あらすじ
ひとりひとりの子どもの内面に広大な宇宙が存在することを、大人はつい忘れがちである。臨床心理学者として長年心の問題に携わってきた著者が、登校拒否・家出など具体的な症例や児童文学を手がかりに、豊かな可能性にみちた子どもの心の世界を探究し、家出願望や秘密、老人や動物とのかかわりが心の成長に果す役割を明らかにする。
...続きを読む感情タグBEST3
Posted by ブクログ
「子どもの宇宙」という題にふさわしい。
誰しも子どもの頃に宇宙を持っていた、その宇宙は果てしなく広く、大人は何もわからないし、分かろうとしてくれただろうか。
「大人になるということは、子どもたちのもつこのような素晴らしい宇宙の存在を、少しずつ忘れ去ってゆく過程なのかとさえ思う。」1
子どもに接する機会のある方(いわゆるすべての方なのだが)にぜひ一読していただきたい。ふとした言葉や行動を何気なく子どもたちは見ている。それら行動の一つ一つが子どもの宇宙にどのように影響するのかはわからない。分かろうとすることはできるが、それが正解かもわからない。
詰め込み教育といわれ、数字のみで評価したりされたりする機会が増えてきた。大人だけでなく子どもたちも数字で評価している。それだけでは何も生まれない。子どもたちに自分自身の宇宙を探るような導きをしたいものである。
読書メモ
秘密をもつということは、取りも直さず「これは私だけが知っている」ということなので、それは「私」という存在の独自性を証明することになる。48
秘密を打ち明け、それを共有してゆこうとするとき、それに伴う苦しみや悲しみの感情も共にしてゆく覚悟がないと、なかなかうまくはゆかないものである。59
この世の何らかの存在を「絶対的」と思うことは素晴らしい。しかし、それは必ずどこかで裏切りに会わなければならない。この世のものには、そもそも、絶対なんていうものはないのだから、これは致し方ないことである。121-122
方向性が明確に定まっているところでは、指導者や教師が活躍する。彼らは「正しい」かについて確信をもっており、同じことを繰り返し言っておればよい。135
この文章は本質をついていると感じる。このような大人ばかりでは子どもたちもつまらないだろう。
恋は人を盲目にし、自分と恋人以外のものは目にはいらなくなる。しかし、人間がこの世に生きていくためには、どうしても自分たち以外のものへの配慮が必要であるし、それに気づいたとき、恋するものの苦悩がはじまる。この苦悩によってこそ人は鍛えられ、成長するのだ。苦しみのない恋はあまり意味がない。193
権威とぶつかる勇気もなくて、異性と出会おうとするのは虫がよすぎるのである。202
これらはすべて本書にある文章で、子どもを知ることは自らの成長につながることが分かるのではなかろうか。子どもと接することを忌避することなく自らを成長させていきたいものである。
Posted by ブクログ
学生の頃読んだものを再読。
子どもの心や頭にある(そして大人である我々が手放してしまった)広い宇宙に想いを馳せながら、その宇宙を汚すことなく子どもと向き合うための指南書。
教育や福祉で子どもに関わる人にはぜひ読んでほしい。
Posted by ブクログ
かつて子どもだった時の、あの、言葉では言い表すことができなかった様々な思いとこの本の中で再会することができた。あの時はとてつもなく重要なことだったのに、いつの頃からか段々と考えることをやめてしまったなぁ…
子どもには子どもなりの道理がある…そのことを忘れずに子どもの話に耳を傾けることができる大人でありたい。
Posted by ブクログ
子を持つ親として大変勉強になった。
約35年前に書かれた本だが、今の子供にも変わらず宇宙はあるはず。
児童文学の深さにも驚き。大人こそ読むべきなのかもしれない。
子供の秘密や自立などの「時」が来たときに、親の言動が子供の魂を殺していないか、また思い出して読みたい本。
Posted by ブクログ
教育や心理学で、これまでの中で一番いい本に出会えたと思った。
やさしい時代があった。親が子を変えるのではなく、子が親を整える。現代では身体性を見失って、妄想がコレクトネス化して来ているように感じる。子供を教育するのは一定の人間と考えるようになってしまっている。自分達は、自然や環境から影響を受けるという説に従うクセに。
児童文学が心を打つことを思い出せた。また文学も青年期の心を整えることを感じられた。ルールルールで人情味が失せた時代に、子供だけでなく、人はどうしたらいいか、感じられた。
Posted by ブクログ
(基本星をつけるのは、システム上評価によって新しい本と出会いたいがためにやってるんだけど、)著者の子どもへの強い思いに共感して☆5にしたい。
子どもの内にある宇宙は途方もなくすばらしいのに、基本この世界でかれらの声はかき消されがちだから。
著者の他の本での引用時以上に、ここで引用した児童文学を読んでくれ〜〜という推しを強く感じられたので、引用されているものはもちろん、紹介されているもの以外の本もぜひ読みたいと思う。いつもこの著者の紹介している本を読むのが楽しみ。
Posted by ブクログ
河合隼雄先生のまなざしを追体験できたような、そんな読後感をもった。いいかえれば、すこし優しくなれるかもしれない、と思った。児童文学への導きとしても参考になる。引用された作品はどれも知らないものだったが、その魅力をひきだす河合先生の語りに誘われ、いくつも興味をもった。以下引用。
私は心理療法という仕事を通じて、多くの子どにも大人に会ってきたし、そのようなことについて報告を受けたり、指導をしたりすることを長年にわたって続けてきた。そして、私は実に多くの子どもたちが、その宇宙を圧殺されるときに発する悲痛な叫びを聞いた。あるいは、大人の人たちの話は、彼らが子どものときにどれほどの破壊を蒙ったか、そしてその修復がいかに困難なものであるか、ということに満ちていた。彼らの発する悲痛な叫びや救いを求める声はまったく無視されたり、かえって、「問題」だという判断 のもとに大人たちからの圧迫を強めるだけに終ったりした。本書を書こうとする私の主要な動機は、そのような宇宙の存在を明らかにし、その破壊を防止したいからに他ならない。 p.6
ラモーナはその夜、寝室の鏡に自分の顔を映してみた。
「どうして、だれも、わたしのことを、いちどもおかあさん子ねっていわないんだろう? ラモーナは、考えました。どうして、おかあさんは、あたしのこと、この子なしにはやっていけませんわ、と言わないんだろう?」
ラモーナがこのように考えて悩み、眠れずにいるときに、ラモーナの両親は、自分たちの何気ない言葉や行動が、愛する娘の心をどれほど傷つけたかなどとは露知らず、パーティの疲れの後で安らかに眠っていることであろう。親は自分が子どもを愛しているということに、あまりに安心しすぎている。どれほど愛しているにしても、その愛をいかに伝えるか、ということ、 それに、愛していることにかまけて、自分たちの行っている行為を子どもたちがどのように受けとめているか、を知ろうとすること、などにおいて努力しないのは、親として怠慢であると言わねばならない。 p.15
『クローディアの秘密』のなかで、クローディアは、「人が秘密をもってたとしても その人が秘密をもってることをだれも知らないと、そのうちつまらなくなっちゃうから。それで、その秘密が何かってことは人に知られたくないけど、せめて秘密をもってるってことくらい、人に知られたくなるのね」と言っている。秘密の扱いというものは、なかなか厄介なものである。それをいつまでも自分だけでもっていたいという気持と、誰かと共有したいという気持との相克の間に存在している。このことは、取りも直さず、アイデンティティというものが、あくまで自分だけに固有のものでありつつ、他の人々とのつながりのなかに、存在しなければならぬというパラドックスをもつことと相応するのである、と思われる。 p.52
「王様の耳」の話を、王様の立場から考えてみよう。王様にとって「ロバの耳」は運命によって与えられ、いかんともし難い欠陥であった。彼にとって出来ることは、あらゆる手段を講じてそれを隠し通すことであった。そのためには、殺人ということも避けられなかった。王の犯した多くの「殺人」は、彼が秘密を守るために、どれほど多くの「感情を殺し」、「人間関係を殺し」てきたか、と考えると了解しやすいだろう。実際、われわれは自分の欠点を隠すために、どれほど多くのことを殺すことだろう。 p.55
「三十歳近くなって、今更子どものときの痴漢のことなど言い出して……」という母親の認識は、ひとつの事実の認識としてそれほど間違っていないかも知れない。しかし、娘が母親に共有を願った「秘密」の意味は、母親の感じ方をはるかにこえる深さをもっていた。母親の何気ない拒否は、娘にとって世界からの拒否とさえ受けとめられ、死ぬより他にないと感じられたのではなかろうか。この女性にとって、痴漢に襲われたことは、人生の恐ろしさ、不可解さ、 それらすべてを凝集でした体験であったのである。それは簡単に言語化できるものでもなかった。それは身体的とか精神的とか区別して呼べるような体験ではなく、存在そのものにかかわる体験なのであった。 p.57
登校拒否の子に対して、どうしたら登校できるか、登校拒否の原因は何か、などと短絡的な発想に陥らず、心理療法家はまず、子どもとその世界を共有しようとする。この例の場合でも、治療者は「絵、音楽、テニスなどを介して」少しずつ二人の共有できる世界をつくりあげていったと述べている。そのような地味な努力に裏づけられ、時が熱したときに、一匹の犬が二人の前に現われる。汚い犬を自ら抱きしめることによって、少女は自らが「けがされた」と思い込んでいた経験についての秘密を、治療者に告げることを決意する のである。
このような全体の流れ、「時熟」するときの素晴らしさを味わうことなく、これらの話から、「登校拒否の子には動物を与えるとよい」などと判断するのは、誤解も甚だしいと言わねばならない。動物にしろ、「とき」にしろ、やってくるのであって、人間が与えたり、しつらえたりできるものではない。あくまで子どもの主体的な動きによって、動物とのかかわりが生じてくること、それを意味あるものとするのに必要な、子どもとの人間関係をもつ人が存在していること、などが大切な条件であることを忘れてはならない。 p.87
ところで、ノンちゃんは自分のことを話すとき、自分がどれほど「よい子」であるかについて語った。すると、おじいさんは「なんじゃい! それじゃ、おまえ、まるで修身の目次を読んどるみたいじゃないか」と言う。その上、「そういう子は、よくよく気をつけんと、しくじるぞ!」とまで言うのである。それまでは「よい子」だと誰からもほめられていたノンちゃんは、これを聞いて不安になってしまう。それに対して、おじいさんは「人にはひれふす心がなければ、えらくはなれんのじゃよ」と教えてくれる。 p.124
しかし、人間の生き方というものはそれほど一方向に規定できるものであろうか。あるいは、 何が「正しい」かそれほど簡単にきめられるのだろうか。人間の魂はそれに対して、強く 「否」と叫ぶだろう。たとえば、洋は同級生の白石なぎささんや、ふと電気科学館で知り合った、京都に住む島恵津子さんなどとつき合いたいと思う。洋の魂がそれを呼びかけるのだ。しかし、当時の道徳律は、そのような軟弱なことをはっきりと「悪」ときめつけるのである。佐脇さんはそれに対して、何がよいとか、まちがっているなどと論じたりはしない。ただ、洋が 「女の子」たちとつき合えるように援助し、それを妨害しようとするものには敢然と立ち向ってゆくのである。導者は社会的規範や、指導者の言葉にまどわされることなく、魂の呼びかけに応じてゆく。そこでは、言葉より行為が、概念や規範よりも人間存在そのものが、重みをもつのである。 p.136
森崎は、まっとうに答えられぬ自分を責め、「ただひたすら、一緒に生きるからゆるしてね」と心から思っていると、
『 そのうち、子がわたしの背へちいさな手をのばし、撫でつつ言った 。「泣かないでね、もうこわいこと言わないから」 』
母の涙を見て、子どもはけなげにもを慰めようとしている。大人が本当に心を開いて接したとき、大人と子どもとの地位が反転するときがある。三歳の子は、母の涙によって慰められ、 またその母を慰めようとしている。これほどの母子の心の深い交流が、「死」を契機として生じていることにも、注目したい。死を遠ざけて生きている人は、真の心の交流を体略することは非常に難しいであろう。死は真剣に取りあげられる限り、生に深みを与えてくれる。 p.159
ところで、バーバラはロスを連れ出して、近くの墓地にゆき、ある墓石を示して 「お母さんはこれをどう思うか」ときく。見ると、その墓石には、ある家族の四人の名が記されており、そのうち二人は死んでいて死亡日が記されていたが、二人は生きているので、生まれた日だけで死亡日が記されてなかった。言わば、生きているうちに早手まわしに墓がつくられていると言うわけである。これに対して、ロスは「これは少しばかりやり過ぎじゃないの。死んでから名前を入れたって遅くはないでしょうに」と言う。すると、 バーバラは大きな安心の吐息をつき、母親に抱きつき、「ありがとう、私の知りたかったのはそれだけ」と言って、大いに満足の様子を示した。
ロスはこのことに大いに感激した。バーバラが母親に言いたかったことは何なのだったろう。 彼女が言いたかったことは、死の問題を取り扱うのはいいけど、お母さんはやり過ぎて止まるところがわからなくなるのじゃないの。死人も生きてる人も一緒に考えてしまって、ワークショップが終っても、普通の生活に戻れないのじゃないの、ということだったのだ。それを、墓石の名前の一件を尋ねることによって、見事に確かめ、母親が止まるところを知る人であるこ とを明らかにし、安心したのである。 p.164
彼女が息を引きとったとき、他家に嫁いでいる姉から電話があり、次のような夢を見たと報せてきた。《 気がつくと白い上衣に赤いはかまをはいた舞美子(この少女に山中がつけた名)が枕元に三つ指ついて坐っている。「これまで大変永らくお世話になりました。お母さん、お父さんを大切にしてあげて下さいね。それでは……」と言って、すっと宙に浮き、だんだん身体が小さくなって、神棚の戸を開けてその中に入っていった。 驚くべきことに、これと同様の夢を少女の伯母も見ていたことがわかったのである。…(中略)…
心理療法の仕事をしていて、特にそれが死にまつわることであるとき、このようなまったく不思議な現象に出会うことが多い。われわれはこれをどう説明するかなどと言うよりも、事実は事実として受けとめ、そこにこめられた意味について考えてみるべきであろう。少女の姉と伯母が見た夢は、彼女の短い、苦しみの多い人生が決して無意味なものではなく、普通の長い一生よりは、はるかに高い次元において達成されたものであることを告げているように思われる。彼女は満足して逝ったことを、最後に家族たちに告げたくて、その夢に現われたとさえ感じられるのである。 pp.172-173
マルティンの父は彫刻家になろうと努力したのだが、逆に自分の才能に見切りをつけ、電気製品のセールスマンになって生活している。このため収入は増え、生活は随分楽になった。マルティンはこのような父の生き方に対して、何か割り切れぬものを感じていた。ある夕食のとき、マルティンはそのことにひっかかり、もし自分に父親ほどの才能があったら、「電気製品のがらくたなんか持って走りまわったりしないな」とずけずけと言う。父親は「自分の望みが何かを考えるのは自由だが、三十年たったらおまえの考えも変わるだろう」と平然としている。マルティンは腹が立ってますますつっかかっていく。このときの父親の態度が素晴らしい。父は静かにマルティンに言った。
「おれは、おまえの望む父親ではないだろう。理想の父親とか、そんなんじゃないだろうよ。 だからといって、おれを傷つけることは許されない。おれがおれ自身にいうのをはばかったこと、それをおまえがいっていいと思うのはまちがいだ。おまえが知りたいのならいうがね、 おれは自分自身と戦って、考えぬいたのだ。そして、ある日、はっきりと悟った。おれの才能、 その限界。おれの才能は、はたして自分の家族を飢えにさらす価値があるのか、計りにかけ、 その価値なしと認めて、真剣な気持でパンをかせぐことにとり組んだんだ。さあ、おれは今、 静かに食事をしたい。」 pp.200-201
Posted by ブクログ
p.47
子どもが成長し、傷ついた心が癒されてゆく過程において、秘密をもつことがどれほど大切であるかがよく示されている。しかしその秘密は、育てられ、親しい人と共有され、最後にはすべての人の前に開示されるものへと変化し、発展してゆくものなのである。
→ 読書会入門で紹介される猫町UGの魅力とは「仲間との秘密の共有」なのだろう。閉鎖された安全な空間で極上の秘密を感情とともに共有・遵守することで、アイデンティティが確立される。それは、さなぎが蝶に変化を遂げるほどの激変を起こすこともある。のでは、なかろうか。
p.38
子どものことを述べているつもりが、知らぬ間に大人の深刻な問題に変わってきてしまった。これは最初にも述べたとおり、子どもの宇宙について知ろうとするのは、大人の宇宙について知ることになる事実を示している。変革者としての子どもは、大人の中に住んでいる、とも言えるのである。
→ 子どもが大人を見て学ぶように、大人も子どもをよく見て学ぶ必要がある。魅力的な人物ほど、子供っぽさを大切にしているものだ。
p.59
秘密を打ち明け、それを共有してゆこうとするとき、それに伴う苦しみや悲しみの感情も共にしてゆく覚悟がないと、なかなかうまくはゆかないものである。
→ 人が大きく成長するとき、感情が如何に重要な要素であるかを理解しておく必要がある。
p.68
この例を見てもわかるとおり、治療者にまず要求されることは、子どもの心に探りを入れたり、測定したり分析したりすることではなく、子どもの心の細やかな動きに敏感に反応し、そこに示された世界のなかで、できるかぎり共に生きようとする、感受性とコミットする姿勢なのである。
→ エスノグラフィー、行動観察の基本がこんなところでも語られています。今、自分の中で行動観察が熱いということか。
p.134
導者としての老人像を見事に描ききった作品、今江祥智の『ぼんぼん』を取りあげる。
→ 児童文学作品がどれも魅力的に語られますが、特にこの作品を読みたいと思いました。
本書で紹介されている文学作品で読みたいと思ったもの
・クローディアの秘密 カニグズバーグ著 p.24
・秘密の花園 バーネット著 p.42
・トムは真夜中の庭で フィリパ・ピアス著 p.105
・ぼんぼん 今江祥智著 p.134
・ジョコンダ夫人の肖像 カニグズバーグ著 p.140
Posted by ブクログ
遊戯療法の事例や児童文学を例にあげながら、子どもの心がもつ深くて広い宇宙について解説する。子どもへの温かい敬愛の情が、全編に渡って文章を通して伝わってくる。子どもは単なる小さな半人前の存在ではなく、それぞれに確固たる心を持って成長してゆく存在であることを、自分もそうだったと重ね合わせて思い出した。もっと子どもの心に触れるために、紹介されている児童文学を読みたくなった。
Posted by ブクログ
なぜ、こんなにも読み返してしまうんだろう。
特に、「子どもと秘密」「子どもと時空」は印象深い。 子どもの宇宙ってタイトルだが、大人にもそれぞれ宇宙があるはず。 “子ども”という存在を通して、私たちは宇宙を感じやすいのだろうけど、 みんな宇宙を持っている。大人の宇宙を大切に出来ていない人が、子どもの宇宙を大切にしようとしてもできないでしょう。大人になると宇宙はなくなるっていう人もいるけど、そこにアクセスすることができていないだけなのでは。
Posted by ブクログ
さまざまな外国文学などを取り上げながら、そこで生まれる親子、兄弟間の心理を精細に読み取っている。思わず、この本も改めて読んでみたいと想うし、自分の子ども時代を振り返って、心当たりがある箇所がたくさんあった
それにしても、河合さんの子どもに対するまなざしはあたたかい^^
Posted by ブクログ
子どもの無限の可能性を示唆している本。実際の例を出したり、児童文学を読み解くことによってうまく子どもの中の宇宙の一端を読者に紹介していると思う。
紹介されている児童文学も面白そうなものがいくつかあったのでまた読んでみたい。
Posted by ブクログ
この本自体が宇宙ではないかと思われるくらい、広がりがある。子どもの宇宙を守れる大人になりたい。強くそう思う。大人が思っている以上に子どもはすごい。そう痛感した。
この本には様々な児童文学が紹介されている。どれも面白そうで手に取ってみたいと思うものばかりだった。
Posted by ブクログ
・この宇宙のなかに子どもたちがいる。これは誰でも知っている。しかし、ひとりひとりの子どものなかに宇宙があることを誰もが知っているだろうか。それは、無限の広がりと深さをもって存在している。大人たちは、子どもの姿の小ささに惑わされてついその広大な宇宙の存在を忘れてしまう。大人たちは小さい子どもを早く大きくしようと焦るあまり、子どもたちの中にある広大な宇宙を歪曲してしまったり、回復困難なほどに破壊したりする。このような恐ろしいことは、しばしば大人たちの自称する「教育」や「指導」や「善意」という名のもとになされるので余計にたまらない感じを与える。
私はふと、大人になるということは、子どもたちの持つこのような素晴らしい宇宙の存在を少しずつ忘れ去ってゆく過程なのかとさえ思う。それでは、あまりにもつまらないのではなかろうか。
(僕は覚えている。4歳の時の自意識と、今の自意識、自我というか、自分というものの観念が全く変わらないという事を。人を見る時、相手が大人とか考えず対等に思っていたなあ。)
・自分の子どもが自分が養子であることに気づいたのではないか。このような時、本人に打ち明けるべきか、何が正しいかという議論は何とでも言え無意味である。ともかく養子としてもらわれてきた本人にとって、その事実がどれほど簡単に受け入れ難く、大変なことか、ということである。それに大人がどれ程共感できるかが最も大切なことなのである。
このような時に私が「専門家の意見」として秘密を保持し続けるべきだとか、打ち明けるべきだなどと答えると、この親たちは専門家に自分たちの責任を肩代わりさせて養子となった子どもと共に背負うべき苦しみを放棄してしまうであろう。
だから、このようなとき私のするべき事は、期待されているような「答」を言うのではなく、この子どもの置かれている状態を、親たちに心から分かってもらうように努力する事なのである。
・心理療法をしていて、特にそれが死にまつわる事であるとき、このようなまったく不思議な現象に出会う事が多い(死の時刻に縁者に挨拶にくる、しかも同じ姿を複数の人が見る、など)。
われわれはこれをどう説明するかなどというよりも、事実は事実として受け止め、そこに込められた意味について考えてみるべきだろう。
・心理療法というととかく来談者の秘密を暴き立てるものと思っている人もあるようだが、この例に示されるように、われわれはむしろ、その秘密をできるだけ大切に扱うのである。
Posted by ブクログ
忘れていた子供のころの感覚をふと思い出して、いいなぁ、なつかしいなぁと思うことがある。多くの大人が、子ども時代に忘れてきてしまったものは、大人になって忘れてしまったものは何か。子供は「何となく感じて」いる。
Posted by ブクログ
子供の持つ素晴らしい能力、そしてかつては自分もそうであった事、そしてそれを忘れてしまっている事を思い知らされる一冊。
最近の子供のに関する悲しい事件が多い中、是非読んで頂きたい一冊でした。
Posted by ブクログ
家族、秘密、動物、時空、老人、死、異性。それぞれのテーマを子どもとの関係から、児童文学や実際の事例を通して紐解きてきます。
改めて、自身の子供時代を思い返して、「はっ」とすることもありましたし、「秘密」の大切さや、子どもの純粋で広大な心に宿る、無垢な子どもだからこそ素直に感じ表現する、または言語化できないために表現しきれない、そんな「子どもの宇宙」の魅力を深く噛み締めることができました。
これからも「子供心」や「子どもの視点」ひいては、「子どもの宇宙」を持ち続ける、そんな大人であろうと改めて感じることができました。
Posted by ブクログ
大人になる過程で、忘れてしまうことはあまりに多い。そしてそれこそが、子どもの可能性に繋がるとても大切なことだったりする。
将来親になった時、この本を思い出し、子どもの豊かな感受性や思考をまっすぐ受け止めたい。
-子どもと秘密
「私しか知らぬ秘密」は他人に依存していないので、アイデンティティを支えるものとしては、真に素晴らしいものと言わねばならない。
秘密を打ち明け、それを共有してゆこうとするとき、それに伴う苦しみや悲しみの感情も共してゆく覚悟がないと、なかなかうまくはゆかないものである。
-子どもと動物
自立ということは難しいことで、それまでには相当な一体感を味わっていなくてはならない。それが不足すると、どうしても分離するときに心残りがして自立に失敗してしまう。
自立することは、母親と無関係になることではなく、母親と新しい関係をつくることである。
-子どもと異性
異性への接近は、世界への接近である。本気でそれを行おうとするかぎり、それはその他の多くの仕事をなすことを強いるのである。異性への接近をこころみる者は、その段階に応じた仕事をひとつひとつこなしてゆかねばならず、それは思いのほかに遠い道なのである。
Posted by ブクログ
忙しい日々に追われてつい忘れがちな、子どもの中にある広大で複雑で秩序ある宇宙の存在を尊重できているか?と省みるきっかけになった。
児童文学の名作の中に子どもの宇宙の本質を読み解く切り口も面白いし、臨床心理学の第一人者の言葉はやはり重い。
【大人はよく忙しいと言うけれど、それはこの世の儚さを実感するのを避けるために、忙しさの中に逃げ込んでしまっているのかもしれない。子供たちの時空を超えた世界の債権は、我々大人にとっても教えられるところの大きいものである。】
Posted by ブクログ
臨床心理学者の著書にしては親しみやすいというかファンタジックなタイトルだなと思って買って読んでみたら、出だしから児童文学全開で交えながら子どもの可能性が語られていて、私にとっては好みに合っていて興味深かった。
人間が興味の対象である点で、心理学も教育学も文学も同じ人文学の中でボーダレスに共存しているのだなということが感じられた。
また、まさに子どもの宇宙みたいな、子どもの純粋さとか、秘めてる可能性とか、いい意味での未成熟さとか弱さとかを認識することは自分のことを考える上でも大事なことだなと思った。子どもと自分との差分を考えることが、何を得て何を失ってしまっているのか認識するきっかけになると思った。
自分のことだけではなく子どもとの関わりにおいても当然意義が大きい。子どもを尊敬する気持ちとか愛おしく思う気持ちが強くなった。
Posted by ブクログ
20年ほど前に読んだ本の再読です。
主に、以下の本を元に話が進行しています(詳しく調べれば、この倍の参照本がこの本の中で紹介されているはずです・・河合さんの読書量は凄すぎる)
ベバリー・クリアリー ラモーナとお母さん
カニグズバーグ クローディアの秘密
ケストナー ふたりのロッテ
バーネット(小公子が有名)秘密の花園
キャサリン・ストー マリアンヌの夢
王様の耳はロバの耳
ボーマルシェ フィガロの結婚
フィリパ・ピアス まぼろしの小さい犬
フィリパ・ピアス トムは真夜中の庭で
アリストン・アトリー 時の旅人
ルイス・キャロル 不思議の国のアリス
ミハエル・エンデ モモ
石井桃子 ノンちゃん雲に乗る
今江 祥智 ぼんぼん
グリム童話集 忠臣ヨハネス
カニグズバーグ ジョコンダ夫人の肖像
阪田寛夫 野原の声「飛ぶ教室 NO.8」
灰谷健次郎 子どもの隣「灰谷健次郎 NO.8」
映画 禁じられた遊び
山中康裕 少年期の心
ハンス・ペーター・リヒター あのころはフリードリッヒがいた
佐野洋子 私が妹だったとき
ボーゲル さよならわたしのおにいちゃん
ササン・テクジュペリ 星の王子さま
コルシュノウ だれが君を殺したのか
記憶に残った言葉は
p78 登校拒否の話で「薬を飲んでいる人に健康な人はいない、だから薬を飲んではだめだ」・・薬を飲まなければ健康になれる?本末転倒の例文として。
p118 「日常性を超えた「時」へ至る導き手として、亀が現れるのは、おそらく亀が忙しい生き方と無縁の存在だからであろう」・・なるほど。
p159 「死は真剣に取り上げられる限り、生に深みを与えてくれる。」・・なるほど。
p162『子どもたちをよく観察していると、「性」の衝動が動きはじめ、それと取り組むことによって大きい変化が生じる以前に、子どもとしての「完成」に達するように思われるときがある。子どもとしては、高い完成感と、早晩それが壊される、あるいは、汚されるだろうという予感が生じてきて、その完成を守るために自殺をするなどということもあるのではなかと思われる。』・・同感。
p168 「お経」が、魂との接触を防ぐための「知らんぷり語」のようにさえ感じられてくるのである。・・鋭い指摘だ。
p202 「権威とぶつかる勇気もなくて、異性と出会おうとするのは虫がよすぎるのである。」・・そうかもしれない。
p204 「一人の人間の成長の軌跡には、多くの死と埋葬、喪の仕事が満ちており、そのどのひとつも抜きにすることはできないのである。一歩一歩踏みしめて前進することなく、異性に接近することは不可能なのである。・・そうかもしれない。
p205 「性的関係をもつという点だけで言えば、どの動物も行っていることで、別に特別のことでも何でもない。そこに意味を見出すことに、人間としての特徴がある。」・・なるほどね。
Posted by ブクログ
トリックスターという存在は河合隼雄先生の著書でよく語られているので、他の著書を読んでいると頭に入ってきやすい。
あくまで主体は子どもで、問題解決のための場がやってくるのを大人は待つのみという部分、頭で分かっていても実行するのは難しそうである。
また、少し考えればおかしなことも教育者が口にすればまかり通るという恐ろしさについて言及されているが、納得できる。教師は勉強を教える能力だけでない知恵を備えている必要があると感じた。そして、教師の人手不足が問題視される今日において、そのような先生はとても少ないのだろうと思った。
子どもの尊さについて学べる本。
Posted by ブクログ
高校生の時、国語の文章問題になっていた本。
当時非常に感銘を受けて読んだ記憶が。
時を経てふと思い出し再び読んでみた。
子どもの中に広がる宇宙、そこに入るきっかけとは。
非常に興味深く、改めて考えさせられる本
Posted by ブクログ
秘密とアイデンティティ
秘密の公開により、変える、感情を殺し、人間関係を殺すのを止める
過去の自分との訣別
性質や力量の差を超えて、どの子どもも絶対的超越の世界の現れとなる、かけがえのない尊さをもつものとして子どもに接することになる
他人に対する一種独特の深みをもった愛情をつちかう努力が、人生においてたいそう重要である
跳躍するもの、粗野なところと、無責任さが、必要
Posted by ブクログ
子供の心に広がる宇宙を学術的に読み解こうとする著書という意味では、この手の教育論として存在する他の図書のような経験則的なアプローチとも異なり、これはこれで必要な一冊。臨床的な側面と心理学から体系的な整理の両方に意味があるのだと考える。そのためか、本著では、書物からの引用が多い。
子供が秘密を持つことの大切さ。ペットが代理母の一部機能を果たすこと。考えてみる。核家族化から共働きへと社会が更に変わり、ペットも中々飼えなくなり、老人は老人ホーム、近所付き合いは疎遠。彼が彼でいるだけで温かく見守る代理機能を果たす関わりが減る事で、子供に齎す影響とは。この事が中々社会に飛び出せない引きこもりを増やす一側面ではないだろうか。
日本とは世界一、隣近所に無関心な国なのだという。一方で、新型ウイルスのように、それを発症させた人が悪かのように吊るし上げる陰湿さをもち、芸能人を社会的に抹殺する執拗さをもつ国だ。社会制度は変わっても組織への忠誠心は、そうした恐怖心からも変わらない。社会は常に私を抹殺しかねない。我々はどこから間違え始めたのか。
言いたい事を言える人たちがYouTubeで流行っている。我々は、本当は、いつでも言いたい事を言える人に、変わりたいのだろう。この本で、置き忘れた子供の純粋さを思い出すのも良いかもしれない。
Posted by ブクログ
河合先生の本を少々深堀りしてみようと思い読んだ。
冒頭いきなり、著者は「この宇宙の中に子どもがいるということは誰でも知っていることだが、一人ひとりの子どもの中に宇宙があるということを知っているか?」と読者に呼びかける。
また著者は、大人がそのことに無知であると、子どもの中の宇宙を歪曲してしまったり、破壊してしまうことさえあると警告する。それも教育とか、指導とか、善意とかの名のもとに!
自身は失敗者の大人の一人であり反省とフォローアップを目的にいま読んでいるところだが、できれば多くの方には予防の位置づけで読んで頂きたい本であると思う。
子どもの中の宇宙の存在について、実際の子どもの事例を通じ、あるいは児童書の中での登場人物を通じて、著者は示してくださる。
従って、本書に紹介されている数々の児童文学は、読者が大人になって忘れかけている宇宙をも一度思い出すのに有効な書ばかりだと思われる。
個人的には、カニグズバーグの「ジョコンダ夫人の肖像」という児童書に非常に興味がわいた(ダビンチのモナ・リザに関する話らしい)。その本質は、子どもが大人の導者となるという話であり、ダビンチの導者となった子どもの話のようである。児童書でなく一般書にしても面白そうである。
章立ては次のようになっている。
Ⅰ 子どもと家族
Ⅱ 子どもと秘密
Ⅲ 子どもと動物
Ⅳ 子どもと時空
Ⅴ 子どもと老人
Ⅵ 子どもと死
Ⅶ 子どもと異性
子どもと老人、、、それぞれの共通点が述べられていたがその視点が面白い。子どもは死の世界から来たばかり、老人はもうすぐ死の世界へ向かう。従って、どちらも死の世界と隣接していると。これは、宇宙から生まれ、宇宙に帰っていくというイメージだろうか。
そんなこともあって子どもと老人の関係性は強いというのが第Ⅴ章であり、その一例が上記のダビンチの話だ。
機会をみつけて、カニグズバーグの「ジョコンダ夫人の肖像」他、紹介されているいつくかの書にも触れてみたいと思った。
Posted by ブクログ
どの大人も子供の時代があった。
しかしながら目は自分のまつげをみえないのと同じように、自分自身の一部である子供時代の心のあり方について大人になっておもいだすのは難しい。
その結果、大人の視点で子供の心を解釈してしまいがちな親になる。
「大人になるということは、子供のころにもっていたすばらしい(内的)宇宙の存在をわすれることではないか」と著者は述べている。一方で「大人も自分のなかに宇宙があるのだが、地位や月給などの地位財にこころを奪われがちで、その宇宙の存在にきがつくことが案がいこわいのではないか」と。大人はそのような不安におそわれるのがこわいので、子供の宇宙の存在を無視したりは破壊してしまう。
この本は、心理学者の河合先生が、子供のこころのなかには広大な宇宙があり、それがどのような作用を生じて成長していくか?変化していくか?を紹介した本。秀逸なのは、それを理論だけでなあく、優れた児童文学作品の解説の形をとりながら展開している。
児童文学は透徹した子供のしてんで世界を描いている。子供ではなく大人が再度よみとくことで、子供の目、こころの動きを体験できる。紹介されている本でこれはぜひ読んでみたいとおもったおは以下。
★子供と家族
ラモーナとおかあさん
クローディアの秘密
ふたりのロッテ
★子供と秘密
秘密の花園
まぼろしの小さい犬
★子供と時空
時の旅人
ノンちゃん雲に乗る
★子供と老人
ぼんぼん
ジョコンダ婦人の肖像
★子供と死
あのころはフリードリヒがいた
誰が君を殺したのか?
あなたが百匹の羊をもっていたとする。そのうちの一匹がいなくなったら99匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないであろうか? (ルカ伝第14章5)
Posted by ブクログ
誰でも子供のころは自分独自の世界観というものを持っていたのではないだろうか。しかし、オトナになるにつれていつの間にか、それは昔のこととして忘れてしまう。
この本を読んでみて、また自分が子供だったころを思い返してみて、子供は大人が思っているよりも真剣にものごとを考えているのだと思われた。
本書曰く
ひとりひとりの子供の内面に広大な宇宙が存在することを、大人はつい忘れがちである。子供たちの澄んだ目は、この宇宙を見すえて、日々新たな発見をしている。
子供のころ、住んでいた町の探検などを思い出してしまった。
Posted by ブクログ
「子供の宇宙」。
タイトルが素晴らしい☆
ちょうど知りたかった子供の心理が知れたのでよかった☆
子供って、深いなぁ・・・
文中に紹介されている児童文学の各書にも興味が持てました。
数冊読んでみたいな♪