河合隼雄のレビュー一覧
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もとは1976(昭和51)年に単行本として刊行。
「トリックスター」について調べていて田熊友紀子著『現代のトリックスターと心理療法』(2021)で本書がけっこう言及されていたので読んでおくことにした。
ユング派の精神分析医・研究者の河合隼雄さんの本は昔から何冊か読んできた。が、どうもユングやユング派の心理学は物語志向が強く、「文学」になってしまいがちな危うさを感じてしまう。ユングを面白がる人も多いのだが、私の場合、どうも良いタイミングでユングに出会えなかったようだ。
本書は、それでも平易すぎるほどでもなく、臨床例がしばしば具体的に挙げられているので、ずっと興味を持って読み通すことができた。トリックスターについてはごく短い章で簡単に触れられている程度だが、それでも本書のテーマ「影」(たとえば、認めがたい自己の半身)はだんだんと面白くなってきたし、読み応えがあった。 -
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いろいろな昔話を、ユング派心理療法家の故・河合隼雄さんが読解をしてその深いところを示してくれる本です。
まずは白雪姫の章。白雪姫が毒りんごのために死と同然の状態になったときの河合隼雄さんならではの深層心理学的な解釈がこちら。
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かわいかった子が何となく無愛想になり、無口になる。体の動きも重くなったように感じられる。実は、このような時期は成長のために、ある程度必要である。心のなかはこのような状態でも、何とか外面は普通に取りつくろって生きている子も多い。
このような時期を私は「さなぎ」の時期とも言っている。毛虫が蝶になる間に「さなぎ」の時期があり、その時は、まったく外的な動きがなく殻のなかに閉じこもっているが、内的には実にものすごい変化が生じている。この内的な変化を成就せしめるためには、外の堅い守りが必要なのである。
(中略)さなぎの時期に親があわてて、その殻を破るようなおせっかいをすると、子どもは破滅してしまう。子どもにとって必要な内閉の時期を尊重することは、親にとってなすべきことである。しかし、自分自身の不安の高い親は、子どもの内閉に耐えられず、ついつい余計なことをしてしまう。(p54-55)
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僕個人はさなぎの時期に殻を破られてしまったタイプです。そんな痛みや苦しみを知る身からしてみれば、著者のこの解説は、ほんとうによく言い得ていると言えます。思春期に余計な干渉はいけませんね。
次に七夕の話。混沌によって生命力が回復する、という箇所で「ああ!!」とこころの中で快哉を叫びました。
七夕の話の意味することはなんでしょうか。織姫と彦星が会わない期間、彼らはそれぞれの仕事をしていてそれは秩序の維持を意味しています。7月7日だけが男女が出合うことが許されるけれども、その日は仕事が放棄されているし、二人だけの時間になるしで混沌を意味することになります。
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男女の結合に意味を認めるが、だからと言って、その関係をできるだけ長く維持しようとするのではなく、むしろ、すぐに別れ、また会う日まで一年間は分離して暮らすべきである。分離していてこそ、秩序は保たれると考える。これは、男女の結合の意味の深さ、そのことによる生命力の回復などを知るにしても、それを続けることの危険性と無意味さをよく知っているからである。(p112)
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秩序を離れたところに、生命力の回復や奥深い何かがあるのだけれど、それをずっとやっているのはナンセンスだし危険、それは秩序がぐらついてくるから、なのでした。秩序と混沌のバランスのとり方が七夕の話から教えられるのです。世界の維持としては一年に一度くらいの混沌の頻度が好ましいのでしょうね。人間の個人的な社会性だったなら、男女が出会うまでのスパンはもっとずっと短くていいような気がします。そこは七夕が世界を担うスケールの話だから一年に一度のスパンになったんじゃないかなあと思いました。物語を作った人、あるいは採集して整えて後世に残した人の優れたバランス感覚がそうしたのかもしれませんし、物語が多くの人の耳に触れたのち、その物語が大勢の人間のそれぞれの感覚によって磨かれながらも、このかたちがいちばん適しているのではないか、とされて残ったのかもしれない。そういったところを想像してみるのもおもしろいです。
最終章のアイヌの昔話では、近代における、「区別」や「区分」での「合理化」や「効率化」を進めていくやり方とは対照的に、自然などと混然一体になるという姿勢があるということをうかがい知ることができます。近代のやりかたばかりしか眼中になくて、他の考え方にはまるで考えが及んでいない者、あるいは他のやり方があるなんて思いもしていない者の多いのが現代人だったりしませんか。もっと生き方は創造していいのだし、近代の生き方を無条件に踏襲しなくてもいいのですが、生き方の範囲はここまでというふうにあらかじめ決まっているものだと、その狭い範囲をゆるぎない前提と決めつけてしまっている人は多いのではないでしょうか。
といったように、ユング派の心理療法家ならではの解釈が、どんどん深みを増していくかたちになっています。洋の東西をとわず取り上げられた昔話たちは、とても個性的で教訓や示唆に富んでいて、解釈してみるかという気になって相対してみれば、相当な深さを持ち得ていることに慄くほどだったりします。だからこそ、昔話は生き残る力を持ち、知恵を伝えてきたのでしょう。
最後になりますが、絵姿女房という昔話、これが僕にとってはいちばんの好みでした。今回はじめて知った話です。どういう昔話か知りたい方は検索してみてください。すみません、書くとちょっと長くなってしまいますので、あしからずなのでした。 -
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河合隼雄先生が亡くなって16年が経つ。かつて講義を受けたことがあり、懐かしくもあったので手に取った。
30年近く前にかかれたせいか、はじめは古さを感じた。けれども、後半、「共鳴するからたましい」あたりから、だんだんとピッタリくるように感じる。ひとつに賭ける、昇りつめた幸福、生きにくい子、二人の女性、ゆとりのある見とおし、音のない音。
あとがきはご子息である河合俊雄さん。同じく心理臨床家であるので、これ以上の適任はいないということかと思う。しかし、自分の父親を推す息子はそうそういないのではあるまいか。外の顔と家族から見る顔は、違うものだから。それだけに、稀有な存在だったということかもしれない。あるいは、殉職の弔いの意味が今もあるのだろうか。
その日の講義も受講者でいっぱいだった、しかし開始時間をいくら過ぎても先生は現れない。ざわめきが広がるが、特に帰る人はいない。皆、待っているのだ。講義時間を半ば過ぎただろうか、助手がやってきて、「河合先生は来られないので、これを読んで下さい」とA3一枚のプリントを配付する。受講者はそのプリントを手に退席し始める。ビルの玄関あたりに私も出たところで、階上から河合先生がさっと降りてきて、横を抜けていく。女子学生が「ああ!」と言うと、河合先生はニンマリと振り返り、去って行った。事情があったのだろう。憎めない人だった。プリントの文章が何だったか忘れてしまったが、先生が講義を放ったこの日のことを思い出す。 -
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河合隼雄によるユング心理学を用いて昔話のテーマを理解しようという内容。色々復習になって面白かった!
第3章の途中を読みながら「ヘンデルとグレーテル」の保護者が継母なのは、受け入れ難い母性の否定的な部分を隠すためなんだろうなって思ってたらそのままのことがその後に書いてあった。
第3章5節の昔話について、それまでの河合先生の解釈を参考にした僕なりの解釈としては、盲目である弟がそのアニマ(姉)との対決による自己実現の過程(ユングの定義)を描いたものではないかなとおもました。弟が盲目なのはは知ることの危険から身を引くことことを意味し、古いアニマ(姉)を殺す(自己実現の過程には「死と再生」が付き物なので)ことを避けれたのではないかと思います。 数千里離れた場所で姉とそっくりな人といるというのは、自己実現の過程には終わりはなく、新たなアニマとの対決が行われようとしていることを示唆しているのだと思いました。途中出てきた白鳥は弟の魂なのかな(アニマが男性にとっての魂の仲介者ってことも含めて)??
アニマとの対決を避けてきた男性が父親的性格を持つ女性に惹かれて結婚する→子供に対して父親に変わり、母親が父親的性格を持って接する→母親の役割が多すぎて、人間的な母親の役割が手薄になってしまう→子供は強い拒否(物質的な過保護の有無に関わらず)を感じるという流れがなんとも悲しい
普遍的無意識から生じる影の肯定的な面って存在するのか?
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ネタバレ・科学の知は「私は何か、どこから来てどこへ行くのか」という根源的な問いに対して答えてくれるものではない。
・人間は「物語」なしには生きていけず、神話が信じられているところでは人々は安心して死を迎えることができる。
この部分から非常に納得。あまりにも様々な事を知りすぎてしまって、神話や伝承を信じられるわけではなく、けれどもぼんやりと不安で孤独なのが現代人の苦悩なのだろうな、と思う。
・各個人が自分の生活に関わりのある神話的な様相をみつけ、生きる中で自分の物語を作ること。
ナラティブセラピーの物語る事の重要性にもつながるように感じた。 -
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ごく短い本だが、ユング心理学という今まで考えたこともなかった世界へと思考を飛ばしてくれる。
一般に大学などで教えられる心理学は認知心理学や社会心理学といった、データや実験に基づいた文理融合型の学問、というイメージがあるが、この本で扱われるユング心理学は全く異なる。
そもそも深層心理や集合的無意識という概念自体が実験・観察に基づいて発見されたというよりは仮説的に観念されたものという感じだし、その裏付けとして所々に挿入される実際の患者の夢もあまりにも荒唐無稽で、こんな夢を見る人が本当にいるのか、と疑いを挟みたくなる。
総じて今までの自分の常識や固定観念からは受け入れ難い思考法で、これは科学といえるのか、とすら思った。
しかし、そのように一笑に付すには惜しい説得力が本書にはあった。
思うに、ユング心理学はある意味では非常識な学問であり、だからこそ現在の心理学のメインストリームは認知心理学を始めとする自然科学的な実験を重視しているのだろう。
だが、そういった「まっとうな」学問では当分辿り着けない遥かな神秘を人間の意識は宿していて、その一端を、一足飛びに垣間見る可能性を有するのが、ユング心理学なのではないか。そう考えて、信じてみたくなるような魅力を持つ一冊だった。 -
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20年ほど前に読んだ本の再読です。
主に、以下の本を元に話が進行しています(詳しく調べれば、この倍の参照本がこの本の中で紹介されているはずです・・河合さんの読書量は凄すぎる)
ベバリー・クリアリー ラモーナとお母さん
カニグズバーグ クローディアの秘密
ケストナー ふたりのロッテ
バーネット(小公子が有名)秘密の花園
キャサリン・ストー マリアンヌの夢
王様の耳はロバの耳
ボーマルシェ フィガロの結婚
フィリパ・ピアス まぼろしの小さい犬
フィリパ・ピアス トムは真夜中の庭で
アリストン・アトリー 時の旅人
ルイス・キャロル 不思議の国のアリス
ミハエル・エンデ モモ
石井桃子 ノンちゃん雲に乗る
今江 祥智 ぼんぼん
グリム童話集 忠臣ヨハネス
カニグズバーグ ジョコンダ夫人の肖像
阪田寛夫 野原の声「飛ぶ教室 NO.8」
灰谷健次郎 子どもの隣「灰谷健次郎 NO.8」
映画 禁じられた遊び
山中康裕 少年期の心
ハンス・ペーター・リヒター あのころはフリードリッヒがいた
佐野洋子 私が妹だったとき
ボーゲル さよならわたしのおにいちゃん
ササン・テクジュペリ 星の王子さま
コルシュノウ だれが君を殺したのか
記憶に残った言葉は
p78 登校拒否の話で「薬を飲んでいる人に健康な人はいない、だから薬を飲んではだめだ」・・薬を飲まなければ健康になれる?本末転倒の例文として。
p118 「日常性を超えた「時」へ至る導き手として、亀が現れるのは、おそらく亀が忙しい生き方と無縁の存在だからであろう」・・なるほど。
p159 「死は真剣に取り上げられる限り、生に深みを与えてくれる。」・・なるほど。
p162『子どもたちをよく観察していると、「性」の衝動が動きはじめ、それと取り組むことによって大きい変化が生じる以前に、子どもとしての「完成」に達するように思われるときがある。子どもとしては、高い完成感と、早晩それが壊される、あるいは、汚されるだろうという予感が生じてきて、その完成を守るために自殺をするなどということもあるのではなかと思われる。』・・同感。
p168 「お経」が、魂との接触を防ぐための「知らんぷり語」のようにさえ感じられてくるのである。・・鋭い指摘だ。
p202 「権威とぶつかる勇気もなくて、異性と出会おうとするのは虫がよすぎるのである。」・・そうかもしれない。
p204 「一人の人間の成長の軌跡には、多くの死と埋葬、喪の仕事が満ちており、そのどのひとつも抜きにすることはできないのである。一歩一歩踏みしめて前進することなく、異性に接近することは不可能なのである。・・そうかもしれない。
p205 「性的関係をもつという点だけで言えば、どの動物も行っていることで、別に特別のことでも何でもない。そこに意味を見出すことに、人間としての特徴がある。」・・なるほどね。 -
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河合隼雄著作集Ⅱ期5巻 臨床教育学入門 の序説「臨床心理学と教育」の中で、河合さんは当時のことを以下のように述べています。
日本の現代社会を父性原理、母性原理という観点でみると、日本は一応先進国のなかに入ってはいるが、他の国が父性原理優位であるのに対して、日本のみが母性原理優位であるという特徴をもっていることに気づく。このことは、わが国の現状に良きにつけ悪しきにつけ、いろいろな形であらわれてきている。このようなことを日本の社会に発言することも、われわれ臨床家の務めではないか、と思ったので、いわゆる社会学的な調査とか制度の比較などではなく、個人の例を基にして、日本の社会や文化に関する考察を発表することを敢えて行うことにした。
最初に行なったのが「母性社会日本の「永遠の少年」たち」(『中央公論』1975年4月)であり、続いて同誌の10月号に「能力主義と平等主義」を発表した。両者ともに相当に反響があり、父性原理と母性原理という観点か ら文化・社会のことを考えてみようとする人がその後も生じてきた。
とあります。
1975年の4月刊の『中央公論』の河合さんの論考によって「母性原理」という言葉が一般の人にも広まったということですね。
両論とも、この「母性社会日本の病理」に載っていたので、気持ちを新たに再読しました。2026.08.06