やっぱり千早さんの文章はおもしろい!Xを見ていて、千早さんの食に関するお考えを聞きたい!と思っていたが、すでに出ていたとは…(しかも2巻も…!)これが美味しかったとかそういう食レポみたいなものではなく、食に関する考えというかこだわりというか、そういうのがとても上手に言語化されていて、おもしろかった〜!
p.46 でも帰宅してから飲み食いしてしまう。メンタルが弱いことが恥ずかしく、つい食による物理的な打撃を与えてしまう。それはなぜなのか。
きっと、ものすごく小心なのだ。小心だから、小心であることを認められない。胃弱なら体質だからと諦めもつくけれど、メンタルの弱さには自分で自分にがっかりする。自分が嫌になると生活が楽しくないし、見えないメンタルというものの鍛え方もわからない。
でも、がっかりするということは、自分は強いと思っているということなのかもしれない。
それはちょっと良くないと最近は思う。
限界を教えてくれるのが体だ。痛いというサインを無視したら壊れてしまう。ほんとうは強いも弱いもない。自分に合っているか、いないか、だけのことだ。自分への過言や期待が胃腸の最大の敵なのかもしれない。
学校をはじめとするあらゆる集団生活が駄目で絶望していたが、まあなんとか大人になり生きてこられた。私にしては上出来だろう。ぐるるっと唸る腹を抱えながら「はい、怖くない怖くない」と笑えるようになるのが四十代の目標だ。
p.54 そんなことを考えたのは、坂口恭平さんの「Cook』を読んだからだ。
鬱の治療のためにはじめた料理本である。毎日の食事の写真と手書きのレシピと日記でできている。食欲にかられてではなく、「手首から先運動」のための料理。まずは米をとぐことからはじまり、土鍋で米を炊く。ネットで調べながらおそるおそる。味噌汁と玉子焼きを作り、完成した朝ごはんの写真を撮り、感想を書く。昼はサンドイッチ、夜はステーキを焼く。そして、明日の朝昼晩の献立を考える。それを、一ヶ月続けた記録だ。
私は鬱の診断を受けたことはないし、料理で鬱が治るかどうかは定かではない(本の中でも治るとは書いていない)。ただ、「cook』を読んでいると、一人の人間が食べることに向き合い、自分の心や体を探りながら手を動かして食事を作るという単純な記録に、生きることはなにかと考えさせられる。仕事や恋愛や対人関係.....・人生の悩みは多く複雑に思えるけれど、本当はもっとシンプルなのかもしれない。というか、自分で自分を養って生きていくってそれだけですごいことなんじゃないか、と不思議な肯定感がわいてくる。
しかし、本を閉じて自分の台所に立つと体が思いだす。言語化していなかっただけで、料理は小さな肯定感や達成感をくれる。生活の中で習慣になっている行為には、自分を保つ要素が隠れていることに気づく。
p.107 中学、高校と私には友人と呼べる子は一人しかいなかった。私が転校した先の中学校にその子はいて、よく理由はわからないが女子たちから無視されていた。可愛い顔をした子だった。
よく笑い、私の偏屈さも「うけるー」と笑ってくれた。いつもその子といた。けれど、やはり一人でいいという気持ちは腹の底に常にあって、その子が学校を休んだり、その子に彼氏ができて一緒に帰れなくなったりしても、さびしいとは思わなかったし、他の友人を作らなくてはと焦ることもなかった。
同じ高校へ進むことができたが、クラスは別れてしまった。私はこのまま友人としても離れていくんだろうなと思った。転校の多かった私は人との別れに妙に達観したところのある子供だった。
新学期のよそよそしい教室に昼食の時間がやってきた。「さあどうする?」「最初が肝心だよね」みたいな表情で互いを探り合う女子たちの向こうに、廊下を歩いてくる彼女の姿が見えた。
あれ、と思う間もなく、彼女はなんでもないような顔をして私の教室に入ってきて、私の机に自分のお弁当箱を置いた。ぎゅうぎゅうと私の尻を押して一緒に座り、お弁当箱をあけて、いつものように嫌いな野菜を押しつけてくる。「自分のクラスで食べなくていいの?」と訊くと、「いいんじゃない」と笑った。
あのとき、私は確かに嬉しかった。彼女と昼ごはんを食べられることが。なにも変わっていないことが。その後も彼女は私の教室に通い続け、他の子から「自分の教室で食べなよ」と言われても無視していた。学校にはなぜか、違う教室に入ってはいけない、というような言語化されていないルールがあって、他のクラスの子に用事があるときはみんなドアのところに立って近くの生徒に呼んでもらったりしていた。でも、彼女は誰の許可も得ず、休み時間であればすいすいと私のいる教室に入ってきていた。
別に新学期だからといって、クラスが替わったからといって、自分の生活を変える必要はないのだ。食べたい人と食べればいいし、休み時間は好きなように過ごしたらいい。誰かが勝手に決めた区切りや無言のルールに無理に従うことはない。
あのとき、自分はずっと嫌だ嫌だと思いながらも従っていたんだと気づいた。飯の時間くらい自由にさせて欲しい、なんて、なにを「お願い」してしまっているのだ。顔も見えない相手にお願いしたって事態は変わるわけがない。自由にしたいなら、自由にしたら良かったのだ。
そんなこんなで高校時代はわりと自由に過ごした。増長しすぎて休み時間に菓子を頬張ったり、早退して外でお弁当を食べたり、学校を抜けだして肉まんや大福を買いにいったりして先生に怒られた。教室以外に場所があると思うと、気持ちはすごく軽くなる。それはきっと社会人でも同じかもしれない。
前に会社のトイレで昼食をとる人がいるという記事を読んだことがある。一人で食事をする、いわゆる「ぼっち飯」姿を見られたくないのでは、と書かれていた。それもあるのかもしれないけれど、会社の中での自由な空間がトイレしかないのではないかとも思う。トイレで飯を食うのが大好き!なのであればまったく構わないけれど、トイレしか行き場がないのであればちょっと苦しい。公園でもいい、いっそ一駅竈車に乗って会社を離れるのでもいい。ふっと違う景色が見られる場所に行くのもいいのではないか。休み時間まで自分が属する場所にいなきゃいけないわけではない。
飾れてみれば、自分が縛られていたルールなんて場所によって違うとわかる。桜郷う春はただの春になる。昼飯は違う味になる。別れも出会いも、結局は自分が作ることなのだ。人が勝子に決めた区切りにふりまわされなくていい。なんだか、らしくないエールみたいになったので、以上!
p.111 ことか。
新幹線だけではない。飛行機の国際線も「飼育か」と思うほどに機内食がでるが、食べても地上に降りると空腹になっている。ちゃんと座席を確保していたとしても、あんがい移動というものはエネルギーを使っているような気がする。徒歩だと何日もかかる距離を数時間で進むのだ。文明が発達したといっても肉体は生身のままなので、無意識下で距離分の負荷がかかっているのかもしれない。それを補うために食べる。
p.113 友人ははふはふと蒸し寿司を食べて、「ああ、ぜんぶ混ざっていて安心する」と言った。旅行中の友人のSNSには色鮮やかな海鮮丼の写真がたくさんあったので、「え、いろいろな種類を食べたいタイプじゃないの?」とちょっと驚いた。「いや、海鮮丼はテンションはあがるけど大変だよ。常に選択を迫られるもん」と友人は言った。先に海老の頭を外すべきか、わさびをぜんぶ醬油に溶くべきか、どの刺身を最後のひとくちにするか、米と刺身のあんばいも考えながら食べ進めなくてはいけない。忙しい、と友人は言い「ああ、ほっとする」と、どこを食べても同じ味の蒸し寿司に目を細めた。
新幹線の弁当も同じなのかもしれない。幕の内や、米とおかずがわかれている弁当は、食べるときに順番や選択が発生する。米の上にまんべんなく具が敷き詰められているものなら、なにも考えずに食べることができる。単調で、楽だ。
移動中は空白の時間だ。旅の準備は済み、目的地に向かって体力を温存する時間。もしくは、用事が終わり、家に帰るまでの肩の力が抜けた時間。なるべく頭を使わず、エネルギーだけを得て、恐ろしい速さでびゅんびゅん走る新幹線の中でぼんやりしていたい。米のびっしり詰まった駅弁の重みは、安心のためにあるのかもしれない。
p.116 他人の握ったおにぎりが食べられない人が増えているようだ。
私が小説家デビューした十年ほど前は、そういう人はいるにはいたが、わりと声の小さい少数派だった印象がある。一度、小説にそういう登場人物をだしたことがあったが、やはりマイノリティとして描いていた。かくいう私も子供の頃から他人の握ったおにぎりがあまり得意ではない。昔は潔癖だと思われそうで言いにくかった覚えがあるが、今はずいぶん抵抗感が減ったように思う。我が家の愛読漫画の「きのう何食べた?」十六巻では、おにぎりを素手で握るか問題が描かれていたが、ビニール手袋を使っている登場人物にマイノリティ感も潔癖さもなく、むしろ衛生観念があると作中では捉えられていた。
去年、ある大学の医学部の小論文試験で、「他人の握ったおにぎり」に関する問題がだされたというニュースを読んだ。自分が教師という仮定で、稲刈りの体験授業に生徒を連れていく。
そこで農家のおばあさんが手作りのおにぎりをふるまってくれた。しかし、生徒の中には他人が握ったおにぎりを食べられない子が多数いて、おにぎりが大量に残ってしまう。さあ、あなたは生徒にどう指導し、おばあさんになんと伝えるか。そんなような問題だった。
これは難しい、と思った。同時に時代が少しずつ変わってきているのも感じた。模範解答や採点基準はわからないけれど、食べものを残す生徒を教師が叱責するのを推奨しているわけではないはずだ。他人の握ったおにぎりが食べられない人も、他人におにぎりを当たり前に握ってふるまえる人も、どちらも等しく社会にいることを知っていようという姿勢が見える問題文で、常にマイノリティ側だった身にはちょっと目の前がひらけた気がした。自分が口に入れるものに関してくらいは「嫌」と言える世界になって欲しい。
しかし、偏屈な私には「他人の握ったおにぎり」よりはるかに苦手なものがある。それは「他人の和えたもの」だ。和えもの。飲食店ならばいい。小料理屋のカウンターで日本酒片手に、大将が目の前でささっと作ってくれるほうれん草の白和え、白身魚の酒盗和え、うるいのふき味噌和えなんかをつつくのは幸せな時間だ。しかし、この「和え」という言葉が曲者だと思う。
なんか粋にしてしまう。
p.146 ぼ変化がなく、自粛で家にいるからといって凝ったものを作ったりはしなかった。
けれど、料理人である殿は「体がなまる」と言って、率先して台所に立った。ちょうど新玉葱の季節で、「しんたま、しんたま♪」と即興で歌いながらサラダ用に薄切りをしていた。新玉葱が好きなんだな、と台所を通り過ぎようとして足が止まる。音がおかしい。ダダダダ!と、まるで機関銃のよう。ちょっと家庭の台所では聞いたことがない音。私が薄切りをしてもせいぜいトスットスッだ。殿はリラックスした顔をしている。包丁を持った手だけが異様に速い。
プロだ・・・・・・と思った。殿が料理人である事実をすっかり忘れていた。いや、いままでは家では家モードで調理していたのだろう。あれは本性というか、仕事モードの包丁さばきなのだ。
その後も、「暇だからおやつでも」と言っては、中華鍋を使って胡桃の飴がけを作ったり、パルミジャーノを使った酒にも合うスフレチーズケーキを焼いたりしていた(出来たらすぐに食べなくてはいけないので焦る)。家庭で作るおやつなんてホットケーキ程度でいい。なぜ、そんな予想の斜め上のものを・・・・・とひるんだ。美味しかったけど。
なんだかちょっと不安になってきた。家事は分担なので私も料理をするのだ。いままでもそうだったし、これからもそうだ。作ったものを残したり、文句を言われたりしたことはないが、なぜこんなプロが素人の作った料理を食べられるのだろうと、純粋に疑問に思ったので訊いてみた。
「え、だって自分の味には飽きるじゃない。想像通りなんだから」というのが答えだった。殿が料理するときは作っている段階でもう出来あがりの味が見えているし、理想通りに作れるのだという。他人の料理、特に素人の作るものは味の予想ができないから面白いそうだ。
そんな肝試しみたいな気分で食べられていたのか・••••・と愕然とする。つまりは、はなから美味を期待されていなかった。でも、「自分の味に飽きる」という感覚はわかる気がした。自粛で自炊が増えた人たちにも思い当たる節があるのではないだろうか。自分で作っていたら、大失敗をしない限りは予想外の味にはなりにくい。
未知の美味はそう多くはない。家庭での「美味しい」はどちらかといえば冒険よりは安定寄りになる。外食に求めていたのは楽や美味だけではなく、挑戦や期待や娯楽といった日常のスパイス的要素も大きかったのだと、この生活で気づかされた。
p.156 思えば、以前から、私は常に個包装のマスクを持ち歩いていた。梅雨時のバスや満員電車で人の体臭が気になるとき、飛行機や新幹線などを使った長距離移動中に眠りたいとき、私は耳栓をするようにマスクをつけた。ウイルスや細菌を防ぐためではなく、嗅覚に蓋をするためのマスク。それはストレスを軽減するという意味での健康対策だった。
けれど、今のように外でいつもマスクをつけていると、匂いがあまり伝わらない世界が常になってしまった。最近、歩いているとき、妙に「眠い」と思っていたが、刺徴がなくてぼんやりしているのだろう。酸素不足もあるのかもしれないが、どうも警戒心が薄くなっている。担当編集さんからもらった薄荷のスプレーをマスクに吹きつけているが、そもそも世界はミントの香りではない。清涼感も常にあれば飽きる。
日差しの強さは肌や目で感じる以外にも、アスファルトの灼ける臭いや地面の水分が蒸発する匂いで気づく。頭で意識していなくとも、体は「む、夏が近づいてるな」「今日はなかなか熱しいな」と反応する。マスクをしているとそれがないので、想像している以上に暑さが負担となってのしかかってくる気がする。家に帰ってからばててしまう。
思い返してみれば、買い食いが減った。デパートの催事場も素通り、たい焼きやいか焼きの屋台があっても眺めているだけ。先日、東京は浅草の醬油団子ですら買わなかった。黒蜜文化の京都では滅多にお目にかかれない醤油団子を、餅好きの私が買わないなんて。いままで、店先で焼いているのを見かければ、飛びつくようにして買っていた。そういえば、友人がいぶかしげな顔で「食べないの?」と訊いてきたが、私は「お腹へっていないから」と答えていた。
予約していた寿司屋に行く途中というのもあったが、団子や餅は空腹とは関係ないと常々主張していたはずだ。息をするように食べていたのに、と愕然とする。なぜ。
それはきっと匂いのせいだと思う。醤油団子を焼く芳ばしい匂いがマスクに遮られていたから。目だけで団子を見て、匂いのしない団子、と私の体は認識し、冷めている、と判断したのだろう。そのため、その場で齧りつきたいという欲望が目覚めなかった。
嗅覚の判断は速い。きっと、頭で考えるよりもずっとずっと早く感情を動かす。
香水店では夏用の香水は買わなかった。家で使うアロマキャンドルと森林の香りの入浴剤を買った。しばらくマスク着用の日常は続くだろう。香水を身につけても、自分にも他人にも伝わらない。それなら、と家で使う香りを選んだ。私は外出するときしか香水はつけない。
長居をしてしまったので、帰り道は暮れていた。まっすぐに伸びる京都の道に人影がないのを確認して、マスクを外してみた。家々から流れてくる煮炊きの匂いに腹が鳴った。シャンプーの香りが混じり、早々と風呂に入っている人がいるのがわかる。橋を渡ると、湿度の中にかすかに夏の夜の匂いがした。終わりかけの梔子の香が甘くただよう。もうすぐ夏だ。こうして、鼻で世界を食べて、季節の移り変わりを知る。