鴻巣友季子のレビュー一覧
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お母ちゃんに又子どもが出来た。少女は赤ちゃんが生まれるまで、親戚の家にあずけられることになる。大家族の中で育った少女には、子どものいない夫婦の暮らしは、自然に囲まれて贅沢ではないけれど豊かな暮らしだった。
夫婦にとっては、特別な事は何もしていない日常なのだろうが、ゆとりのない両親の元での暮らしている少女にとっては、新鮮な暮らし方だった。
そして、夫婦は男の子を事故で亡くしていた事がわかっていく。短い夏の日々は、弟の誕生とともに静かに幕を閉じる。
読み終わって、こんなに胸が熱くなるストーリーを久しぶりに読んだ。映画化されていることも知らなかった。映画も見てみたい。 -
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2000年頃の「村上春樹独り勝ち」のあたりまでが自分が一番熱心に新しい本を読んでいた時期で、その後はライフステージの変化によりそこまで読まなくなってしまっていたので、英語圏の読者は翻訳嫌い、の認識で止まっていた。最新の日本文学翻訳事情がそんなことになっているとは!未読の作家がたくさん紹介されていたので、これから読んでみたいリストがまた増えた。
ここ最近は春樹作品に対するフェミニズム的な視点での批評をYouTubeなどで目にすることがあるけど、恥ずかしながら川上未映子さんのインタビューは存在を知らなかったので、「みみずくは黄昏に飛び立つ」ぜひ読んでみたい。
彼が大手出版社経由ではなく自身で翻訳者やエージェントを探してルートを開拓していったというビジネス手腕について書かれていたのも面白かった、やはり先駆者春樹は偉大だな。
村田沙耶香、柚木麻子その他の日本でも人気の作家の小説が英米でどのように受容されているかについても興味深く読んだ。フェミニズムって付いた途端に日本では売り上げが減りそう。自分の中にもフェミニズムという言葉に対して若干の偏見があることに気付かされた。少し前の世代の日本の女性作家の作品、有吉佐和子(恍惚の人、華岡青洲の妻)、円地文子(女坂)、宮尾登美子の一連の女性主人公の小説なんかをかつては自分ごとに近いものとして読んできたけど、あれらの作品ももし翻訳されたらフェミニズム小説として受け取られるのではないかな?
「おわりに」に書かれた源氏物語が近代小説の原型という論にも深く納得。
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ネタバレスカーレットとメラニー。対称的な二人の女性の強さが強烈に描かれた巻だった。
スカーレットは食えない、という強烈な負の経験から、金を稼ぐことに執着し始める。「・・・もう二度とひもじい思いはしない。〈タラ〉の皆も飢えさせはしない。-ものを盗み、人を殺めることになろうと-神に誓って、もう決してひもじい思いはしない。」何というすさまじい意志か。彼女はどんなことをしても、家族を食わせていく決心をする。この誓いの後の彼女の行動はすさまじい。家に侵入してきたヤンキーを撃ち殺し、死体を隠して金品を奪う。金を援助してもらうために、バトラーを誘惑する。企てが失敗するや否や、ターゲットを妹の婚約者に変更し、まんまと結婚までこじつける。このなりふり構ない強かさ。彼女の強さをだいぶわかってきた。
一方、メラニーも不可解なほどの強さを見せる。スカーレットがヤンキーを撃ち殺したとみるや、彼女を誇りに思い、てきぱきと死体の処理をしはじめる。ヤンキーの残党がタラに火をつけたとき、家に残って火を消そうとしていたスカーレットを単身救助する。外見上の彼女の弱弱しさといいざという時の強さ。この差が不可解なほど大きい。彼女のこの芯の強さはいったい何なのだろうか。だんだん彼女が恐ろしくなってきた。 -
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なんて染み入る小説だろうと思って本を閉じようとした矢先に、マグダレン洗濯所の事件が紹介され、実話を元にしていたことに度肝を抜かれた。
マーガレット学院と訓練学校とが壁一枚を隔てて立っていることが、名付けができないけれど社会の上でのもしくは人のある側面での二項対立的な事象が、実際は紙一重であるということをシンボライズしているように思われた。
キリアンマーフィー主演のこの映画も観たいし、クレアキーガンの他の本も読みたい。また偶然にも、この本の前に読んだヴァージニアウルフの「灯台へ」の訳者も鴻巣友季子ですっかりファンになりました。この方の他の訳書も読みたい。 -
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ネタバレスカーレットの青春時代の終わり。わがままなお嬢様ではもういられない。戦争により自分を守ってくれる者たちがみんないなくなり、自分の肩に家族の命運が重くのしかかってきた。母が亡くなり、アシュリも生死不明、父はショックで呆け、レットも戦場に行ってしまった。
かつて自分に求愛してきた男たちもみんないなくなった。アシュリから頼まれた義妹メラニーとその子供、息子のウェイド、父と妹たち。スカーレットはその小さな肩にこれだけの人の命運を背負うことになった。
なんて気丈で強い娘だろうか。迫りくる戦火に恐れおののきながらも決して逃げずに、妻のメラニーを頼むというアシュリからの約束を守り抜いた。憎んでいたはずのメラニーを守り、出産まで助け、彼女とその赤子を必死にタラまで連れて帰ってくる。この強さは、義理堅さはどこから来るのか。彼女の体に流れるアイルランド人の血、そしてアシュリとの約束(呪縛)によるものなのだろうか。
第2巻のクライマックス、アトランタからタラへの脱出のシーケンスは本当に圧巻だった。彼女が感じた恐怖、絶望、焦燥が自分も感じているかのように胸に迫り、思わず息をするのも忘れ、苦しくなった。このシーンの描写、翻訳が素晴らしい。 -
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長編小説を読み始める直前の、あの期待のこもった緊張感が好きだ。これから数か月、この本が描く世界とともに生活していくのだと思うと、まるで長い旅に出る前夜の眠れない気の高ぶりに似たわくわく感が胸を満たす。
登場人物の来歴、信条、性格、容姿などが細かく描写されている作品はすべからく名作である——これが私の持論だが、本作はその条件を完璧に満たしていた。そして『風と共に去りぬ』第1巻を読み終えた今、やはりそれは間違っていなかったと確信した。
主人公のスカーレット・ハラは、笑ってしまうほどわがままで高慢ちきだ。最初は「大丈夫か、この子は」と呆れながら読んでいたのだが、物語が進むにつれてその印象は一変する。
彼女のわがままさは、決してブレることのない一本の太い芯に基づいている。だからこそ、次第に強烈な魅力として映り始める。特に第1巻の終盤、未亡人となった彼女が世間の冷たい目を跳ね返し、バトラー船長からのダンスの誘いを引き受けるシーンの爽快感たるや。「あっぱれ」と膝を打ちたくなる名場面であった。
本作を通して当時のアメリカの情勢を知るのも面白い。「ヤンキー」という言葉が、アメリカ人全体ではなく「北部人」を指す言葉だったとは恥ずかしながら知らなかった。
一方で、疑問に思う点もあった。「自由の国」というイメージに反して、当時の南部社会には息が詰まるほどの強固なジェンダーステレオタイプが存在していたことだ。女性は自然体など論外で、か弱く、男性に守られるべき「淑女」であることが絶対に求められた。
歴史の浅い新興国であり、既存の社会規範に不服な人々が移り住んでできたはずのアメリカ(南部)で、なぜこれほど人間を縛るステレオタイプが形成されたのか。
これは、南部独特の事情によるものではないか。広大な綿花農園と奴隷制の上に成り立つ南部白人社会は、ヨーロッパの「貴族社会や騎士道精神」への強烈な憧れを抱いていたのではないか。自分たちの社会規範の正当性を示し、奴隷制という階層秩序を維持するためには、「強い男性と守られる女性」という明確な役割分担が必要不可欠だったのだろうと思われる。あくまで自分の想像なので、このことについて調べてみたい。
スカーレットが壊していく南部の「淑女規範」だが、その完成形として描かれるのがメラニー・ハミルトンである。
最初は大人しく、弱弱しい印象を受けるメラニーだが、彼女はスカーレットとは全く異なるベクトルで芯の強い女性であった。それが最もよく表れているのが、戦争のために自身の「結婚指輪」を寄付するシーンだ。
スカーレットが愛してもいない亡夫の指輪を「鬱陶しいから」と処分したのに対し、メラニーは最愛の夫アシュリとの大切な絆である指輪を、迷うことなく即座に差し出した。他者への無償の愛と絶対的な信頼。そこから生まれる彼女の自己犠牲と決断力は、ときに刃物のような強さを発揮する。
人間の偽善を見破る天才であるバトラー船長(レット)が、古い南部の気取りを嫌いながらもメラニーにだけは最初から深い敬意を払っていたのは、彼がメラニーの行動に一切の「嘘」がないことを見抜いていたからだろう。
エゴイズムと野性的な生命力で突き進むスカーレット。 無私の精神と高潔な信念で周りを包み込むメラニー。真逆の強さを持ったこの2人が、これから南北戦争という巨大な時代の渦の中でどう生き抜いていくのか。第2巻を読むのが楽しみだ。 -
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村上春樹や川上未映子だけでなく、猫や喫茶店が出てくる癒し系も英米で翻訳されて読まれているということに驚いた。また、日本文学についてだけでなく翻訳文学全体のことも書かれていて、9.11以後のアメリカは言葉の通じない外国との関わりを重要視するようになったから翻訳文学が読まれるようになってきたのではないかとか、ハン・ガンの国際ブッカー賞で共同受賞した訳者が賞金を使って翻訳出版社を立ち上げたとか、作品の良し悪しとは別の大きな流れがあるようで興味深かった。「言語を翻訳しあうことで文学・文化は互いに耕され、その巨大な循環が実りをもたらしている」というのに納得し、世界の文学を読めるようにしてくれている著者をはじめとする翻訳家のみなさんにあらためて感謝の気持ちが湧いてきた。
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今まで読んできた小説とは一線を画す技巧を凝らす作品である。物語展開で作品に引き込まれるのでなく、小説の表現方法で心つかまれる体験は初めてかもしれない。
たった二日間の出来事を登場人物たちの内省を中心に物語を組み立てる手腕はさることながら、ある人の心理描写がいつの間にか他の人の思考に置き換わり、溶け合う。さながら、長尺一本撮りの映画を観ているよう。しかし、読者が触れるのは登場人物たちの発話や表情ではなく、内なる独白なのである。この奇妙な感覚は本作との出会いに感謝せざるを得ない。
各主要人物たちは総じて魅力的だが、個人的なベストはラムジー。なんといっても女々しい。「同情を強いてくる飽くなき欲望」を体現しながら間近で深いため息をつく姿は、現代の友達いないプライドだけ熟成されたおじさんを想起させる。
その凝り固まった自尊心が寂しい、の一言を他人に告げることを不可能にする。そんな自分を顧みることなく、不当に扱われているという認識から不機嫌になる。うーん、他人事ではないなと身をつまされる。
世俗と芸術という主軸をベースに読み進めるのもよいし、私のように卓越した技巧に着目する読み方もできる。どの登場人物に一番共感するかも読者それぞれで異なるだろう。
しかしどの人物も悩み苦しみ、一時は救われたように見えても、再び同じ孤独や不安に立ち返ってしまう。そのような人生のままならなさが何度となく描かれる。そのやるせなさや寄る辺のない不安を肯定してくれるやさしさが、本書に通底する魅力なのかもしれない。 -
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なぜ、物語の批評を共感で語るのか。
それは、現代が趣味や志向を肯定しつづけてくれるサービスに触れつづけ確証バイアスを肥大させている時代だからだという。
その著者の分析に大いに賛同し、行く末を思って怖くなった。
いま、読書離れといわれる時代で、物語もよりわかりやすい(共感性をえやすい)ものが売れる時代になってきているように感じる。
他者性が複雑に織りなされた物語は、結局何が言いたいのかわからないとバッサリ切られる時代だ。
そういう人は、AIが要約した文章で事足りるから、とますます本から遠ざかっていく。
本書を読んで感じるのは、文章に織り込まれる人称や、過去形、現在形、二葉亭四迷の「完了形た」の創出やなど、センテンスを紡ぐときに意図的に、繊細に選ばれるこうした文字を、AIが組むことなんて不可能だろうということだ。
文字が発明される前から、物語はずっと人のそばにあった。それはこれからも亡くなりはしないだろうけれど、AIによって形を変えるだろうことは想像できる。
そして、物語がもつ「感情に強く訴える力」を書き手が意識しつづけなければならないと思う。2025年7月の週刊新潮の差別的表現を含むコラム掲載は、それを改めて私たちに突き付けてきた。 -
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大変面白く読んだ。日本文学がこんなに世界で活躍するとは…隔世の感あり。旅行先としても大人気だし…わたしが子どものころは考えられなかった。時代は変わりますね。
2025年6月時点のイギリスの翻訳文学トップ50のうち23作が日本語作品だった(p33)とは驚き。
川上未映子のインタビューでの発言が興味深い。
「川上は村上の賞賛を得ていただけではなく、2017年には村上に対してその創作や世界観に深く切り込んだロングインタビューを4回に分けて行っている(日本では『みみずくは黄昏に飛びたつ』として新潮社より刊行)。おこでの大作家に対する鋭い質問とやりとりが、英訳書の発売前にアメリカで人気のウェブ文芸誌「リテラリー・ハブ」に掲載され(2020年4月。サム・ベット、デビット・ボイド共訳)、これもまた注目された。」
その引用の中で、特に気になった箇所(↓)。
「つまり、(村上の小説には)性的な役割を果たすためだけに存在する女性の登場人物がとても多いということなんです」と彼女は延べ、村上作品の中で女性が男性主人公のために”犠牲”になる頻度の高さを嘆いた。こう指摘された村上はやや面食らった様子で、「ぼくは個人主義的な人物には興味がないんだ。男性であれ、女性であれね」と応じた。しかしこれは政権交代の兆しでもあった。」
「おそらく日本の全国紙では読めないような記事だろう。」と鴻巣さんは書かれているが、確かに!
村上春樹のビジネス手腕についても書かれていた。すごいなあ。
『ねじまき鳥』は三部作だけど、英語版は2部作になっているのだそう。村上も承認。知らなかった。加藤典洋いわく、「僕が理解している『ねじまき鳥クロニクル』と、これを読んで英語で理解している『ねじまき鳥クロニクル』とは、そもそも同じ作品なのかどうか、わからない、ということが起こっています。ことによれば、この作品は日本語で書かれたと言いながら、将来、国際的な場所でThe Wind-Up Bird Chronicleが話題となり、問題になる場合、そこでの正典は英語テクストであって、これを英語で読んでいない日本人研究者だけが逆に蚊帳の外に置かれるなどという辞退すら、生じかねない趨勢なのです」。
何と!!
その他いろいろ面白いことがてんこ盛りだったのだけど、書ききれないのでこのへんで。 -
Posted by ブクログ
アイルランドの昔の話だろうと読み始めたら、舞台は1985年代でわずかまだ41年前の事だった。読後、本書では”グッド・シェパード教会”となっている"マグダレン洗濯場”を調べてみた。”マグダレン洗濯場”とはどこかで見聞きした記憶がある。映画だっただろうか?
"マグダレン洗濯場”は政府とカトリック教会が後援していて、恵まれない少女や女性が事実上監禁され、働かされ、虐待を受けた施設だったとある。200年以上も存在し、閉鎖されたのは1996年!アイルランドの闇を思わずにいられなかった。
ここまで書いたレビューを止めて、もう一度本作を最初から読みなおした。訳が堅く感じられて(久々の外国物だったからかもしれない)何ヶ所かで引っ掛かり躓き、最後まで引きずってしまい確実に理解できていないと考えたから。
やはり再読して正解だった! 今では素晴らしい作品に出会えたと心から思える。原題は『Small Things Like These』で邦題は「ほんのささやかなこと」。タイトルのほんのささやかなこととは正反対の意味合いがあるのではないかと推測する。主人公のファーロングは「非嫡出子」だったが、母親が働いていたウィルソン夫人の元で母親と共に育った。ファーロングが最後に選択し取った行動は自分の信条と良心に従ったまでと云うものの、ささやかどころじゃない。街を牛耳っている大きな権力に背を向けたのだから。彼がセァラを連れて我が家のドアを開けた途端に嵐が吹き荒れるだろう。でも、ファーロングが必ずやり遂げるのは確かなこと。
ファ-ロングの心境が語られている部分を抜粋した。
『互いに助け合わずに生きてどうする? そこにある現実に勇気を奮って立ち向かうことをせずに長いこと、何十年も、下手したら一生過ごしたうえで鏡の中の自分と向き合う事なんておれにできるのか?』
『最悪のことが起きるのはこれからだ、わかってる。すぐ隣で待ち受けている厄介な世界の気配をすでに感じるが、最悪の未来はもう後ろに置いてきた。起きかねなかったが、起きずに済んだことーもしそれを見過ごしていたら、死ぬまで悔いを抱えて生きることになったはずだ。これから出会う苦しみがなんであれ、それはいま横を歩いているこの娘がすでに味わってきた苦しみ、これから乗り越えるだろう苦しみからは、おそらくほど遠い・・・・』
一方、周囲の市井の人々が彼に耳打ちする言葉を足蹴にはできない。敵は近くに置け、悪い犬と共にあれ、良い犬は噛まない(味方より敵を近くに置いて見張る)。うまくやっていきたいなら、目をつむるべきこともあるはずよ。見過ぎ世過ぎ・・・など。
大方の人々はこのように従いつつがない暮らしを手に入れている。出自が重なるファーロングは見過ごせなかったのだろうが・・・。
♪~♪~♪~♪~
アイルランドの小さな町。主人公のファーロングは妻のアイリーンと結婚し石炭の販売業を営んだ娘5人を育てていた。クリスマスが迫り、寒さが厳しくなるなか、石炭と木材の商人であるビル・ファーロングは最も忙しい時期を迎えていた。ある日、石炭の配達のために女子修道院を訪れたファーロングは、「ここから出してほしい」と願う娘たちに出くわす。修道院には、未婚で妊娠した娘たちが送り込まれているという噂が立っていたが―隠された町の秘密に触れ、決断を迫られたファーロングは、己の過去と向き合い始める。