遠藤周作のレビュー一覧
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没後30周年の遠藤周作のこの作品と目が合った。
遠藤周作といえば、遥か昔に「海と毒薬」を読んだ(?)ぐらいだった。
私は生まれてこのかた聖書というものを読んだことがないが、他の国の本や映画に触れる時、必ず宗教感が出てくる。
全く知らないよりは、少しでもかじっておいたほうが良いだろうと思い、購入した。
聖書の中に出てくる女性たちのことを、キリストを通して独自の価値観で、紹介しているため、キリスト教の根幹みたいなものが理解できた気がする。
信じる力は、人間を強くさせる。
この力の強さを理解したうえで、宗教感に近づかなければならないことがわかった気がする。 -
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タイトルの通り主人公とその男を思い続けた女の話。戦後すぐの混沌とした日本で苦学生として惨めな生活をしている吉岡努は古雑誌を拾う。そこには有名人に向けてメッセージを送ってる人々が乗っているがその中の一人、森田ミツに吉岡は手紙を出し出会うことに。ゼニコがほしいなぁ、オナゴと遊びたいなぁと嘆くような大学生であり吉岡も森田と一夜限りの関係目的で会い、実際に体の関係にも。しかし吉岡は見た目が冴えないミツとはその後連絡を取らなくなる、一方ミツは貧乏で小児麻痺を患っていた吉岡に愛を持ち常に吉岡を考えるようになる。吉岡はその後会社で出会った女性と関係を持ち結婚まで行くがその合間合間に森田ミツを思い出し自身の行為を正当化していく。森田ミツは手のあざからハンセン病を疑われ御殿場の療養所へ向かう、検査結果から陰性ではあったがハンセン病患者と接することで彼らに愛を注ぐようになり療養所で働くが事故で死亡してしまう。最後まで吉岡のことを思い続けるミツの愛、聖女の一面が際立った内容。読んで苦しくなる男性は多くいるんじゃないかな。作者がキリスト教徒であることも関係してその世界観もよかった。
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ネタバレラストが衝撃で、悲しかった。
読んでいて考えたのは、報いとは何なのか、運命とは何なのかということだった。悪いことをした人間が不幸になり、善良な人間が救われるわけではない。ミツの死も、何か大きな意味があるというより、理屈のつかない死がこの世界にはありふれているのだと思えて仕方がなかった。
だからこそ、ミツには何か決定的な出来事と出会わせてもよかったのではないかとも思う。たとえばたえ子の死のようなものを通して、ミツ自身が何かを受け取り、そこから生き方を選んでいく。その過程がもう少しあれば、ミツが作者の思想を背負っている人物には見えにくかったかもしれない。
書こうとしている人間の弱さのようなものは分かる。ただ、冷めてしまった。
ミツの死が特別な悲劇というより、どこにでもありうる死に思えたこと。その理不尽さが、良くも悪くもずっと残っている。 -
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ネタバレ今でこそ、ハンセン病は不治の病ではないし、簡単に感染する恐ろしい病気ではないと理解されているが、ひと昔前までは親や友人、社会と隔離されまるで罪人かばい菌のような扱いを受けていた。弱い者やマイノリティを見つけると、人は差別したがる。表立って差別しなくても、今ならSNSで攻撃したりする。人間の持つ悲しい一面だ。
貧しく愚鈍でブスな森田ミツ。ハンセン病と診断され一度は隔離病院に入るが、誤診とわかり退院することになった。が、社会に戻っても居場所はない。結局病院に戻り修道女の手伝いをする。差別のない心優しい修道女は言う。「この病気は病気だから不幸じゃないのよ。今まで自分を愛してくれた家族や恋人にも見捨てられ孤独になるから不幸なの。でも不幸な人の間にはお互いが不幸という結びつきができるわ。たがいの苦しさと悲しみを分けあってるの。そんな交わりは普通の世間では見つけられないわ。考えようによってはここで別の幸福が見つけられるのよ。」一般社会で生きづらいミツは、ハンセン病院に自分の居場所を見つけたのではないでしょうか。
自分の性処理のためにミツと交わった学生吉岡の話が並行して語られている。ミツを小馬鹿にしながらも心の中のどこかで気にかけている。入社した会社の社長の姪っ子を嫁にするという計算高さも持ち合わせながら、遊びで一度だけ付き合った愚鈍な女に年賀状を書き、死んでしまったことを知って寂しさも感じている。吉岡もまた孤独な人間なのかもしれない。 -
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ロドリゴ司祭は、自分を裏切るとわかっているユダに対してキリストが 言った言葉について、神学校時代から納得がいかなかったところがあり、ずっと考えている。なにもかもすぐ理解することよりも、この「ずっと考えている」のが大事なのかもしれない。ふつうの本との対話だって読み終わってもなお長きにわたることがあるが、聖書だもんな。一生わからないかもしれないけど、一生噛めるスルメって考えたらすごくお得だ。
ロドリゴは苦難の末、奉行の前でついに棄教し生きながらえたが、遠くの平穏な地で宣教をしている他の司教たち、棄教した私を軽侮し私から司祭の資格を剥奪した宗教者たちよりも、自分は神の愛に近づいたと感じている。どっちが偉いとかどっちが幸せということではないし、何が平穏で何が苦難かも人によるから外から他人が何かを判断することはできないが、「ここに来たからわかること」というのがあるのだろうということはわかる。そういう点では、頭木弘樹『痛いところから見えるもの』、山田太一『生きるかなしみ』と同じフォルダに私の中ではしまわれる。
それから、親鸞の「いわんや悪人をや」と同じじゃんと思った箇所もあったし、芥川龍之介『神神の微笑』と通じるところもあった。 -
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決して展開の激しい小説ではないながら、描かれるテーマはキリスト教の信仰を超えた普遍的なものであり、クライマックスは壮大。
それでも個人的にはどうしても引っかかるものを感じずにはいられない。僕がキリスト教徒ではないから、あるいは現代人だから感じた違和感かもしれないが。
「人のために尽すには仏の道も切支丹も変りはあるまいて。肝心なことは道を行うか行わぬかだ」
宣教師ロドリゴに棄教を迫るかつての恩師・フェレイラの台詞である。
この言葉には明らかに、同じく遠藤周作の『深い河』で大津が、神の呼び名はなんでもいいとして「玉ねぎ」と呼ぶのと相通ずるものがある。同作品が遠藤の集大成と称されることからも、遠藤の最終的な到達点もこのような宗教観だったように思う。僕はこの立場には強く賛同する。
対する『沈黙』では、主人公の先達としてのフェレイラ神父の口からこの問題が示唆されはするものの、主人公であるロドリゴが直面するのは別の問題だ。
ロドリゴが闘うのはあくまで自分自身の信仰であり、目の前で哀れなキリシタンが処刑されてもなお、自分自身をキリスト、臆病な裏切り者のキチジローをユダに見立てた「ごっこ遊び」に興じ続ける。
極めつけには「私がその(神の)愛を知るためには、今日までのすべてが必要だったのだ」と臆面もなく言ってのける。自身の身体を決定的に痛めつけられることもなく。
僕にはこれが、彼の人間の浅さ、傲慢さに思えてならない。
この作品に限らずいえば、啓蒙的な「正しさ」を押し付ける人間の自己愛と特権意識、イデオロギーの暴力性の暴露。そういういい知れぬグロテスクさを強く意識させられた。
大津やフェレイラ神父のような自己犠牲を行える人間になろうとまでは思わないが、少なくとも、自分の与えたいものだけを与えて聖人ヅラするような人間にはなりたくない。
僕の中の小さな「玉ねぎ」に恥じないように。 -
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「愛は地上では無力であり無能であるが故に、イエスは十字架に無力に磔られることによって、神の愛を証明するシンボルに、愛そのものになっていった」
うーん、難解だ。。。だが、無宗教の私にさえ、イエスの苦しみと彼が証明しようとしたことは伝わってくる。
イエス・キリストは間違いなく、地球誕生以来、最も影響力のある人間だろう。
それなのに、私はこの人物のことをよく知らない。
では、この本を読んで彼を理解できたかと言うと、決してそうではない。
それでも、著者の遠藤周作が本作や『沈黙』を通して伝えたかったことは、「神の不在」や「神が何も語らず、力を行使しないこと」そのものではないのだろう。
それは、沈黙する神の下で、葛藤し、信じ、自らを貫く「人間の生き様」なのではないか。そしてそこには、キリスト教の始祖である前に一人の人間であった、イエス自身の姿も含まれている気がしてならない。
正直、この本を読んで「分かったこと」は何もない。ただ「分からないことがある」という事実が分かっただけだ。それでも、かつての弟子たちの心にイエスが棲みついたように、この本は私の心にずっと残り続けるような気がしている。
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キリスト教作家としても有名な巨匠・遠藤周作の小説ですが、初めて読みました。
太平洋戦争中に捕虜として捕らえた米兵を、己の出世のために、人体実験に使った大学教授に従った医師の話
腕が良いのに、ひっそりと診療を続ける勝呂(すぐろ)医師が過去に大きな事件に関わっていたことを知り驚愕する患者の話。大学教授が出世競争のためにもう助からないであろう患者に実験のために負荷の大きい手術を行なったことを知り、教授に対して強烈な憤りを感じた勝呂医師が、米兵捕虜に対して人体実験を行うまでを描いた話。この事件に関わった新人医師ら、看護師らの手記。という3つの構成に分かれている。
遠藤はキリスト教の倫理観をもとに、このような同調圧力の中で犯罪に関わったものの原罪を描きたかったのかもしれない。もしくは、そのような倫理観自体が日本人の宗教観であると批判したかったのかもしれない。
ただ、こう言った同調圧力って、多分断れないんですよね。戦時中の日本のキリスト教徒は戦争に対してポジティブだったことも同調圧力だと思うんです。非常に考えさせられる小説でした。 -
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相変わらず、遠藤周作。
読み終わったあとは、さまざまに思考する材料が与えられて得るものが多いのだが、
一方読んでいる途中はとにかくリアルで辛い。
人間が突かれたら苦しいところをピンポイントについてくる作家。
またこの文庫版は解説も秀逸。
「日本人が罪悪に厳しくなれないのは神がいないせいなのか」と、本作品のテーマに疑義を呈する珍しいスタイルだ。
自分のとある経験を思い出した。
中東のムスリムの講師に英会話を習っていたとき。
「日本人は特定の宗教を信じている訳では無いが、それでも良心がある、というのは信じてもらえますよね?」
と軽く訪ねてみたところ、彼はそれまでの明るく気さくな調子を一変させて深く考え込んでしまった。
そしてしばらくの後、とても慎重な様子で、
「私はその質問には答えられない」
と返してきた。
遠回しに答えたものの、実際は、
「信仰がないのに良心があると言うのは信用ならない」
という本音なのだろう。
罪悪に厳格でないことは、必ずしも神の不在が原因ではない、という解説の指摘は十分うなずける。
しかしながら、遠藤周作はじめ世界のあらゆる宗教において神を信仰する人から見たら、
「特定の神への信仰はないが良心はある」
という主張が理解されないのもまた、真実なのだと思う。
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ネタバレタイトルに惹かれて買っていた本。
遠藤周作の人生と重なることはあとがきで初めて知ったのと、タイトルも、本文に対して抑揚のあるものを選んでいる点に共感。
『沈黙』と背中合わせて描かれた本であることも初めて知り、『沈黙』が沈黙による神の声を表しているのに対し、
『満潮の時刻』は沈黙した眼による孤独の共有や孤独の救い、命の哀れみや刻々とした日常の存在を有しているように読めた。
遠藤周作の小説にしては、さらりと素直なストーリーで、背反した状況や思いというより、まさにある種の病と日常の記録のように見えた。
「なぜ煙は真っ直ぐに上るのか」は、一瞬、明石の遺言になりうるように思えたが、変わらない日の流れの切なさをも意味しつつ、沈黙の眼に相当するもう一つの描写だった。
眼が表す複数の折り重なった意味、祈りや救いの複合的な思想(風土?事象?)について思いを巡らす作品だった。
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ネタバレ悲しみの歌→海と毒薬
の順番で読んでしまって完全にミスった。
遠藤周作の作品は、「白い人・黄色い人」しかまだ読んでいなかったけど、今回読んだこのふたつの中でも一貫した「罪悪感」について描かれていておもしろかった
キリスト教的に損得勘定なく純粋な人、純粋な人にあてられて罪悪感に苦しむ人、何も感じられない人
この三種類の人間で構成しながら、無宗教の罪の意識とはどのようなものか深堀している
戦中に九州の医大で行われたアメリカ人捕虜の生体解剖実験の実話を元にして、1作目では関わった医師や看護師を用いて戦中の生命の無価値さと感情の鈍麻を、2作目ではその中の勝呂という医師を用いて戦中と戦後の比較をしながら罪悪感を描いていた
1作目も2作目も、海のように大きな潮流に流される人を正義感を持って糾弾する程の権利はあるのかを問うてたとおもう
芦田のキュゲスの指輪的に動かない自分の良心に共感してしまって、それが一番好きだった
社会からの糾弾や法的罰則がなかったとき、良心にしたがえる人は一体どれほどいるんだろう
勝呂は一見その人間に見えるが、良心はあるが時代という大きな流れに逆らえず、逆らう意味もみいだせず、流されていく1番日本人的なひとだとおもう
流産した看護婦の、寂しさと無力感で投げやりになって同性の汚いところを自分の中で次々と暴いていき、同性の想い人を自分の方が知っていることに対してマウントを取っている汚さもすきだ
相対的に自分が醜く見えるのも、自分が持ってない異性という幸せを享受してるのも、許せなかったんだろうな