河合隼雄のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
コンプレックスとどう付き合っていくかを考えるヒントが得られたことと、コンプレックスは必ずしも悪いものではなく、成長のきっかけになるものだということが理解できたのが良かったです。
話題は、そもそもコンプレックスとは何か?から始まり、コンプレックスが人の心(自我)にいかに影響を与えているのか?コンプレックスをいかに乗り越えるか?と徐々に深まっていきますが、専門的な内容も平易な言葉で、具体例を多く挙げ説明されているので、興味深く読み進められました。
本の内容からは離れますが、文章の端々から河合隼雄さんの強い探究心と、自身の能力が有限であることへの自制の念が感じられます。見習いたい姿勢です。 -
Posted by ブクログ
「第一章 日本人の精神病理」が分かりやすく勉強になりました。
第二章以降の「ユングと出会う」、「日本人の深層心理」、「物語は何を語りかけるのか」は、いずれも深層心理を扱ったもので面白いし言っていることはわかるのですが、私にとっては書いてあることをそのまま受け取るしかなくという状況でした。河合隼雄をさらに何冊か読んでいけば「そういうことだったのか」と得心していくような気がしています。
★★★
それで、私にも分かった(ような気がした)第一章にどんなことが書かれているかというと、
母性の原理は「包含する」機能によって示される。そこにはすべてのものを良きにつけ悪しきにつけ包み込んでしまい、そこではすべてのものが絶対的な平等性をもつ。「わが子であるかぎり」すべて平等に可愛いのであり、それは子どもの個性や能力とは関係のないことである。
しかしながら、母親は子どもが勝手に母の膝下を離れることを許さない。それは子どもの危険を守るためでもあるし、母-子一体という根本原理の破壊を許さぬためといってもよい。このようなとき、時に動物の母親が実際にすることがあるが、母は子どもを呑みこんでしまうのである。
かくて、母性原理はその工程的な面においては、生み育てるものであり、否定的には、呑みこみ、しがみつきして、死に至らしめる面をもっている。
です。そしてタイトルどおり日本の病理はこの母性で全て説明が付くというわけです。
例えば日本には「場」というものがあるのですが、
わが国においては、場に属するか否かがすべてについて決定的な要因となるのである。場の中に「いれてもらっている」かぎり、善悪の判断を越えてまで救済の手が差しのべられるが、場の外にいるものは「赤の他人」であり、それに対しては何をしても構わないのである。
というドキッとすることにつながるというのです。
場については、もう一つ面白いことが書かれています。それは、
このためまことに奇妙なことであるが、日本では全員が被害者意識に苦しむことになる。下位のものは上位のものの権力による被害を嘆き、上位のものは、下位の若者たちの自己中心性を嘆き、ともに被害者意識を強くするが、実のところでは、日本ではすべてのものが場の力の被害者なのである。
この非個性的な場が加害者であることに気がつかず、お互いが誰かを加害者に見たてようと押しつけあいを演じているのが現代であるといえよう。
そして続けて、
場の構造を権力構造としてとらえた人は、それに反逆するために、その集団を抜けだして新しい集団をつくる。彼らの主観に従えば、それは反権力、あるいは自由を求める集団である。ところが既述のような認識に立っていないため、彼らの集団もまた日本的な場をつくることになる。そして、既存の集団に対抗する必要上、その集団の凝集性を高めねばならなくなるので、その「場」の圧力は既存の集団より協力にならざるを得ない。
母性原理を理解すると色々なことが腑に落ちますね。
★★★
日本の母性に対して西洋は父性というわけですが、父性とはどういうことでしょうか。筆者はこんなふうに書いています。
母なるものの力は「包含する」力であり、すべてのものを良きにつけ悪しきにつけ包みこむ。これに対して、父なるものは「切る」力をもっている。これは、ものごとを上と下に、善と悪に、物質と精神に、などと分けて考える。
……略
キリスト教は父性の宗教である。仏教や道教などが母性の宗教であるのに対して、キリスト教やユダヤ教は父性の宗教であるといわれる。
……略
これに対して父なるものの宗教は、父なる神の規範に従うか従わないかが決定的なこととなる。父との契約を守る選民のみが救済の対象となるのである。そこでは、神と人、善と悪などが判然と区別される。
日本的なものの見方と、西洋的なものの見方の違いについて理解が深まったように思いました。
そして、このような自我の違いについて理解しておかないと国際社会では、攻撃に対して憤りを感じたり、逆に無視されたように誤解したりするのでしょう。 これから国際社会で活躍する人は読んでおいた方が良いと思います。 -
Posted by ブクログ
まず、『大人の友情』というタイトルがいい。歌や本、映画の題名を考えるタイトラーという職業がある、と聞いたことがあるが、タイトル、つまり、本の名前によって、どれだけの人にその内容が届けられるのか、決まってしまう部分ってあると思う。
さて、内容は、河合節炸裂!
何事も断定的な言い方はせず、課題や疑問にふれつつも、大きな可能性を浮かび上がらせる、「あれ」です。
本当の友情、男女の友情、同性愛と友情、従来の関係を超えた友情、裏切りなど様々な視点を通して、本書全体では、あらゆる人間、いや、あらゆる生命との関係に激しさでなく、深さをもたらす「友情」のあり方を綴られていると思います。
もっと読み続けていたかった、というのが、正直な感想です。 -
Posted by ブクログ
忘備録。あとで読み直して体系的に考える。
Twitterで一番印象に残ったとこはフランクに書きました。そういえば、何年か前のセンターか入試かで題材になったようですね。
私が私として意識し得ること、私の過去の経験のうちで記憶に残っていること、現在の私の感じている感情、思考していること、それに知覚していること、などのすべてはある程度の統合性を有し、ひとつの人格としてのまとまりをもって存在している。
実際、自分の無意識に動かされて行動し、後になってから後悔しても、自らの破滅を防ぎきれないようなことが起こり得るのである。その無意識の心の動きを把握するものとしてイメージがあると考えられる。
夢ではなく、外界の知覚に際してもイメージの働きが認められるときがある。たとえば、他人に秘した悪事をもっていると、他人が話し合っているのを見るとすぐ自分のことを言っているのではないかと感じたりする。これは、無意識的な怖れの感情が、そのようなイメージを提供するため、外界の知覚を歪曲させるのである。
人はそれぞれその人なりの生き方や、人生観をもっている。各人の自我はまとまりをもった統一体として自分を把握している。しかし、ひとつのまとまりをもつということは、それと相容れない傾向は抑圧されたか、取り上げられなかったか、ともかく、その人にのって生きられることなく無意識外に存在しているはずである。その人によって生きられなかった半面、それがその人の影であるとユングは考える。 この夢に出てきたAは、本人の生きなかった半面をあらわしている。
自分の生き方と相反する傾向をもつ影の存在と、それを通じてこそ人生の意味を深めることができることを示している
普遍的な影は人類に共通に受け容れがたいものとして拒否されている心的内容であるので、それは「悪」そのものに近接してゆくか、個人的な影は、ある個人にとって受け容れがたいことであっても、必ずしも「悪」とは限らないのである。
自我 意識の統合の中心
自己 意識、無意識を含めた心の中心
真の自己へと近似しつづける過程を、ユングは自己実現の過程と名づけたのである。
(投影に関して)このとき大切なことは、Xに対して強い悪感情を抱いたとき、自分の個人的影を越えて、普遍的な影まで投影しがちになるということである。
その人物に対して投げかけていた影を、自分のものとしてはっきりと自覚しなければならない。投影のひきもどしは勇気のいる仕事である。
白い影の投影もある
すべてはユダヤ人の悪のせいであることにすることによって、自分たちの終段の凝縮性を高め、集団内の攻撃を少なくしてしまう。(中略)それは多数のものが、誰かの犠牲の上にたって安易に幸福を手に入れる方法であるからである。
(永遠の少年)彼等は慣習にとらわれず、直線的に真実に迫り、理想を追い求める姿勢をもっている。(しかし)理想を追いつつそれを現実化する力に欠ける。(中略)彼等は自分が社会に適応できないのは、自分の特別な才能が理解されないためであるとか、こんな誤った社会には適応する必要がないのだとか自分に言いきかせて、その無為の状態を合理化している。
影が個人に体験されることとしては、「まず無意識の全体として体験される」と述べたように、相当未分化な影の体験として考えることが妥当であろう。その影のどのような面に強調点がおかれているかによって、コンプレックス、超自我、魂などの言葉によって、より適切に表現されることになるのであろう。
それまで自我によって極端に抑えられていた影の部分が、自我の弱くなったときに一挙に行動化される
ある個人が自立してゆこうとするとき、父親や母親の死(ときには父親殺しや母親殺し)の夢を見ることは多い。
人々は自分の考え及ばないことはこの世に存在しないと確信する。(中略)人間の心の奥深く存在する普遍的な影は、人々がそれを考え及ばぬこととしていかに否定しようとも、突如として人間をとらえ暴威をふるうのである。
影の世界には動物がよく現れる。人間の暗い側面には動物的で本能的なものが存在しているからであろう。
彼(ユング)はその『自伝』の中で、「人間にとって大切な『個』としての感情を強めるには、その人が守ることを誓った秘密をもつことが一番いい方法である」と述べている。地底の世界が地上の世界を支えるように、秘密は個人の意識の底の方に存在して、個の存在を強固にするための支えとなっている。しかし、事柄はそう単純ではない。われわれはこれとは逆に秘密を心にもったばかりに、自分を破滅に導いてしまったようなケースもすぐに示すことができる。地底の世界は地上の世界を抗しがたい陥没にさそいこむこともあるのだ。
秘密を内証の話として誰かと共有し合うことによって、相互の間の堅固なきずなとして利用し得るからである。秘密をどの程度打ち明けるかによって相互の親密性が測られる。しかし、この親密性はうっかりすると無意識的な結合による近親相姦的な親密性へと退行しやすい。秘密の共有によって結ばれた集団は堅固ではあるが、その集団の成員の個性の伸展を妨げることがある。(中略)秘密の共有による集団的同一性に自分の存在の基盤をもつときがあっても不思議でないどころか、むしろ当然のことである。ただ、このような人間関係にのみ頼りたがる人は、他人の秘密を知りたがる傾向をもつ。特に、その人が自分の存在に対して不安を感じる度合いが強いほど、他人が秘密をもつことに耐えられないものである。
秘密は自我の存在を脅かすと言った。しかし、そのような脅かしに耐え、自我がその秘密を自我の中に取り入れようと努力しつづけるとき、その個人はむしろ個性実現の道を歩みつづけることになろう。
秘密を明らかにしようとするとき、あるいは明らかにせざるを得ないとき、その個人が新しい生き方を見出そうとしないときには大きい危険に陥ることになる。それだけの強さをもっていないときに、誰彼なく秘密を打ち明けることは危険である。
われわれは、ある人が自立してゆくとき、われわれに対して秘密をもつことを許容すべきときがあるのではなかろうか。
道化のチャップリンは清らかな女性に献身的な愛を捧げるが、その恋は報われることがないのである。
トリックスターは単なる人騒がせの段階から英雄的行為の段階までひろく分布しているのである。
ある個人がトリックスター的な機能をあるときに働かせているということと、ある個人がトリックスターの元型に同一化されているときとを区別しなければならない。(中略)ある人が人生を創造的に生きようとするかぎり自分の心の内部のトリックスターと常に接触を失わないことが必要であることは事実である。王や英雄への同一化を急ぐばかり道化性を失ってしまった個人は、いかに弾力性に欠け、危険性に満ちたものとなるかはすでに見てきたとおりである。
実際、夢の層が深くなるとき、それは神話や昔話などのような蒼古の感情を夢見る人に体験せしめるものだ。
われわれはあまりにも馬鹿げた失敗を繰り返すときには、どのような類の影が自我に働きかけようとしているのかについてよく考えてみることである。(中略)影が普遍的なものに近くなり、はたらいている層が深くなるほど、自我の受ける影響は不可解なものとなる。それは第三章に述べたように、幻覚となったり、妄想となったりする。そのインパクトの強さのため、われわれは外界と内界の識別さえ難しくなるのであろう。
自我が影とのあいだに適当な関係を結ぶときは、創造的で意味のある生き方がひらけてくるのであるが、そこには常に危険がつきまとう。もし影の力があまりにも強いときは、自我は破壊されるだけである。
影と適当な関係ももち、その内容をできるかぎり自我に統合することをはかること、これが望ましい在り方である。ここでそのステップの第一として「名づける」という自我の機能があげられる。あまりにも未分化で漠然とした影に直面するとき、われわれはその対象の不明確さによって不安にならざるを得ない。そこで、せめて相手の名前を知ること、あるいは相手に対して適当な名前をつけることが影の自覚の第一歩としての意味をもつのである。(中略)名づけることは大切なことであるが、この段階にとどまっていることは無意味である、あるいはむしろ、マイナスのことにさえなりかねない。すなわち、名前を知ることによってすべてのことが解ったと錯覚し、それによって影と直面することを避けてしまうからである。(たとえば「学校恐怖症」)(中略)名前を知った後で、われわれはその対象をよく知らねばならない。
われわれが自分の生をより十全に生きようとするならば、同時に「死につつある体験」をもそこにあわせもつことが必要であろう。ここに「体験」という言葉を用いたが、それはその個人の経験したことが自我の中に取り入れられ、今後のその人の生き方の中に定着していることを意味している。多くの人は経験したことを、真の体験にまで深めることなく生きている。たとえば、われわれは生きていることが「死につつある」ことを、よく忘れてしまっている。
影は自我の死を要請する。それがうまく死と再生の過程として発展するとき、そこには人格の成長が認められる。しかしながら、自我の死はそのまま、その人の肉体の死につながるときさえある。このような危険性を含んでいるだけに、自我はときに影のほうを死に追いやるときがある。
影との対話は、われわれの内面においてもなされるが、それはしばしば影の投影を受けた実在の人との対話という形で行なわれる。
街へ帰って行く道すがら、彼はハラの最後の表情を思い浮かべた。後悔の気持ちはだんだんと大きくなり、自分の本能的な行為を押しとどめた上品な意識を悔やんだ。
相手の世界にほんの少し踏みこむことによって対話が始まる。
二人の人間の対話が真に建設的なものとなるためには、お互いが他に対して自分の影を露呈することがなければならない。しかし、これはきわめて難しく、成熟した「時」を待ってはじめて可能なことである。
影と創造性
自己実現の要請は必然的に影の介入をもたらし、それは社会的な一般通念や規範と反するという意味で、悪といわれるものに近接する。そのときに、社会的通念に従って片方を抑圧しきるのでもなく、また、影の力を一方的に噴出せしめるものでもない。あくまでも両者を否定することなく、そこに調和のカイロスがいたるのを「待つ」のである。そして、そのときに開かれる「第三の道」は、確かにその人自身のものとして、その人の真の意味の個性を際立たせるのである。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ今週おすすめする一冊は、心理学者で元文化庁長官の河合隼雄氏に
よる『河合隼雄のカウンセリング教室』です。タイトルからもわか
るように、本書はカウンセリングを学ぶ人のための連続講座を文章
に起こしたもので、もともとは専門家向けのものです。しかし、基
本的な内容ばかりですし、一般向けと考えて問題ありません。
特に、人との関係のあり方を考え直してみたいと思っている方、人
の話を聞くことに苦手意識を持っている方、人を受け入れることに
困難を感じる方、には得るところの多い内容になっています。
対象が仕事であれ、家族であれ、私達が向き合うのは人間です。人
間を離れた抽象的な仕事や家族は存在しません。そして、具体的な
人間と向き合い、関係し合う時に問われるのは、自らの人間観です。
ここで言う人間観とは、その人なりの人間に対する理解と言い換え
ても良いでしょう。そして、人間に対する理解を深めるためには、
自分自身に対する理解を深めないといけません。結局、人と向き合
うためには、自分と向き合うことが不可欠なのです。
人と向き合い、自分と向き合う上で、臨床心理学は多くのヒントを
くれます。特に、向き合う「態度」については多くを教えられます。
日本における臨床心理の第一人者である河合氏の「態度」を貫くの
は、「全体性」と「関係性」という二つの言葉です。「全体性」と
は、人を部分では見ず、常に全体として見るということ。つまり、
見えていない部分も含め、その人の可能性を信じるということです。
そして、「関係性」とは、自分から相手との関係を断ち切らない、
なんとしてもつながろうとする、その関係性の中で相手とのあり方
を考えるということです。どちらも人間として、とても大事な、基
本的態度ではないかと思います。
本書の中には、「カウンセラー」「クライエント」という言葉が頻
繁に出てきます。「カウンセラー」を「自分」、「クライアント」
を「自分の相手」と置き換えて読んでみてください。「相手」は上
司でも部下でもパートナーでも友人でも恋人でもいい。きっとより
深くその相手と向き合い、関係し合うためのヒントが見つかるはず
です。是非、読んでみてください。
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▽ 心に残った文章達(本書からの引用文)
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「ここは何でも話をしていいところですから、十分に話をしてくだ
さい。何でもいいんですよ」と言う人がいるんですが、そういうこ
とは言われれば、言われるほど「こんなやつに言うか」という気が
起こってきたりするんですね。(中略)大事なのは言葉で言うこと
ではなくて、自分の態度がどんなに開かれているか、どれだけ待つ
ほうに傾いているか、ということです。
一般にわれわれは「なぜ」と言うのが好きです。(中略)しかし、
「なぜですか」というのをしばらくやめてみませんか。直接「なん
でですか」と言うよりも、この人間はいったいどういう考え方で生
きているのだろうか、どんな生き方が好きなのだろうかというよう
に考える。すぐに、「なぜ」とか「どうですか」と言うよりは、ゆ
っくり構えていこうとするほうが、人間理解というのが意味をもっ
てくるかもしれません。
結局、人間理解というのはだんだん自分自身をどれくらい理解する
かという問題になってきます。そして、それをやり抜かないと人間
理解はなかなか深まりません。
ある意味で言うと、カウンセラーは試されていると言えます。「い
ったい、あなたはどんな人ですか」ということを、正面からぶつけ
てきていると思ってまちがいありません。
人間には考え方がいろいろあるし、生き方もいろいろあるのだと思
いながらやっていないと、クライエントが来たときに、自分の考え
方で「こうしなさい」「ああしなさい」と言いたくなったり、こち
らの考えを押しつけてしまったりすることになりかねません。(中
略)われわれの考え方をクライエントに押しつけるためにわれわれ
は仕事をしているわけではありません。話をじっくり聞いて、一緒
に考えていくということがとても大事だと思います。
不思議ですが、変化するときにはいろいろマイナスのことが起こっ
たりします。(中略)マイナスのことが起こることによって転機が
訪れるということは、よく覚えておいてください。そのかわり、そ
れはまさにのるか反るかの事態です。ほんの少しでも悪いほうへい
くと、ものすごく悪いほうにいきます。逆に、少しよいほうへいけ
ば大きく変わります。
「悩んでいる人」こそが強いのです。悩んでいる人は何とかしよう
という力をもっているし、何とかしようという意欲をもっている。
(中略)悩んでいる人、悪いことをしている人、変なことをしてい
る人というのは、可能性を秘めていると思えばよいと思います。可
能性をもちながら、その可能性を生きられないので、何か変なこと
が出てくるのです。健康な人というのは、ある意味処置なしで、そ
れ以上変わる可能性はありません。
対話というのは、相手の痛いことを言わないと本当の対話にはなら
ない。「あなたはこういうところがある」「おまえはこういうとこ
ろがある」と、そこに踏み込みながら、しかも仲よく家族としてや
っていけるか。そういうことを本気でやろうと思うと、普通ではで
きない。子どもが学校へ行かないとか、子どもが万引きしたとか、
子どもが死にたがっているとか、そういうことがあって、「これは」
というときから本当の対話が始まるのです。
家族のことをよく見ていると、自分がどう生きるとよいのかがわか
るように思います。家族が私の職業によって何か損なわれるという
のは、やはりクライエントのためにもよくない。そこが大事だと思
います。(中略)全体としてバランスがとれてうまくいくようにす
る。その「全体として」という中に自分の家族が入っているという
ことはすごく大事なことではないかと、私は思っています。
家族というものが単に自分を支えてくれるというだけではなくて、
家族とのあり方ということで自分がチェックされている。家族を見
ていると自分がどの程度に生きていたらよいかがわかる。そう言っ
てもよいのではないでしょうか。
人間の心というものも、酒造りと似ていて、ゆっくり醸成されるも
のではないでしょうか。ゆっくりつくり上げていかないとだめなよ
うなところがある。せっかく麹がうまくできかかっているのに、
「まだできあがらんかな」と何回も覗いていたら、だんだんおかし
くなって酸っぱくなってしまいます。
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●[2]編集後記
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先月三歳になったばかりの娘は、今、トイレトレーニングの真っ最
中です。まだまだ漏らしてしまうことも多いですが、出したい時に
出すことを随分と覚えたようです。オシメはもうほとんど卒業です。
初めておしっこが出来た時の娘の嬉しそうな顔は今でも忘れられま
せん。何とも言えない達成感と満足感に満ちた笑顔でした。できな
かったことができるようになるというのは、本当に嬉しいことなの
ですね。人はこの喜びを感じたくて自ら成長するのでしょう。
娘の成長を見ていると、当たり前のことが当たり前にできることの
凄さということを痛感します。寝返り、ハイハイ、歩行、言葉、お
しっこ・・・。何一つこちらは教えていません。教えないのに、気
付くと勝手にできるようになっている。遺伝子にインプットされて
いると言ってしまえばそれまでですが、それにしたって、どうして
こんなふうにできるようになるのか不思議でしょうがありません。
そういう目で見ると、生物が生きて動いているということ自体が本
当に不思議に思えてきます。この週末、畑で娘と一緒にミミズを観
察していたのですが、ミミズというのも改めて眺めてみると相当に
不思議な生き物ですよね。くねくね動くその動きも、何色とも形容
しがたい光り輝くお腹の色も。この世界は本当に不思議に満ち満ち
ています。
そうやって世界の不思議さに気付くと、世界の有り難さを実感しま
す。当たり前だと見過ごしていたことがいかに、特別なことなのか。
それは「なかなかない」という意味で「有り難い」ことなのだと今
更ながらに教えられます。娘のおかげでこの有り難い世界に自分が
生きていることに感謝ができるようになりました。本当に有り難い
ことです。娘の存在には感謝しても感謝しきれません。 -
Posted by ブクログ
ネタバレいやはや、心理とは難しい難しいとは思ってはいたが、改めて分からないことだらけだと痛感。ただ、その「分からない」と言う河合隼雄の言葉には深みが感じられた。
「発見的に分かる道をともにするためには、”分からない”と自覚する謙虚さが必要だが、これはまったく自身がないのとは異なる。自信がないのはハナからまったく分からない人である。”分かる”に分からないをつなぐ人は分かる自信と分からない謙虚さを持ち合わせている」
つなぐ。大事なことだと思います。下線引いたり太字にできるならそう表示したいです。
全てはわからない。分かる部分に分からないをつなげて分かろうとすることが臨床心理士の仕事だと河合隼雄は言う。臨床心理士の仕事とは何か?-100人の臨床心理士に聞けば100通りの答えが返ってきそうである。自分の中で、この答えはその一つ目として心にしまっておくことにします。
それにしても、この河合隼雄の本をもっとたくさん読みたくなってきた。(この本は河合隼雄だけが書いた訳じゃないですが・・・南しんぼうさんのかいた部分もおもしろかったdす、もちろん。)次は「人の心はどこまでわかるか」に挑戦してその後色々読み込みます。