内田樹のレビュー一覧
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正しさとは何かについて、別角度から考えるきっかけとなった。
私たちには自らの意思なんてものは存在しなくて、環境によって全てが決められているのだとしたら。正しさとはなんて不安定なものか。各々の生活する環境によって決められているとしたら、その数だけ正しさも存在する。人によって解釈が違うものは定義として成り立つのか?そもそも正しさなんてものは存在すらしていない?揺るぎないものなんて無くて、揺るぎないものがあると信じたい私たちが生み出したもの?
自分の存在が揺らぐ考えな気もするけど、自分の正体に近づけている気もするし、考え続けることをやめないことが人間には必要なのかな。 -
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再読。
現代における師弟論の概略と、学びの自由さ(主体性)をコミュニケーション論で繋ぐ本。
以下、本文より一部抜粋。
『もし、弟子たちがその先生から「同じこと」を学んだとしたなら、それがどれほどすぐれた技法であっても、どれほど洞察に富んだ知見であっても、学んだものの唯一無二性は損なわれます。だって、自分がいなくても、他の誰かが先生の教えを伝えることができるからです』
『人間は自分が学ぶことのできることしか学ぶことができない、学ぶことを欲望するものしか学ぶことができない』
『「自分は正しい」ということを前提にした「学び」というものは成立しません。「自分の欠点の補正」と「未熟さの発見」という事業にとって、「私は正しい」という前提は妨害にしかなりませんから』
終わりの章の『沓を落とす人』『先生はえらい』を読んでみてから本書の合う合わないを決めて、読み進めるかどうか決めても良いかもしれません。
(わたしは最初から最後まで通して文章を何度か読みまして、とても面白かったのですが、専門書的な教育論をイメージするとちょっと違うかなと思われるかたもいるかもしれません。思想やエッセイに近いのではと個人的には感じます)
中高生はもちろんですが、今からでもなにかを学びたいけれどなかなか忙しく時間が取れないといった大人たちに手始めにサクッと読める、おすすめな本です。
学びは常に開かれているということを再発見できます。
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過去の内田本で何度も展開されてきた、教育に関する内田節が炸裂している。
『人文学のめざす目標のひとつは「より複雑な人間になること」ではないかと僕は思っています。ひとつの事象をながめる時に、複数の視点に立つことができる力を養う。複数の文脈のうちに置いて、別の側面を見ることができる「複雑な人」になることを目標に掲げてよいと思います。でも、そういう言葉づかいで人文学の意義を語る人って、あまりいません。』
かつてよく使われていた「学際的」とか「複眼的」という言葉の代わりに「深掘り」がよく聞かれるようになり、「狭くて深い知」こそ良いというような価値観が一般的になったという。
僕も教養課程の縮小とか実学化とかいう流れはなんだか「セコイ」なと感じていたので、それをキレイに言語化してくれた感がある。
他には、
『オンライン授業の問題は、それが本質的にオンデマンド(on demand =要求に基づいて)だということですよね。アカデミアとは本来、学生たちがふらふらできる場所でなければならないと思うんです。キャンパスをふらふらしてるうちに、もののはずみで(by accident)「そんな学問がこの世に存在するとは知らなかった分野」に出会い、もののはずみで取る気のなかった科目を履修し、図らずも学ぶ気がなかったことを学んでしまった。そういうことが大学では実によく起こる。その偶然性がアカデミアの豊饒性と開放性を担保していたと思うんです。』
コロナ禍で授業のオンライン化が始まり、そこに一定の効果や達成を見るものの、対面での授業は必要だと考える、そのひとつの根拠。他の本で書いていたと思うけど、学びというものの本質が、(シラバスに代表される)あらかじめ予定していた知識のインプットだけにとどまらず、むしろ、学ぶ前にはその素晴らしさを理解できず、その素晴らしさを語る語彙すら持たなかった物事について、理由も分からないままに惹きつけられる、そんな体験にこそあるという。このような視点を持てるのも、学際的な感覚によるものだろう。
アメリカの国民がなぜトランプを支持するのか、日本のニュースだけ見ていても分からないが、彼らには彼らなりの論理的整合性や価値観がある。そのことも、学際的に、複眼的に解説してくれる。
これからを生きる若者たちは、アメリカの、イスラエルの、アラブ諸国やロシアの論理や価値観を複眼的に捉えて、自らの振る舞いを選択しなければならないのだから。
未来の人たちがこの2020年代を歴史として学ぶ時「バカなことしてるなあ」「もっと複眼的に考えなきゃ」と笑ってくれればいいと思う。
メモ
『これは数学者のポアンカレが言っていることなんですけれど、「知性の働きは違うところにあるものが実は同じものだと気づくことにある」そうです。そして、両者の距離が離れているほどその発見は生産的なものになる。「あれって、これじゃん」という気づきのことですね。』 -
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「関心の深さや細かさの違いが言葉を決める(=知的能力の差ではない)」
これは、現代日本でまかり通ってる風潮がいかに空虚なものか教えてくれる。
知ってる人、エリート、論破できる人こそ賢い。的な風潮がいかに空虚なものか。
たしかに、私と違う人は違うことに関心と知識を抱いており、それが知的か否かとは関係なく、それぞれの世界に必要な、ことを知っているし関心を持っている。
「実存主義は死んだ」
実存主義はその単線的な見方及び、存在するものの本質があるという姿勢が、故に我こそは正しく、我こそは進歩の頂点にいる。と考える。
それは傲慢であり世界、とくに歴史を説明できない。と実存主義の死を宣告したのがレビィストロース。
「功績は後世が証明する」
とよく言うものの、その後世なる時の価値感なりの尺度である。
そして、絶対的ではないが故に真の正しさや正義なんてない。ってことを言ってる。
だから、他者との関係とそのインストールされている前提の差の中で、常に謙虚であらなければならない。
と理解したけど、構造主義ムズいぞ。。。。 -
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養老孟司さんと内田樹さん、この二人の思想家の対談なのだから、
話の方向性は想像がつく。
そして期待通り。
あえてこのブログで要約を書くまでもない。
いや、そんなものは存在しないのだ。
話は一つのキーワードから思わぬ展開を示す。
予定調和などないのだ。
二人が、それぞれの立場で身体感覚でとらえたこの世界を、
ことばとことばでぶつけあっているのだ。
心地よい言葉の応酬。
知的だ。
タイトルは何かつけなきゃいけないんだろうけど、立ち返る場所、ねえ。
日本人、ねえ、、、
日本人にフォーカスした部分もあるけど、
逆にそこにこだわらない部分もあったように思う。
ときどきふたりのやりとりがかみあわないことがあるが、
この対談本はそれもカットせずそのまま載せている。
なんだかほほえましい。
片方が突っ込みたくて、もう片方は違う話題にいきたい、といったことだ。
物忘れは年齢を重ねるごとにひどくはなってくるが、
思想的な成長はいくつになってもできる。
学習は必要だな。
そう思わせる二人の対談本。
第一章 情念と政治
第二章 陰謀論の時代をどう生きるか?~求められる「感情教育」
第三章 居心地の悪い社会 ~子どもの自殺を考える
第四章 言葉に身体性を取り戻す
第五章 自然に学び、日本人が立ち返る場所を考える
第六章 死に直面して考えたこと -
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「生きづらさ」って、自分の内面についての本かと思って手に取ったけどそうではなくて。
今の社会って、生きづらいよね、という感じ。
著者が色々なところで掲載していたエッセイや対談をまとめた本。ぱらぱらと読めるけど、時々思想強めと感じたり。
以下メモ
・家事は他人の身体を配慮する技術。他者の体が経験する生理的な快適さを想像的に先取りする能力。
家事が好きだと思えたとき、それは娘がいたとき、親がいたとき。
・若い人たちは「株式会社みたいな制度」しか経験したことがない。トップが方針を決めて下がそれに従う、彼らがそれを自然で合理的なシステムだと信じても責められない。
・ハラスメントは古仏語harace(追跡)に由来する。猟犬に追われた獲物が感じる、倒れるまで終わりなく続くきわめて激しい疲労
MeToo運動を単なる「セクハラ狩り」に矮小化してはならない。この運動は、あまりに日常化しているせいでそれと感知されない暴力的な支配--被支配の関係を可視化するものである。
・水道の民営化
・日本の学生に欠けているのは、自分と価値観も行動規範も違う「他者」と対面したときに、敬意と好奇心をもって接し、困難なコミュニケーションを立ち上げる意欲と能力。学校で子どもたちが身につけてきたのは、自分と価値観も行動規範もそっくりな同類と限られた資源を奪い合うゼロサムゲームを戦うこと。
・元号を使う理由
時間を区切ってみせる、区切らないと落ち着かない。
区切って見せた後で、あたかもそこに決定的な時間断絶が存在したかのように区切りの前後でふるまいを変えてみせる。
まず区切りをつけてから、事後的にその区切りに「リアリティ」を付与する。
・日本人が求めているものは「自由」ではない
すべての外的な干渉を退けて、自分の思い通りのことを実践するということを望んでいない。そんなの大変そう。それよりはほっとしたい、気楽でいたい。求めているのはある種の「調和」。 -
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【2026年54冊目】
「どうしたら自分に合う良い結婚相手と出会えますか?」「付き合っている相手と本当に結婚していいのか決心がつきません。見極める良い方法はないですか?」「お金はかかりますが結婚式はやった方がいいですか?」などなど、結婚に纏わる素朴な質問に思想家の内田樹が時に軽妙に、時に真剣に答えるエッセイ。
普段は小説しか読まない私ですが、勧められたので読みました。著者が内田樹さんということで、ちょっとドキドキしながら(理解できるだろうかと思いながら)読み始めましたが、出てくる質問が質問だけに、とっても読みやすくて、するすると読んでしまいました。
この本を読むと、結婚に対するハードルが多少なりとも下がるような気がします。幻想よりも現実を、理想論よりも地に足ついた回答をしてくださっているので、ふむふむ確かにな〜なるほど〜と、共感しながら読めました。
結婚って、もともとそんなに難しくないことだったはずなのに、何でこんなにハードルが上がっちゃったのか、みたいなことにも言及されているので、単に結婚について考えるだけでないのも流石でした。
内田樹さんの作品の中では、おそらく、いや、かなり読むハードルが低い本だと思います。結婚生活に悩んでいる方、これから結婚しようと思っている方におすすめです。 -
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ネタバレ熊野が聖地であるというのは何となくは知っていましたが、他の予備知識もないまま、この「聖地巡礼」シリーズ完読を目指して手に取りました。
本筋の巡礼そのものよりも、あちこちで語られる先生お二人の会話の名言や知識が面白かった。
1600〜1660年ほどの60年間が日本文学史上「空白期」、後世に残るような文学的成果が全く何も出ていない(p21)という巡礼本筋とは全く関係ない情報にまずは驚き。
後でこれは何かの文学史年表を確認してみようと思いました。
「8時だヨ!神仏集合」(p22) 吹き出しました。確かにネーミングセンスが(笑)
インドネシア全体はイスラム教なのにバリ島だけがヒンドゥー教というのも知らない情報でした。
近頃自分の住んでいる地域ではインドネシア系の人が増えてきていて、そのうち日本もイスラム教の人口がかなり増えるだろうと私も感じていたところ。
固有の信仰や生活習慣や食文化を持って入ってきた時に、それによって我々の社会がどういうふうに変わっていくのか、どういうふうに新しい宗教集団を受け入れて共生していくのかについてももっと真剣に考えるべきなんです(p174)
イスラム教の土葬の懸念についてもここに書かれていますが、内田先生のご指摘は、もう考えなくてはならない、喫緊と言っても良い状況のように自分も思いました。
改めて奥付を見たら発刊は2015年。
十年以上過ぎてる現状の対応がどうなっているのか気になります。
正しいことでも「正し過ぎる」と災厄をもたらす(略)「 君たちの言ってることは正しい。正しいけれど 、ちょっと手控えてね」というわけのわからない 言い分を通すためには、そういう人間にそこそこの「貫禄」がないとだめなんです(p56)
日本人は知的な負荷に耐えられなくなっている気がします(略)知的作業に関する粘りがなくなってきた(p57)なるほど。
お神輿は皆で担いで祝詞を上げて御魂入れをするとズンと重くなる(p60)ええっ、そうなんだ。さらっと書かれてますが驚き。
お仏壇によく「魂入れ」するとか、お仏壇を引き払う時に「魂抜き」をするなども言いますが、やはりそういう「世界」があるのだろうと。
そういえば人は亡くなったあと体重がすぐ何gだったか軽くなるといいますね。それも魂が抜けるからだという説があったことを思い出しました。
遺体を金属加工に使う話(p137)も驚き。遺体を奪う理由にそんなこともあるとは。事実は分からないらしいけれども伝承として残っていることがまずすごい。
イスラムの人とキリスト教の人が一緒に運営しているモスクかつ教会みたいなものが(トルコに)あるんです(p188)
これは以前読んだ何かの本で自分も知ってました。何ていう本だったか気になります。トルコの人の対日感情がいいのは和歌山県民のおかげ。
そうだったのか。
補陀落渡海って凄い行があるんですね(p207)捨て身行というものは聞いたことがあるけれど補陀落渡海は知らなかった。
わずかに食べ物を積んで屋形船の中に外から板を打ち付けられて閉じ込められて船出し、亡くなるまでお経をそのなかで唱え続ける…恐ろしすぎます。
宗教者が行う行為は凄まじいものがどの宗教にもありますが、これもかなり凄まじい。無理やり渡海させられるお坊さんの話を書いた小説もあるとか。無理矢理だったらなんと残酷な仕打ちだと思います。自分は閉所恐怖症気味なので想像するだけでザワザワします。
巡礼を進めて行くと、あちこちでかなりの階段があって階段を登ったり歩くことに嫌になってきている描写がところどころにそのまま掲載されていて笑ってしまいます。
このシリーズはその時の会話をそのまま載せてるのが面白い。
聖地のそばに世俗的なものが広がるのは、聖地の力を制御して成熟していない人間に「服用可能」な強度にまで抑制する働きを目指しているのでは(p227)
面白い考え方でした。でも内田先生が後書きにその場の霊的なものを感じようとしない人が多い、聖地のシグナルを遮断しているというようなことも書かれています。
聖地に俗なものを配置することが「服用可能な」強度にする目的だったはずかもだけれども、もはや薄めなくても現代人は聖性というものに鈍麻しているかもしれませんね。
(自分もそうかも)
身を置いて初めてわかることってたくさんありますよね(p237)
確かにそう自分も思いました。
これから先、どこにどれだけ行けるか分からないけれど、行きたいところには出来るだけ出かけていきたいと思いました。
とても面白く読みましたが、本筋の熊野巡礼とあまり関係ないところばかり自分には響いてしまったような(笑)面白かったからまぁ良いかな。