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Posted by ブクログ
こどもの豊かな発想力や感受性に驚くことがある。私たち大人と言われる人たちも、かつてそうだった。子供と大人は分断されたものではなく、徐々に精神が成熟して、宿命観を持つようになってくるのだ。しかし、子供の時に触れたキラキラした世界や疑問に思ったことはこの歳になっても容易に思い出させてくれる。どうでもいい教科書の暗記は全く覚えていないのに。こどもの時に見ていた、主語が大きくて何事も大袈裟な(三島由紀夫は、幼年時代を時間的にも空間的にも紛糾した舞台である、と述べたがまさにその通りな)世界と、今の見えている世界を行き来できるような自由な精神が欲しい。
Posted by ブクログ
「子どもの宇宙」という題にふさわしい。
誰しも子どもの頃に宇宙を持っていた、その宇宙は果てしなく広く、大人は何もわからないし、分かろうとしてくれただろうか。
「大人になるということは、子どもたちのもつこのような素晴らしい宇宙の存在を、少しずつ忘れ去ってゆく過程なのかとさえ思う。」1
子どもに接する機会のある方(いわゆるすべての方なのだが)にぜひ一読していただきたい。ふとした言葉や行動を何気なく子どもたちは見ている。それら行動の一つ一つが子どもの宇宙にどのように影響するのかはわからない。分かろうとすることはできるが、それが正解かもわからない。
詰め込み教育といわれ、数字のみで評価したりされたりする機会が増えてきた。大人だけでなく子どもたちも数字で評価している。それだけでは何も生まれない。子どもたちに自分自身の宇宙を探るような導きをしたいものである。
読書メモ
秘密をもつということは、取りも直さず「これは私だけが知っている」ということなので、それは「私」という存在の独自性を証明することになる。48
秘密を打ち明け、それを共有してゆこうとするとき、それに伴う苦しみや悲しみの感情も共にしてゆく覚悟がないと、なかなかうまくはゆかないものである。59
この世の何らかの存在を「絶対的」と思うことは素晴らしい。しかし、それは必ずどこかで裏切りに会わなければならない。この世のものには、そもそも、絶対なんていうものはないのだから、これは致し方ないことである。121-122
方向性が明確に定まっているところでは、指導者や教師が活躍する。彼らは「正しい」かについて確信をもっており、同じことを繰り返し言っておればよい。135
この文章は本質をついていると感じる。このような大人ばかりでは子どもたちもつまらないだろう。
恋は人を盲目にし、自分と恋人以外のものは目にはいらなくなる。しかし、人間がこの世に生きていくためには、どうしても自分たち以外のものへの配慮が必要であるし、それに気づいたとき、恋するものの苦悩がはじまる。この苦悩によってこそ人は鍛えられ、成長するのだ。苦しみのない恋はあまり意味がない。193
権威とぶつかる勇気もなくて、異性と出会おうとするのは虫がよすぎるのである。202
これらはすべて本書にある文章で、子どもを知ることは自らの成長につながることが分かるのではなかろうか。子どもと接することを忌避することなく自らを成長させていきたいものである。
Posted by ブクログ
河合隼雄先生のまなざしを追体験できたような、そんな読後感をもった。いいかえれば、すこし優しくなれるかもしれない、と思った。児童文学への導きとしても参考になる。引用された作品はどれも知らないものだったが、その魅力をひきだす河合先生の語りに誘われ、いくつも興味をもった。以下引用。
私は心理療法という仕事を通じて、多くの子どにも大人に会ってきたし、そのようなことについて報告を受けたり、指導をしたりすることを長年にわたって続けてきた。そして、私は実に多くの子どもたちが、その宇宙を圧殺されるときに発する悲痛な叫びを聞いた。あるいは、大人の人たちの話は、彼らが子どものときにどれほどの破壊を蒙ったか、そしてその修復がいかに困難なものであるか、ということに満ちていた。彼らの発する悲痛な叫びや救いを求める声はまったく無視されたり、かえって、「問題」だという判断 のもとに大人たちからの圧迫を強めるだけに終ったりした。本書を書こうとする私の主要な動機は、そのような宇宙の存在を明らかにし、その破壊を防止したいからに他ならない。 p.6
ラモーナはその夜、寝室の鏡に自分の顔を映してみた。
「どうして、だれも、わたしのことを、いちどもおかあさん子ねっていわないんだろう? ラモーナは、考えました。どうして、おかあさんは、あたしのこと、この子なしにはやっていけませんわ、と言わないんだろう?」
ラモーナがこのように考えて悩み、眠れずにいるときに、ラモーナの両親は、自分たちの何気ない言葉や行動が、愛する娘の心をどれほど傷つけたかなどとは露知らず、パーティの疲れの後で安らかに眠っていることであろう。親は自分が子どもを愛しているということに、あまりに安心しすぎている。どれほど愛しているにしても、その愛をいかに伝えるか、ということ、 それに、愛していることにかまけて、自分たちの行っている行為を子どもたちがどのように受けとめているか、を知ろうとすること、などにおいて努力しないのは、親として怠慢であると言わねばならない。 p.15
『クローディアの秘密』のなかで、クローディアは、「人が秘密をもってたとしても その人が秘密をもってることをだれも知らないと、そのうちつまらなくなっちゃうから。それで、その秘密が何かってことは人に知られたくないけど、せめて秘密をもってるってことくらい、人に知られたくなるのね」と言っている。秘密の扱いというものは、なかなか厄介なものである。それをいつまでも自分だけでもっていたいという気持と、誰かと共有したいという気持との相克の間に存在している。このことは、取りも直さず、アイデンティティというものが、あくまで自分だけに固有のものでありつつ、他の人々とのつながりのなかに、存在しなければならぬというパラドックスをもつことと相応するのである、と思われる。 p.52
「王様の耳」の話を、王様の立場から考えてみよう。王様にとって「ロバの耳」は運命によって与えられ、いかんともし難い欠陥であった。彼にとって出来ることは、あらゆる手段を講じてそれを隠し通すことであった。そのためには、殺人ということも避けられなかった。王の犯した多くの「殺人」は、彼が秘密を守るために、どれほど多くの「感情を殺し」、「人間関係を殺し」てきたか、と考えると了解しやすいだろう。実際、われわれは自分の欠点を隠すために、どれほど多くのことを殺すことだろう。 p.55
「三十歳近くなって、今更子どものときの痴漢のことなど言い出して……」という母親の認識は、ひとつの事実の認識としてそれほど間違っていないかも知れない。しかし、娘が母親に共有を願った「秘密」の意味は、母親の感じ方をはるかにこえる深さをもっていた。母親の何気ない拒否は、娘にとって世界からの拒否とさえ受けとめられ、死ぬより他にないと感じられたのではなかろうか。この女性にとって、痴漢に襲われたことは、人生の恐ろしさ、不可解さ、 それらすべてを凝集でした体験であったのである。それは簡単に言語化できるものでもなかった。それは身体的とか精神的とか区別して呼べるような体験ではなく、存在そのものにかかわる体験なのであった。 p.57
登校拒否の子に対して、どうしたら登校できるか、登校拒否の原因は何か、などと短絡的な発想に陥らず、心理療法家はまず、子どもとその世界を共有しようとする。この例の場合でも、治療者は「絵、音楽、テニスなどを介して」少しずつ二人の共有できる世界をつくりあげていったと述べている。そのような地味な努力に裏づけられ、時が熱したときに、一匹の犬が二人の前に現われる。汚い犬を自ら抱きしめることによって、少女は自らが「けがされた」と思い込んでいた経験についての秘密を、治療者に告げることを決意する のである。
このような全体の流れ、「時熟」するときの素晴らしさを味わうことなく、これらの話から、「登校拒否の子には動物を与えるとよい」などと判断するのは、誤解も甚だしいと言わねばならない。動物にしろ、「とき」にしろ、やってくるのであって、人間が与えたり、しつらえたりできるものではない。あくまで子どもの主体的な動きによって、動物とのかかわりが生じてくること、それを意味あるものとするのに必要な、子どもとの人間関係をもつ人が存在していること、などが大切な条件であることを忘れてはならない。 p.87
ところで、ノンちゃんは自分のことを話すとき、自分がどれほど「よい子」であるかについて語った。すると、おじいさんは「なんじゃい! それじゃ、おまえ、まるで修身の目次を読んどるみたいじゃないか」と言う。その上、「そういう子は、よくよく気をつけんと、しくじるぞ!」とまで言うのである。それまでは「よい子」だと誰からもほめられていたノンちゃんは、これを聞いて不安になってしまう。それに対して、おじいさんは「人にはひれふす心がなければ、えらくはなれんのじゃよ」と教えてくれる。 p.124
しかし、人間の生き方というものはそれほど一方向に規定できるものであろうか。あるいは、 何が「正しい」かそれほど簡単にきめられるのだろうか。人間の魂はそれに対して、強く 「否」と叫ぶだろう。たとえば、洋は同級生の白石なぎささんや、ふと電気科学館で知り合った、京都に住む島恵津子さんなどとつき合いたいと思う。洋の魂がそれを呼びかけるのだ。しかし、当時の道徳律は、そのような軟弱なことをはっきりと「悪」ときめつけるのである。佐脇さんはそれに対して、何がよいとか、まちがっているなどと論じたりはしない。ただ、洋が 「女の子」たちとつき合えるように援助し、それを妨害しようとするものには敢然と立ち向ってゆくのである。導者は社会的規範や、指導者の言葉にまどわされることなく、魂の呼びかけに応じてゆく。そこでは、言葉より行為が、概念や規範よりも人間存在そのものが、重みをもつのである。 p.136
森崎は、まっとうに答えられぬ自分を責め、「ただひたすら、一緒に生きるからゆるしてね」と心から思っていると、
『 そのうち、子がわたしの背へちいさな手をのばし、撫でつつ言った 。「泣かないでね、もうこわいこと言わないから」 』
母の涙を見て、子どもはけなげにもを慰めようとしている。大人が本当に心を開いて接したとき、大人と子どもとの地位が反転するときがある。三歳の子は、母の涙によって慰められ、 またその母を慰めようとしている。これほどの母子の心の深い交流が、「死」を契機として生じていることにも、注目したい。死を遠ざけて生きている人は、真の心の交流を体略することは非常に難しいであろう。死は真剣に取りあげられる限り、生に深みを与えてくれる。 p.159
ところで、バーバラはロスを連れ出して、近くの墓地にゆき、ある墓石を示して 「お母さんはこれをどう思うか」ときく。見ると、その墓石には、ある家族の四人の名が記されており、そのうち二人は死んでいて死亡日が記されていたが、二人は生きているので、生まれた日だけで死亡日が記されてなかった。言わば、生きているうちに早手まわしに墓がつくられていると言うわけである。これに対して、ロスは「これは少しばかりやり過ぎじゃないの。死んでから名前を入れたって遅くはないでしょうに」と言う。すると、 バーバラは大きな安心の吐息をつき、母親に抱きつき、「ありがとう、私の知りたかったのはそれだけ」と言って、大いに満足の様子を示した。
ロスはこのことに大いに感激した。バーバラが母親に言いたかったことは何なのだったろう。 彼女が言いたかったことは、死の問題を取り扱うのはいいけど、お母さんはやり過ぎて止まるところがわからなくなるのじゃないの。死人も生きてる人も一緒に考えてしまって、ワークショップが終っても、普通の生活に戻れないのじゃないの、ということだったのだ。それを、墓石の名前の一件を尋ねることによって、見事に確かめ、母親が止まるところを知る人であるこ とを明らかにし、安心したのである。 p.164
彼女が息を引きとったとき、他家に嫁いでいる姉から電話があり、次のような夢を見たと報せてきた。《 気がつくと白い上衣に赤いはかまをはいた舞美子(この少女に山中がつけた名)が枕元に三つ指ついて坐っている。「これまで大変永らくお世話になりました。お母さん、お父さんを大切にしてあげて下さいね。それでは……」と言って、すっと宙に浮き、だんだん身体が小さくなって、神棚の戸を開けてその中に入っていった。 驚くべきことに、これと同様の夢を少女の伯母も見ていたことがわかったのである。…(中略)…
心理療法の仕事をしていて、特にそれが死にまつわることであるとき、このようなまったく不思議な現象に出会うことが多い。われわれはこれをどう説明するかなどと言うよりも、事実は事実として受けとめ、そこにこめられた意味について考えてみるべきであろう。少女の姉と伯母が見た夢は、彼女の短い、苦しみの多い人生が決して無意味なものではなく、普通の長い一生よりは、はるかに高い次元において達成されたものであることを告げているように思われる。彼女は満足して逝ったことを、最後に家族たちに告げたくて、その夢に現われたとさえ感じられるのである。 pp.172-173
マルティンの父は彫刻家になろうと努力したのだが、逆に自分の才能に見切りをつけ、電気製品のセールスマンになって生活している。このため収入は増え、生活は随分楽になった。マルティンはこのような父の生き方に対して、何か割り切れぬものを感じていた。ある夕食のとき、マルティンはそのことにひっかかり、もし自分に父親ほどの才能があったら、「電気製品のがらくたなんか持って走りまわったりしないな」とずけずけと言う。父親は「自分の望みが何かを考えるのは自由だが、三十年たったらおまえの考えも変わるだろう」と平然としている。マルティンは腹が立ってますますつっかかっていく。このときの父親の態度が素晴らしい。父は静かにマルティンに言った。
「おれは、おまえの望む父親ではないだろう。理想の父親とか、そんなんじゃないだろうよ。 だからといって、おれを傷つけることは許されない。おれがおれ自身にいうのをはばかったこと、それをおまえがいっていいと思うのはまちがいだ。おまえが知りたいのならいうがね、 おれは自分自身と戦って、考えぬいたのだ。そして、ある日、はっきりと悟った。おれの才能、 その限界。おれの才能は、はたして自分の家族を飢えにさらす価値があるのか、計りにかけ、 その価値なしと認めて、真剣な気持でパンをかせぐことにとり組んだんだ。さあ、おれは今、 静かに食事をしたい。」 pp.200-201
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