古代ギリシャでは、性愛の最高位に同性愛があったが、正確に言えばこれは少年愛であって、成人男性同士の性愛ではなかった。自由民の成人男性が性的にアクセスできるのは少年または奴隷の男性に限られており、両者の関係性は非対称的だった。他方、女は、自由民の男性にとって子を産むための手段であり、家畜や奴隷と同じく財産の一部とされた。異性愛は、責任ある自由民の男性の義務であり、少年愛のように高貴な権利ではなかった。
なぜギリシャの同性愛は対称性を持たなかったのか? それは、ペニスをもって「貫く者(penetrator)と「貫かれる者(penetrated)とのあいだには一方的な関係があり、「貫かれる者」は劣位にあるとされたからだ。べつの言い方をすれば、「貫く者」は性的主体、「貫かれる者」は性的客体として、両者のあいだに混乱があってはならなかったからだ。なかでも、自由民の少年がみずからの自由意思で性愛の客体になることを選ぶ(ようにしむける)ことが最高の価値ある性愛であり、選択の自由のない奴隷との性愛はランクが劣るとされた。自由民の少年は「貫かれる者」の位置にあるが、いずれ成人して、今度は他の少年を性的客体として、みずから性的主体となることが可能だからだ。
貫かれること、モノにされること、性的客体となることを、べつの言い方で「女性化される(feminize)」とも言う。男性がもっとも恐れたことは、「女性化されること」、つまり性的主体の位置から転落することであった。
ホモソーシャルな連帯とは、性的主体(と認めあった者)同士の連帯である。「おぬし、できるな」とはこの主体成員のあいだの承認を言う。「よぉーし、お前を男の仲間に入れてやろう」という、盟約のことである。この主体成員のあいだでは、相互を性的客体にしかねないホモセクシャルなまなざしは、主体のあいだに客体が入り込むことによって「論理階梯(クラス)の混同」を侵す結果になる。したがって性的主体の間で互いを客体化する性的まなざしは、危険なものとして、禁忌され、抑圧され、この排除をことさらに苛烈なものにする、とセジウィックは指摘する。自分のなかにあるものを否認する身ぶりは、全く異質なものを排除することにくらべて、よりいっそう激しいものにならざるをえない。かくして「あいつ、おかまかよ」という表現は、男のあいだでは男性集団の成員資格失墜を意味する、最大の悪罵となる。男に値しない男を男の集団から放逐する表現が「おかま」――「女のような男」という女性化のレトリックをともなっているのは象徴的である。逆に、「おかま」が自分たちの集団に潜在していることの怖れは、自分がいつ性的客体化されるかもしれない、という主体位置からの転落の恐怖でもある。だから、男の集団のあいだでは、「おかま」狩りがきびしくおこなわれることになる。これを同性愛嫌悪(ホモフォビア)と言う。性的主体としての男性集団の同質性を保つには、それが不可欠だからである。
かくしてホモソーシャリティは、ホモフォビアによって維持される。そしてホモソーシャルな男が自分の性的主体性を確認するためのしかけが、女を性的客体とすることである。裏返しに言えば、女を性的客体することを互いに承認しあうことによって、性的主体間の相互承認と連帯が成立する。「女を(最低ひとりは)モノにする」ことが、性的主体であるための条件である。
「所有(モノ)にする」とはよく言ったものだ。「男らしさ」は、女をひとり自分の支配下に置くことで担保される。「女房ひとり、言うことを聞かせられないで、何が男か」という判定基準は今でも生きている。女を自分たちと同等の性的主体としてはけっして認めない、この女性の客体化・他者化、もっとあからさまに言えば女性蔑視を、ミソジニーと言う。
ホモソーシャリティは、ミソジニーによって成り立ち、ホモフォビアによって維持される――ここまでは、セジウィックがその卓抜な論理で、わたしたちに教えてくれたことである。
以上をカタカナことばではなく、平明な日本語でいえばこうなる――男と認めあった者たちの連帯は、男になり損ねた男と女とを排除し、差別することで成り立っている。ホモソーシャリティが女を差別するだけでなく、境界線の管理とたえまない排除を必要とすることは、男であることがどれほど脆弱な基盤の上に成り立っているかを逆に証明するだろう。
相手を理解不可能な存在――すなわち異人、異物、異教徒――として「われわれ」から放逐する様式(これを「他者化」ともいう)には、人種化とジェンダー化のふたつがあり、このふたつは密接に絡まりあっている、とサイードは『オリエンタリズム』[Said 1978=1986]のなかで指摘する。すなわち「東洋(オリエント)」とは「女」なのだ。ここでいう「オリエント」とは「異邦(異郷)」の別名であり、「オリエンタリズム」とは異なる社会を他者化する様式のことである。
サイードはオリエンタリズムを「東洋とは何かについての西洋の知」と簡明に定義する。オリエンタリズムとは「東洋」が何であり、何であるべきであり、何であってほしいかについての西洋人の妄想の別名なのであり、したがっていくらオリエンタリズムについて知っても、かんじんの「東洋」については少しもわからない。わかるのは「東洋」についての「西洋人」のアタマのなかみばかりである。
もっとも人口に膾炙した「オリエントの女」は、プッチーニのオペラ、「蝶々夫人」の主人公、マダム・バタフライであろう。そう、オリエンタリズムのなかでは、ニッポンは蝶々夫人として表象される。今ふうに言えば、蝶々夫人は、単身赴任の駐在員の現地妻。本国からの配置転換の命令を受けた愛人から体よく捨てられるが、あきらめきれずに来る日も来る日も海を眺めて「ある晴れた日に、あなたはきっとわたしを迎えにくる……」と妄想を持ちつづけているまったく無力な女である。もはや説明するまでもないが、この妄想は、蝶々夫人のアタマのなかではなく、蝶々夫人をつくりだしたプッチーニのアタマのなかにある妄想にほかならない。
「西洋(オクシデント)」の「男」にとってこんなつごうのよい妄想はない。相手が理解不能な他者であり、魅惑的な快楽の源でありながら、自分を脅かす可能性がまったくない無力な存在であること。誘惑者として登場し、すすんで身を任せるだけでなく、自分が去ったあとも、恨みもせず慕いつづけてくれる。「ワタシガ・捨てた・オンナ」に対するチクリとした心の痛みも、女の愛の大きさが浄化してくれる――これほど「西洋の男」の自尊心を満足させてくれる物語があるだろうか。ンな女、いるわきゃねぇだろ、という声は、西洋人の巨大な妄想のもとではかきけされる。オリエンタリズムとは、支配的な集団が他者の現実を見ないためのしかけだから、いくら「ニッポンのオンナはほんとはこうなのよ」と言っても声は届かない。もっと下世話に言えば、オリエンタリズムとは西洋人男性のマスターベーションのおかずなのだから、こんな「ずりネタ」を見て、拍手喝采する日本の聴衆の気が知れないというものだ。わたしなどは「蝶々夫人」を見るたびにむかつくので、気分よく見ていられない。
人種は階級とも結びついている。
最近の人種研究のなかでは、ジェンダーと同じく「人種」も歴史的な構築物であることは常識となってきた。ホモ・サピエンスは一属一種、どの人も九九%以上DNAが同じなのに、わざわざ「人種(race)」というカテゴリーをつくって、肌の色で人間を区別する。ジェンダーが「男でない者」、すなわち男になりそこなった男と女とを排除することで維持される境界であり、男が男として主体化される装置であるように、人種とは(それを発明した)白人種たちが、「白人でない者」を排除することで、「白人であること」を定義するための装置だったことは、白人性研究[藤川編2005]のなかで次々とあばかれてきた。「白人であること」とは、劣等人種を支配してもよい資格を持つことだった。歴史的に言えば、「人種」という概念は、帝国主義の世界支配のイデオロギーと共に誕生したのである。
Kくんは掲示板にこうも書いている。
「わたしも『アニメやエロゲーがあれば幸せ』という人種ならよかったのですけれど、不幸なことに現実に興味があるのです」
現実に、そして現実の女に興味あるなら、対人関係を持とうと努力するほか道はない。学歴や地位や収入があれば、そして「見た目」がよければ、黙っていても「女がついてくる」時代は過ぎた。
そうなればコミュニケーション・スキルが問われるのはあたりまえのことだろう。三浦自身も「コミュニケーション力」が「モテ」の条件となった時代に変化したことを認めている。このところ、コミュニケーション能力を新しい権力として批判したり告発したりする流儀が流行っているが、ふしぎなことだと思う。コミュニケーション・スキルとか能力とかいう用語が誤解を招くのかもしれない。コミュニケーション・スキルや能力というものはたしかに学習や経験によって身につくが、だからといって、他の資源のように計算したり、蓄積したりできるものではない。そして対人関係というものが相手によって変化するように、万人向けのコミュニケーション・スキルがあるわけではない。
コミュニケーションとは対人関係の別名である。そして対人関係の結べない者に、「彼女ができる」はずもない。「かつて学校や職場では、男性同士がうまくコミュニケーションできればそれでよかった」[三浦2009:143]と、三浦は男同士のホモソーシャルなコミュニケーションを肯定する。そのホモソーシャルな男性集団でのペッキング・オーダー(にわとりのつつき順位)に従って、おのずと女性が配分されてきた。男性の努力は、あげて男性集団のあいだでの卓越化のためのものだった。
だが、地位の序列をともなうような対人関係は定型的なものなのである。三浦自身が指摘するように、今日のようにコミュニケーション力が問われるようになったのは、定型化されない対人関係が(家族や男女のあいだでさえ!)増加したからであろう。
定型化されない対人関係の最たるものは友人関係であろう。利害や役割をともなわない、それから直接的な利益を得ることが期待できない友人関係ほど、維持するにはむずかしい関係はない。深澤真紀が『自分をすり減らさないための人間関係メンテナンス術』[2009]で指摘するように、友人関係とは「人間関係の上級編」である。友人関係を維持するには、高いスキルがいる。おそらく恋愛や結婚よりも。なぜなら、恋人関係や夫婦関係とは、一種の役割演技(ロールプレイ)にもとづいているからである。
だが、夫婦も恋人も、次第に定型を失ってきた。定型性のない性関係のもとで、相手がどれほど異形の他者になるかのレポートは、文学作品にいくつも登場する。コミュニケーションとは、甘やかな共感などではない。自我を賭け金とした命がけの駆け引きである。それがイヤなら、関係から撤退するほかない。
「彼女がほしい」とのぞんだK君の叫びが、ほんとうに「人と関わりを持ちたい」という欲望だったとしたら、かれのなすべきことは秋葉原へ行って他人を刺すこととはまったくちがったものになるはずだった。だが、少なくともその行動から判断する限り、K君とJ君がともにのぞんだのは、自分を「男にしてくれる」ひとりよがりな「女の所有」への欲望でしかなかったと言うほかない。
セジウィックは女性嫌悪(ミソジニー)と同性愛嫌悪(ホモフォビア)とを、男性同士の連帯(ホモソーシャビリティー)を成り立たせるわかちがたい一組の契機とした。ホモソーシャルな集団の一員になる、すなわち自分が男であると他の男たちに認めてもらうためには、自分は「女ではない」ことを証明しなければならない。なぜなら欠性対立(privative opposition)によって成り立った「標準」としての男性性は、ただ有標化(marked)された「女性性」の欠如によってしか、定義されないからだ。男を男として認められるのは男であり、女ではない。
「女のようでない」ことを証明するには、女を所有することで女の支配者の位置に立つ必要がある。したがって、「女を所有(モノ)にする」ことで、男は「男になる」。この関係は非対称的なものであり、逆転してはならない。女をひとり支配下に置くことは「男である」ことの必須の条件であり、だからこそ、そのコントロールに失敗することは男の汚点となる。「女房ひとり言うことを聞かせられないで、なんの男ぞ」と、「女房の尻に敷かれる男」は軽蔑されるし、妻に姦通された男は、所有物の管理にしくじったばかりか「飼い犬に手を噛まれた」ことで「男の面目」を台無しにする。妻の裏切りよりも、同性集団への「男としての名誉」がかかっているからこそ、女仇(めがたき)討ちは果たされなければならない。
第2章で触れたようにミシェル・フーコー[Foucault 1979=1986]は、ホモフォビアの原因を、「貫く者」と「貫かれる者」とのあいだの性行為の非対称性に求めた。ペニスの有無という解剖学的な差異にもとづく即物的な非対称性をさすのではない。「能動」と「受動」という関係、すなわち性的主体となるか性的客体となるかという非対称性のもとで、「女性の位置を占める」ことの(男性にとっての)スティグマをさしたのだ。これを「女性化(feminization)と呼ぶ。したがって同性愛者の男は「女性化された男(feminized man)」の記号となる。しかも同性愛者の男がホモソーシャルな集団に混入していることは、その男の性的欲望によって対象化されること、言いかえれば「女性化」される危険をつねにはらむことになる。男が「男であること」から転落する危険は排除されなければならない。だからこそ、男性集団のあいだでホモフォビアは厳格なルールとなる。しかも、セジウィックが指摘し、キース・ヴィンセントらが強調するように[ヴィンセントほか1997]男の男に対するエロス的な欲望は、どの男性のうちにも潜在しているからこそ、この排除はいっそう徹底的でかつ自己検閲的なものでなければならない。ホモソーシャルな集団とは、同時にホモエロティックな集団でもあることは多くの論者によって指摘されてきた。男同士の関係を表すのに、どのくらい性愛の用語が使われてきた。「男心に男が惚れた」というように。『葉隠』にあるように、もともと「恋」とは、男性同士の恋闕の情をさすものにほかならなかった。
男が「女性化」される危険を冒さずに同性愛行為を実践する唯一の方法が「少年愛」である。ここでは年長者(念者)と年少者(稚児)のあいだに、「貫く者」と「貫かれる者」とのあいだの非対称性が固定される。これが逆転することはない、つまり少年はあくまで念者の欲望の客体であって、逆に念者が少年からまなざしをかえされることによって欲望の客体に転落することはない。古代ギリシャでは「少年愛」のなかでもっとも上位に挙げられるのが自由民の少年との性愛であり、下位に属すのが奴隷の少年との性愛であった。なぜなら奴隷との少年愛には強制がともなうが、自由民の少年との性愛には自由意思が介在していると見なされるからである。肛門性交が受動的な側にとって快楽であることを証言した表象は、古典的なポルノにもいちじるしく少ないことを考えれば、少年たちは快楽からではなく、尊敬と愛情から念者にみずからの身体を自発的に差し出すことになる。だからこそいずれ自由な市民となる少年から捧げられる性愛には、高い価値が与えられるのだ。
本書を読んできた読者なら、フーコーの紹介する古代ギリシャの「少年愛」の理想が、児童性虐待者のファンタジーに酷似していることに気がつくだろう。
「男である」というみずからの性的主体性を侵される危険を少しも感じることなしに、他者を性的にコントロールすること。そのために、もっともバリアの低い、無力で抵抗しない相手を選ぶこと。しかも相手がそれを望んでいると信じたがること。その被害者が女児であるか、男児であるかはもはやたいした違いではない。それが児童性虐待者である。
そうなればかれらの多くが、小心で脆弱な「男らしさ」のアイデンティティの所有者であることの理由が、よく見えてくる。かれらはそうしてミソジニーとホモフォビア――同じもののコインの両面だ――を実践しているのである。
ちなみにホモソーシャルな「男性紐帯」があるなら、その反対にホモソーシャルな「女性紐帯」もあると考える向きもあるようだが、ジェンダー非対称性のもとでは、ホモソーシャルな女性の共同性というものは成立しない。なぜならホモソーシャルな共同性とは、社会的な資源とりわけメンバーシップを付与する機能を持つものだからだ。女はこの資源を欠いており、女がメンバーシップを獲得するのは(これまでは)ただ男への帰属をつうじてのみだった。女のあいだにインフォーマルな集団はあるが、それを「ホモソーシャル」と呼ぶことには、まちがったメタファーの使用以上の意味はない。
だが、角田の『対岸の彼女』は、三〇代の女性同士の友情を、ミソジニーなしに描くことに成功している。子持ちのパート主婦、小夜子と、シングルの会社経営者、葵とのあいだにはほとんど何の共通点もないが、あるとき小夜子が、葵の会社のパートに雇われることから、ふたりのあいだに奇妙な友情が芽生える。高校生時代の回想から、葵が、ナナコとアオちんというふたりの女子高生の「心中」未遂事件の当事者のひとりだったことが暴露される。少女時代の傷つきやすい心を抱えたまま、独身を貫いて小さな会社の経営者になった葵にとって、やはりやわらかな魂を持った小夜子は、ただひとりの理解者となった。その女同士の絆は、小夜子にとってディスコミの夫との関係よりも強いくらいだ。傾きかけた会社を再建するために、孤独な葵に小夜子はありったけのエールを送る。
レズビアンでもないのに、女を愛する女、女であることを愛する女たちの、友情の物語だ。林が感慨を覚えるのも無理はない。
女と女のあいだに友情は成り立つか? イエス。角田はそうきっぱり答えたのだ。
皇太子浩宮が雅子さんを妻としたときに言ったと伝えられるせりふがある――「一生全力でお守りします」。このせりふに当時どれだけの日本の女がしびれたことだろう。もしあなたがこのせりふに「しびれた」女のひとりだったとしたら、あなたもまた「権力のエロス化」を身体化した女性だといってよいだろう。「守る」とは囲いに閉じ込めて一生支配する、という意味だ。その「囲い」が温室であろうが、獄舎であろうが同じことだ。そしてそのとおりの囚われ人の現実が、雅子妃を待っていた。しかも男が女を「守る」というとき、「守る」べき外敵とは、しばしば自分よりさらに力があるかもしれない他の男性をさす。「所有」の言い換えに過ぎない「守る」ということばが、「愛」の代名詞になることを「権力のエロス化」と呼ぶ。揶揄しているのではない。青年皇太子が、このことばを誠実な愛の表現として使ったことに偽りはないだろうが、男にとっての愛が、所有や支配の形式しかとり得ないことを、この概念は如実に示すのだ。
それを裏から保管するように、女にとっての愛が、従属や被所有の形式をとることもある。「あなたについていきます」や「一生わたしを離さないで」という表現はその象徴的な例である。そして女は「愛」を「身の回りの世話をかいがいしくやく」という、これまたきわめて近代家族的な「ケア」役割の形式でしか表現する回路を知らない。好きになったとたん、相手の下宿へ乗りこんで掃除や洗濯を始めたり、弁当を作って差し入れしたりする女のふるまいは、主婦が下層中産階級の不払い家事労働者に転落して以降の、歴史的現実を反映している。貴族やブルジョアの子弟なら、女が弁当をつくったとたん、下女にはふさわしいが妻にはふさわしくない、と思ったことだろうに。
エロスという不可視で不定形なものの文化的な表現の回路は、歴史的文脈に依存する。「権力のエロス化」という概念は一見おどろおどろしいが、上述のように日常的な関係にもあてはまる。
関係の様式もまた生活習慣だ。だが、長い年月のあいだに、生活習慣は変わるし、変えられる。
クスリをやめて健康なカラダの快楽を味わったらクスリの快楽なんて忘れられる、といくら聞かされても、ほんらいの「健康なカラダ」とはどういうものかを想像することができなければ、ドラッグ中毒者は、目の前にあるつかのまの快楽を手放そうとしないだろう。あるいは背骨がゆがんだまま不自然な姿勢で歩くことが身についてしまったら、それを矯正することに現在以上の痛みをともなうとしたら、ゆがみを治したいとは思わないに違いない。文化とは、身体と精神の強制的な鋳型のようなものだ。その鋳型を外されたら、コルセットなしでは歩けない患者のように、心身共にくずおれてしまうかもしれない。
だが、鋳型は鋳型である。変わっていくこともあるし、変えることもできる。生活習慣を変更することは容易ではないが、それが運命や宿命ではなく、「習慣」にすぎないことを知っておくのはよいことだろう。
ミソジニーとかホモフォビアを単一の概念で表現する用語が、「権力のエロス化」である。エロスと権力という異なるものを異なるままに切り離し、権力をそのもとの場所へ差し戻し、エロスをもっと多様なありかたで充満させること……はできないわけではなかろう。それはすでに始まっているのだから。
男にとっての異性愛秩序とは何か? それは男が性的主体であることを証明するための装置だ。異性愛の装置のもとでは、男と女とは対等な対にならない。男は性的欲望の主体、女は性的欲望の客体の位置を占め、この関係は男女のあいだで非対称である。異性愛秩序とは、男は同性の男を性的欲望の対象としてはならず、男でない者(つまり女)だけを性的欲望の対象としなければならない、という「命令」のことだ。裏返しに言えば、男によって性的欲望の対象となった者は、「男でない者=女」にされる。それが男であるときには、その者は女性化される、つまり「女のような男」とされる。ここでは「女」とは定義上、「男」の性的欲望の客体のことにほかならないからだ。したがって男の性的欲望を喚起しない女は、定義上「女でない」ことになる。
ホモソーシャルな集団とは、このように「性的主体」であることを承認しあった男性同士の集団をさす。女とはこの集団から排除された者たち、男に欲望され、帰属し、従属するためだけに存在する者たちに与えられた名称である。それなら、ホモソーシャルな集団のメンバーが、女を自分たちより劣等視するのは当然であろう。
女とは「男ではない者」に与えられた「徴(しるし)つき」の名称であり、それは男に与えられたありとあらゆる美徳や名誉から差別化して、カテゴリー化されなければならない。女とは、男とちがって「勇敢でない者」「たくましくない者」「指導力や決断力のない者」「怯懦な者」「つつましい者」「無力な者」、すなわち「主体たらざる者」に対して与えられた名称であり、これらすべての「女らしい」属性は、男の支配の対象にふさわしくつくりあげられた属性だと言ってよい。
だからこそ、異性愛秩序の核心に女ぎらい(ミソジニー)があることはふしぎではない。なぜなら自分は女ではない、というアイデンティティだけが、「男らしさ」を支えているからだ。そして女を性的客体としてみずからが性的主体であることを証明したときにはじめて、男は同性の集団から、男として認められる、すなわちホモソーシャルな集団の正式メンバーとしての参入を承認される。輪姦が性欲とは無関係な集団的な行為であり、男らしさの儀礼であることはよく知られている。
ジェンダーに権力の非対称性がともなうところでは、ホモソーシャルな男性の絆と、ホモソーシャルな女性の絆とは、たとえ存在したとしても同じではない。同性の集団に同一化することをつうじて得られる権力という資源の配分が圧倒的に違うからである。だれが劣位の集団にすすんで同一化することを望むだろうか。したがって女性にとってホモソーシャルとホモセクシャルとのあいだに連続性があったとしても、それは不利な選択、劣位であることに甘んじる選択となる。それよりも女にとっては、性的欲望の客体となることを引き受け、ホモソーシャルな男性の集団に帰属することをつうじて、たとえ間接的にであれ、権力という資源の配分を求めるほうがはるかに効率がいいだろう。女同士が男(に選ばれること)をめぐって潜在的な競合関係に置かれる限り、女同士のホモソーシャルな絆は、あったとしても脆弱なものとなるだろう。そしてこの機序は、女の嫉妬が、自分を裏切った男に対してではなく、同じ女に向かうことを説明する。
男にも自己嫌悪はある。そのとおりだろう。だがそれにも二種類の自己嫌悪がある。ひとつは自分が男であることへの。もうひとつは自分がじゅうぶんに男でないことへの。森岡の議論では、このふたつの自己嫌悪が区別されているとは言いがたい。このふたつの自己嫌悪は向かう方向がまったく逆だからだ。
男性学は、ジェンダーの呪縛に男もまた苦しんできたことを指摘するが、それは後者、男が「じゅうぶんに男でない」ことへの苦しみがなかっただろうか。性的弱者、非モテ、フリーター、ひきこもり等の「男性問題」は、ホモソーシャルな男性集団の規格からはずれることへの恐怖と苦痛をあらわしている。そう考えれば、規格をはずれた男が「居場所のない」思いを味わい、孤立へと向かうのも理解できる。ホモソーシャルな集団から排除された「男になれなかった男」には、連帯が不可能だからである。
もちろん女性にも同じように「規格」をはずれることへの恐怖や苦痛はある。やせ願望、不妊治療、「負け犬」恐怖など。だが彼女たちが首尾よくその恐怖を克服して「規格」に達したときに、自分がミソジニーの鋳型のなかにはまったことを知って愕然と「自己嫌悪」に陥るほかなかったのだ。そして「規格」外の女たちが、その自己嫌悪と格闘しながら連帯したのが、フェミニズムだった。なぜなら自己嫌悪の普遍性を彼女たちが知っていたからだ。