上野千鶴子のレビュー一覧

  • フェミニズムがひらいた道

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    系譜が簡潔に整理されていて、全体像を掴むのに助かった。

    以下についてはもう少し、他の本読んで理解深めたい
    ・フェミニズムへのバックラッシュ
    ・日本でのフェミニズムの現在地

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    2026年08月05日
  • おひとりさまの最期

    匿名

    購入済み

    うちは3姉妹弟(きょうだい)、結局誰も結婚せず、子供(甥姪)もいないので、
    両親を見送ったら、将来的にどうしたもんだろう、と、最近はどうしても思うので、
    手に取ってみた。
    家族至上主義とは真逆のご意見で、小気味よかった。

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    2026年08月01日
  • アンチ・アンチエイジングの思想――ボーヴォワール『老い』を読む

    Posted by ブクログ

    とても興味深く読んだ。
    p265 名郷医師は「上り坂のケア」と「下り坂のケア」を比較する。
    「乳児に意識があるとして、おむつ替えに罪悪感を抱くことがあるだろうか。あるいは、おむつを交換してもらっている乳児を見て、乳児が罪悪感を持つべきだと考える大人がいるだろうか。」
    この想像力にまず驚く。そして乳児のケアを「上り坂のケア」、高齢者のケアを「下り坂のケア」と区別して、「上り坂のケア」に罪悪感がなく、「下り坂のケア」に罪悪感があるとしたら、それはケアに対する罪悪感ではなく、下ることに対する罪悪感だと考えるのが妥当だろう」と指摘する。
    「しかし、このくだりは万人にとって共通のものである。老いることは下ることである。すべての人に共通する下りに、罪悪感を抱く必要はない。みんな無用の罪悪感を抱かされているのだ。」
    「なぜこのような無用の罪悪感を抱くことになる」かの理由は、「年老いても健康でなくてはならない、自立していなければならないという社会の圧力がある」からだと名郷医師はいう。「自己決定できない者は生存する価値がないという優勢思想」もこれを後押しする。したがって「自立」へと成長しない、できない、障がいを持った子供たちへのケアも、社会から迷惑がられる。

    ほんとそうだなと。
    誰だって老いるのにね。とはもちろん思う。思うけれど、乳児には未来(死ぬまでの長い時間)があって、何よりもピカピカで可愛い。そこが老い先短く古びた身体の下り坂のケアとはどうしたって違うところなのだよね。難しい。

    わたしがはっとしたのは次の部分。
    p268「大井医師は認知症高齢者を「精神疾患を持つ患者」とか「理解不可能な訳のわからない精神状態にある病者」と見なすのではなく、「老化に伴う認知と生活障害」を持つ「普通の人」と解釈することを提唱する。したがって認知症高齢者に必要なのは、治療ではなく「その人の認知能力と身体能力に応じた適切なケア、すなわち生活支援」であるとする。それによって、このひとびとも最期までひとりの「生活者」として過ごすことが可能になる。わたしたちに必要なのは、「認知症を治療する社会」ではなく、「認知症と共に暮らせる社会」なのである。」

    2,3年前だったかな、親しい友人だと思っていた人と会って話していて、わたしが認知症の母のことを「精神疾患のある人が家族にいると大変よね」と言ったとき、「精神疾患に対して偏見があるわけじゃないけど、お母さんに対してそういう言い方はないと思うよ」とかなり強い調子で言って、わたしは驚いてしまった。
    えええ…と思って、当時わたしは本当に大変な思いをしていて彼女も同じく認知症母がいて、わかりあえると思って何気なく発しただけだった。彼女は立腹し、その後少し口論のような感じになり(それまでもちろん喧嘩などしたことなかった)、わたしは悲しくて悔しくて泣きながら家路につき、以来ぱったり、メールをしても返事が返ってこなくなった。何がどんなに彼女を怒らせたのかと以来ずっと考えてきたけど、ここに答えのようなものを見つけた。

    彼女はきっと、認知症の母親を、精神疾患ではなく「老化に伴う認知と生活障害」を持つ「普通の人」として見るべきだと強く思っていたに違いない。そこにわたしの上記発言。我慢ならなかったのだろう。連絡を絶つほどに…
    それがわかっただけでも読んだ甲斐のある本だった。

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    2026年07月12日
  • 上野さん、主婦の私の当事者研究につきあってください

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    森田さんに近い価値観を持ってる。自分の価値観によって生きづらくなっていると言える。そこを上野さんは優しく返してくれる。一気読みでした。森田さんの活動が気になるけどYouTube検索してもわからない。上野さんの他の本も読んでみよう。

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    2026年06月07日
  • 家父長制と資本制 マルクス主義フェミニズムの地平

    Posted by ブクログ

    なんとなく批判的に使っている「家父長制」「資本制」という言葉を一度しっかり勉強してみたいと思って読む。かなり難しい箇所もあったが、考えさせられる箇所もいくつもあり、結果的に読んでよかったと思える読書だった。

    以下、特に印象に残った部分。
    ・家庭外労働というものは、労働時間も定まらない、際限なくおそいかかる家事労働からの防衛手段としてある
    ・家事労働サーヴィスを自分の賃金より安いコストで買うことのできる女たちは労働者化し、自分の労働賃金が家事労働購入価格と同等かそれ以下の女たちは家庭にとどまるだろう。
    それより経済階層の低い「働かざるをえない」女たちは、家事労働者なみの賃金で、自分じしんの家庭の家事労働負担をかかえたその上に賃労働にも従事するだろう。
    ・いずれにしても、家事労働があらゆる労働の中でもっとも低く位置づけられている事実は変わらない。市場が家事労働の価格を最低限におさえる限り、女たちは家事労働をより劣悪な条件の下におかれた労働者に代行させて、自らの労働力を売りに市場へ出ていくことだろう。
    ・進行しているのは、労働市場全域におけるグローバルな家父長制の再編である。かつて女が家庭で行っていたことを、今は女性や高齢者や移民が周辺労働として行う。家事労働の外部化や福祉労働の現場で、すでにその事態はすすんでいる。ここでは、性に加えて、年齢、階級、人種、国籍のような経済外の変数が、新たな政治的な差異として「辺境」をつくり出しつつある。国民国家という利益共同体のメンバーであり、階級集団の成員でもある女性は、いまや、多国籍化した資本制の受益者にして加害者でもある。
    ・ありとあらゆる変数を問わず、労働の編成に内在する格差の問題が残るーそれは、なぜ人間の生命を産み育て、その死をみとるという労働(再生産労働)が、その他のすべての労働の下位におかれるのか、という根源的な問題である。

    家事や育児、介護といった仕事は、明らかに大変で価値ある仕事なのに、なぜその他の仕事をする方が優れているとされるのだろう、というのはわたしも思っていた問題だった。
    今この本が書かれた当時より女性の社会進出が進んでいるとしても、結局誰もやりたくない家事や福祉を弱い立場の女性や移民になすりつけているようでは、根本的な差別の解決にはなっていない。
    再生産労働を見直し、評価する動きが必要になってくるのではないだろうか。さもなくば「市場」をダウンサイズするほかない。
    そして私が生まれる前からこの問題を提示していた上野先生はすごい。今はもう少し疑問を解き明かしているのだろうか。最近の上野先生の著作も読んでみたい。

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    2026年05月21日
  • 情報生産者になる

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    人に勧められて読んだ。すごく面白かった。

    自分は美術系の大学を卒業したので、アカデミックな研究や論文を書くという行為から遠いところにいたが、最近デザインの裾野も広がってきていて、論文フォーマットでプロジェクトの成果発表をすることも増えてきていた。

    きちんとした学びを経ていなかったので、色々と苦労していたが、どうやって情報を生み出していくのか、その方法論や態度、心構えなどが、網羅的にわかりやすく説明されていて、非常に良かった。現役の大学生の方など、この本を手に取って実践に使えるの、うらやましい!

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    2026年04月25日
  • 家父長制と資本制 マルクス主義フェミニズムの地平

    Posted by ブクログ

    ネタバレ

     ラディカル・フェミニストは「市場」の外部に、「家族」という社会領域を発見した。
    「市場」が社会の全域をおおっているという前提は誤りで、「市場」には限界とその<外部>が存在することが明らかになる。「市場」の限界は、同時に市場についての理論であったマルクス主義理論の限界でもある。マルクス主義者の誤りは、「市場」の支配が社会全域的に及ぶと考えたところにあった。
     ラディカル・フェミニズムが、六〇年代末の対抗文化運動counterculture movementsの中から生まれてきたという事実は、示唆に富んでいる。「市場」の限界は同時に「近代」の限界でもあった。近代批判として登場した対抗文化運動は「市場」の外側にあるものを次々に明らかにすることで「市場」の行き詰まりを告発していった。
     彼らが「市場」の外部に発見した二つの領域とは「自然」と「家族」であった。「市場」は閉鎖系ではなくその実、開放系だったにもかかわらず、たとえば近代経済学は、「市場」内部を閉鎖系としてその中の交換ゲームを扱うというやり方をとってきた。だが、システムには必ずそれに関与する外部「環境」がある。「市場」というシステムもまた「自然」「家族」という二つの「環境」から、ヒトとモノとをそれぞれインプット・アウトプットしていたのである。「自然」という環境からは、「市場」はエネルギーと資源をインプットし、代わりに産業廃棄物をアウトプットする。この「自然(という)環境」は、ブラックボックスのように見えない存在だった。長い間「自然環境」にとってはエネルギー・資源も無尽蔵なら、汚水やガスのような廃棄物の環境自浄力も無限と思われてきた。
     だが、六〇年代高度成長期を通じての日本の産業化の完成は、環境から市場へのインプットにもアウトプットにも、限界があることをあらわにした。インプットの側では、資源・エネルギー危機が七三年のオイルショックとなって成長の夢を壊したし、アウトプットの側では、水俣病の悪夢が、産業廃棄物公害の恐ろしさを通じて自然の自浄力の限界を私たちに示した。
     フェミニストが「市場」の外側に発見した「家族」という環境も、「自然」と驚くべき類似性を持っている。「自然」と「市場」との関係および「家族」と「市場」との関係の間には、論理的なパラレリズムがある。「家族」は第一に、性という「人間の自然」にもとづいている。「家族」という領域から「市場」は、ヒトという資源を労働力としてインプットし、逆に労働力として使い物にならなくなった老人、病人、障害者を「産業廃棄物」としてアウトプットする。ヒトが、「市場」にとっての労働力資源としか見なされないところでは、「市場」にとって意味のあるヒトとは、健康で一人前の成人男子のことだけとなる。成人男子が産業軍事型社会の「現役兵」だとしたら、社会の他のメンバー、たとえば子供はその「予備軍」だし、「老人」は「退役兵」、病人や障害者は「廃兵」である。そして女は、これら「ヒトでないヒト」たちを世話する補佐役、二流紙民として、彼らと共に「市場」の外、「家族」という領域に置き去りにされる。健康な成人男子だけを「人間man」見なす近代思想のもとでは、その実、子供は「人間以前」の存在だったのだし、他方で老人は「人間以後」の存在、女性は「人間以外」の存在なのである。近代主義的な「人間」の概念は、必然的に「人間ではない」人々を生み出し排除することによって成り立っていた。
     しかし六〇年代末から七〇年代にかけて噴出してきた「家族」問題は、この家族が、インプットの側ではヒトという資源の供給源として無償でかつ自動的に働くわけではなく、またアウトプットの側では「廃棄物」となったヒトを受け容れるキャパシティが無尽蔵だというわけでもない、という事実を示した。女たちは、「家族」という「市場」の外部を支えるコストが、もっぱら女たちの方にのみかかっている重圧に対して、悲鳴を上げ、抗議をしたのである。

     解放の理論を欠いた解放の思想は、啓蒙もしくは運動論に帰着するほかない。女性解放運動家にとっては、この世の中は「性差別」という「社会的不公正」がはびこる野蛮な社会であり、この「不正義」を許しているのは「男性の横暴」と「女性の蒙昧」だということになる。「すすんだ理想」と「おくれた現実」――これが近代主義フェミニストがしばしば陥る「フェミニスト進歩史観」である。そして「すすんだ理想」と「おくれた現実」のあいだを埋めるのは、「啓蒙」という名の、徒労に似た「シジフォスの労働」だけになる。
     フェミニスト啓蒙主義にとって、問題になるのは人々のおくれた意識だけである。「おくれた意識」を変えるのは、啓蒙の力である。啓蒙と教育によっても変わらない頑迷固陋な人々に対しては、パワーポリティクスしかない――つまり運動の力で政治の場において彼らを少数派に転落させることである。
     啓蒙主義者にとって真理はつねに単純である。「男女平等」というこの単純な心理を受け容れることのできない人々は、啓蒙主義者の眼には、まったくの「不可解」と映る。この「度しがたい人々」は、心理の力で救済することができなければ、力の論理で封じるほかはない――この考え方は、強姦に反対するあまり、治安警察国家を招きよせてしまいかねない女性運動の背理に通じている。フェミニスト啓蒙主義者の陥っているワナは、「男女平等」というこの「単純な論理」に、なぜこの社会が到達しないか、についての構造的な分析を欠いていることにある。その上で啓蒙家でありつづけるためには、疲れを知らない精神の持ち主である必要がある。

    「愛」と「母性」が、それに象徴的な価値を与えて祭り上げることを通じて、女性の労働を搾取してきたイデオロギー装置であることは、フェミニストによる「母性とイデオロギー」批判の中で次々に明らかにされてきた[Badinter 1980,服部 1986]。「愛」とは夫の目的を自分の目的として女性が自分のエネルギーを動員するための、「母性」とは子供の成長を自分の幸福とみなして献身と自己犠牲を女性に慫慂することを通じて女性が自分自身に対してはより控えめな要求しかしないようにするための、イデオロギー的装置であった。女性が「愛」に高い価値を置く限り、女性の労働は「家族の理解」や「夫のねぎらい」よって容易に報われる。女性は「愛」を供給する専門家なのであり、この関係は一方的なものである。女の領分とされる「配慮」や「世話」が「愛という名の労働 a labor of love」に他ならないことを、アメリカの社会学者フィンチとグローヴズは的確に指摘している[Finch & Groves 1983]。
     女性が家の中で行っている活動がどんなイデオロギー的粉飾によって表現されているにせよ、女性は彼女がそれをやらないならば誰かによって代行されるほかないような「労働」をたしかに行なっている。主婦はただ、それを「愛」の名のもとに行っているのである。

     家族を支配-被支配を含む再生産関係とみなして分析対象とするむずかしさは、家族が分析にとって一種のブラックボックスであり、かつ歴史貫通的に「自然」なものと見なされてきたことにある。とりわけ近代産業社会が、家族を公的で競争的な社会からの避難所、慰めと平安を供給する最後の私的な砦と見なして「近代家族」を構築して以来、家族は打算や功利の入り込まない無私の共同体――その中では成員の誰もが苦楽を分かちあう、真に平等で超個人的な単位――と考えられてきた。だから、フェミニストの分析がこの「聖域」に及んだ時、そしてこの見かけの「共同性」のもとに歴然として抑圧と支配があることを暴露した時、多くの人々は、男も女も、自分たちの信じていた神話が壊れたことにうろたえて逆にフェミニズムを功利主義や経済主義の名のもとに攻撃するに至ったのである。
     事実、「家族」というブラックボックスにフェミニストの分析が及んで、性と年齢による支配を明らかにした時、多くの人々はそれに拒絶的な反応を示した。彼らはフェミニストが資本制下に残された最後のわずかな共同性の聖域を解体して、バラバラの個人に還元するのではないかとおそれた。
    だが、家族の中にはっきりとした男性支配や、あからさまに経済的搾取があることを指摘することが、どうしてそれ自体功利主義や経済主義になるだろうか。
     愛の共同性の神話は、性支配の現実によって、とっくにくつがえされてしまっている。人々はただそれを認めたがらないだけである。たしかにフェミニストの家族分析は、家族を「一枚岩の構造 monolithic structure[Macleod & Saraga 1987:13]と見るのをやめた時に、はじめて可能になった。それどころか、いったん「愛の共同体」の神話から離れてみれば、この私的な「聖域」の中でどのような暴力と抑圧が行使されているかが、いよいよ明らかになる。

     一般に子供数は、子供が将来親にもたらす経済価値(プロフィット)と、子供を育てあげるのにかかる費用(コスト)とのバランスで決まる、という前提からフォルバーは出発する。もちろんこれは、「無私の献身」を子供に捧げているはずのおおかたの親の感情を逆なでするような、経済還元主義である。しかしデルフィも言うように、「そこに現に経済的要因がることを無視して、経済基盤について語ることをすべて経済主義と非難する[Delphy 1980]のは当たらない。いましばらく、「不愉快」を我慢してフォルバーの議論をフォローしてみよう。
     子供の成長に時間がかからず、かつ子供が経済価値を持っているところでは、家父長制は「大家族」に価値を見出す。だが、義務教育と工場法が子供を労働の場から追い出して以来、子供の経済価値は減少する一方であり、その上母親にとっては子供は家事労働や子育ての手助けにもならない無益な「穀つぶし」になり下がる。他方、社会化の期間と教育の費用は増大するが、これは最終的には、より高度に産業化した社会の中で、より高い収益を上げる質のよい労働者としての成人した子供に対する将来の期待を高める。教育は、今日では「富の世代間移転」の主要な形態である。
      物理的な財の移転は、子供の教育に対する「投資」のかたちをとった「人的資本 human capital]の移転に比べて、はるかに重要性を失った。[Folbre 1983:274]
     フォルバーは、世帯の収入が上昇するにつれて、それとは「ふつりあい」に教育支出が急上昇することを指摘する。こうして両親は、自分よりも学歴の高い子供の成人としてのちの将来の経済的貢献に、より大きな期待をかける。
     産業化によって「小さな子供」および「未婚の同居子」の経済的貢献が低くなった代わり、「成人した子供」の経済的価値は、くらべものにならないほど高まった、とフォルバーは指摘する。とくに、老後が延長した親にとっては、自分の老後に対する「成人した子供」の経済的貢献が、大きな期待値を持つ。したがって、家父長制にとって、子供がもたらすコストとベネフィットのバランスは、
    (1)生涯にわたって子供が両親に貢献する程度
    (2)子供を育てるのにかかる費用の、家族の中における夫と妻の不均等な分配
     によって決まる。(1)は「世代間の不平等 generational inequality」に、(2)は「両性間の不平等 gender inequality」につながる。その両者をつうじて「年長の・男性が、利益を得る」[Folbre 1983:278]のが家父長制のしくみである。ここには二つの問題――(1)誰が利益を得るか、と(2)誰がコストを支払うか――が含まれている。

     ブルジョア家族の理想形が貴族的な家庭生活に置かれたことには、いくつかの根拠がある。第一に、アンシャンレジーム期のブルジョアジーには、貴族に反発しながらその生活様式に憧れる階層上昇願望があった。女性にとっても「家に居る妻」になることは――たとえ召使いを失って家事労働の一切を自分の手でしなければならないハメになっても――「階層上昇願望」と根強く結びついている。第二に、生産の場から隔離された「家内領域domestic sphere」の成立は、女性からも歓迎された。女性は「女部屋」のあるじとなり、「家内領域」に君臨した[Cott 1977]。のちにそれが「幽閉」と呼ばれるようになったとしても、それは家父長制支配下の生産労働のうちに向きだされて、直接に労働の搾取を受けるような状態よりは、はるかに「女性の地位向上」として歓迎されたのである。こうして女性は、公的世界からの避難所である私生活の中で、保護された子どもとともに「女・子どもの世界」を作り上げる。「母性愛」「子どもの時代」など私たちに親しい概念が、「家庭性」の概念同様、ほぼこの時期に形成されたことを、アリエス[Aries 1960]やバダンテール[Badinter 1980]らは証言する。
     第三に、女性の生産労働からの隔離を通じて、家族かかつてないほど性的な存在になったということが挙げられる。ミシェル・フーコーは『性の歴史』[Foucault 1976=1986]の中で、近代的な性道徳は「家族」の中に<性>を押しこめたと指摘するが、その裏面は、「家族」が歴史上かつてないほど<性化 sexualize>されたことでもあった。近代家族のもとでは、人々は性交し生殖するために家族をつくる。家族の<性>的な側面への一元化は、結婚に際しておおいようもなくあらわになる。結婚する男女に向かって周囲が聞く最初の家庭生活への「抱負」は「子どもは何人つくりますか」というものだが、このあからさまに<性>的な質問に対して、新郎新婦は頬を赤らめる。しかし<性化>された家族にとって、それ以外の目的はほんらいありえない。家族が同時に生業の基盤でもある前近代家族であったならこうはならないだろう。若夫婦は結婚生活の「抱負」を聞かれて、「先祖代々受け継いでいた家業を発展させ、子々孫々に盤石のいしずえを築きます」と胸を張って答えるかもしれない。家族の<性化>を通じて、女性が「再生産者」に限局されたこと――その裏側に男性が「生産者」に限局されたことがともなう――が、近代家族を、他のすべての前近代的な家族から区別する。
     この近代家族を、ほんらい成立ちえない自給自足的な田園生活の基盤の上に描いてみせたのはルソーだけではない。十八~十九世紀の「家庭小説 family roman」は、つねに都会に対する嫌悪と自然への賛美と結びついている。また同じ時期に多く描かれた「家族の肖像」はどれも田園風景を背景としていた。十八~十九世紀の「家族」の理想化は、迫りくる工業化の波を受けて進行しつつあった「家族の危機」の産物であった。現代同様、近代の形成期にも、「家族の解体」の危機は叫ばれていた。だが「解体」したのはせいぜい「前近代家族」にすぎない。家族はその「解体」をつうじて「近代家族」へと「再編」されたのである[落合 1989、上野 1985]。

     ブルジョア的な近代家族の理念が前近代的な家族=経営体を解体する以前に工業化が急速に進行してしまったところでは、家族=経営体の理念はただ「ハタケを変えて」実現される傾向がある。もっとやさしく言いかえると、おくれて工業化したところほど、女性の職場進出は容易だという逆説が生じる。日本でも都市部より農村部の方が、女性の就業率は一般に高いし、女性の就労に対する抵抗も少ない。「家族労働団」の伝統が強く残っているところほど、女も子どもも、働ける者は誰でも、就労の機会さえあれば労働に従事することは「あたりまえ」と見なされている。鶴見良行氏はアジアを旅して、子どもも女の年寄りも果ては家長さえも、自分一人を支えるに足りないわずかな年金収入を求めて働き、それを持ち寄って世帯を支えている現実を見て、それを「悲惨」と感じるかもしれない日本人の見方に反省を促している[鶴見1986]。「考えてみれば前近代社会の暮らしとは、老いも若きもそれぞれの労働を持ち寄って一家を支える、というものではなかったか」と鶴見氏は注意を喚起する。「家族労働団」の意識を分かちもつ人々にとっては、近代化とは、ただこの労働の場面が、非貨幣セクターから貨幣セクターに移ったことを意味するにすぎない。

     家族という自律的な単位が、伝統社会の遺制どころか近代の産物であることは、すでに多くの研究者によって指摘されている。日本ではそれは、「家」制度という明治政府の発明品のかたちをとった。「家」制度を封建遺制と呼ぶのは正しくない。それは確かに封建制下の武家の伝統に端を発しているが、身分制社会においては武家の伝統は「常民(柳田国男)の伝統と同じではなかった。「常民」の世界に武家の伝統を持ちこみ、「家」の概念を確立したのは、明治三一年の帝国民法である。伊藤幹治氏は『家族国家観の人類学』[伊藤 1962]の中で、民法制定に至る過程で「常民」的な家族習俗が武家の家父長的な家族法に敗退していくプロセスを描いている。日本では儒教的な「家」制度が、ヴィクトリアン・モラルにもとづく西欧的な近代家族のカウンターパートであったことを、青木やよひ氏は明治国家の成立の過程に即して論証している[青木 1983b]。これらの労作のおかげで「家」が前近代的なものどころかきわめて近代的な発明品であるという驚くべき発見はようやく「常識」になりつつあるが、その詳しい展開はこれらの著者にまかせよう。
     幕末から明治にかけては、伝統的な村落共同体の解体期であった。「家」の独立性・自律性は、共同体の規制と逆相関の関係にある。共同体のサンクションが弱まるのに応じて、「家」は経営体としての自律性をかくとくし、そのことによって「家」相互の隔壁も厚く移行していく。「家」が公的性格を失ったことに比例して、「私事」の秘匿性(「身ウチの恥」意識)は高まっていく。共同体の解体を促したのは、「個人主義」ではなく「家エゴイズム」であった。
    「家」制度を封建遺制と見なす考えは、第一に近代百年(正確には明治三十年からせいぜい半世紀あまり)の「伝統」を、不変の歴史的伝統と錯覚するあやまちに陥っていることから、第二に、武家的な「伝統」を日本社会全体の「伝統」ととりちがえることから、来ている。第三に、近代を「個人主義」の時代と額面通りにとらえる近代主義者の思いこみがある。「家」を前近代、「個人」を近代の産物と信じて疑わない人々は、「家と近代的衣自我との葛藤」を好んで近代人の心理的な主題にする。日本の近代小説が「私小説」の名のもとにくり返し描いてきたのはこの主題だった。だが、ここでもフェミニスト文芸批評は、視点をみごとにくつがえして見せた。駒沢善美氏は、日本近代文学史をフェミニスト視点からまるごと読みかえるという野心的な試みの中で[駒沢 1978,1982]、「私小説の主人公は、ほんとうに「家」制度の抑圧の犠牲になった被害者なのだろうか?」というしごくもっともな、しかしコロンブスの卵のような問いを立てた。島崎藤村といい、太宰治といい、私小説作家たちはいずれも例外なく彼じしん家父長の立場にいる男性であって、その家父長の支配下で呻吟する女や子どもではない。彼らが主題にした「家」制度の葛藤とは、「家と近代的自我との葛藤」などではなく、実のところ「家長責任を背負いきれない弱い自我の悩みや課題」であった。そしてこの「家長責任から逃避する未成熟な自我」は、そのことによって家長支配のもとに置かれた妻や子どもをたっぷり傷つけており、かえって自分の加害性に無知かつ無恥であるという「目からウロコが落ちるような」(五木寛之氏の表現)発見に導かれる。
     近代はしたがって逆説的ながら、「個人の時代」というより「家族の時代」というべきであろう。この家族は、かつてないほど脆弱で孤立した小家族ではあるが、またかつてないほど鈍化され特化した「家族以外の何ものでもないような家族」でもあったのである。

     女性の戦争参加は、その国が総力戦になるほど強力に推しすすめられる。男子成員をどんどん戦場に駆り立てなければならないところでは、もはや平時の性分業を維持し続けることはむずかしい。日本でも、十五年戦争のあいだ、戸主およびその後継者には初期の頃は赤紙が来なかったが、やがて敗戦の色濃くなると、世帯主にまで召集令状が及ぶようになった。母子家庭になった「銃後の妻」もしくは戦争未亡人にとっては、自らが家長となって家族を支えるほかなかった。
     戦争をつうじてかくとくした女性の実績と自信は、戦争が終わって平和が回復しても容易にはもとへ戻らない。とりわけ敗戦国ではそうである。たんに戦勝国より戦敗国の方が男子人口の損失が大きいというばかりではない。戦争はたんに物量の争いである以上に、国家のあいだのイデオロギー(理念)の争いだから、国が負けたとき、その国民の理念が負けたのである。理念を掲げて戦った兵士たちは、復員して戻ったときウチに対しても権威を失墜する。戦後の混乱期は、どこの国でもウチとソトの「性別役割分担」を平時の状態に回復するための移行期だが、女たちを「家庭に帰す」のは戦勝国の男性より戦敗国の男性にとって、よりむずかしい。
     第一次世界大戦後、欧米諸国ではつぎつぎに婦人参政権が認められた。イギリスでは一九一八年、ドイツでは一九年、アメリカでは二〇年とあいついで婦人参政権運動は勝利するが、この背景には、戦争中の女性の国策協力への貢献を認めよという要求があった。もちろん女性の政治的権利を、国家への貢献を取引材料にしてかくとくするというのはすこぶる危険なことである。日本人の婦人参政権運動は、第一次大戦後のⅠ期フェミニズムの波にのり遅れ、そのために十五年戦争中の国策協力の中に巻き込まれていった。その事情は、鈴木裕子氏の『フェミニズムと戦争』[鈴木 1986]の中に如実に描かれている。

     雇用者・核家族の中で、女ははじめて「結婚したら主婦」になることができる。第一に、彼女は家内(生産)労働に従事しない家事専従者になる。第二に彼女以外に成人女子(姑や小姑)のいない核家族の中では、競争者がいないために彼女は自動的に「主(なる)婦」になる。ただしこの「主婦」は采配を振るうべき下働きの女性たちを失って、自ら家事・育児に手を下さざるをえない家事労働者である。
     高度成長期は、男にとってはいわば「一億総サラリーマン化」の完成、女にとっては「サラリーマンの妻」=「奥さん」に成り上がる夢の完成であった。しかし誰もが「サラリーマンの妻」になった時、この成り上がりはその実、女性の「家事専従者」への転落を意味していた。六〇年代の高度成長期をつうじて、日本の社会は、滅私奉公をする企業戦士とそれを銃後で支える家事・育児に専念する妻、という最も近代的な性別役割分担を完成し、これを大衆規模で確立した。フェミニストはこれを「家父長制」と呼ぶが、この「家父長制」はまったく近代的なものであり、封建遺制の家父長制とは質を異にしている。

     現状分析にとっては、とりあえず、家父長制と資本制のふたつの変数の存在を認めておきさえすればそれでよい。両者のあいだの関係は変わるから、それを記述すればじゅうぶんであり、どちらが決定因であるかを争う必要はない。だが、理論家には理論の整合性と説明力をめぐるメタレベルの問いが残る。理論は循環的で内閉的な完結性へと向かう、それ自体の内在的な運動原理を持っている。また「オッカムの剃刀」」のたとえのとおり、より説明変数の少ない、簡潔で説明力の高いモデルへ向かう傾向も持っている。とりあえずマルクス主義者にとっては、マルクス理論の全域性(なにもかも説明しつくすことができる)についての信念は冒してはならないものだったから、かれらはつねに統一理論へと傾斜する傾向があった。その点から考えれば、統一理論がつねに優位に立つ事情も理解できる。

     わたしだけに限られないが、リブとそれにつづく第二波フェミニストのリベラル・フェミニズムに対する一種の冷淡さは、第二波フェミニズムが、女性の法的平等を獲得したあとに成立したことと深い関係がある。女性に人権があることを疑うものはもはやだれもいない。だが、形式平等が達成されたあとにも、根強く残る実質的な不平等の原因は何か? この問いにリベラル・フェミニズムが答えるための理論装置は、存在しなかった。そればかりか、「自由で自律的な個人、しかも自己決定できる個人」からなる契約社会である市民社会の外側に、それとは不可侵な私領域を指定することで、このリベラリズムの公私の分離規範そのものを性差別の根拠として問い、私的領域に囲い込まれた者が「自律的個人」となりえないメカニズムを暴くことで、リベラリズムの人間観そのものに挑戦したのである。
     たしかにリベラリズムの「人権」思想は、それを人種や階級、ジェンダーを超えて拡張することで「平等化」する傾向がある。アメリカの公民権運動はそのような「平等化」の成果である。だが、「人権」を主張するには、すでに人権を認められた者たちと「同じ人間」であることを証明しなければならない。リベラル・フェミニズムはそこで隘路に陥る。「同じ」であることを証明するためには「差異」を否認しなければならず、「差異」を認めれば「同じ」であることを断念しなければならない、というあのおなじみの「平等か、差異か」のディレンマに立たされるからである。近代フェミニズムはその成立の初めから、この「平等か、差異か」のディレンマを孕んでおり、したがってフェミニズムにとっては近代とどのような関係を結ぶかはつねに逃れることのできない踏み絵となってきた。この問いとまともに格闘したひとり、江原さん[1995]は、「平等か、差異か」は近代が女におしつけた「疑似問題」だと喝破する。同じことをジョアン・スコット[Scott 1996]は、「フェミニズムのパラドックス」と呼ぶ。オランプ・ド・グージュ以来のフランス・フェミニズムの足跡を追いながら、彼女はフェミニズムは近代に対して「パラドックスを提示するOnly Paradoxes to Offer」のために登場したのだと、深いため息をつく。近代にとってフェミニズムがそのようなパラドックスだとしたら、逆にフェミニストにとって近代とは、自分が股割きになるほかない解くに解けない問い、支持を与えることも不支持を与えることもできないダブルバインドな問いだったのである。

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    2026年03月19日
  • 情報生産者になる

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    この本を読んで卒論や修論の研究方法を取得できる。上野はすでに東大にいないので、ゼミに入ろうと思う人は残念である。大学の教員においてもゼミの指導をする基本書にはなる。
     タイトルからは、研究論文の書き方の本だとはわからないが、学術誌や書籍の発表までを書いているので、必要とする部分を重点的に読んでもいいと思われる。

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    2026年02月09日
  • 上野さん、主婦の私の当事者研究につきあってください

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    上野さんと対談形式で自己開示していく著者。
    育ったご家庭のこと、大学時代のこと、話していくうちに辛くならないか読みながら心配した。
    上野さんはなかなかの個性派だし何よりちょっと刺さる物言いじゃない…それは優しさもあるだけろけどささくれが染みるように痛くないかなって。

    当事者研究というものも初めて知ったけど、対談形式でよく理解できた。
    著者が出会った大学の先生が心からの理解者であり、先生亡き後もその言葉の数々が著者の中で生きているというこは素晴らしい。人との出会い関わりってそうした爪痕もあるんだと優しい気持ちになった。

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    2026年02月07日
  • 女の子はどう生きるか 教えて,上野先生!

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    上野氏の著書は女ぎらいを大学生の頃読んだきりで、傾倒しすぎないように気をつけて意外と読んでなかったけど、それ自体がミソジニーに毒されてたなと思う。
    男のための◯◯が蔓延っていて、どんな時でも女は補佐役だったんだから、これから女の子のための本はもっと増えていいと思うし、女の子がロマンを持てるようなものが増えるようになるといいな。

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    2026年01月25日
  • 上野さん、主婦の私の当事者研究につきあってください

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    主婦歴8年目。自分も資本主義社会的には弱者よりのはずなのに、経済的・身体的自立が無いとダメだという観念を無意識に内面化していたことに気づいた。上野先生の東大生への嫌味がめっちゃ面白かった笑 我が子たちにも「答えのない問い」が立てられるようになって欲しい。

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    2026年01月06日
  • 上野さん、主婦の私の当事者研究につきあってください

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    森田さち(ペンネーム)の主婦としての当事者研究に、上野氏が対話役として立ち、二人の対談集をまとめた書。単なる対談集ではなく、上野氏の専門である家事労働に関しての論考も具体的でわかりやすく、まさに「個人的なことは政治的なこと」が具体的に掴みやすい。上野氏の言動はピシャッと言いながら、そのことの意味を噛み砕き、当事者が言わんとすることは冷気指摘に意義づけられてきたものと説明され、当事者は救われる。森田氏の当事者研究でありながら、フェミニズムをわかりやすく説明された書であり、これを理解するのに初めての人もとっつきやすい書であった。森田氏のYouTubeが気になった。

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    2026年01月04日
  • 上野先生、勝手に死なれちゃ困ります~僕らの介護不安に答えてください~

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    介護のテーマの本はあまり読んだことがない。2人の会話は、それぞれの立場からのはっきりとした主張によって織りなされている。とても分かりやすく、超高齢社会のこれからを自分ごとで考える良い機会となった。

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    2025年11月10日
  • 介護保険は崖っぷち 私たちのケア社会をつくるには

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    岩波ブックレットNo.1109

    夢の話をします
    高校生の頃のわいの夢は「野垂れ死に」でした
    荒野のイメージです
    誰にも発見されずに土に還ります
    カッコいいと思ってたんです

    けっこう本気で「博徒」を目指してたのでね
    「博徒」の終焉は「野垂れ死に」ですよ
    決まってますよ

    お馬鹿ですね

    今?今は違いますよ
    愛する三人の娘たちに見守られながら、自宅で静かに眠りにつく…

    はい!そこで介護保険です!

    今回のブックレットは介護保険について19の様々な立場の人が、制度編、現場編、展望編という視点で物申してくれてます

    本当に様々な人の、様々な意見を集約してくれていて、非常に勉強になる一冊です
    財源が限られた中で、出来ることが限られているってのは分かるんだけど、なんとかならんもんなのかね

    特に気になったのは、山根純佳さんの「悪党」と「騎士」の話
    現在の介護保険制度は一部の「騎士(善意の事業者や介護職)」に大きな負担を押し付けて甘えてる部分もあるって話
    「騎士」だってご飯食うってのな

    それから介護職に携わる人たちの不満の多くは(もちろん報酬面の不満もあるが)介護保険制度が壁になって利用者に必要なサービスを受けさせてあげられないことだったりするそう
    そこで心折れちゃう方も多いらしく、なんだかな〜

    必要なのはまず我々の意識改革よ

    とは言え、根底にあるのは行政に対する不信感なのかな?とも思ったり
    必要な社会保障のためにお金を取られるのはしゃーないとは思っているけど、本当に正しく、そして無駄なく、お金が使われてるのかどうも怪しくて、そこを解決してもらわないとなーって感じてる人多いんちゃうかな

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    2025年08月31日
  • 往復書簡 限界から始まる

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    ネタバレ

    なんて真摯な文章のやり取りだろう。往復書簡という形だからこそ丁寧に紡がれる言葉や、自分をさらけ出し、相手に相談し、それに応えるというやりとりがされていると感じる。当時の鈴木涼美の悩みは私の等身大の悩みと重なるところがあって、すごく共感してしまった。鈴木涼美の文章が上野千鶴子の「親戚のおばさん」を引き出し、上野千鶴子からの激励を間接的に自分の励みとすることができた、ような気がする。

    私も何人かの友達と往復書簡してみたい、という気持ちになった。

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    2025年08月28日
  • 女ぎらい ニッポンのミソジニー

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    「フェミニストではない」と言う人は、「私はセクシストです(性差別主義者)」と言っているに等しいとある。それでも、父親は、自分はセクシストである、それの何が悪い、と開き直るそういう人だ。
    私にとって、父親は、一番身近にいるセクシストである。セクシストが家族にいて、その人の女性蔑視的な言動を身体に受け止めて、毎日何事もないように生きなければいけない日々。これが、どれほど、23歳の私の人生を憂鬱にさせるものか。今日はいい日にしよう、という前向きな気持ちを踏みにじるものか、彼には分からないのだろう。
    この家でフェミニズムの本を読むこと。それは、父親への挑発である。この家の女性たちは、荒波を立てないように我慢してきた。そういう意味で、女性の家族を危険に晒す行為かもしれない。
    それでも、私は読むことをやめない。学んだことは誰も奪えない、と言う。それに、一度フェミニストになってしまえば、フェミニストをやめることはほぼ無理なのである。フェミニズムの本を読み始めたことで、読む前より、この父親に、家族に、男性に、社会に失望する数は明らかに増えている。希望を心から信じて生きること、また人生を楽しいと思えること、それはさらに難しくなった。ただ平穏に生きたいだけなのに、家が自分を守ってくれる場所ではない。いつ、この家に、この家族に希望を信じられるようになるのだろう。
    私の中に、二つの種類の思いがせめぎ合っている。女性蔑視的な父親を変えて、自分をこの苦しみから解放したい。でも、父親とは険悪な仲になりたくない。
    父親が家にいると、空気が重くなる。五十代の男性が変わることは不可能に近いことなのか。母親は、父親が変わることを諦めている。でも、諦めてしまったら、それは父親が死ぬまで、私たちが我慢することになる。

    この本や私のコメントを読んだ男性に伝えたい。女性と同様、性差別的な社会で声をあげるには、相当の覚悟がいります。そういう社会に生きている。けれども、言葉は強いですが、やはり傍観していることは、加害者と同じであることに変わらないのです。男性が変わるには、男性の力が不可欠で、男性も声をあげなければならないことを理解していただきたい。こういうフェミニズムの本を読む男性は貴重ですごい、と持ち上げたくはない。当たり前であると思う。でも、同時に、一緒に戦ってくれることに感謝したいです。

    この本や私のコメントを読んだ女性に伝えたい。私は、女子大でフェミニズムの詩を読んだり、本を読んだりするまで、フェミニズムなんて関係ない話、今の時代男女平等よ、と考える能天気な、女性としての生きづらさなんて感じたことがない人でした。
    今の時代でも、女性として生きるのは相当辛い。それでも、今、私に選挙権があり、大学院まで進学でき、少しずつですが女性の生き方が自由になりつつある社会で生きられているのは、女性の先輩方のおかげです。感謝してもしきれません。年齢は関係なく、家で学校で職場でどこかで同じように戦っている方々に感謝します。我慢するしかない自分をどうか責めないように。たった一人でも、あなたがその場所にいて、女性差別的な周りの人々との関係で試行錯誤をしていること。立派です。一人一人、社会にメスを入れられていますよ。
    希望を信じること、闘い続けることには体力も気力も要ります。休み休み、頑張っていきましょう。

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    2025年08月20日
  • 当事者主権 増補新版

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    初版も読んでいるが、増補新版として、この間の障害者問題と介護保険の変質ぶりなど、また介護保険と支援ヒエ制度の関係など整理できる部分が大きかった。支援費制度が現状でなんとか続いているのは、障害者運動の歴史があ流ことがよくわかり、介護保険の改悪や現場での運用は高齢者運動がないことも要因と確信した。今後団塊の世代から要求世代が高齢化していく中で、運動は大事だと思った。奇しくも本書が刊行後、著者の一人の中西氏の訃報を聞いた。改めて大きな存在を失ったと思う。

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    2025年07月04日
  • アンチ・アンチエイジングの思想――ボーヴォワール『老い』を読む

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    老いには誰も抗えない。それなのに、私たちはなぜ老いを恐れるのだろう。
    自分が老いたことを認めたくないのは、社会が老いを認めないからだ。
    それを惨めにしているのは文明のほうなのだ。
    「老いは文明のスキャンダルである」
    ――この言葉に導かれて、ボーヴォワール『老い』への探究がはじまる。

    ボーヴォワールにしても、上野千鶴子さんにしても、
    「女性」をテーマに闘ってきた、というイメージはあったが、
    老い にも着目していた。
    もちろん、「女性の老い」と「男性の老い」の位置づけの違いにも着目しているが。

    でもまず「老い」である。
    確かになあ、、老いを受け入れる、歓迎する社会だったら、
    アンチエイジングなんて言葉は生まれなかったかもしれない。
    私自身も内臓関係の衰えを感じながら、マラソンを通じて、
    過去の自分と闘っている。老いたくはない。

    その発想自身どうなのよ、ってところだろう。ボーヴォワールも千鶴子さんも。
    耄碌、認知症、、、どうしたって最後の何年間は世話をかけざるを得ない。
    かけたっていいじゃないか、と。

    ただねえ、、、
    今の若い人は自分が生きるのに精いっぱいで子供も持てない。
    そんな中で年寄の面倒まで見ろというのは無理筋って気はするんだよなあ。
    野生の動物だって、生き延びるために老いたもの、病に倒れたものは置いていく。
    それが自然の摂理なんじゃないかなあ。
    いや人間はもっと高尚な生き物だ、といいたいところだが、
    現状の日本の出生率はそれが困難なことを示している。

    そこに輪をかけて年寄りが「選択的夫婦別姓は家族を壊す!」などとのたまう。
    同姓だって壊れている家はたくさんあるし、
    別姓を認めないから家族になれないカップルも少なからずいるんだけどねえ。

    話がだいぶそれてしまった。
    老いを語るのは難しい。
    男女の老いの差を語るのは大いに語りたいね。
    生殖能力、性欲、、、

    第1章 老いは文明のスキャンダルである
    第2章 文化の中の老い
    第3章 歴史の中の老い
    第4章 近代化の中の老い
    第5章 「生きられた経験」としての老い
    第6章 知識人の老い
    第7章 老いと性
    第8章 女性の老い
    第9章 高齢者福祉の起源
    第10章 ボケ老人へ向ける眼
    第11章 アンチ・エイジズム
    第12章 三つの死
    第13章 「死の自己決定」はあるか
    第14章 ボーヴォワールの「宿題」
    第15章 「自立神話」を超えて

    引用・参照文献
    ボーヴォワール略年譜
    あとがき

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    2025年06月15日
  • アンチ・アンチエイジングの思想――ボーヴォワール『老い』を読む

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    ボーヴォワールの「老い」を今の
    上野先生の頭で読む
    いつか忘れたが若い頃に読んだ「老い」
    人間は老いて死ぬ
    そんなことを考えて読んだな
    体力も知力も減退した時どう生きるか

    上野先生の分析は素晴らしい
    そしてボーヴォワールの時代とは
    福祉も高齢者も変わった

    しかし終末期の医療が死ぬことを強いる あるいは生きることを強いる場合もあるという考えには はっとさせられた

    結論としてどんな状況にあろうと
    生きることの大切さだった

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    2025年06月07日
  • 上野先生、勝手に死なれちゃ困ります~僕らの介護不安に答えてください~

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    出版年は約14年前。
    東日本大震災があった年である。
    フェミニストで団塊世代の上野千鶴子さんと、
    社会学者のまだ20代の古市さん、
    親子ほどの世代の違いのお二人が対談をするという、
    珍しい取り合わせ。

    親や世の中に反発する若者だった上野さん、
    親と仲良しな依存する若者の古市さん、
    ジェネレーションギャップがありすぎ。
    だからこそ、会話がポンポン飛び交っていて楽しかった。
    親と子や上司と部下、縦の関係ではなかなか言いずらい事も、この二人のように、ななめの関係性なら、素直に心を打ち明けて話し合えそう。

    今年はいよいよ、2025年問題、団塊の世代が75歳の後期高齢者に突入した。
    介護や年金や、これからの世代を生きる若者にじっくりと考えてほしい。
    介護保険についてもとても詳しく書いてあるので、参考になる。

    上野さんの言葉で印象に残ったのは、

    「人は産まれた順番に死ぬものです。
    この子は私がいなくてもちゃんと生きていけるから、
    安心して死ねる、というのが親の幸福です。」

    気になったのは、
    「子育ての失敗」、とあるが、
    一生懸命育てたのなら、親だって未熟な人間なのだから、失敗も成功もない。
    その方法が間違っていても、気持ちが通じれば、それで成功だと思う。
    子供を育てるのは、大変な大仕事なのだから。

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    2025年06月02日