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Posted by ブクログ
生涯学習論を学んだ人間にとって、イリッチの「学校化社会」、ブルデューの「階級の再生産」、そして「ヒドゥンカリキュラム」など、本書で取り上げられる数々の生涯教育哲学とも呼べる言説たちは耳障りがよい。
それに加え、上野先生の現場から得た知見、研究から培ってきた独自の考え方が織り成され、本書は教育学関連でも類を見ないバイブルとなったことは言うまでもない。
奇しくも本書が刊行されたのは2002年4月1日であり、私自身が大学に入学した日ではないか。しかし、何故か本書を学生時代一度も読むことはなかった(研究室にもあったのに)。理由は定かではないが、大学卒業から10年が経とうとする今のタイミングで読めたことは何か因果なことなのかもしれない。
思うに、結局のところ、今の社会は「学校化社会」から一向に抜け出す気配すらない。みんなやっぱり学歴、偏差値で序列化されることが好きなんだろう。
あと、本書の内容からは直接的には関係ないのだが、気づいたことがある。
昨今よく感じることは一人ひとりの嗜好や興味があまりにも多様化かつ複雑化しているということ。たぶん本書が刊行された10年以上前よりもそれは顕著になっている。
本書に書いてあったことだが、人はあまりにも異質度の高いものであれば認知的不協和を起こすという。しかし、本来であれば異質度が高く、認知的不協和を引き起こすものであっても、ジャンルの細分化が起きている現代社会においては、それを理解するように振舞うことが一種の作法になっているのではないかと。つまりは細分化され本来ならその道のプロにしかわからないようなこと、特にアートや音楽など様々な分野の中で、人はそれをわかったような気分になっているだけではないだろうか。
これも暗黙のうちに人は予定調和的な同調システムに知らず知らずに組み込まれているようでならない。自分ではオリジナリティ、独自性の追求、ライフスタイルの充実と思っていたとしても。
Posted by ブクログ
最近言われて困ることは「M1の時より変じゃなくなったね」だ。私は変でいたかった。
変になったきっかけは学部時代にある先生の出会ったのがきっかけだ。
「恋って何?」「友だちって何?」と学生に問い、教員も一緒に考えていた。教員はそれを本当に面白そうに考えていた。
本書は上野千鶴子流教育論である。
上述のしたことは著者も「私は自分がおもしろがっていないことを他人サマにおもしろがってもらうことはできない、だから自分が面白いと思うことだけをやろう、と決めました(p.23)」という。
教員免許を取得する授業は教員の面白さよりも、教えなければいけないことがある。だから面白くないのかもしれない。それでも面白い授業ができる師匠や若師匠はすごい。
「東大にあるのはピア(同輩集団)の教育力です。その点では東大生は恵まれている、といえる(p.31)」学部生をみていると、自身の学部生時代よりはるかに優秀だと感じる。教員の指導はもちろん、学部生と院生が同じ講義を受けることも大きく影響しているだろう。
著者のゼミで「援助交際は自己決定か」についてディスカッションをしたそうだ(p.65)。
援助交際をする女性は、女性性や肉体を資源を高く売りつけるという生存戦略を主体的かつ合理的にとっている。
そこで学生が「私はそういうことはしない。私は自分の能力(語学力・学力)で勝負する」という。そこで著者は「学力資源を売ることと女性性を売ることにどういうちがいがあるのか」と問う。これまた面白い。
大学院でちょっとした違和感があった。「あぁ、そういうことだったのか!」というのが「生産財としての学位」と「消費財としての学位」という概念。
前者は学位をとることがそのあとの職業の「手段」なること。後者は学位を得ることじたいが「自己目的」であるというもの。
はっきりとどっちかに分けることはできないし、「どっちも」、結果的に「生産財」ということもあるけれど。これって面白い。
最後にこの一言!やっぱり上野千鶴子はかっこいい。
「私は研究者の最大の報酬は、頭の天井がスポーンと抜けるというか、「わかった!」「見えた!」という快感だと思うのです。この快感が最大の報酬。ある種のドーピングみたいなもので、これがあるからどんな不遇な目にあおうが研究者はやめられない(p.107)」
これが本当の研究者ですかね?
でも、「大学の教授になる」という目的のために論文を書いている人は教授になったら全く論文を書かない(川成洋『大学崩壊』)。それってどうしてだろう。快感を味わったことがないからなのか。それ以上にやらなくちゃいけない事務が多いからか。
「隠れたカリキュラム」というのはフェミニズムが発見したそうだ(゜o゜)
(まっちー)
Posted by ブクログ
テレビでも雑誌でも、とにかく僕は「ランキングもの」が苦手なのだ。星座占いの運勢のランキング、抱かれたい男ランキング、好きな歌ランキング、うまいラーメン屋ランキング、大学の偏差値ランキング…。うう、書いているだけで辟易だ。
なんだか世の中、いたるところでおかしな序列化(階層化)が進んでいる。いったい誰が、何を基準に、どうやって(もっともらしい)序列化をしているのか。得体の知れない数字ばかりがひとり歩きをしていないだろうか。そして僕たちはそれを特に考えることもなく、鵜呑みにしてやいないだろうか。ときとして、なにやら胡散臭さを覚えてしまう僕なのである。
さて、上野先生のいう学校化社会とは、「明日のために今日の我慢をするという未来志向とガンバリズム、そして偏差値一元主義」が、学校空間から溢れ出し、広く社会にも浸透してしまっている状態を指す。学校というのは、机に向かって長い時間オッチンと座らされて、いい高校いい大学へ行くために勉強しなさいと強要される場所だ。日本が昭和の時代ならそれだけでよかったかもしれない。いい学校を出れば、いい就職ができ、終身雇用に守られて、安泰な老後を迎えられたのだから。そのためには、退屈な勉強も嫌な仕事もひたすら我慢する---。未来志向やガンバリズムが信奉されるには、当然の時代背景だったのかもしれない。
しかし、時代は大きく変わった。企業の終身雇用は崩れ、国は派遣や契約社員のように不安定な雇用形態を認め、現在の有様だ。学歴だけで人生の未来予想図を描くことも容易ではなくなった。それでも受験競争は相変わらず続いているし、企業はあらゆる場面で、成果制や能力制というもっともらしい方法で社員を「客観的に」評価するようになった。
なるほど、点数やノルマの達成具合は一見、個人を評価するのに都合がいいのかもしれない。でも忘れてはいけない、評価をするのは自分ではなく、他人だ。他人が、誰かの作ったもっともらしい序列化によって自分を評価してくることに、自分のすべてを預けてしまうのは極めて危険だ。自分という人間は、「序列化・客観化」された数字だけで構成されているわけではないのである。
上野先生は言う。本当に自分の好きなこと・楽しいこと・気持ちいいことをするべし。ただし、好きなことはカネにはならないと心得るべし。だから好きなことをやるために、他方でカネになること、つまり他人の役に立って、カネを手に入れるスキルの一つや二つは身につけておくべし。
自分の「できること」と「好きなこと」は別物である。「できること」ばかりを追求して、自分はいったい「何が好きだったか」を、どうか忘れてしまわないように。
高校生くらいの年頃の若者に読んでもらいたい1冊。
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