立花隆のレビュー一覧
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河合隼雄、立花隆、谷川俊太郎の3人による読む、聴くことに関するアンソロジー、講演、鼎談をまとめた本。
それぞれが短い文量で、かつ、3人分なので、かなりコンパクトな文章になっていて、読みやすいが、若干物足りない気もする。
ただ、河合隼雄さんと、立花隆さんの寄稿文のあと、谷川俊太郎さんの詩が入ってくるのが新鮮で、詩集を読む時よりも鮮烈に頭に響いた。
インターネットについては、2005年当時の会話なので、この時から格段に、速さが追求され進化してきた、現代のネット文化が及ぼす影響について、お3人に語らってもらえないことがとても残念だが、河合さんのように何度も繰り返し聴き、立花さんのようにたくさんの本を -
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臨死体験 上下 立花隆 文藝春秋
リアリティがこの世と臨死体験が
近すぎて
死の世界としては違和感があったけれど
キュープラロスの三段解説
物理世界とスピリチュアルな死の世界の間に
サイキック空間があると言う提案がしっくりくる
さて「下」を読んでみると
科学者が自分の信じる客観性と言う
狭い範疇に取り込もうと躍起になって
粗探しをしている愚かしさを感じざるを得ない状態に
うんざりしながら読み終わった
一方で体外離脱とは別の
この本の題名でもある臨死体験における
川やお花畑やトンネルなどについては
あまりにこの世的なお話で受け入れ難く
私自身懐疑的である -
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著者が東大教養学部で1996年に行った「人間の現在」という講義を基にしており、「新潮」に連載された第13~24回までをまとめたもの。12回までをまとめた「脳を鍛える」の続編。イエズス会の司祭であり、古生物学者でもあるテイヤール・ド・シャルダンを軸に展開している。
社会ダーウィニズム論は、ハーバード・スペンサーに始まり、 19世紀から20世紀の初めにかけて、世界中で大いに流行った。優勝劣敗、弱肉強食の世の中を肯定するため、帝国主義や植民地も悪くないし、弱者が差別を受けるのも仕方がないと考える。アメリカでは、資本主義の下で弱肉強食の競争をやるべきだという考え方の基本理論になり、ナチスでは人種的に -
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第三巻では、リンチ共産党事件の真相にせまります。また巻末には、著者の記事に対する日本共産党からの批判に応答をおこなった付録および資料などが付されています。
「スパイM」の暗躍時代以降も、特高によるスパイ活動はおこなわれ、大泉兼蔵が野呂栄太郎の信頼を獲得して、共産党の中心部に入り込んでいました。しかし、袴田里見が大泉と小畑達夫がスパイではないかという疑いをいだき、宮本顕治らを説得して、両者に対する査問がおこなわれます。本書では、この査問の経緯と小畑の死因との関係、さらに小畑がほんとうにスパイだったのかということについて、くわしい検討をおこなっています。
その後、共産党はスパイが組織内に入り込 -
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頑張って読んだけど、アポロ計画のこととか何にも知らないで読んだので、ほぼよくわからなかった。
地球の周りをぐるぐるしてるだけじゃさほど頭はおかしくならないらしいが、月まで行くと、地球が1円玉みたいに見えて、頭がおかしく宗教家になる人が多いらしい。いつか科学的なことにも興味を持てた日が来たらまた読みたい。宇宙に行って与えた心的環境の変化のところは面白かった。以下抜粋。
人間は地球は特別な存在と考えてるが思い込みに過ぎない。人間は地球の上で大した存在ではなく、地球は宇宙の中で大した存在ではない。
神はパターン。遠いところから見れば近いところでは見えなかった類似性が見えてくるから。
人間は限界 -
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新緑の中に身を置くと心も体もピッカピカ。今の季節は何処に行っても気持ちいい。静かだとなお良い。
最近は静かなのが心地よい。自宅では意識してテレビを消す様にしている。音を伴う映像を見ると疲れを感じるのはやはり歳のせいか。
なので、本を読む時間が自然と増えてきた。小説が多いけど、ノンフィクションもたまに読む。
小説以外の本を読む時は、適当に選ぶと当たり外れが大きいので、立花隆や佐藤優の書評を参考にすることが多い。
すると、この2人が対談している新書を偶々見つけたので早速読んでみた。知性の塊りみたいな2人だがユーモアがあるし、人間味の温かさも感じて昔からファンだ。
立花隆の書斎「猫ビル」が -
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上巻に引きつづいて、中核派と革マル派の血みどろの応酬劇についてのレポートがなされています。
両者がこれほどまでに厳しい対立関係にいたった理由についての著者自身の考えは、すでに上巻で語られており、本巻ではおおむね事実関係を追いかけていくことに終始している印象です。
なお末尾に近いところで、両派に加えて公安という第三項を加えなければ事実の全体像を明らかにすることはできないとして、著者自身の考えをまじえつつ公安が両派の抗争にどのようにかかわっていたのかということを論じていますが、この点については著者の取材の中心的な対象とはなっていなかったようで、抽象的な内容にとどまっているようにも感じられました