あらすじ
はたして村上文学は、大衆的な人気に支えられる文学にとどまるものなのか。文学的達成があるとすれば、その真価とはなにか――。「わかりにくい」村上春樹、「むずかしい」村上春樹、誰にも理解されていない村上春樹の文学像について、全作品を詳細に読み解いてきた著者ならではの視座から、その核心を提示する。
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まずはご冥福をお祈りいたします。亡くなられたからという訳じゃないけど、このタイミングで読んでみることに。先だって読んだ内田樹作・春樹評の中でも触れられていたしね。おおむね好意を寄せながら、褒めの一辺倒じゃないってところは好感。未読作品も、早く読んでしまいたくなりました。ただ、春樹特別って訳じゃなく、あくまで他の作家と同列に、普通に面白い作品として味わっている自分としては、まあ時が来れば読みましょう、くらいの感じではあるんだけどね。
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『村上春樹は、むずかしい』というタイトルであるが、ここまで読み込むのであれば、むずかしいというのも頷ける。
例えば、初期短編『中国行きのスローボート』については、初編からの細かな改変部分に目配せされていてその意図についての解釈が解説される。これまで、村上春樹の父と中国に対する一種の集合的な罪の意識についてはほとんど意識することもなかったのだが、言われてみるとノモンハン事件をひとつのテーマとして含む長編『ねじまき鳥クロニクル』など、村上春樹が、中国との過去の戦争に対して特別な思いを抱えていることは確かなのだと思う。中国との関係においては『アフターダーク』で描かれた中国人女性への暴力にもその流れとして触れられている。『アフターダーク』を自分の最初の短編である『中国行きのスローボート』への返歌として書かれたという読みは鮮やかである。村上春樹本人はその辺は読者にゆだねられていて、自分はそうだったかどうか覚えていないと言うのかもしれないが、こういう謎解きを提示されると、文芸批評もひとつのエンターテイメントであると感じる。とにかく『中国行きのスローボート』は比較的好きな短編だが、そこに新しい意味を見つけることができた。そして、もう一度『アフターダーク』と『ねじまき鳥クロニクル』を読んでみたくなったのは、加藤さんの文芸批評の力だと思う。
村上春樹のクロノグラフィを追うに当たり、『ねじまき鳥クロニクル』の第一部/第二部と第三部の間に起きた1995年の二つの事件「阪神淡路大震災」と「オウム真理教サリン事件」は明らかに大きな影響を与えた事件として捉えられる。加藤さんは、そこでの変化を『めくらやなぎと眠る女』のオリジナル版と1995年に朗読のために短縮した改作版を比較することで語っている。この比較的有名な短編から『ノルウェイの森』との関係性とその変化を語るのは謎解きとして非常に面白いし、著者にしかできないことではないかと思う。『めくらやなぎと、眠る女』に出てくる女の子と友人が、直子とキズキに当たるというのは目からウロコであった。また、そこでは『ノルウェイの森』の冒頭でも描かれた、喪失についての後からの気づきによる悔恨というものが繰り返されているのである。
もちろんオウム事件の直接的な影響は『アンダーグラウンド』と『約束された場所で』を書いたことである。この経験は言わずもがな大きなものであったはずだ。丁寧に両者の声を拾ったこの本を自分はとても大事な本だと思っている。『神の子どもたちはみな踊る』や、これまでの自分の中ではベストの長編と思っている『1Q84』にも通じるものである。ちなみに同じように第三部が別の時期に遅れて出版された『1Q84』と『ねじまき鳥クロニクル』の対照比較も面白い。
ノーベル文学賞の話で、2013年にスベトラーナ・アレクシェービッチ『チェルノブイリの祈り』が候補として出てきたときに、加藤さんはぜひにノーベル賞をとるべきだと思い、同時に『苦海浄土』の石牟礼道子との対談を実現させるべきだと書いている。この後、2015年にアレクシェービッチは実際にノーベル賞を取るのだけれども、加藤さんが持った思いに自分も同感である。加藤さんは村上春樹の中に「大きな主題」を求めているわけだが、『1Q84』以降の『色彩をもたない多崎つくると、彼の巡礼の年』や『女のいない男たち』には「小さな主題」に引きずられたまま、水中深く沈んでいこうとしていると指摘する。著者によると次の大きな主題をめぐる長編は2017年ごろになるのではないだろうかというが、その2017年に出た『騎士団長殺し』について、著者はどう語るのだろうか。
手際鮮やかで、村上春樹好きならば手に取ってほしい本。
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伝統的な日本の純文学の系譜と対比的に捉えがちな村上春樹を、日本の近現代の文学の伝統の上に位置づけるという批評的企ての書。村上作品の変遷を主要な作品を通して見ていく。
『風の歌を聴け』
近代の原動力となってきた否定性を否定しながらも、その没落を悲哀に満ちたまなざしで見送るという斬新さ。
初期短編3部作
・従来の否定性から遠く離れ(ディタッチメント)、それにいま手も触れられず何も言えない。そういう躊躇いの場所になお新しい否定性が見出されようとしている(コミットメント)
・否定性がもはやほとんど空転し、自壊し、意味を失い、誰からも見捨てられたなかで、その没落の奈落までつき合うこと、寄り添うこと、ほとんど聞こえない否定性からの絶望しきった呟きに耳をすますことである。
パン屋襲撃
消費社会の到来によってそれ以前の反体制的な否定性が巧みにポストモダニティにからみとられる、そのえも言われぬ感触が上手に捉えられている。
パン屋再襲撃
否定性の回復がどのように滑稽なほど錯綜したプロセスを経なければならないかをアイロニーに満ちた筆致で私たちに教える
世界の終わりとハードボイルドワンダーランド
否定性の素が失効し、人に見捨てられた時期には、せめて自分用のルールを作り、それを墨守すること=内閉性・マクシムが、少なくとも世間のニヒリズムに染まらないための抵抗の砦となり、モラルとしての否定性を仮死のままになお生き延びさせる唯一の方途となりうる。
ファミリーアフェア
しかしマクシムの生き方は腐敗することを思い知らされる。
という感じで作品の本質を次々と言い当てていくその切れ味は快感。どう読んだら、あの作品からこういった主題を抽出できるんだろうと素朴に思った。そして、村上春樹の自己更新の姿勢、変わり続ける姿に感銘を受けた。
ノルウェイの森
・永沢さん…他人に動かされず、自分のスタイルとルールを持っているという意味での肯定的な指標だった在り方が、ここに来て、自閉の一形態とネガティヴに捉えられている。
・僕…かつてのデタッチメントから追放され、スタイルを持たず自分のこと足場を失った格好の悪いよるべない存在。何からも支えられないという文学の原点的な場所に主人公を立たせることに成功した。
ねじまき鳥クロニクル
・磁力の淵源はここでも主人公が徒手空拳の徒であること、ささえのなさ、なのである。
・物語性の展開、という前期の小説制作の方法は、この中期に来て物語世界への没入、物語への捨て身の投身ともいうべき新たな強度の段階へ進む。
・アメリカに数年住むことによって、自分と日本のむすびつきを、自分の社会的責任を、コミットメントということをもっと考えたいと思うようになった。
・そのようにして彼の中に浮かび上がってきた歴史は、絵空事のように描写されたが、現実の持つ現実性が時の経過の中でリアルな意味をすり減らしている場合、現実性はフィクションを通じてしかリアルな意味を回復できないことが分かる。
めくらやなぎと、眠る女
デタッチメントという態度の消極性を反省するとともに、弱い他者にこそ、人が助けられうる、そのことの持つ新しい可能性に光を当てる。
アンダーグラウンド
・日本でこの社会でサラリーマンをやっている人たちも自分と変わらない、同じ人間なのだという発見。以降、村上の世界は豊かに、広く、深くなっていく。
・稚拙な青春とか純愛とか正義といったものごとが、その稚拙さゆえにいま切実に人々の心に働きかけているのではないかという思考。
ここまでが第2部です。次の海辺のカフカあたりから更に話が難しくなってくる。
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[村上さん、引きずり出してみました]人によって好き嫌いが大きく分かれ、文芸界での評判も分裂する傾向にある村上春樹とその著作。デビュー作となった『風の歌を聴け』から直近の『女のいない男たち』までを時系列的に眺めながら、村上春樹の文学史的評価に新たな光を当てようと試みた作品です。著者は、文芸評論家として活躍し、早稲田大学の名誉教授を務める加藤典洋。
村上春樹論なのか、はたまた村上春樹を借りた加藤典洋論なのかがぼやけるところが散見されましたが、「難解」とされる村上春樹の歩みそのものの中に物語を見出している点で評価でき、そして興味深い作品。村上春樹の作品をかなり読んだ人でないと「?」という状態になってしまうと思いますが、本書を脇に村上春樹の著作を読み進めていくのも刺激的な経験になるかもしれません。
〜村上は日本の純文学の高度な達成の先端に位置する硬質な小説家の系譜に連なっている。違うのは、彼が同時に大衆的な人気をも、海外での評価、人気をもかちえているという、文学的に無視できないが最重要ではないただ一点だけである。そのことに惑わされるべきではない。村上は野球帽を捨てないからといって何も、「文学ぎらい」ではないのだ。〜
そして村上春樹の著作を改めて読みたくなるという......☆5つ
Posted by ブクログ
ノーベル賞候補にも名があげられ、日本を代表するといっても過言ではない村上春樹さんについて、あまりに強いそういったフィルターを取り除いた本当の凄さというものについて書かれています。大衆的な人気を得ているからといって、そんなに軽い作家ではないと。村上春樹さんとして、文学に対する壮絶な戦いを闘われているということ。初期から最近に至るまでの、村上春樹さんの著書の分析、周囲の反響などを詳細に分析されています。多数の著作がありますが、それらを読む読み方が変わってしまうと思いました。
読み終わってから、読み直して、「はじめに」の最後に書かれている著者の言葉「見くびってはならぬ。「村上春樹はむずかしい」のである。」という言葉に、著者の並々ならぬ思いが込められていることを感じました。
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村上春樹の文学が、時代と自分にとっていかに切実だったか、痛感した。一貫性のある、また、真っ当な評論である。一気に読んだ。
・どのような近代的な文学も、必ず、社会がゆたかになっていくある時点で、否定性が従来のかたちのままでは文学を生き生きと生かし続けられない転換点が来る。
・現実のもつ現実性が時の経過の中でリアルな意味をすり減らしてしまう。そういう場合、その現実性は、いまやフィクションを通じてしか、リアルな意味を回復できない。
・麻原の物語の力はむしろ稚拙であったからこそもたらされたのではないか。
・戦争が終わるということはないある意味で正義という魔法が解けること。その後、青豆の運命は私たちから遠くない。
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これまで読んだ3冊の村上春樹本の中で1番しっくりきた。しっくりポイントは、否定性の反動として、サザンと村上龍が「肯定性の肯定」であり、村上春樹が「否定性の否定」だ、という評。それと、アンダーグラウンドで普通のサラリーマンと話したことでそれ以後の作品に普通の人々が出てくる、複層的になっていくという話。シークアンドファインド、対の世界、縦の関係、という構造の変化。その反応のダイレクトさに、村上春樹の1人の人間らしさを感じれたのが収穫。てか短編も読んでいきたい、そしてもう一回この本を。
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ミステリを読んでいるかのように、ひきこまれた。読み進むにつれて、謎が解かれていく気分の良さ。解かれていく謎っていったら、そりゃ村上春樹という作家さんの謎でしょう。タイトルの通り、村上春樹は難しい。これはこういう話だったんだ、というスッキリ感があまりない。それでもなんか読んでしまうし、好きな作品は何度か読み返したりもしている。それは村上春樹自身がしばしばいうように、文体に魅力があるからかもしれない。あるいは、他に何か企業秘密的に表に出てこない魅力があるのかもしれない。
本書で説かれているのは、もちろん加藤氏の見方ではあるだろう。でも、作品を対比し、広い知識と明確な論理で語られる解釈は、強い説得力があるんだよなぁ。
『海辺のカフカ』以降では特に、村上作品には悪の存在が出てくるなんて話はよそでも読んだけどさ。その悪とは、それ以前の村上作品における主人公たちであり、著者のもつデタッチメントな方面のファクターだ、なんていう話は妙に納得してしまった。
面白かったねぇ。
村上春樹を再読したくなったのはもちろんなんだけど、内田樹や豊崎由美など、他の、村上作品を論じている人の文章も読みたくなった。それだけ楽しく、刺激的な本だったのだと思う。
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平成の残りの日に一日一冊読書しようと考えて『羊をめぐる冒険』から読み始めたのは加藤典洋のこの本の出版記念トークショーを聴きながら思いついた。
加藤は、村上春樹がただの本が売れる作家なのではなく、日本の伝統的純文学の系譜に連なる小説家であることを示していく。
「村上は、その作品を虚心に読む限り、これら安倍、三島、お終えに対立するというよりも、その反逆の伝統に連なる日本の戦後の文学者の一人である。その批評的エッセイを読めばわかるが、太宰治をはじめ、川端康成、永井荷風、谷崎潤一郎、夏目漱石など近現代の日本の文学の山稜に直接に連なる、じつに知的内蔵量膨大な端倪すべからざる文学者なのである。」
「私としては、いま、村上のこうした文学的な高度な達成が、中国の現代文学にとっても、韓国の現代文学にとってもー他の国の現代文学にとってと同様にー他人事でない所以を示したい。世の村上好きの愛読者たちには嫌がられるかもしれないが、村上は、そういうファン以上に、彼に無関心なあなた方隣国の知識層にとってこそ、大事な存在なのだと知らしめたい。/一言で言えば、村上春樹は、そんなに親しみやすくも、わかりやすくもない。見くびってはならぬ。/「村上春樹は、むずかしい」のである。」
(〜「はじめに」より)
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長いこと、自分にとって他とは違う特別な存在だった村上春樹について、ようやくきちんと言語化してくれるものを読んだ気がしました。「否定性の否定が、作品の中で『悲哀を浮かべている』こと(P.28)。
この本を正確に理解できているかどうか分かりませんが、確かに1980年代には、否定的であることが正しく鋭く純粋である、というシンプルさでは、現実を生きている実感と違ってきていて、そこを掬い上げてくれる作品が、いとおしく感じられた気がします。
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【読書その62】久しぶりの読書記録。ボチボチ読書はしているものの最近気分が乗らず停滞中。今年に入って62冊目。そんな中で読んだのは加藤典洋氏の村上春樹論。恥ずかしながら、自分自身、村上春樹氏の著書は「ノルウェイの森」や「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」などのメジャーな本しか読んでないが、「村上春樹は、むずかしい」というタイトルとは逆に、色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年村上春樹氏の著書を新たな視点で見つめ直すことができるようになった。
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ずっと読んできたのに、『1Q84」が読み切れない。なぜか知りたくて、本書に助けを求めました。青豆の造形につまずいていたのでした。初期の作品から、デタッチメント(距離をおくこと)なる主人公の行動にどれだけ影響を受けたでしょう。そして、村上春樹は深化(進化)しつづけているのが、納得できました。そのことについていけず、または、誤解を加えて、違和感を持っていたのでした。今、あらためて、初期から読み直してみたいと思っています。春樹氏は、自分の評論を読まないと発言していますが、読者の道案内に本書はありがたい。
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加藤典洋の村上評本。頭の中にあった漠然としていたものに、言葉を与えてくれるので、村上春樹を自分がどう読んでいたかを整理してくれる。「村上春樹の短編を英語で読む1979~2011」ですっきりさせてもらった。
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「ー」
村上春樹の作品について、それぞれの時代毎に分類分けした本。よくある春樹解説本ではなく、なかなかにレベルが高かった。どこまで村上春樹自身が意識してそう書いていたのかは分からないが、やはり文学の持つ意義はすごいと感じた。
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加藤典洋の最新春樹論。村上文学が大衆には世界中でウケているが中国や韓国など隣国の知識層にまったく興味を持たれていないことを知った著者が、もっと論じられるべきだと考え、その材料を提示した一冊。たしかに日本でも好意的に書かれた春樹論は無数に出ているが(売れるからね)あまり批判的な批評の対象にはならない印象。嫌いな人が語りたくないのはハルキスト達がウザったいからですかね。
内容的にはデビューから最新作まで発行時系列順に追っていて、特に短編を取り上げて論じられている個所が多いのも目新しく、全作読み返したくなる面白い一冊でした。もちろん著者の論考を全肯定するわけではないですが、「なるほど」とか「いやいや」とかあれこれ論じたくなります。近隣諸国のインテリもそういう気持ちになれば著者の狙いは当たることになりますが、はたして。
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タイトルだけ読むと、本書の主題は「村上作品が何故難しいのかを解き明かす」と思ってしまうが、本当の主題は「日本文学の延長線上に村上作品があることを示す」である。この主題は、村上作品が日本文学の伝統に基づいておらず、日本文学界から評価されていないという前提に基づいている。この前提を私は知らなかったので非常に驚いたが、長年の謎が少し解けた気がする。その謎とは、村上作品の文体は翻訳調、内容は抽象的なため、純文学読者層にしか届かなそうなのに、何故こんなにも売れているのかという謎である。
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仮定することと殺し直すこと
村上春樹の作品を発表時期で区切って論じている。初期は1979〜82年。前期は1982〜87年。作品の特性としては点(個の世界)であり、デタッチメントである。中期は1987〜99年。横軸(対の世界)であり、コミットメントが作品の根幹をなす。後期は1999〜2010年。縦軸(父との対峙)が作品に見られる。2011年以降が現在とされており、3.11以降に書かれる作品についても言及する。
著者の本は「村上春樹イエローページ2」などを読んだこともあるし、有名な文学批評家だと思うが、作家論的な言及はあまり好きになれない。村上自身が文壇から離れていたことと作品世界はあまり関係がないように思われる。
私がいちばん好んでいる「海辺のカフカ」を論じている部分には好感をもてた。もっとも損なわれた存在としての田村カフカの「回復」はどのようにしてなされるのかという点、佐伯さんの役割について言語化しているところに感動した。