遠藤周作のレビュー一覧
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講談社文庫版のネーミングを踏襲するなら「第三怪奇小説集」となるのか。ストレートな実体験怪談である「恐怖の窓」なども混じってはいるが、ジャンル小説としての、ホラーや怪談に属する作品はほとんどない。文学よりと言えばいいか、あらすじなどを造ってみると分かるが、筋を追っても、お話のコアが少しも見えないようなものばかりである。だからといって、恐くないかと言えば、得体の知れないオチが付く「枯れた枝」などかなり恐い。一方、鬱屈や閉塞感が、まるで中年男性に固有の呪いであるかのような書きぶりには時代を感じる。個人的ベストは吉行淳之介を思わせる「何でもない話」。関係ないが、本作も含めて、最近よく見かける文豪ミステ
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ネタバレ童話で読みやすかった。青いお城はりぼんに掲載されていたもので、そう言われると一生懸命頑張る女の子と見た目はチンパンジーに似ているけど、破天荒だけど優しく心に悲しみを持っている男の子が、一緒に困難に立ち向かっていく姿は少女漫画の王道な気がする。(脳内はガラスの仮面の様な絵柄で再生)
稔と仔犬は最後のシーンでえっここで終わり?というかんじで、最後に稔がどうするかは読者の想像に委ねられる方式だった。キリスト教の精神を描かれてあって、何とは説明はしていないけど、ひとつひとつの景色や稔の心情が細かく描かれていてすごく情景を思い浮かべてやすかった。 -
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ネタバレ幕末の浦上四番崩れの一人を愛した「キク」の物語。
「畜生ォー」。流刑地で主人公の怒鳴り声が響く。何に対する怒鳴り声か? 転んだ仲間に? 残酷な仕打ちをする役人に? 目に見えぬ権力に? それとも黙っている神に対してか?
隠れキリシタンに対する投獄や拷問の小説は、読んでいてとても辛い。そして、私自身が無宗教のためか、信仰を棄てない信者の気持ちがわからない。口先だけで転ぶと言えばいいのに? なぜ?、と。
拷問を避けるため、口先だけの”嘘”でも、キリスト教を棄てたと見做され、赦されないのか。「神」は、棄教を口走った弱者を見放すのか?本来、弱い人間こそ赦されるべきではないか?
特に幕末の混乱の最中 -
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再読だがすっかり忘れてる。昭和34年に朝日新聞連載とあるからリアルタイムでも読んでいるはず。軽快なノリの小説で当時の風俗を楽しめる。いや私などものすごく郷愁を感じてしまった。
『おバカさん』ことガストン・ボナパルトは『わたしが・棄てた・女』の主人公森田ミツの男性版。すなわち悲しいほどお人よしで純粋、バカみたいな不思議な人。
彼がフランスから日本にふらりと来て、しでかす椿事にまきこまれる隆盛と巴絵の兄妹はごく普通だから、その落差をまず楽しめばいい。
あまりにもドタバタ劇を繰り広げてしまうガストン、なんで日本に来たのだろう?それもこの物語のポイント、作者の意図のひとつ。
ガストンと絡まる殺 -
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どうしようもなく暗いテーマで、憂鬱のきわみになった。
『海と毒薬』の後日談。『おバカさん』のガストン・ボナパルト再登場。ストーリーはさほど変化に富んではいない、だけど読まずにおれず、最後まで引っぱっていかれるすごさ。
人間、生きていくのにどうしょうもない矛盾をかかえているというのは、夏目漱石の作品を読み継いで来ても強く思うことだけど、そこに文学の楽しみもあるからなんだかおかしい。
しみじみしたり、癒されたり、「わっははは」と愉快になったり、スリルとサスペンスもいいけど、深く深く考える動作も必要なのだ。
時には暗く憂鬱になって、考えに考え、闇の中の燭光のようなもが仄見えはしないかと、いつ -
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「夫婦の一日」
「放っておくと、あんたの御主人に十一月には大きな不幸が来ますよ」
インチキ占い師の出鱈目な預言に妻はだまされた。妻は吉方のお水と砂をとりに鳥取に行きたいと言う。夫婦共にキリスト教信者である。作家である夫は大いに悩み、最後に神父に相談した。
「君がその迷信を信じていない以上、行こうが行くまいが、君には問題ないだろ。むしろ奥さんの気持ちがそれですむなら、行くことで解決したまえよ」
神父様のこのアドバイスで夫は葛藤しながらも心に変化が訪れる。
宗教が絡むので複雑になるのかもしれないが、正しくなければ共感しづらい男性とは違う女性の立場から言わせていただくと、
⁇と思いながら -
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男性の強引さに押し込められ、悔しさと諦めを胸に前を向く女性の生き方は、女性にとって幸せなのだろうか。
「彼女の生き方」として現在もあるであろうこういった生き方は、「そういう男らしさを彼女らは望んでいる」と男性が信じ込む根拠になるのだろうか。
強引さを求めてるというのは現在でも言えるのだろうか。AVのように「男性の夢」に過ぎないということはないだろうか。気になる。
書かれた時代もあるだろうし、戦争を乗り越え安寧を求めた朋子を書いているためというのもあるだろうけど、この「男性の夢」を肯定、再生産するような読み方はこの本の試みたことに反すると思う。
『沈黙』のように、人々の生き方を考えさせるよう