日本はなぜ負ける戦争をしてしまったのか、そのような疑問を子供の頃から抱いた著者が、大学教授との対談や調査を通じて1冊にまとめたのが本書である。
まず大日本帝国の誕生まで遡る必要がある。ペリーの黒船来航をきっかけに、江戸幕府の権威が揺らぎ始め、そこから明治維新が起きるのが大まかな流れであるが、黒船来航以前から国防の重要性を説いた人物がいくつかいた。そのうちの一人が島津斉彬であった。島津は清国のアヘン戦争より、日本にも同様の危機が迫ると警告を鳴らす。そのために、「富国強兵」が必要といい、それに関連する洋学を学ぶべきだと主張した。ちなみに、富国強兵そのものはほかにも会沢正志斎も唱えたが、島津は開国派であった。ただし、この改革は、あくまで江戸幕府の封建制をもとにした改革であったために、不十分であった。
実際、本格的な富国強兵に着手したのは大久保利通であった。大久保は島津斉彬含む薩摩藩の先輩から、富国強兵の話や文には触れていたが、それは頭の中で想像した観念でしかなかったが、薩英戦争を通して軍備の重要性を知った。とはいえ、不平等条約の改正は依然進まず、それが成功したのは日清、日露戦争に勝利してからであった。
戦前の日本では、天皇を元首とした国家であったが、このような制度は実は近代から、すなわち明治政府による政策であり、とくに教育勅語は、政府が新しい国作りの核となるものとして起草したのであった。その一方、政府とは別に自由民権運動が盛んになった。これは板垣退助や後藤象二郎を中心に発展した。
明治、大正と日本は着々と帝国主義を拡大していったが、昭和、特に世界恐慌そして満州事変から雲行きが怪しくなる。とりわけ二・二六事件は全国に衝撃を与え、それ以降、軍が政府中枢に介入するようになった。今回、本書を読んで驚いたのが、その当時の経済状況である。敗戦後から10数年後の経済白書で「もはや戦後ではない」という有名なフレーズがあるが、それによると、1956年は、二・二六事件が起きた1936年と同等の経済水準であった。つまり、1936年の経済状況は敗戦直後と比べて幾分マシであったと言える。
そのような状況下が延々と続いて、近衛文麿内閣が誕生した。意外なことに、当時、近衛は右派、左派、メディア、政党、国民と、あらゆる方面から人気があり、支持されていた。しかし、中国の対処を誤り、その結果、日中戦争は泥沼化してしまい打開策が見つからなかったが、ナチスドイツの勢いが増すと、それに乗り遅れないかのように、日本はそのあとについた。その後、東条英機内閣では、東条が軍後からを抑制するために複数の大臣を兼任したが、日本の情報収集能力が欠けたせいで、アメリカに宣戦布告した。第2次世界大戦では、石油の確保が戦略上欠かせないが、そのうちの8割がアメリカで残り2割が蘭印、ボルネオである。つまり、日本は十分な石油を保持しないまま戦争に突入してしまった。
このように、かの戦争は、日本の状況を俯瞰、客観視することできぬまま、無謀な戦争に挑み、砕け散った。