変わった人というのは、わりあいおもしろい考えをしている人が多いのです。『「超」整理法』がベストセラーとなった野口悠紀雄さんも現在の専門は経済ですが、工学部出身です。」

    —『寄り道して考える (PHP文庫)』養老 孟司, 森 毅著

    「いま、医学部は完全に理系になってしまいました。それは現在の入試と直接関わってくるのですが、数学、物理ができないと、絶対に医学部には入れないからです。教える側から言うと、数学、物理ができる人が入ってくると、実践よりも理論が先行してしまう傾向があり、解剖などを教えるときにたいへん困るのですが……。  クロスすることがなくなった、というのは、僕も実感としてあります。  こういうことを言うと、ますます変わり者だと思われるでしょうが、僕は子どものときから、なぜか知りませんが専門家が嫌いでした。僕は昆虫が好きで、子どもの頃から昆虫採集をしていますが、この世界には専門家がたくさんいます。お互いにテリトリーを守って、「俺のところには口出すな。その代わりお前のところには口出ししない」という暗黙の了解があるのです。それが、子ども心にもわかりましたし、そういう世界はあまり純粋ではないと思いました。  純粋ではないというとおかしいかもしれませんが、要するに僕が好き嫌いでやっているそばで、それとは関係なしに出来上がっている原理であることが気に入らなかったのだと思います。僕が虫を専門にせず、医学の世界に入ったのもそのためです。そういうことがあるので、専門家がどうも嫌いなのです。」

    —『寄り道して考える (PHP文庫)』養老 孟司, 森 毅著

    「実は僕は、医学部に行きたかったわけではありませんでした。それなのに結局医者の道を選んだのは、母の言葉に多少影響を受けたのでしょう。  母が常日頃から言っていたのは、要するに手に職をつけなさいということでした。戦争なり、その他のことなり、やはりひどい経験をしたことのある人は、みなそう思っているのではないでしょうか。  ハンス・セリエという有名な医学者は、父親がオーストリアの貴族でしたが、カナダに移住しました。第一次大戦で領地から何から全部なくなってしまったからです。そのとき、父親は息子に「お前が墓に持っていけるものだけが財産だよ」と常々言っていたそうです。セリエは自伝にそう書いています。僕より上の年代で、そういう時代を通った人は、国を問わずみなそういう感覚をもっていると思います。その経験があるかないかで、かなり違うと思います。」

    —『寄り道して考える (PHP文庫)』養老 孟司, 森 毅著


    「実は僕は、医学部に行きたかったわけではありませんでした。それなのに結局医者の道を選んだのは、母の言葉に多少影響を受けたのでしょう。  母が常日頃から言っていたのは、要するに手に職をつけなさいということでした。戦争なり、その他のことなり、やはりひどい経験をしたことのある人は、みなそう思っているのではないでしょうか。  ハンス・セリエという有名な医学者は、父親がオーストリアの貴族でしたが、カナダに移住しました。第一次大戦で領地から何から全部なくなってしまったからです。そのとき、父親は息子に「お前が墓に持っていけるものだけが財産だよ」と常々言っていたそうです。セリエは自伝にそう書いています。僕より上の年代で、そういう時代を通った人は、国を問わずみなそういう感覚をもっていると思います。その経験があるかないかで、かなり違うと思います。」

    —『寄り道して考える (PHP文庫)』養老 孟司, 森 毅著

    「こんな話を聞くと、本当に人間のかなりの部分は運だということを実感します。「自然選択説」というのは、実はこういうことなのでしょう。結局は、生き残ったやつが勝ちなのです。そして誰が生き残るかわかりませんから、できるだけいろんな人間を用意しておくのでしょう。  日本人にはその感覚があまりないようですが、アングロ・サクソンは徹底的にそう思っているようです。アメリカを例にとってみても、ホームレスが一千万人以上、その一方で大金持ちもいる。非常にきつい社会のように見えますが、うまくいくやつがうまくいったんだという論理をわかっているのです。」

    —『寄り道して考える (PHP文庫)』養老 孟司, 森 毅著

    「いまの時代は、経済も含めて、やはり変動期だといえるでしょう。抽象的に言ってしまえば、変動期には大多数は困るものなのです。ところが、そんな中でもうまいことをやる才覚のある少数派が必ずいるもので、彼らが次の時代の希望になるのです。  それなのに、いまの時代は妬みや僻みが原因となって、少数派をつぶしているような気がします。そういう僻みや妬みはここらで終わりにしたほうがいいのではないでしょうか。僕らは新たな時代を築く「はみ出し者」を育てなければならないのですから。」

    —『寄り道して考える (PHP文庫)』養老 孟司, 森 毅著


    「ですから、たとえばイギリス人の貴族だったら、貴族英語を喋り、一方でスポーツをやるなど、文武両道を実践しています。文武両道とは何かというと、つまり、首から上と首から下なんです。それは意識と無意識なのですが、それが明治で相当ラジカルに壊れたと思うのです。  ところがそのとき、一つ見逃していたことがあると思います。明治の人は、すべてを政治制度、社会制度として把握して、それを支える文化に気がつかなかった。それで型崩れしてしまったのです。そうして、日本を支えていた体の型がなくなる時代になった。「そこに、軍に全部が引っ張られる要因があった」という唐木さんの言い方を、僕流に解釈すると、その無意識の表現に気がついたのが、実は三島由紀夫だと思うのです。しかし三島は、首から上と下を調和させることができず、最後は生首になってしまいましたが。」

    —『寄り道して考える (PHP文庫)』養老 孟司, 森 毅著


    「 僕は先程、自分がエリートと呼ばれていたと言いましたが、たしかに僕は、育ちからしてエリートだったと思います。それは京大に行ったとか、東大に行ったとか、そんな問題ではなく、もちろん家がどうだとかいう問題でもありません。僕流の「エリート」の定義は、自分で責任をとることです。つまり、教科書でいうならば、自分で選んだ本を自分で読むことです。自分で好きなことをしたら、自分で責任をとるというのがエリートの条件であり、旧制高校というのは、その意味ではたしかにエリートだったと思います。」

    —『寄り道して考える (PHP文庫)』養老 孟司, 森 毅著

    「オウム事件などが、心の時代ゆえのものだと言われることに関しては、べつに論理的に考えなくてもいいことを、一生懸命論理的に考えているというイメージがあります。もっと簡単に、本質的な部分で考えることはたくさんあるような気がしています。」

    —『寄り道して考える (PHP文庫)』養老 孟司, 森 毅著

    「カネというのは回っているものだから、僕のところに溜まっているのなら、その分だけ誰かが困っているはずだと思ってしまうのです。」

    —『寄り道して考える (PHP文庫)』養老 孟司, 森 毅著

    「ここが、東京と違うところです。東京の人は、「俺たちは行列に並んでいるのに、あいつらは昔からのコネで裏口から入って買うとは何事か」と言って怒ります。それに対して京都の人の考え方は、「それはいままでやってきたんだからしょうがないでしょう」ということです。  いまでも、東京の下町のほうでは、ある程度は昔からの文化が残っていて、魚屋さんが担いでやってきて、贔屓の家にいいものをとっておいてくれたりするでしょう。東京でも京都でも、付き合いがあることによって、いいものが安く買えるというのは、買い物では当然だと思います。買い物の原理で、並んで順番を待ってカネさえ出せば、誰でも買えるのがいいというイデオロギーと、気持ちよくいいものを買うためには、それなりのキャリアが要るというイデオロギーとあると思うのです。これは、二つの原理があるということで、どちらが良い、悪いという問題ではありません。」

    —『寄り道して考える (PHP文庫)』養老 孟司, 森 毅著


    「関東文化というのは、「侍文化」だと思います。対して、大阪、関西の文化は「町人文化」だと考えます。身分制度のなかでも、兵と農には共通点があります。昔はとくにそうだったのでしょうが、土地を囲って、太陽の恵みでモノを育て、それを守るというのが兵・農です。そのような風潮は、先程の住専問題の背景にある土地問題にも通じるものがあります。それに対して、町人は違います。町人――職人を含めて――の基本は物売りです。自分でつくったものや細工物を売るわけです。その場合、人が出入りしなかったら商売になりませんから、人を歓迎します。それも、買う人だけだったらダメで、野次馬がいるから店が繁盛するので、どちらかというと開放的です。人が出入りするのが家という関西、そして自分のテリトリーを守るのが家という関東、という違いがあるように思うのです。鎌倉武士以来、東国の文化の根本はそういう侍文化で、上方のほうはやはり町人文化です。つまり東京対関西は、侍対町人という感じを僕は持っています。」

    —『寄り道して考える (PHP文庫)』養老 孟司, 森 毅著

    「都市文化というのは、本来商工業者がつくりだすはずのものだったのですが、日本はちょっとそれからずれている感じがします。東京がとくにそうで、人工的につくられた、しかも侍がつくった町で、それが世界の大都会になってしまったから、奇妙なところなんです。  僕は最近になって、やはり日本は広いのだということをつくづく実感します。関東はとにかく、田舎の貧乏と大都会が同居してるところだと思います。僕の地元の鎌倉でタクシーに乗ると、「うちの田舎じゃ年寄りが卒中になったら、飯は食わせないんだよ」と運転手がいうのです。『 山節考』という話がありましたが、あれが関東を象徴していると思います。ある年まで生きたら、もう自分の歯をかいてでも、 山に行って捨ててもらうのです。自分の生産量が衰えてきたから、食いぶちを一人減らすのです。そのくらいカツカツ、ギリギリで生きていたというのが、関東です。」

    —『寄り道して考える (PHP文庫)』養老 孟司, 森 毅著

    「関東と関西、その中でも僕や森さんが関わっていた東京と京都に限定していえば、やはり文化、歴史の違いは大きいと思います。関東というのは江戸にいきなり街をつくりました。のちの北海道のようなつくり方だと思います。七割が男性で、女性は後からかき集めてきた人工的な社会です。そしてその周りは、極端な、徹底的な田舎です。関西に比べたら貧乏で、歴史もなければ文化もない。そこに江戸という町をつくっても、それだけのことですから、京都の文化とはかなり差があることはたしかでしょう。  それからは、森さんのおっしゃるとおりの侍文化で、明治以降は薩長文化が入ってという感じですから、硬いですね。一言でいえば不器用と言えるでしょう。貧乏は徹底的に貧乏で、救いようがないくらいです。  都市文化というのは、本来商工業者がつくりだすはずのものだったのですが、日本はちょっとそれからずれている感じがします。東京がとくにそうで、人工的につくられた、しかも侍がつくった町で、それが世界の大都会になってしまったから、奇妙なところなんです。  僕は最近になって、やはり日本は広いのだということをつくづく実感します。関東はとにかく、田舎の貧乏と大都会が同居してるところだと思います。」

    —『寄り道して考える (PHP文庫)』養老 孟司, 森 毅著

    「おもしろい話があって、以前、霊長類研究所の連中と、チンパンジーはヒトに、なかでもヨーロッパ人によく似てるという話をしていました。それならニホンザルは日本人に似ているのかという話になりまして、霊長類研究所で調べているニホンザルの話題になりました。そこには、ときどき群れからはぐれるサルがいて、そういうサルはまず女子どもに手を出して、それに頼って、それからだんだん最後には、はぐれザルのくせにボスになるやつまで出てくるというのです。そういう要領のいいサルを見ていると、日本の社会とよく似ているなあと妙に感心して笑ってしまいました。そういう意味でいうと、ニホンザルの社会も日本人の社会もたいして変わりがないのかもしれません。  それはともかく、たしかにチンパンジーと人間はよく似ているようです。遺伝子だけ見せたら、人類学者でも間違えるぐらいよく似てるし、おそらくチンパンジーと人間の混血もけっして無理なことではないだろうということでした。」

    —『寄り道して考える (PHP文庫)』養老 孟司, 森 毅著

    「一種の科学信仰で、科学がこれだけ進んだので、たいがいのことは説明できるようになったと思われているようですが、それはまったくの誤解です。  それが前提になってる典型的な質問は、「脳はどこまでわかりましたか」という質問です。そういう質問が出てくるということは、どこまでわかったか説明できるという前提に基づいています。しかし、いくら調べたって「どこまでわかったか」などわかるわけはないのです。」

    —『寄り道して考える (PHP文庫)』養老 孟司, 森 毅著

    「そういう点では、この頃「理系人間」「文系人間」という言い方は、メダルの裏表みたいな気もしています。たしかに僕にしても、養老さんにしても理系でしょう。やはり「これはこうなっているから、ゆえにこうなる」というシステムで理解するのは好きなのです。それがおもしろいという気持ちはたしかにある。しかしそれでも、科学はおもしろいけれども、そんなに全部がわかるはずはないという思いも持っている。僕が思うに、理系人間にはこの感覚が欠落しているのではないか。だから、文系の人間は理系を別世界みたいに思うのではないでしょうか。  理系が専門化しすぎていることも、それに拍車をかけているようです。僕は人には二つのタイプがあるように思います。自分の土俵を守ってそこでやりたがるタイプと、できるだけ土俵の外でいろいろなことをしたがるタイプです。僕はどちらかというと、外のほうが得ではないかという気がしています。  僕は子どもの頃、いちおう数学少年でした。数学の先生は授業を誘導したくて、僕を当てたりします。まあ僕もなるべく付き合ってあげるほうでしたが、ときどきひょんなことを言うクセがありますから、答えがまったくあさってのほうへ行ってしまうこともありました。そうすると、先生は期待があった分だけものすごくガッカリするわけです。  ところが、僕の得意分野外である歴史や国語などで、はずみでちょっといいことを言うと先生はとても喜んでくれる。僕は子ども心に、「他人に期待されるところでやるのは効率が悪くて損ではないか」と思いました。あまり期待されないところでは、ダメでもともと、うまくいけば喜ぶから、効率がいいのはかえって外のほうだということを、その頃から肌で感じていたような気がします。だから、なぜ確実性を求めて、権威を求めて、絶対の正しい答えを求めて、自分の土俵を守りたがるのか、僕には理解できないのです。」

    —『寄り道して考える (PHP文庫)』養老 孟司, 森 毅著


    「昔の人にしても、意識されてる部分と無意識の部分との比率は、もし仮に比率があるとすれば、いまと同じだったはずです。科学の発達が意識されている部分を増やしているわけではないのです。  しかし、意識中心主義は依然として強いようです。とくに組織の中の人はそういう傾向が強いように思います。組織の中というのは、意識化されなければダメですから。とくに機能化すればするほどそうなります。結局、機能というものは、ああすればこうなる、こうすればああなる、という具合に完全に意識化していくことにほかなりません。組織の中の人間は、全部そういうふうに意識化しないと、もう不安でしかたなくなってしまっているようです。  僕が、科学はダメだと言うのも、基本的にそこが原因なのです。先程、僕は大学時代の研究テーマにむずかしい題材を与えられたことをお話ししましたが、それをいじめられているととらえる感覚では、つまり答えが出なければやらないという感覚では、ものを考える気などなくなってくるでしょう。解けるか解けないかわからない問題を考える気もなくなってきます。  森さんがおっしゃるように、理系の専門主義も問題です。少しでもそこからはみ出すのが怖いのでしょう。その不安はよくわかります。そこから先に行ったらどうなってしまうだろうという漠然とした不安……。だからこそ、確実性を求め、権威を求め、絶対の正しい答えを求めるのでしょう。」

    —『寄り道して考える (PHP文庫)』養老 孟司, 森 毅著


    「また日教組関係の会合でその話が話題になったことがあります。そのとき、中学校のベテランの先生がおもしろいことを言いました。「中学生で変なことをいうのはつねに優等生です」というのです。これは理屈に合わないでしょう。先生についていけないから劣等生なのであり、変なことを考えているのは劣等生のはずです。しかし中学校の先生は、表現能力とも関連があるのかもしれないが、優等生が変なことを言いだすのはゆとりがあるからだと言います。劣等生は、「あいつ、あんなアホなこと言うて」と言われるのがいやで、優等生のふりをして黙って分かったふりをするのだそうです。  いま大学でも二十代ぐらいの若者は、講演者に合わせてやろうとする傾向があるようです。「あいつはいつも研究会で変な質問する。変な子やから、今度助教授にするのやめようか」となることを恐れているのでしょうが、本当はそんなことになることはまずありません。逆に「あいつ、ときどき不思議なこというから、あれ入れとくとおもろいで」となるのですが、みんなが優等生の真似するのでかわいそうになります。  湯川さんが「私は日本を代表する学者やから、アホなこと言うたらあかん」と思ったり、「僕はクラスを代表する優等生やから、先生の喜ぶ質問しよう」などと思ったらつまらないので、本当は劣等生や若者が湯川さんのようにいろいろなことが言えるようにならないといけないと思います。ブレイクスルーは、案外こんなところにあるような気がします。」

    —『寄り道して考える (PHP文庫)』養老 孟司, 森 毅著

    「そういうことを考えてみても、先程申し上げたように、首から上と首から下は違う文化になっていることがわかります。そして日本では、首から下の訓練を長年やってきたのです。それが修行であり、いわゆる「道」で、その結果として出来上がったのが「型」です。それを僕は身体表現だと言いました。身体表現と対になっているのが、言語表現です。昔はこの二つがうまくかみ合っていました。侍はそれを文武両道と言いました。ところが、しだいに日本人は身体表現のほうを切り捨ててしまったので、それと対になっているはずの言語だけがその分ボワーッと広がってしまいました。」

    —『寄り道して考える (PHP文庫)』養老 孟司, 森 毅著

    「いまの若い人が大変だなと思うのは、身体表現というものをいかにつくり直すかという問題に直面せざるをえなくなってしまったことです。その証拠に、以前子どもたちに大人気だった『ドラゴンボール』などのマンガはみんな主人公が修行して強くなるという内容です。つまり、もう一度身体表現をつくり直しているわけです。そう考えると、スポーツもの、根性ものと言われているマンガなどは、実は精神義というよりも、むしろ本来の需要は身体表現の再構築にあったのではないでしょうか。  だから若い人がオウムのヨーガにスーッと入っていってしまうのも、わかるような気がします。身体表現、つまり無意識の部分を獲得したいという、言ってみれば当然の欲求があったのです。しかし、僕はいつも言うのですが、安易にそれをやろうとすると首が飛んでしまいます。三島由紀夫が割腹自殺をしたときに、それがわかりました。三島は言語表現から入って、歌舞伎を通り、いわゆる日本の伝統というものに傾倒していった。そして最後に本当に首が飛んでしまったのです。」

    —『寄り道して考える (PHP文庫)』養老 孟司, 森 毅著

    「三島由紀夫が割腹自殺をしたときに、それがわかりました。三島は言語表現から入って、歌舞伎を通り、いわゆる日本の伝統というものに傾倒していった。そして最後に本当に首が飛んでしまったのです。」

    —『寄り道して考える (PHP文庫)』養老 孟司, 森 毅著

    「三島のお父さんは、三島のことを「あいつは詐欺師だ」と言ったことがありますが、詐欺というのは一人ではできないのです。騙す詐欺師と騙されるほうの共同作業です。戦争もそうでした。だから戦後になって軍部に騙されたとかなんとかと言いますが、それは軍部が一方的に悪いわけではなく、共同作業という側面もたしかにあったと思います。」

    —『寄り道して考える (PHP文庫)』養老 孟司, 森 毅著

    「宗教にしても、ずいぶん前から同じようなことを感じていますが、みんな暗黙のうちに唯一客観的な現実があるということを前提にしている。誰もそのことを疑っていない。そしてそれが因果の鎖できっちりつながっていると思っている。しかし、なぜ自分が女房と一緒になったかなど、論理的に説明できるわけがないのです。  こんなことを言うと、また不謹慎だとお叱りを受けそうですが、科学は世のため、人のためのもの、科学者とは真理を探究する求道者である、という考えに凝り固まらずに、もっとラクにやっていけばいいと思うのです。科学者にかぎらず、われわれ一般の人間も同様です。あまりに論理的思考に行き過ぎること、つまり無意識を無視してしまう態度を、もう一度見直してみることが必要なのではないでしょうか。」

    —『寄り道して考える (PHP文庫)』養老 孟司, 森 毅著

    「しかしアジアといっても案外広い。アジアでわかるような気がするのは、日本を除けばタイ、カンボジア、ベトナム、ブータン、スリランカ、インドネシアといった地域です。文明的にみればアジアの中心は、中国とインドであり、いまあげた国々はその周辺領域です。そして日本も、どちらかと言えば周辺領域に属しているのではないかという気がするのです。どうしてこんなことを言うかというと、日本がアジアのリーダーシップをとるべきかという議論がありますが、僕はそれはやめたほうがいいのではないかと思っているからです。  行ってみればすぐにわかります。タイやインドネシアには比較的なじみやすいですが、やはり中国社会は日本人にとってかなり異質なところです。中国に行くことは簡単ですが、そこで中国社会に溶け込んで暮らしていくことは、日本人にはかなり厳しいような気がします。それに、日本はせいぜい周辺領域と肩並べているくらいだと思ったほうが、僕はいいと思う。そう思っていれば無理することもないですし、力が入ることもありません。」

    —『寄り道して考える (PHP文庫)』養老 孟司, 森 毅著

    「僕は、結局、それらは風俗にしかなりえなかったのではないかという印象を持っています。西洋では、マルクス主義は、ある種キリスト教の起爆剤のような形で働きました。要するに根が同じものなのです。保守の親父と全共闘の息子が同じ型を持っているがゆえに喧嘩していたのと同じように、両方が同じ議論を持っているといえます。いわばキリスト教マルクス教会とでも言えばいいでしょうか。だからキリスト教の根づいていない日本では、マルクス主義も根づくわけがありません。  日本はいま西洋先進国の一員のような顔をしていますが、そういう意味からいうと、西洋とはまったく異質の文化を持った国だといえるでしょう。」

    —『寄り道して考える (PHP文庫)』養老 孟司, 森 毅著


    「日本は特殊な文化を持った国だと言われましたが、僕が日本の文化として強く感じるのは「場の文化」です。たとえば、僕はこのような対談や座談会がわりあい好きです。もちろん、うまくいくときもあれば、うまくいかないときもあります。しかし総じて、外国人の対談や座談会よりも、日本人の対談や座談会のほうがずっとおもしろい。なぜおもしろいかというと、相性の加減で、いつもなら言わないことを言ったりしているからだと思います。  これが、たとえばフランス人であれば、エゴやアイデンティティがはっきりしていますから、いつも言っているのと同じことを、またしっかりと伝えるでしょう。それはそれで大切なことなのでしょうが、読んだり聞いたりしているほうは、全然おもしろくない。意外な発見や刺激がまったくないのです。  場の文化とは、簡単に言えば、連歌連句の伝統です。連歌や連句というものは、ご存じのとおり一人がつくるものではなく、一人のつけた上の句に別の人間が下の句をつけるというものです。つまりオリジナリティは個人が出すものでなく、その「場」が出すものだという考え方です。」

    —『寄り道して考える (PHP文庫)』養老 孟司, 森 毅著


    「日本は特殊な文化を持った国だと言われましたが、僕が日本の文化として強く感じるのは「場の文化」です。たとえば、僕はこのような対談や座談会がわりあい好きです。もちろん、うまくいくときもあれば、うまくいかないときもあります。しかし総じて、外国人の対談や座談会よりも、日本人の対談や座談会のほうがずっとおもしろい。なぜおもしろいかというと、相性の加減で、いつもなら言わないことを言ったりしているからだと思います。  これが、たとえばフランス人であれば、エゴやアイデンティティがはっきりしていますから、いつも言っているのと同じことを、またしっかりと伝えるでしょう。それはそれで大切なことなのでしょうが、読んだり聞いたりしているほうは、全然おもしろくない。意外な発見や刺激がまったくないのです。  場の文化とは、簡単に言えば、連歌連句の伝統です。連歌や連句というものは、ご存じのとおり一人がつくるものではなく、一人のつけた上の句に別の人間が下の句をつけるというものです。つまりオリジナリティは個人が出すものでなく、その「場」が出すものだという考え方です。」

    —『寄り道して考える (PHP文庫)』養老 孟司, 森 毅著

    「おもしろいのは夏目漱石の『坊っちゃん』です。『坊っちゃん』の中で漱石自身がモデルになったのは誰か。「坊っちゃん」ではありません。僕は絶対に「赤シャツ」だと思います。帝大出身で、謡をうなったり、俳句をひねったり、変な理屈をこねたりするのは、漱石そのものではありませんか。  だいたい、本当に漱石が坊っちゃんみたいに、竹を割ったような江戸っ子だったら、ロンドンで神経衰弱になどなるはずがありません。神経衰弱になるというのは、東京のややこしさを知っていて、理屈っぽく屈折した男だからです。江戸っ子が「竹を割ったような性格」というのは嘘もいいところ、まったくの神話だと僕は思っています。  東京の文士というと、思いつくのは漱石、芥川、小山内薫あたりですが、どう考えてもいわゆる江戸っ子神話に合わないではないですか。」

    —『寄り道して考える (PHP文庫)』養老 孟司, 森 毅著


    「基本的に医者という職業は、「人と人」との付き合いです。やはり人が好きでなければつとまらない仕事です。だから僕は臨床医ではなく、死体と付き合う解剖学教室を選んだわけです。」

    —『寄り道して考える (PHP文庫)』養老 孟司, 森 毅著

    「しかし思うのですが、どうして男の子には昆虫マニアが比較的多いのに、女の子にはほとんどいないのでしょう。ある意味ではアクセサリーの宝石を集めるのと同じ感覚だと思うのですが、なぜか虫をいやがる女の子は多い。やはり女の子は人間と切れているのがいやなのでしょうか。おままごとではないですが、人間の生活がモデルになっているものにしか興味が持てないということなのでしょうか。」

    —『寄り道して考える (PHP文庫)』養老 孟司, 森 毅著

    女が読書と言えば小説しか読まなかったり、文系が多いのは人から切り離されるのが嫌だからだよ。正直、花とかも男の方が好きな人多いし、男性が女性に花をプレゼントするのは男側の自己満説が濃厚だと思う。日本の華道も初めは男しかやってなかったし。女の承認欲求とかも虫からとかじゃなく人から承認されたいと思うのも女が人間関係とか人に強い興味があるからだし。

    「それによく考えてみると、「自殺」というものの定義は案外むずかしいのではないでしょうか。たとえば事故ですまされている未必の故意などが、ずいぶんあるような気がします。つまりそれに気づいているか気づいていないのかはわかりませんが、自分で事故の確率が高くなるようにしむけているのです。  僕の義理の兄は、危ないからといって絶対に飛行機には乗りません。ところが僕はいたるところを飛行機で飛び回っています。それだけでも危険度はずいぶん違う。そうするとある意味では、僕のほうが兄よりも自殺傾向が強いのかもしれません。」

    —『寄り道して考える (PHP文庫)』養老 孟司, 森 毅著


    「いじめによる自殺でも、相手との関係を絶つために殺すことを選んだとすると、いじめっ子を殺すより自分を殺すほうがラクだったとは言えないでしょうか。  軍隊でも上官にいじめられて自殺する人間がいました。僕としては、兵隊なんだから自分を殺すよりせめて相手を殺せばいいじゃないかと思うのですが、そう思う人間はあまりいじめられないのだそうです。戦地へ行けばどんなことがあるかわかりませんから、上官も怖いので、間違っても上に反乱を起こしそうもない人間を選んでいじめるといいます。」

    —『寄り道して考える (PHP文庫)』養老 孟司, 森 毅著

    「僕は、殺すのも殺されるのも嫌だから、自分にも他人にもできるだけ距離感を持ったほうがいいと思っています。親でも他人と思え、です。  僕が教授と仲が悪くなったとき、友人が「教授が心配してたで。森君、自殺せんやろなって言うてたで」と言うので「なに言うてんねん。俺が自殺するくらいやったら、あの教授殺すがな」と答えたことがあります。もちろん、そんなつもりはありませんでしたが、そのとき僕は「自分も他人だと思ったほうが安全だ」と思いました。自分と自分自身との間に距離感があれば、わりと助かりやすいのではないか。自分との間に距離感がないから自殺に走ってしまうのではないか。そんなイメージを持ったのです。」

    —『寄り道して考える (PHP文庫)』養老 孟司, 森 毅著


    「しかし「学校は行かねばならないものだ」というのはもう常識化してしまって、家族全員、学校全体の意識下へ入ってしまっている。意識下に入ってしまっているから、「学校なんか行かなくてもいいんだ」という発想も出てきません。問題はよけい悪い方向へと転がっていくわけです。  どうやってそのシステムから逃げるか。その一つの方法は、学校を徹底的に機能化することです。つまり学校を試験を受けてそれを通りさえすればいいということにしてしまうのです。共同体ではなく、機能のみがあるところ、いわば予備校のような存在です。  塾や予備校でいじめが問題になっていないのは、そこがただ勉強するところという機能に集中しているからです。反対に大学などは機能化していませんから、偏差値至上主義になり、護送船団方式になり、みんなで同じことをするのがいいことだという前提を温存してしまっています。」

    —『寄り道して考える (PHP文庫)』養老 孟司, 森 毅著


    「結局、人間のつくったものを頭から信奉するようなことは避け、とにかく自分の頭で考えていくしかないのだと思います。そこに自己責任も生まれてきますし、神戸のおばあちゃんがたくましく生きているように、人間本来の自信というものも生まれてくるのではないでしょうか。」

    —『寄り道して考える (PHP文庫)』養老 孟司, 森 毅著



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    2026年03月24日
  • 日本の歪み

    Posted by ブクログ

    本書は、養老さんの著書「バカの壁」を読んでから読んだ方が分かりやすいと思う。私は未読の為、文脈から想像しながら読み進める場面があった。

    保守とリベラルという言葉の定義について考えを更新する事ができた。また、改憲や靖国参拝についても考えた。リベラルな天皇、っておかしいけど、天皇陛下はリベラルな印象がある。戦後の象徴天皇制が、うまく国民感情に受け入れられたから、現在天皇制をやめろとか言う人がほとんどいないんだと思う。

    追悼は二人称、というのも興味深かった。靖国参拝は政治的問題になっており、首相の靖国参拝は右翼的なイメージが強いが、どんな立場の人であろうと、亡くなった人を弔う気持ちを否定することはできないと思う。私は祖父から、戦争で亡くなった兄二人の話を聞いて育ったので、靖国神社と聞くと、二人の幼い顔写真が思い浮かぶ。まだ中学生・高校生の年だった。遺骨もないし、どのように亡くなったかも分からないらしい。祖父は今でも、「中国で嫁さんもらって暮らしてるかもしれない」と話すことがある。戦争をした事は正しくなかったけれど、戦争で亡くなった人々を弔う気持ちは決して否定できない。追悼は、相手の顔が見える、二人称だから。だからこそ、追悼を、ナショナリズムというイデオロギーの道具にしちゃいけないと思う。

    右翼は竹槍訓練、左翼は「ダメなものは絶対ダメ」というマインドセットが根底にあるというのは面白かった。思考停止するとそこに戻る感覚はある。民主主義は、国民の頭の良さに左右される。

    茂木さんが日本のお笑いが好きじゃない話は、私も同意見なので面白かった。しかし、吉本のお笑いが好きな人は、反論したくなるかも。

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    2026年03月23日
  • 虫とゴリラ

    Posted by ブクログ

    人間は触覚から発達してきたのに対して、現代はそれを発達させないようしているのではないか?コンクリートの建築等拒んでいるように思える。また、情報を信じ過ぎて、生の生きている虫等を触ったことがない。私はない。虫が嫌いだから。図鑑やネットのさわれないか情報を見て分かった気になっているのが危険

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    2026年03月18日
  • バカの壁

    Posted by ブクログ

    養老 孟司の言うところの「バカの壁」は、Mr.Childrenの「名もなき詩」という曲の中に出てくる「知らぬ間に築いていた自分らしさの檻」に似ているかもしれない、と思った。

    「バカの壁」も「自分らしさの檻」も、自分や他人を理解したり、自分の言動を決定したりする上での「自分勝手な制約」という意味では共通だと思ったからだ。

    しかし、「自分勝手な制約」だからといって、「バカの壁」や「自分らしさの檻」が悪いことだとは思わない。
    むしろ、そういうものが自分にも他人にも存在するという仮定(おそらくはそれほど間違っていない仮定)のもとで他人と関わった方が、より良好な、より建設的な関係を築けるのではないかと思う。

    「バカの壁」を否定するのではなく、うまく付き合っていく、それこそが人間関係の上で求められていることかもしれない。

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    2026年03月14日