鴻巣友季子のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
数えてみたら高校生で読んで以来、ほぼ30年ぶりの再読である。数回読んではいるし、映画も観ているし、と思いつつ新訳で読み始め、旧訳・映画から受けていた印象がどんどんずれていくことに驚いた。
とはいえ、スカーレット像はそのままである。なぜか。スカーレットの心情は包み隠さず、あけっぴろげに語られるからである。誰かが何か示唆的なことを語り、読者も神妙な気持ちになったとたんに、スカーレットは心の中で”何の話をしているのか、さっぱりわからない”とばっさり切り捨てるものだから、私も、小賢しく頷いちゃっていた自分が恥ずかしくなったりもする。
ということで、高校生にも主人公の(単純な)心情は余すところなく理解できたのだろう。
スカーレットのお向かいにいるのが「影の主人公」メラニー。対して彼女が本当は何を思い、どう考えていたのかは最後までベールに包まれたままだ。ただし、その行動には嘘がないので、読者もメラニーの人間性を理解し愛する(スカーレットは全く理解してなかったけど)。
旧訳ではいかにも古い小説を読んでいる”ありがたさ”もあり、それも面白かったのだが、新訳は文章のリズムで読者の心を一気にその場に引っ張り込む。旧訳ではあまり印象に残らなかったスカーレットの「ダサさ」(敢えて言おう!)が際立ったのも非常によかった。
ところで、映画の印象に引っ張られて当時は気づかなかったが、これは「戦争小説」でもある。最初は絵空ごとのように思えていた戦争が、やがて間近に迫り、わが身のこととして降りかかり、一般の市民すら、戦場でもないのに人を殺めることにもなる。
背後に多くの物語を含む小説。訳者解説によると作者は「映画化は無理」と言っていたそう。映画はあくまで小説の一部分しか切り取っていない、だからこその傑作となりえたのだろう。語られていない部分を誰かと語り合いたいくなる(しかも熱を込めて)のは、各々の人物造形がしっかりとしているから。わたしが誰かと語り合いたいのはメラニーを後継者とする「聖母」の母、エレンである。 -
訳者によってよみがえる名作
翻訳なんて誰がやってもだいたい同じ…と思っていましたが、鴻巣友季子さんの新訳は全然違う!
キャラクターはみずみずしく、ストーリーも臨場感に溢れ、風景もリアル。
大学の授業で他の訳との読み比べもしましたが、翻訳の力を最も感じさせてくれました。
有名だから題名だけは知っているしいつかは読もうと思っているけど…という人はぜひ鴻巣訳でどうぞ!
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Posted by ブクログ
「やみくも」を全面組み替え、加筆訂正、そして新しいものをプラス。
ということで、「やみくも」を買った人でも、損はなし。
翻訳や言葉についてのあれこれを真摯に突き詰めるかと思うと、日常で出合った出来事にプチあっと驚く結末?があったり、思わぬ切り口での考察で「そうなのか」と発見させられたり、かと思うとちょっとしんみりしてみたり。
どのエッセイも中身がギュッと詰まって、「いずれの地もそれぞれ」に楽しい。
青山南さんといい岸本佐知子さんといい鴻巣さんといい、翻訳家の人はエッセイの巧い人が多い、と思う。 言葉とじっくり向き合っているせいなのか、独りであれこれ考えることが習慣になっているせいか。
鴻巣さんの場合は、発想のユニークさというよりも、言葉へのこだわり豊富さが、面白さを生んでいるようである。
「翻訳というのは、ひとことで言うと、〈解釈〉のことだ。」(P208)とするならば、鴻巣さんは世界をこういうふうに解釈しているのね、ということでもある。
しかしやっぱり、久世光彦の項が出色の出来、と思う。
「面白うてやがてかなしき」が、小説やエッセイの一つの理想だと思っているのだけれど、この久世さんの項がそれ。久世作品を喩えて、リキュールボンボンとは、なんとも見事。やっぱりこの項が一番好きだな。 -
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初ヴァージニア・ウルフである。
イギリスアメリカの本や映画によく引用されたり、名前が上がってくるので、もちろん名前は知っていた。「ヴァージニア・ウルフなんかこわくない」という映画もあるほどである。
友人がSNS で勧めているのを見て読んでみた。
基本は、登場人物たちが何を感じて考えているかの頭の中を文章にしたもの。主人公であるラムジー夫人のものが一番多いが、ラムジー夫人の考えを意識について書いていたかと思うと、次に別な登場人物の意識や考えに変わっていたりする。
この前読んだ「長い一日」はこれであったかと改めて思った。「意識の流れ」という、20世紀のモダニズム文学の手法であると、何かのレビューで読んだ。
確かにプルーストの「失われた時を求めて」はこんな感じである。今となっては当たり前と思われる手法が、実はある時代において、新しいものであったということに、まずは驚いた。
この作品については集中して読んてしまうところと結構読み飛ばすところがあった。主にラムジー夫人が夫について考えてることや別の登場人物であるリリーの思考などが私の興味を引いたようだ。
そして、私自身の意識や思考や感情も考えてみると、絶え間なく流れている。いろんな新しいことを考えている。ずっとまっすぐに同じことを考えてるのではなく、いろんなことが入ってくる。例えば、仕事で1つの大きいこと考えたとしても、「あ、そういえば昨日の夕ご飯何食べたっけ?」とか「あの人のあの言葉ムカついたんだ」とか、いろんなことをちょいちょい思い出しながら、メインのストリームに戻っていく。メインのストリームがあることもあれば、それすらもなくて、細切れの考えが次から次へと、しりとりのように動いていくこともあるし、全然関係ないものが動いていくこともある。
これを表現した作品らしい。2章があることによって、意識の流れの羅列に大きなメリハリがつく。 -
Posted by ブクログ
チャレンジの気持ちで読みました。近代文学。
感想。めっちゃ味わいのある面白さ。唯一無二。
1番印象的だったのは、その独特な筆致。"〇〇が恭しく言った"とかわざわざ書かない。こんなに流れるように人物の視点が変わりがわりするんだ!ととっても驚きました。でもそれが非常にクセになるんです。気がつくと同じ文なのに主語が入れ替わってる。なんてことが沢山ある。この"アクションを起こす主体が入れ替わる立ち替わりする妙技"を、この一度目の読書の中で多分に感じて面白かったのは、家族が揃って同じ卓で夕食を取るシーンでした。
このスタイルなのに全体通した感想が"読みにくくて分かんないなぁ"という感想にならないのが凄い…
あとは
"灯台"というのが登場人物全員から"心理的距離があるもの"として描かれている感じもあり、なんというか"この本の灯台って実は読んでいる自分たちが思い描いてる灯台の形を思い描いて書かれていないんじゃないか?"と予想でき得る感覚を得て、そこも面白ポイントだった。
近代文学なので表現が文語的なところもあり、(多分他に比べたら全然マシな方だと思うけど)そこには読書経験のなさから苦戦はしたところはある。しかし間違いなく"また読みたいな。絶対また時間作って読もう!"って思えた作品だった。2回目読んだ時には感想はまた変わると思う… -
Posted by ブクログ
スカーレットはいつも前向きで凄い!それがこの本の最大の魅力だと思った。
前向き(ポジティブ)は楽観的ではなくて、彼女は実際現実主義者でもある。ただ、どんな不幸な人生でも前を向くことができると教えてくれるのがスカーレットだった。それも周囲のおかげだと最後の最後に気づくんだけどね。。その2人もいなくなったらどうなるのと思うけど、それでもやっぱり前を向くスカーレットは(周りの心は折れていく中笑)心が折れることを知らないよねえ改めて凄すぎる
そしてこの本を読んで思ったこともう1つは、人間そんなに変わらないのかもと笑
多少成長はするけど、生き方は変えられない
それが環境とマッチしないとほんとに生きるのが辛いだろうなと思った。今はいい時代だ(私にとって)
物語は終わっちゃったけど、どうかこの先スカーレットが誰かのために行動する人になってほしいと心から願わずにはいられない
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Posted by ブクログ
ネタバレファーロングは真っ当な普通の人だ。妻と娘たちを愛し、妻を尊敬し、借金をせず、よく働き、親切にされれば感謝し、可哀想なものを見れば心を痛めて手を伸ばす。彼の行動には、屈折した人物のような心理的説明がほとんど要らない。こんな「ちゃんとした人」を主人公とした小説を読むことは久しぶりだ。
街の人々が噂として知りながら目を背けていた修道院の洗濯場について、ファーロングはその実態を見てしまう。一度知った後も以前と同じ顔で生活することができず、最後にはセァラを連れ出す。それが善い行為であることは疑えない。誰かが「これはおかしい」と認識して動かなければ、現実に存在した洗濯場もなくならなかっただろう。ファーロングは立派だと思う。同時に、このことを手放しで「偉い、素晴らしい」と称賛するには、あまりに危ういと感じる。
セァラを救うために彼が賭けたのは、自分の生活だけではない。アイリーンと娘たちの生活まで、相談なく危険にさらしている。私がアイリーンなら、少女を追い返せとは言えなくても、夫には断じてこんなことをしてほしくないと思うだろう。
セァラと歩くファーロングは、自分の最良の部分が輝き出したような、これまでにない幸福感を味わう。信じていることと実際の行動が一致し、善きものと同化したような高揚だろう。代償を払うと覚悟しているが、その請求は家族にも届く。小説は、彼が最も美しく、まだ現実の代金を一円も払っていない瞬間で終わる。
ファーロングは、たまたま知り、できないとは言い切れず、自分で選んでしまった人であり、それが立派だと思う以上に気の毒だ。他人事にする能力を持たない人には、世界が勝手に仕事を割り当ててくる。善良さは美徳だが、ときにその人へだけ高い代償を支払わせる。
評価は4.5。静かな希望の物語というより、善い人が善いままでいることに伴う危険を描いた小説として読んだ。
余談。訳者後書きで『クリスマス・キャロル』に準えられることもある、と紹介されているが、読みながらそれを感じた。ファーロングは3度修道女会を訪れる。クリスマスキャロルのように整然と過去・現在・未来とはなっていないが、これまでの噂の真相を知り、現在の苦痛を見て、娘の未来を案じるところは重なる。3度目に訪れた後、町の人から奇異な目で見られるところも重なる。幼い彼に『クリスマス・キャロル』を与えたのがウィルソン夫人なのも重要だと思う。彼女はファーロングに実際の庇護を与え、そのうえ、他人の不幸を想像するための物語まで与えた。ファーロングは大人になって、かつて受け取った二つをセァラへ渡し直す。そう考えると、あの本は単なる伏線ではなく、ウィルソン夫人の行為が彼の内部で長年かけて言葉になり、ついに行動へ戻るための装置なのだろう。
『クリスマス・キャロル』に似ていると感じるものの、スクルージは富を配って共同体へ再統合されるが、ファーロングは善を行うことで共同体から排除されかねない。奇跡の後に幸福が保証されない、厳しい『クリスマス・キャロル』である。