あらすじ
はたして村上文学は、大衆的な人気に支えられる文学にとどまるものなのか。文学的達成があるとすれば、その真価とはなにか――。「わかりにくい」村上春樹、「むずかしい」村上春樹、誰にも理解されていない村上春樹の文学像について、全作品を詳細に読み解いてきた著者ならではの視座から、その核心を提示する。
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Posted by ブクログ
伝統的な日本の純文学の系譜と対比的に捉えがちな村上春樹を、日本の近現代の文学の伝統の上に位置づけるという批評的企ての書。村上作品の変遷を主要な作品を通して見ていく。
『風の歌を聴け』
近代の原動力となってきた否定性を否定しながらも、その没落を悲哀に満ちたまなざしで見送るという斬新さ。
初期短編3部作
・従来の否定性から遠く離れ(ディタッチメント)、それにいま手も触れられず何も言えない。そういう躊躇いの場所になお新しい否定性が見出されようとしている(コミットメント)
・否定性がもはやほとんど空転し、自壊し、意味を失い、誰からも見捨てられたなかで、その没落の奈落までつき合うこと、寄り添うこと、ほとんど聞こえない否定性からの絶望しきった呟きに耳をすますことである。
パン屋襲撃
消費社会の到来によってそれ以前の反体制的な否定性が巧みにポストモダニティにからみとられる、そのえも言われぬ感触が上手に捉えられている。
パン屋再襲撃
否定性の回復がどのように滑稽なほど錯綜したプロセスを経なければならないかをアイロニーに満ちた筆致で私たちに教える
世界の終わりとハードボイルドワンダーランド
否定性の素が失効し、人に見捨てられた時期には、せめて自分用のルールを作り、それを墨守すること=内閉性・マクシムが、少なくとも世間のニヒリズムに染まらないための抵抗の砦となり、モラルとしての否定性を仮死のままになお生き延びさせる唯一の方途となりうる。
ファミリーアフェア
しかしマクシムの生き方は腐敗することを思い知らされる。
という感じで作品の本質を次々と言い当てていくその切れ味は快感。どう読んだら、あの作品からこういった主題を抽出できるんだろうと素朴に思った。そして、村上春樹の自己更新の姿勢、変わり続ける姿に感銘を受けた。
ノルウェイの森
・永沢さん…他人に動かされず、自分のスタイルとルールを持っているという意味での肯定的な指標だった在り方が、ここに来て、自閉の一形態とネガティヴに捉えられている。
・僕…かつてのデタッチメントから追放され、スタイルを持たず自分のこと足場を失った格好の悪いよるべない存在。何からも支えられないという文学の原点的な場所に主人公を立たせることに成功した。
ねじまき鳥クロニクル
・磁力の淵源はここでも主人公が徒手空拳の徒であること、ささえのなさ、なのである。
・物語性の展開、という前期の小説制作の方法は、この中期に来て物語世界への没入、物語への捨て身の投身ともいうべき新たな強度の段階へ進む。
・アメリカに数年住むことによって、自分と日本のむすびつきを、自分の社会的責任を、コミットメントということをもっと考えたいと思うようになった。
・そのようにして彼の中に浮かび上がってきた歴史は、絵空事のように描写されたが、現実の持つ現実性が時の経過の中でリアルな意味をすり減らしている場合、現実性はフィクションを通じてしかリアルな意味を回復できないことが分かる。
めくらやなぎと、眠る女
デタッチメントという態度の消極性を反省するとともに、弱い他者にこそ、人が助けられうる、そのことの持つ新しい可能性に光を当てる。
アンダーグラウンド
・日本でこの社会でサラリーマンをやっている人たちも自分と変わらない、同じ人間なのだという発見。以降、村上の世界は豊かに、広く、深くなっていく。
・稚拙な青春とか純愛とか正義といったものごとが、その稚拙さゆえにいま切実に人々の心に働きかけているのではないかという思考。
ここまでが第2部です。次の海辺のカフカあたりから更に話が難しくなってくる。
Posted by ブクログ
平成の残りの日に一日一冊読書しようと考えて『羊をめぐる冒険』から読み始めたのは加藤典洋のこの本の出版記念トークショーを聴きながら思いついた。
加藤は、村上春樹がただの本が売れる作家なのではなく、日本の伝統的純文学の系譜に連なる小説家であることを示していく。
「村上は、その作品を虚心に読む限り、これら安倍、三島、お終えに対立するというよりも、その反逆の伝統に連なる日本の戦後の文学者の一人である。その批評的エッセイを読めばわかるが、太宰治をはじめ、川端康成、永井荷風、谷崎潤一郎、夏目漱石など近現代の日本の文学の山稜に直接に連なる、じつに知的内蔵量膨大な端倪すべからざる文学者なのである。」
「私としては、いま、村上のこうした文学的な高度な達成が、中国の現代文学にとっても、韓国の現代文学にとってもー他の国の現代文学にとってと同様にー他人事でない所以を示したい。世の村上好きの愛読者たちには嫌がられるかもしれないが、村上は、そういうファン以上に、彼に無関心なあなた方隣国の知識層にとってこそ、大事な存在なのだと知らしめたい。/一言で言えば、村上春樹は、そんなに親しみやすくも、わかりやすくもない。見くびってはならぬ。/「村上春樹は、むずかしい」のである。」
(〜「はじめに」より)
Posted by ブクログ
仮定することと殺し直すこと
村上春樹の作品を発表時期で区切って論じている。初期は1979〜82年。前期は1982〜87年。作品の特性としては点(個の世界)であり、デタッチメントである。中期は1987〜99年。横軸(対の世界)であり、コミットメントが作品の根幹をなす。後期は1999〜2010年。縦軸(父との対峙)が作品に見られる。2011年以降が現在とされており、3.11以降に書かれる作品についても言及する。
著者の本は「村上春樹イエローページ2」などを読んだこともあるし、有名な文学批評家だと思うが、作家論的な言及はあまり好きになれない。村上自身が文壇から離れていたことと作品世界はあまり関係がないように思われる。
私がいちばん好んでいる「海辺のカフカ」を論じている部分には好感をもてた。もっとも損なわれた存在としての田村カフカの「回復」はどのようにしてなされるのかという点、佐伯さんの役割について言語化しているところに感動した。