上野千鶴子のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
アウトプットの方法をきちんと学んだ事がなかったので、タイトルに惹かれて手に取った。
文系の研究や論文を舐めていた部分もあったが、反省。目から鱗だった。論理の整合性や概念の定義、自分の考え・他人の考えの差別化、問いへの答えになっているか等々、、上野ゼミは大変そうだが、こんなに鍛えられて羨ましい、とも思った。こんなに自分の知識を惜しみなく与え、全力で育てようとしてくれる教育者にはなかなか出会えない。
この本を読んで印象に残ったのは、「問い」を立てること、批判的検討、情報の分析。
・問いを立てる
情報はノイズから生まれる。当たり前のことも、知らないことも、ノイズにはならない。当たり前を当たり前にしない。知識をつけ、知らないことを減らす。常に異なる環境に身を置き、違和感、疑問を感じよう。問いが生まれたら、先行研究を検討し、既存の問いではないかを調べること。
・批判的検討
筆者の論説には説得されてしまいがち。常に批判的に読もう。内在的コメント→論理の不一貫性、構成、説得力など、外在的コメント→欠けているもの、致命的なもの、あったほうが良い視点など
・情報の分析
質的データの分析はKJ法で。脱文脈化→文脈化。言説を同じor違うで分け、ラベリング、矢印で物語化、接続詞をつけて構成する。
今後研究して論文を書く機会はないかもしれないが、業務での問題抽出、解決において応用できるのでは?
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Posted by ブクログ
情報はノイズから生まれる。
ノイズとは違和感、こだわり、疑問、ひっかかりなど。
当たり前を当たり前だと思うところにノイズつまり情報は生まれない。
情報には2種類ある。一次情報と二次情報。
一次情報は自分が経験したことや目と手で手に入れた情報のこと。
二次情報とは誰かの手を介して得られた情報のこと。つまりこの感想文も二次情報(セコハン)(second hand dataの略)である。
情報生産者になるには一次情報を発信しなくてはならない。つまり、論文において先行研究を、つぎはぎしてセコハンの絵画を描いてもそれは情報生産には値しない。論文に求められるのは一次情報。よって、論文はデータを集め、検討して、そこから何が見出せるのかを発信しなくてはならない。
その際に必要になる調査法などの記載があった。
大学の卒論を書く前などに読みたい本である。 -
Posted by ブクログ
敬愛する恩師の珠玉の名著。思い入れが強すぎて客観的なレビューができない。上野千鶴子は講義と著書の落差が小さく、文章を読むだけで語り口が思い出される。「フェミニズムは弱いものが弱いままで生きるための思想」であるならば、私はその思想とともに生涯を終えよう。
上野ゼミ卒業後10年がたち、30代を迎えた今、増補版を再読して思うのは、’受け継ぐもの’としての自分の責任。さぁ、バトンをうけとった私は、これから何をしようかな?
本書の内容とは関係ないが、’問を洗練させろ、まずはそれからだ’という自分の思考習慣は、外コン出身著者のビジネス本を読むまでもなく、上野ゼミにおける袋叩きを通じて養われたのを思い出した。私のこの、猛烈に私的なレビューに興味を持たれた奇特な方は、遙洋子さんの「東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ」をよまれたし。 -
Posted by ブクログ
研究のしかたをきわめて具体的にノウハウ開示してくれている本。すみっコぐらしの中高年でももしかしたら今からでも情報を生産できる人間になれるんじゃないかと、目がひらかれる思い。
ちゃんと勉強してこなかった自分にとってとてもためになった。
P009 もはや勉強ではなく学問(学んで問う)ことが必要です。つまり正解のある問いではなく、まだ答えのない問いを立て、自らその問いに答えなければなりません。それが研究(問いを極める)というものです。
P016 情報とは、システムとシステムの境界に生まれます。複数のシステムに股をかけたり、システムの周辺に位置したりすることは、情報生産性を高めます。
P022 その分野で何が問われてきてどこまでが明らかにされているかというreview essayは研究の前段階にすぎません。
P023 情報が相手に伝わらない責任は、もっぱら情報生産者にあります。もし誤解を生むとしたら、その責任も専ら情報生産者にあります。その点で研究という情報生産の特徴は、詩や文学のような多義性を許さない、という点にあります。
P025 わたしは学問を、伝達可能な知の共有材と定義しています【中略】わたしは研究者を、アーチストよりはアルチザンだと考えています。
P037 情報生産者が立てる問いは、第一に答えの出る問いです。(×「人生に生きる意味はあるか?」〇「どんな時に人は生きる意味を感じるか?」)
P065 批判はいつでも、後から来た者(late comer)の特権だからです。
P077 「キミの研究の仮説は?」と聞かれてうまく答えられなかったら「仮説生成型です」と答えればよいのです。
P093 時代区分を60年代、70年代、80年代というように十進法で区分するのは最低です。時代区分には画期となるepoch-making指標indexを用います。
P102 問題が問題になるのは、現状に満足できない誰かが、それを問題と言い立てるからにほかなりません。ですから問題には必ず「宛先addresse」があります。
P124 「孤独死」に先立つ「孤立生」は家族のいないシングル男性問題とも言えますが、他人と交わらない、助けを求めないのは彼らの選択でもあるので、当事者が問題とみなさないことに「解決」が必要かどうかはわかりません。そうなれば、「孤独死」はますます「死ぬ側」の問題ではなく、迷惑をかけられる周囲、すなわち死なれる側の問題だ、ということになるでしょう。
P138 参与観察とは、その場に入り込んで同じような経験をしながら、観察の結果得られたデータをもとに記述する方法を言います。
P149 研究の時間とエネルギーの配分から言えば、研究計画書からデータ・コレクションまでがほぼ半分、残りの半分は分析と論文執筆に充てる、つまり情報のインプットに1/2、アウトプットに1/2くらいのつもりでいたほうがよいでしょう。
P136 言語情報には、1)語(Word)2)言説(discourse)3)物語(narative)の3つの次元があります。【中略】言語情報とは言説の集合、それを文脈化して物語を紡ぐのが「論文を書くということだといってもかまいません。なぜなら論文とは言語作品だからです。
P170 のちに脱文脈化するために、情報をユニットに分解すること。これを情報ユニットの生産と言います。【中略】1時間半から2時間の面接調査で生産される情報ユニット数は100から150、話が弾んで情報量が多いなと思っても200が限度です。
P193 およそ100から150ユニットの情報処理の結果、得られるグループ数の経験則はなぜだか20から30内に収まります。おそらくそれが、目と手で情報処理する人間の身体的限界なのかもしれません。
経験則とは面白いもので、なぜそうなるかはよくわからないが、何度やっても結果的にそうなる、という傾向のことを言います。社会学にはインフォーマルグループについての小集団研究がありますが、なぜだかその最大サイズは15人、それを越すと集団は二つに分解する傾向がある、とわかっています。
P240 研究のアウトプットとは、根拠に基づいて発見を示すことですから、基本は結論先取り、AはBである、なぜならば・・という書き方をします。【中略】論文のコミュニケーション技術とは説得の技術であって、共感の技術ではありません。
P287 「しろうとにわからないことは、くろうとにもわからない」説明不足や論理の飛躍、過度な一般化などは、どんな読者にも見抜けます。
P291 内在的コメントと外在的コメントとを区別するのが役に立ちます。【中略】外在的コメントには「あれがない」「これが触れられていない」というものがありますが、いちいちまともに取り合う必要はありません。「あれがない」とは、翻訳すれば「オレの知りたいことが書かれていない」と同義のことが多く、それってあなたの問いでしょ、あなたの問いに私が答える責任はない、と言い放てばそれでよい。裏返しに言えば、コメンテーターとは、まず論者の立てた問いを共有したうえで、その問いの射程の中で、よりよい答えを出すお手伝いをする役割です。
P297 コメントは、コメントする側と受ける側、両方に立つことが大事です。
P300 ディフェンス力とは、自分の主張を通すためのスキルです。適切なコメントならありがたく採用したらよいし、そうでなければ反論し、場合によっては突っぱねる・・当たり前のことです。これもまた場数を踏むことによって培われる能力です。
P361 読者には正統な読者と非正統な読者とがいます。正統な読者とは、その人に充てて読んでもらいたいストライクゾーンど真ん中の読者。非正統な読者とは、直接宛先にしたわけではないがたまたま立ち聞きした読者のことです。正統な読者がどんなに少数派でも、読者の宛先が鮮明に見えているほど、非正統な読者もまた「立ち聞き」から心を動かされる・・書物とはそういうものです。
P368 無能なあなたもプロデューサーになれます。有能な誰かを使う能力さえあれば。但し自分がほしいまだ見ぬものが何か、がわかっている必要があります。いわば夢を見る能力、それだけでなく夢を形にする能力と言ってもよいでしょうか。
P370 最後にプロデューサーになることを追加したのは、情報生産者は、同時に自分自身のプロデューサーでもなければならないからです。
P371 「まだ見ぬもの」とは、もともとその人の中に存在しています。それにかたちを与えてこの世に引き出すのが、教育者の役目です。 -
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最近読んだ本のなかでいちばんグサっときた…!
男女雇用機会均等法って手放しでいいものだと思ってた。というふうに高校生の時から授業でも教えられてきた気がする。
でも。。。均等法の盲点は、「平等」ではなく「機会均等」ということ。そしてそれは「正社員についてのみ」定められていること・・・同年に成立した労働者派遣事業法と両輪となって、使用者に都合のいいような設計にされた。
つまり、この後は使用者にとって女性労働者は「機会を用意するから」男並みに働ける女性か、一般職正社員に代わってすぐ首の切れる非正規雇用かの2種類となってしまったこと。
そしてそれが女女格差を生み女性間での連帯を止めてしまうという…(怖
思うところはいっぱいあったけど、
第4章 電子書籍p.1527/4604
「もし日本社会がほんとうに少子化対策を求めているなら…子産み時の年齢の女性たちに、安定した正規雇用を与えることが最大の処方箋だと。そしてその働き方はワーク・ライフ・バランスがとれるようなゆとりのあるものでなければなりません。」
→ほんとそれ。そしてそういう「現実的な」キャリア教育を、遅くとも中学生から開始することが本当に必要。
社会に出てから、働き始めてしばらくしてから気づく人が多すぎる。
→でもこれは「難しい」。そもそも正社員というパイが少なくなってきてるため。
→なので個人でできることとしては「一人ダイバーシティ」。収入はシングルよりダブル、ダブルよりトリプル。つまりホリエモンのような生き方(「少なくとも3つの肩書きを持て」)だね。
私は未来の子供たちに対して何ができるだろうと思う。
自分が良ければいい、じゃなくて、後輩の女性たちにも、企業にも、日本社会にもためになるような「場」が作れないかと思う。 -
Posted by ブクログ
これからはすべての人がコンテンツの発信者になる時代が来る、となんとなくの確信を感じていたので書名にはげしく反応して即、読みました。しかし、中身はソーシャル時代のCGMみたいな話じゃなくて、しっかりとした研究論文の書き方、いや研究への取り組み方についての熱血指導なのでありました。上野千鶴子による東大大学院上野ゼミの18年間がぎっしり詰まっています。自らが自分の問題意識というか「怒り」をエネルギーに日本に「女性学」という学問分野を切り拓いて来たように、ゼミの学生にも自分事として問いの立てることを叱咤激励し、彼女が40年もの研究生活で掴んできたノウハウを惜しげもなく公開しています。そのベースは川喜田二郎のKJ法。それを、使いこなしながらさらに、うえの式質的分析法に進化させていて、彼女の学問的出自が京都学派であることを再認識しました。例えば、自分が一瞬で惹かれた書名「情報生産者になる」が梅棹忠夫の「知的生産の技術」への著者なりのアンサーなのだと知り、学問は「川の流れのように」なのだと思いました。上野流「学問のすゝめ」は、世のため人のための学問の手前に、自分のための学問を提示してくれています。ついつい自分はどんな問いを立てるんだろうと考えてしまう本です。研究者は特別の人だ、という時代が終わり、日本が一億の情報生産者に国になる、という妄想も抱きました。
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Posted by ブクログ
生涯学習論を学んだ人間にとって、イリッチの「学校化社会」、ブルデューの「階級の再生産」、そして「ヒドゥンカリキュラム」など、本書で取り上げられる数々の生涯教育哲学とも呼べる言説たちは耳障りがよい。
それに加え、上野先生の現場から得た知見、研究から培ってきた独自の考え方が織り成され、本書は教育学関連でも類を見ないバイブルとなったことは言うまでもない。
奇しくも本書が刊行されたのは2002年4月1日であり、私自身が大学に入学した日ではないか。しかし、何故か本書を学生時代一度も読むことはなかった(研究室にもあったのに)。理由は定かではないが、大学卒業から10年が経とうとする今のタイミングで読めたことは何か因果なことなのかもしれない。
思うに、結局のところ、今の社会は「学校化社会」から一向に抜け出す気配すらない。みんなやっぱり学歴、偏差値で序列化されることが好きなんだろう。
あと、本書の内容からは直接的には関係ないのだが、気づいたことがある。
昨今よく感じることは一人ひとりの嗜好や興味があまりにも多様化かつ複雑化しているということ。たぶん本書が刊行された10年以上前よりもそれは顕著になっている。
本書に書いてあったことだが、人はあまりにも異質度の高いものであれば認知的不協和を起こすという。しかし、本来であれば異質度が高く、認知的不協和を引き起こすものであっても、ジャンルの細分化が起きている現代社会においては、それを理解するように振舞うことが一種の作法になっているのではないかと。つまりは細分化され本来ならその道のプロにしかわからないようなこと、特にアートや音楽など様々な分野の中で、人はそれをわかったような気分になっているだけではないだろうか。
これも暗黙のうちに人は予定調和的な同調システムに知らず知らずに組み込まれているようでならない。自分ではオリジナリティ、独自性の追求、ライフスタイルの充実と思っていたとしても。