加藤典洋のレビュー一覧
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天皇制に宿るイデオロギーは、隷属とは異なる現人神への信奉に根付いており、敗戦という局面において存亡の危機に追いやられる。誰もが疑念に思わぬよう施された新憲法は日米の思惑が合致した経緯がある。どこまでも翻弄される "国民の象徴" は日本人の責任の捉え方を歪曲していく現代へとつながっているのではないか。とにかく偉い人は責任を取ろうとしない、責任を取らなくてもいい "象徴" だと自称する稚拙な大人である。さらに政治を考えなくなった民も "力には力を" と武力行使を是認するようであれば、軍事裁判を免れた(昭和)天皇は嘆くであろう。この先、時の権力者は責任を取らないよ、まんまと逃げちゃうからね。彼らは尊い犠牲を軽視するだけでなく天皇同様免罪されると信じ込んでる。だから私は "戦争の放棄" を堅持する。
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以前読んだ村上春樹の短編『眠り』。あれ、ちょっとがっかりしてたんだよね。途中まですごく面白かったのに、最後のオチが、え?とね。村上春樹はよくわかんないのが面白さとは思うんだけど、わかんねーよ、だった。眠らないことによっていろんなことから解放された主人公といっしょに、世界の広がりを感じ始めたと思ったら、最後にひどく怖い目にあうという・・・。閉そく感の中に叩き落された、イヤな気分になったと思う。
本書を読んで、その印象が一変した。
加藤氏のハリウッド的妄想といってたか、によれば、最後に出てきた男たち。その顔は・・・というところでね。あぁ、そういうことだったのか、と妙に納得したのだ。
そして、そうであるなら、俺が主人公の女性といっしょに感じていた解放感は、必ずしも解放ではなかったことになる。変化ではあったとしても。
もう一度、あの話読み返してみようと思った。
文芸批評って、謎解きなんだなぁ。
面白かった。
小説を読むとは、著者の言う通り、世界を感じ味わう見方を豊かにしてくれるんだね。 -
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中高生にとって必読の書であるのはもちろん、私たち大人も読んでおくべき1冊。
以下、印象に残ったフレーズを。
「この世に『最低の学校』というのがあるとすれば、それは教員全員が同じ教育理念を信じ、同じ教育方法で、同じ教育目標のために授業をしている学校だと思います(独裁者が支配している国の学校はたぶんそういうものになるでしょう)。でも、そういう学校からは『よきもの』は何も生まれません。これは断言できます。」(p10:内田樹)
「疑うというのは『排除する』とか『無視する』ということとは違います。『頭から信じる』でもなく、『頭から信じない』でもなく、信憑性をとりあえず『かっこに入れて』、ひとつひとつの言葉を吟味するということです。そうすればおそらくみなさんは『なんとなく、身にしみ入る言葉』と『なんとなく、違和感がする言葉』を識別できるはずです。それくらいの判断力は生物である限りは備わっています。」(p14:内田樹)
「『わかった』というのはあまりいいことじゃないんです。人間同士では、『わかると、コミュニケーションが終わる』ということになっている。」(p38:内田樹)
「物理を専門にしておられて、科学についてすばらしい本を何冊も書いておられる山本義隆さんは、何のために勉強するのですかと尋ねられて『自分の頭で考え、自分の言葉で自分の意見を言う。ただそのためだけに勉強するのです』と答えられました。これは、勉強だけでなく、科学という言葉にも、ぴったりとあてはまります。」(P184:仲野徹) -
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批評というのは、ミステリなんだな、と読みながら思った。著者はこういう意図をもって、こういう話を書いたのではないか、なぜなら・・・と論証していく。そのプロセスが楽しかった。
英語で読む、とタイトルについているけど、読んでいるのは日本語なので、それはあんまり関係ない。ただ、『納屋を焼く』という短編について語ったときの話だ。この作品、日本人と海外の読者で、解釈がまったくちがうのだという。海外の人の多くは、この作品をものすごく怖い話として読んだというのだ。そして村上春樹という作家は、自分の作品がどのように読まれようとも、あるいは狙った読まれ方がされていなくても、まったく何も言わないという人の悪いところがあるのだとか。もとの版では入っていたディティールで、英語版では削られている箇所があった。加藤氏はそこから「これはね・・・」と推理を展開する。
最後の方は、もはや村上春樹が何を意図して、とは別のところで展開するくらいなものでさ。この本として、すごく楽しく読めた。下巻も読んでいこう。 -
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敗者というと、ひどく重く、ネガティブなものであるような気がする。特に著書の姿勢としては戦後日本のありようをオーバーラップさせている面は強いだろう。でも、それがわかっていてなお、ここでいう敗者とは、無視できない他人がいて、そういう外部となんとか折り合いをつけて生きなければならない自分自身という気がする。勝者は勝者であるがゆえに、しばしば他を無視することができる。あるいは自分を押し通すことができる。でも人間生きていてさ。常に自分を押し通すことが可能だろうか。そんなわけないよなぁ、と思うのだ。である以上、ここで論じられているのは、自分自身のことに他ならないという・・・なんというか、とても刺激的な本だった。吉本隆明と鶴見俊介は、もっと意識的に読んでいきたいと思ったね。あと大江健三郎についてはほとんど読んでいないんだけど、異様な迫力で論じられていたな。そんなことがあったんだ、と重く感じた。
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ミステリを読んでいるかのように、ひきこまれた。読み進むにつれて、謎が解かれていく気分の良さ。解かれていく謎っていったら、そりゃ村上春樹という作家さんの謎でしょう。タイトルの通り、村上春樹は難しい。これはこういう話だったんだ、というスッキリ感があまりない。それでもなんか読んでしまうし、好きな作品は何度か読み返したりもしている。それは村上春樹自身がしばしばいうように、文体に魅力があるからかもしれない。あるいは、他に何か企業秘密的に表に出てこない魅力があるのかもしれない。
本書で説かれているのは、もちろん加藤氏の見方ではあるだろう。でも、作品を対比し、広い知識と明確な論理で語られる解釈は、強い説得力があるんだよなぁ。
『海辺のカフカ』以降では特に、村上作品には悪の存在が出てくるなんて話はよそでも読んだけどさ。その悪とは、それ以前の村上作品における主人公たちであり、著者のもつデタッチメントな方面のファクターだ、なんていう話は妙に納得してしまった。
面白かったねぇ。
村上春樹を再読したくなったのはもちろんなんだけど、内田樹や豊崎由美など、他の、村上作品を論じている人の文章も読みたくなった。それだけ楽しく、刺激的な本だったのだと思う。 -
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改憲すべきなのか護憲すべきなのか、自分なりの意見を持ちたくて本書を手に取った。
本書では、日本国憲法ができてから日本の占領が終わるまでの過程が綿密に書かれている。今まではただ漠然と「アメリカが作った憲法」ということしか知らなかったが、アメリカと言ってもマッカーサーとアメリカ本国のすれ違いであったり、マッカーサーと連合国軍・極東委員会の対立であったり、GHQがたった2週間ほどの期間で憲法草案を作成した事実であったり、知らないことの連続だった。そして何より、自分も含め多くの日本国民が自国の憲法の成立過程すら知らないという事実に驚いた。
正直本書を読みきった今でも、自分の中で改憲か護憲かの考えはまとまっていないし、本書の内容もあまり理解できていない気がする。なぜ日本が明治維新で欧化を進めたにも関わらず天皇主権は維持され、自らの力で完全に民主主義化することができず、結果軍部の独裁状態になってしまったのか。8月15日の終戦で何もかも失った日本国民は、「平和主義」という考えがまだないときに、どのような日本になることを望んだのか。過去を見つめ直し、反省しなければ、明るい未来は無いだろう。
勉強不足を実感した一冊だった。いろんな本を読んでから再度読みたいと思う。 -
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「左派」とか「リベラル」とかに胡散臭さを感じている。「安倍政権下では改憲議論すら反対」と述べ(地元有力紙が追随して)圧勝した地元選出の野党議員のことは自分勝手な人間だと嫌悪した。9条改憲議論について深く考えたことはなかったけど、毎年やってくる原爆(を落とされた)記念日と終戦(敗戦)記念日を前に、この分厚さと優しい語り口は信頼できると思い、護憲ではない「左派」思想を読み進めた。
右とか左とか、改憲とか護憲とか、自分にとってはどうでもいい。自分は日本に生まれ育ったから日本国民であることに間違いないけど、70年以上も前の侵略戦争のことで私が謝罪しなければならないとは微塵も思わない。芸術祭でワザと未成年風にした慰安婦像を見せられても不快でしかない。「なにものでもないもの」である個人である私に、左派は、「国家」を都合よく押し付けないでほしい。
新聞やテレビでは、本書のような掘り下げた論考は行われない。テレビは無理にしても、新聞は、高校野球の結果を紹介する紙面を省き、扇動家による展示が中止されたことを「表現の自由が危ぶまれる」などと定形文で誰でもない社会を批判するのでなく、護憲、改憲について骨のある紙面づくりをすればいい。 -
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中学生、あるいは高校生ぐらいの読者を対象にしているシリーズの一冊。ほかの出版社の、ぼくは気に入っている「よりみちパンセ」のシリーズより少し年上の読者が想定読者か?
内容は、あれこれあるのだけれど、高橋源一郎の、アメリカの大統領だった、オバマの広島訪問演説に対する解説(?)が俊逸、さすが「ゲンちゃん」という内容で、記憶に残った。
内田樹の編集方針も悪くない。学校の先生方も通勤電車で、一つずつお読みになればいいのではないでしょうか。ここで、さまざまに指摘されている社会の変化の中で、教育が、それはあかんやろ、という方向を支えていることに、ギョッとなさるかもしれない。 -
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ネタバレ平成の残りの日に一日一冊読書しようと考えて『羊をめぐる冒険』から読み始めたのは加藤典洋のこの本の出版記念トークショーを聴きながら思いついた。
加藤は、村上春樹がただの本が売れる作家なのではなく、日本の伝統的純文学の系譜に連なる小説家であることを示していく。
「村上は、その作品を虚心に読む限り、これら安倍、三島、お終えに対立するというよりも、その反逆の伝統に連なる日本の戦後の文学者の一人である。その批評的エッセイを読めばわかるが、太宰治をはじめ、川端康成、永井荷風、谷崎潤一郎、夏目漱石など近現代の日本の文学の山稜に直接に連なる、じつに知的内蔵量膨大な端倪すべからざる文学者なのである。」
「私としては、いま、村上のこうした文学的な高度な達成が、中国の現代文学にとっても、韓国の現代文学にとってもー他の国の現代文学にとってと同様にー他人事でない所以を示したい。世の村上好きの愛読者たちには嫌がられるかもしれないが、村上は、そういうファン以上に、彼に無関心なあなた方隣国の知識層にとってこそ、大事な存在なのだと知らしめたい。/一言で言えば、村上春樹は、そんなに親しみやすくも、わかりやすくもない。見くびってはならぬ。/「村上春樹は、むずかしい」のである。」
(〜「はじめに」より) -
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3.11の原発事故を契機として現代社会のリスクを根源的に問い直す内容。ここでも、彼は原発事故のもつ思想的な意味を問うため、現代産業論、リスクと保険の関係、科学技術史などを改めて勉強し直す。この誠実さが、結論に関わらず、読み手の納得感を生むのだろう。
まず、著者の心を強く揺さぶったのは、原発にかけられるはずの保険が更新できなかった、という小さい記事だ。これが、産業の発展があるリスクの許容限度を超えたのではとの危機感を著者にもたらす。
レイチェル・カーソンの「沈黙の春」や、「成長の限界」論など「地球の資源はもはや無限ではない、有限だ」という警告は繰り返されてきた。しかしそれらが力を持ちきれなかったのは、結局解決策が「禁欲、我慢」だったからだ、というのが著者の考えだ。つまり、「我慢」で成長を止めるのは無理があるのでは、ということだろう。著者は見田宗介の社会学の論考を引きながら、「青空を見てふと美しいと感動するような」人生の喜び、あるいは欲望を否定するような社会の存続は無意味、という考えに共感している。
従来の「地球が危ない」論というのは平たく言えば「有限だ、それを無駄遣いしている(たぶん)資本家とか政治家とかいった悪い奴がいる、止めるのは市民だ、なぜなら市民は我慢ができるからだ」という主張のバリエーションに過ぎなかった。加藤氏は、欲望を抑圧する社会では人生の喜びは得られない、とする立場から成長への衝動を肯定する。
ただ、ここから先、彼の議論は(再び、私の考えでは)迷走しているように見える。人類の欲望、自由を肯定的に捉えながら、ある産業(例えば原発)については「それ以上拡大させない」ロジックを見つけようとして思索を重ねている。ところが、前半のような論旨の切れ味はない。科学技術史やヴィリリオの現代思想などを逍遥した結果彼がたどり着いたのは「することもしないこともできる」コンティンジェントな意思、という概念だが、これは産業の膨張を自発的に止める思想としては機能していない。つまり彼は、結果的に見田の理論を乗り越えられないことを自ら証明してしまっているように見える(そしてそれは同時に、加藤氏自身が批判している吉本隆明の「技術革新への自然な衝動を抑えようとする反原発に反対」という意見を結局肯定することにもなっている)。
つまりこういうことだ。加藤氏は従来の左翼イデオロギーから一線を画し、自由な意志による資本、産業の拡大を「生きる意味の根源としての欲望」、という形で認めている。一方で、20世紀後半から加速度的に増大する産業事故の危険性を(何らかの)有限性の現れとみて危機感を抱き、これまた従来の「悪いのは資本家と政治家」という以外の理屈で制御しようと試みる。が、結果としてそれは人間にとって最も重要な自由(あるいは欲望)を人工的に制御することになってしまう、というジレンマを解決できず「やらないことも自由」という価値観に「期待」する形で論を終えている。
加藤氏の言う「『豊かな社会』で大義にもからめ捕られず、欲望にも依存せずに生きる意味」を見つけられるか、彼の本の中に少なくとも私は解を見つけられなかった。だが、その問いの切実さ、その向き合い方の誠実さにおいて加藤氏への信頼は一層高まった、そんな読書であった。