村田沙耶香のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
村田沙耶香ワールド全開。
人間は弱いからこそ何かを信じたい生き物である。
信じることは、考えることをやめること。
世の中には支配する人支配される人、騙す側の人騙される側の人が確かに存在している。信仰なしでは生きらない。歴史や伝統、世の中のルールなどはすべて誰かに創作された宗教のようなもの。途中でそれが全部誰かの利益のために変えられたとしても、人間は何の疑問も持たず受け入れて生きてく皮肉な生き物である、そんなメッセージ性を感じた作品。
昔からのお祭りや地元の言い伝え。それってもしかしたら伝統なんて何もなくて、誰かがただ面白おかしくエロ目的で作ったものだったりする。その事実を知らずに、信仰し続けている可能性がある。
今自分が生きているこの世界何もかも信じられなくなった。
人間として生まれたって思ってるだけで実はこの事実すらも操られてるのかなぁと地面がぐらっとひっくり返るような感覚。
2作目は夫婦がクジラしたくてひたむきに頑張る爽やかエロストーリーです。(笑) -
Posted by ブクログ
芥川賞受賞作『コンビニ人間』の
プロトタイプ的な要素を感じた
マウスにはスラング的には
臆病・小心者という意味がある
一方で、可愛らしい・魅力的なという
ポジティブな意味あいが含まれる
登場人物の心の機微や、成長も経て
次第に魅力的になっていく
ダブルミーニング的な側面も感じた
更に言えば、
実験動物のように、
与えられたもので変わっていく様を
見受けられる読者目線としての
トリプルミーニングともとれる
非常に奥深い話に思えた
久々に村田沙耶香さんの本を読んだが、
今までで最も温かみを感じた
これは、ジャンルとしては
シスターフッドものになるのかな?
世界観、衝撃度、大作という点では
世界99が未だに一番だけど、
純粋な好みとしてなら、
これが一番好きかもしれない
村田沙耶香さんの作品を読みたくて
手にした方は、少し物足りなさや違和感を
感じるかもしれない
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Posted by ブクログ
「私の身体」を「生きる」とは何だろう。いや、「私の身体」とは何だろう。そもそも、「私」とは何だろう。
各作家たちの切り口は様々だが、みな共通しているのが、己という存在を不可欠に構築するこの肉体というものの生物的な役割にも社会からの眼差しにもかなり戸惑い、苦しみ、受け入れたり受け入れられなかったりしながらどうにか生きている点で、強く連帯感を持ちながら読んだ。
痛ましさを感じたのが、執筆陣の女性たちはほぼほぼみな性被害の経験がある点。私にもあるし、私の友人たちもほとんどあると思う(学生の頃、痴漢が話題になったとき、その場にいた10人ぐらいのなかで痴漢に遭ったことがない子は1人しかいなかったことを覚えている)。この社会で、そうやって女性は、否応がなしに「私の身体」は本当に私のものなのかと、「私」がモノとして扱われ得るということに向き合わされてしまう。時には、まだ第二次性徴も迎えていないうちに。だからこそ、このようなアンソロジーが興味深い。
とはいえ男性視点の「身体」やその社会的表象については私にはわからない部分なのだが(この辺りのアンコンシャスバイアスについて、鳥飼茜さんとパートナーの方との会話が面白かった)。男性作家たちに、同じテーマでアンソロジーを書いてもらったらどのようなものが生まれるのだろう?と好奇心を抱く。 -
Posted by ブクログ
友達から、好きだと思うとおすすめされて借りた本。正直自分から手に取ったものではなかったし、村田沙耶香の他の作品を読んで想像していたものは、生や性に関するパラレルワールドみたいな世界だったので気は進みませんでした。借り物だし、早く読んで返さなきゃという気持ちと、タイミング(私は積読が多すぎてどれも読みたいので決めるのが難しいのでルーレットアプリに積読本のタイトルを入力してルーレットを回して決めています)が重ならなければ一生読むことはなかったかもしれないと感じています。これまでの村田さんの作風とはだいぶ違っていて、瀬里奈の不思議な雰囲気と主人公の律に部分的に親近感を覚えてすらすらと読んでしまいました。
まず瀬里奈の不思議な感じ。一般的ではなくて、浮いていて、壊れやすそうで繊細なのにどこか大胆。私がもし瀬里奈や律と同じ教室にいたならば、小学生なりに気を惹かれていただろうなと思う。何を考えているんだろう、あの子これからどうなってしまうんだろうどうしてみんなと違うのかな。この感情が本を読む速度を上げました。そして、瀬里奈が律や物語の力によって変わっていく。それによって変わる周りの人たちや律の感情。それがまあリアルでとても興味深い。あー、この感情わかる、っていうのがたくさんあった。最初は気になって近づいて、偽善というか面白半分で頼まれてもいない世話を焼く。そのおかげで本人が変わり周囲も変わると、そうなったのは自分のおかげなのにと思ってそれがだんだん僻みだったり嫉妬に変わっていく。自分と同じ、近い…または自分より下だと思っていた人間がいつの間にか自分とは比べ物にならないほどの高いところにいた。このとき感じる嫌な感情がすっごい、リアルというかなんというか。
「あなたは環境が恵まれてるから努力しないでもそんなところにいれるんだ」
「私はあなたより頑張っているのに、あなたは許されて私は許されない」
こういう黒くて醜い救われない感情がどこかに隠れている。これって女の友情だけなのかな?男の人でそういう話はあまり聞かない。
律の、周りの評価ばかり気にしてしまう気持ちもとても共感できた。瀬里奈への感情にも。律のように、仕事などの役割があればそれを全うできる人もいれば仕事ですら上手く振る舞えない人もいる。私も、そんな考えはなかったけど仕事や苦手な人とかかわらなければいけないときは、“演技”をすることによって上手く、円滑に物事を進められるかもしれない。仕事中は自分の自我を消して店員に徹したりとか、そうするのも処世術なのかもしれない。そうしてみよう。
瀬里奈のように周りの評価を気にしない人、律のように周りの評価ばかりを気にしてしまう人、周りの普通と違うことにアイデンティティを生み出す人。いろんな人間がいる。私はどうなんだろうと考えた。周りの評価が気になるし、でもそれもバレたくなくて、うまくいかなくてそれならいっそその評価の外に出ちゃおう、比べられて悪く評価されるのが嫌ならされないような人間になろう。そんな感じなのかもしれない、自分って。
久しぶりにこんなに好きな作品に出会えた。また読み返そう
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Posted by ブクログ
掃除用具入れの「扉」を開けて安心できる閉ざされた異空間に逃げ込むように入っていった小学五年生の瀬里奈、その「扉」をくるみ割り人形を無理矢理読んで聞かせることで中から引き摺り出した律。
無理矢理こじ開けられた事でマリーになることが出来た瀬里奈は救われた気持ちだったのかはわからない。
律はその時の光景を思い出して大人になってクローゼットの隙間に異空間への繋がりを無意識に求めていたのかもしれない。そしてクローゼットの中に閉じ籠る事で少しだけ安心できる感覚を少し理解出来た。それは「扉」を開けてクローゼットに入る事で自分の中の「扉」を開けたのかもしれないし、間接的に瀬里奈が「扉」を開けてくれたのかもしれなかった。結果的にお互いがお互いのドアを開けた(開けるキッカケになった)2人。すべては曖昧で不安定だった。
ラストのシーンの非常階段の扉は、2人が一緒に開いた最初であり最後のドアだった。異世界へ繋がってなかった事が、「何か」に逃げなくても現実で不安を抱えながらでもなんとか進んでいける状態にやっと立てた2人の心情とリンクしている気がした。
そして「マウス」というタイトル。これは両義性であり多面性も持っていると思う。
マリーが勇敢に立ち向かい、ネズミの王を倒して王子の呪いを解く。恐怖や不安や呪いや内面の弱さのようなものに打ち勝つ。律から見た自分自身が臆病者の「mouse」であり、瀬里奈もまた同じ意味での「mouse」であり、違う意味での「mouse」でもある。つまり、かわいい子・魅力のある子という意味をも帯びた「マウス」は、恐怖の象徴と救いや魅力の象徴の両義性を表しているのだと思う。
律も瀬里奈も臆病で内気であっただろうし、何かに囚われ続けていたという意味での「mouse」であったのかもしれないし、でも同時にお互いがお互いの「扉」を開けて「扉」の外の世界へ踏み出させてくれた王子でもあったのかもしれない。
律が自分の事をネズミと例えているシーンにくるみ割り人形における「ネズミの王」を重ねるとさらに深みが出る。恐怖や不安で怯えさせる存在であり、そこを超えることで出会える新しい世界の入り口にもなり得る。つまり「恐れ」と「扉」は一続きであるということ。
「mouse=臆病で内気、だけどかわいい・魅力的」という辞書のシーンの2度目の描写で若干変化がある。それはまるで律と瀬里奈の内面の変化を映してるように見えた。
「ただの弱い存在」としか思えなかったけど、互いの「扉」を開け合うことで、弱さの中にも魅力的だと思える何かがあると気づけた。その視点の変化を、辞書の言葉の変化で象徴してるのではないかと思いました。
村田沙耶香さんにしてはライトめであるものの、計算されたシンプルさなのであろうかという勘繰り。だからこそ普段はあまりやらない考察みたいなことをやってしまったのかもしれない。
学生時代のカーストの中での位置どりであったり、バイトの描写であったり、似たような描写が多作品である部分は村田さん自身を投影している部分なんだろうなぁとインタビューなどを見るとそう思う。
過激な描写がなくとも共通した読後感があるのは、自分が村田沙耶香さんの作品に求めているものは必ずしも狂気とは限らないのだなと確認できました。