萩尾望都のレビュー一覧
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ネタバレケイトリンについて『春の夢』で語られていたのを、とあるブログに指摘されるまで忘れていた。ダメな読者だと痛感する。
連載中も衝撃を受けたセリフ、「生まれた娘たちは夫の子か息子の子かわかりません」
人間をやめたくなるのも無理はない。上流と下流の女性の格差がしっかり描かれている。
しっかりといえば、一族に迎え入れられるまでの過程がここまで丁寧に描かれたキャラクターはアーサーが初めてだろう。
『小鳥の巣』のマチアスがバンパネラ化していれば、不自由な足が治ったのでは、とよく囁かれ、自分も半ば信じていた。連載が再開される以前のある日、閃いた。『エディス』ではクエントン卿の頬の傷が治っていない。ということはマチアスの足もあのままだ。
ラスト、まさかのご長寿ジョン・オービン! 帽子と眼鏡と絆創膏の変装がなければ、アーサーの正体を見抜いていたのか? -
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「ポーの一族」復活四作目にして初めて、以前のように何も考えず心から楽しんで読めたように思う。「春の夢」は40年ぶりの感激でアップアップしてただけ、「ユニコーン」は、「エドガーが現在に!」「ポーの村の秘密が!」と二大衝撃で撃沈、「秘密の花園1」は、「あれ?アランの話じゃないの?」という戸惑いが邪魔をし、とまあ、余計なことを考えすぎていたのだった。
今回はさすがに落ち着いて、アーサー卿の物語をゆっくりと堪能した。あらためて言うのもナンだけど、ちょい役に至るまですべての人物に厚みと説得力があって、本当にすばらしい。ドラマティックだったりそうでなかったり、人生はそれぞれだけれど、登場人物の誰もがその人の生を生きている。セリフと絵で(多くの場合絵だけで)ここまでの表現ができるのかと、漫画の凄さをつくづくと感じる。
ふと思ったのだが、エドガーがより老練な雰囲気をまとっているような気がする。彼は遙かな時を生きているのだから、当然老成しているわけだけど、かつてはその残酷さや優しさにもっと「少年っぽい」感じがあったような…。ワタシが年とったのでそう感じるだけかもしれないけど。 -
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ネタバレ2011年以来の再読だから十年ぶり。
初読の際はこう書いた。
(以下引用)
・義父からの性的暴力的虐待。
・無垢なるものは犯され続けるしかないのだよ。
・救いも癒しもなく延々続くセラピー的会話。
・彼らはセックスや肌でわかりあうなどというイージーな終着点には収まらない。
・とことん会話によって愛と支配について考える。
・周囲に変奏曲的な人物たちも配置される。
・果たして母は……という懊悩が一番のポイントに。
・サクリファイスという概念。
・「漂流」という発想の勝利。
・母との対峙のシーンの凄まじさ。
(引用以上)
今回、私的萩尾望都月間を行っているのは、この作品を再読する勢いをつけるためでもあったので、ほぼラストに持ってきた。
もう二度と読みたく・見たくないというほどのめり込んだり感情的に振り回されたりするほうではないが、珍しく、本作とミヒャエル・ハネケ「ファニーゲーム」は遠ざけておきたかった、それくらい強烈だった。
十年ぶりというには鮮明に色々憶えていた。
これは記憶力の問題ではなくて萩尾望都の筆力によるのだろう。
交通事故のように出会って打ちのめされてしまった前回と、今回大きく違うのは萩尾望都自身のインタビューで「憎いはずのグレッグを描くのが楽しくなってきた」と言っていたということ。
確かに確かに、作中で最も多彩な表情を見せるのがグレッグなのではないか。
愉悦・ひきつり・狂騒・怒り・何かしらへの恐れ……。
あー萩尾先生楽しんでるなー、と考えると、切り貼りしてグレッグ表情コレクションをしたくなるくらい、こちらもリラックスできた。
また「文藝別冊」で「家庭内総合幻想」という、萩尾望都自身が発明していた言葉を念頭に置くことで、グレッグやサンドラやイアンのあれこれが「悪ではない」と思えたのもよかった。
さて萩尾望都の博学には毎度驚かされるが、精神分析や深層心理学を中心に、ケアワーク、ソーシャルワークと幅広く展開する知識?の確かな手ごたえが感じられた。
ごく個別の経験と、二者体験と、外部からの介入・外部へ出ようとする心性。(個人幻想・対幻想・共同幻想、と岸田秀や吉本隆明に敷衍できそうだが、私の手には余るので見送り)
読みながら浮かんだフレーズをつらつら書くと……
親子関係。原風景。罪悪感。紐帯の切断。母子カプセル。
欺瞞、嘘、緘黙、記憶の改竄、否認、見ないふり。背負いこむ。
アンコントローラブルな他者と、自分自身の他者性。束縛、愛の幻想。自己処罰。ファミリーファンタジー。無垢の捕手(キャッチャー・イン・ザライ)。
抑圧、繰り返し(傷のついたレコードのように、と8巻183ページでリンドンが言っている)。別の形で回帰する。回想と語り。
被虐と嗜虐。権力。肉化した仮面。所有と支配。バラバラ=寸断された身体。
幻臭。わかって欲しいとはねつけたい。わかってくれ、と、わかられてたまるか(中上健次)。怒りと悲しみと寂しさ。
時間(漫画の長さ)による回復。束縛。距離を取れ、と再三言うリンドン(ドン引きな顔)。
素人による乱暴な精神分析セッション。転移と逆転移。その果てに得られた、ささやかで平凡な自己洞察。時間の経過と、癒えるということ。
やはり精神分析で見聞きした言葉でしか、この作品に立ち向かえない。
丸腰では読めない作品。
高校の頃に読んだ、フロイトやメラニー・クラインやラカンやの(理論だけでなく)症例の記憶と、高校生当時の自分自身の実感が、本作の理解の援けになる、というか、単に記憶が混入する、というか……。
精神分析のセッションというのは、話すこと・言葉そのものを積み重ねる経験を通じて得られる変容のこと。
人生という終わりがないものに対して、いわば無理矢理に、介入とか解釈とか短時間セッションとかセッション終了とか言うことで、分析医はとりあえずの終わりを宣告する。
しかし症例の「その後」の証言が残っている通り(分析医と患者は結構愛人関係になり、元患者が分析医として出世したりして)、終わりというものはない。
人と人の関わりは終わらないから。
(月並みなことを書いてしまうが)人が人と関わることを続ける限り、分かるかもしれないという希望と、分からないという落胆を、繰り返す。
寄せる。返す。そのうち波は濁る。生き続ければどうあっても、濁る。
日常の毒、生活で溜まる毒、老いが齎す毒(と、時間によって不思議に癒えるということ)。
これはもはや精神分析の本とは関係なく自分の実感をモロにチラ裏するが、人が人を援助するには、家族になって共に堕ちるか、契約に基づいて割り切るか、この二方向しかない。
他の関わりは全て中途半端な自己満足。
イアンはジェルミに対面するという選択を決意したことで、人生が変わった・歪められた・方向づけられた……しかし共に堕ちなければ得られない二人だけの経験を得たのだ、と。
「一度きりの大泉の話」が出版された今、連想するのはなかなかに気が引けるが、竹宮惠子「風と木の詩」では、濁り切る前に、悲惨になる直前に、死んだ。
だからジルベールの背中には天使の羽が見えた。
対して本作では、鳥が空を横切るカットはあっても、ジェルミが天使に擬されることはない。
ジェルミとイアンはつかず離れず、悲劇的な死に回収されることもなく、ただ別々の命で別々の場所で行き、年に一度「冬の祭典」を重ねることで、自分の内から、そして相手の反応から、癒えるきっかけやヒントを探している……この忍耐強さが(作品の勁さであり、萩尾望都の強さであり)読者に分け与えられることに、本作の意義はある。
ところで仮に作家自身が参照や影響を否定していても、やはり本作は竹宮惠子「風と木の詩」、山岸凉子「日出処の天子」、吉田秋生「BANANA FISH バナナフィッシュ」と共鳴していると感じた。
個々の意識においては違う、とそれでもいうなら、少女漫画、いや漫画全般、いや創作そのもの、というか他者と関わることでしか存在できない人の命、と拡大した舞台の上で、響き合っている。
対話に終わりはないということだ。
単純にいつまでもいつまでもベッドの上で繰り返される痴話喧嘩という題材で木尾士目「五年生」も連想したが、意外とこれも二者関係と三者関係の狭間の人と人を描いているという点で、的外れな連想ではなさそう。
他、
・マージョリーの「自殺好き」で、高橋弘希「日曜日の人々(サンデー・ピープル)」を連想。
・リンドンって、というかリンドンだけが、安心できるブイ(浮標)のよう。イアンにとっては、「冷静な分身」のような彼がいて、よかった。
・エリックとバレンタインの双子。→「半神」
また、本作を思い出すとき必ず脳裏に再現された美しくも不可解なシーンについて、萩尾望都がインタビューで答えていた記事を見つけた。
(以下引用)
――『残酷な神が支配する』のラスト近くに、ジェルミが墓地に行って、サンドラに殺人を告白すると、サンドラの亡霊がジェルミを抱きしめてキスをする、というシーンがあります。その後ジェルミはイアンに「殺人者でも人を愛することを試みてもいいのだろうか」と言います。そのサンドラの亡霊との邂逅は、ジェルミにとって、自分は愛されていたという証になっていたのでしょうか?
萩尾 あれは、お別れのキスなんです。お母さんに告白するというのは、お母さんに別れを告げるということと一緒。見えない何かでお母さんに支配されていた状態から抜け出すんです。
お母さんがお墓から出てきてキスするんですけど、実は私にもどうして出てくるのかわからないんですよ。でも、イメージの中ではどうしても出てきてしまう。これは、サンドラがジェルミに許しを求めているのか、告白しても許さないわよと言っているのかどっちだろうと思いながら描いていました。未だに実は分からないんです。どっちなんでしょう。両方かもしれない。
――そのシーンでサンドラは微笑んでいますよね
萩尾 そうでしょう。怖いでしょう私も描きながら怖いな…と。私にも、サンドラが何を考えているのかはよくわからなくて。
(引用以上)
萩尾望都自身ですらわからないというのだから、読者としてはわかろうとしたりわかったと思ったりわからないと投げ出したり、再読以前と変わらず考え続けるんだろう。 -
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ネタバレ備忘録に書名が残っていなかったので未読? いや読んだ憶えがあるのにな、と訝しみながら読んだら、結果再読だった。
というか読んでいる最中に、視覚だからプルースト効果とは言わないんだろうが、前回ぐっときた要素が次々と波のように押し寄せてきた。
たぶん「ゴールデンライラック」の内容とその読み方が合致して、幸せな再読になった。
■ゴールデンライラック 150p
少年ビリーと少女ヴィーが青年から大人になるまで。
第一次世界大戦前後のイギリスを舞台にしているだけあって、つるべ撃ちのように話は展開し、時は流れ、いつの間にか取り返しがつかないと悲嘆にくれ、しかし生活は続き……皆川博子級の重厚と絶望と希望。
単純に飛行機だからとロベール・アンリコ監督「冒険者たち」、ヴィットリオ・デ・シーカ「ひまわり」(を思い出したというか)のような画質でイメージした。
というか古き良きカラーフィルム映画のように記憶していたのを、読みながら追っていった印象。
他の作品を出すことでしか感想を残せない自分が歯がゆいほど、好きだし大傑作。
ロバート・ネイサン「ジェニーの肖像」からの影響あり。
ちなみに新書版と文庫版のカバーイラストが対になっていて、どちらもいいんだなー。
■ばらの花びん 68p
この本3作のうちでは絵柄が違い、やはり一作だけ1985年。
少し呑気な展開、数組のカップルがあちゃこちゃするあたり、シェイクスピアの喜劇に似ている。
■マリーン 53p
ミステリアスな少女というキーポイントも、その真実もまた、「ジェニーの肖像」からの影響あり。
というかおそらく、原作者今里孝子=城章子が「ジェニーの肖像」から影響されてこの話(1977)を作り、この漫画に自ら触発される形で「ゴールデンライラック」(1978)を萩尾望都が展開した、という感じか。
少年の生活に現れる少女、少女の生活に現れる少年、と対にして憶えておきたい二作。
参考にしているサイトによれば、「光と花の中」「ヴィオリータ」「みずうみ」に続く輪廻と永遠の少女の系譜の集大成とか。
◇エッセイ―拝啓 萩尾望都さま:桑原知子(心理学者) -
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ネタバレ■11人いる! 121p
この作品は読み返さなくてもいいくらい一コマ一コマ憶えていた。
が、なぜこの本だけ見当たらないのか悔しくて再購入して読み返してみた。
思い出すに、おそらく初・萩尾望都作品。
たぶん同じ小学館の「ドラえもん」に入っていたチラシでこの文庫版の表紙イラストを見て、タイトルや絵柄に惹かれたんじゃなかったか。
おじさんになって読み返してみると、「エイリアン」「遊星からの物体X」「イベント・ホライゾン」など思い出すものもある。
そしてこれは続編で感想を強めるのだが……
■続11人いる!!東の地平・西の永遠 160p
かなりはっきり異文化交流の話なのだ。
発展と「未開」、信仰と文化、植民と異文化への憧れ、実際的に文明が齎されれば変革が内部からも起こる、など。
中島らもが「ガダラの豚」などでインプリントしてくれたものの見方を、実は萩尾望都も教えてくれていたのだ、とおじさんが振り返っての感想。
あと今回の感想としては、発表年が意外と早いことに驚き。初・SF長編なんだとか。
■タダとフロルのスペースストリート 32p
単純に嬉しい。
◇エッセイ―美少年とは何者か:中島らも(作家) -
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一度きりの大泉の話
萩尾先生から見た大泉の話が語られています。
口語らしい文章だなと思ったらインタビューから文字を書き起こしたようです。
ご本人が仰るように萩尾先生は人間関係の苦しい部分(嫉妬など)について少し鈍感なんだと思いました。素直で器用ではないけれど天才肌で、周りからしたら脅威に思われたのかもしれません。萩尾先生が傷つく結果(互いに傷つけあう結果)になったのは心が痛いです。
萩尾先生も竹宮先生も偉大な漫画家ですが、どこか対極にいるような性質で、面白かったです。おそらく竹宮先生はこの本を読むのだろうと思うと、今後の動向が気になります。 -
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ネタバレ1974
何度も読んだはずだが今回ようやく気付いたのが、キリスト教でいうユダとイエスの関係が重ねられているのだということ。
今までは少年愛、ギムナジウム、という意匠に、あっけなく惑わされ、いわば気軽に耽溺していたのだ。
なぜトーマは死んだのか。
ユーリが暴力に屈して信仰を捨て(かけ)たからこそ。
→八角形眼鏡のサイフリートは終盤突然差し挟まれた人物では決してなく、創世記でいう蛇的存在だった。
トーマはいわば身を徹してユーリを「正しい道」に引き戻したのだ。
いってみればユーリおまえ全員から愛されているんだぞ、と、作品の外から言ってやりたい。何度でも。
プレ作品である「11月のギムナジウム」と比べるとエーリクがコミカルな活躍をするのも、息抜きになって、よい。
が、個人的には少しスレた感じのオスカーが、ほんっとうによくてよくて。
思わず続けて「訪問者」を読んでしまった。 -
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生きることの肯定
夢中で読んじゃった!
感情の揺れ動く様を本当に繊細に描いています。
動揺しているときに手を掴まれ、肉体的な触れ合いによって気持ちが落ち着くところや、家族や仲間たちに対して怒ったり、また別な時には肯定的な感情を持ったりするところなど。
そういう揺れ動く心を持つ自分への許し、それから自分と同じように心を持つ他者への許しがこの作品のテーマだと感じました。
あとやっぱり、母。イグアナの娘しかり、母の心のしこりが子どもに影を落としているんですよね。母親も一人の人間なのに、母であることを強いられる悲哀。大人が子どもっぽくてもいいんです。役割をなぞるキャラクターではなく、かつて子どもだった一人の人間を描いてくれているのだから。