遠藤周作のレビュー一覧
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遠藤周作先生による恋愛というか男女のあれやこれやに関するエッセイ
前半はまぁ大体納得できる
「情熱」と「愛」の違いとは?
「信じる」とはどういうことか?
「嫉妬」とはなにか?
愛とは信じる事
「裏切られた」「女は信用できない」という言葉は、まず「信じる」ありきということ
心に残った部分
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現代において女とたくさん寝ることは易しい。
青春の論理としてむつかしい行為を選ばねばならぬ。むつかしい行為とはなにか。それはこの地上でたった一人の女を選び、その女を愛するように努力 することである。ひとりの女を選んだならば、それを生涯、棄てぬことである。これはやさしいことではない。やさしいことではないから、青春にいる諸君は やってみるべきではないか。
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今ならなおさらこの難しさがわかる
生涯を共にする伴侶を選ぶという行為
そしてそれを実践する難しさ
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情熱が冷めたその後に、どれだけ相手を慈しむことができるか
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この言葉も身にしみてよくわかる
今読んだからこそ感じるものですね
ただ、後半の男女の違いに関しては現在の価値観とはかけ離れているのではなかろうか?
とは言え、夫婦喧嘩のルールというか、子供を巻き添えにしないとかってところはそうだよね
両親の醜い争いを嫌悪する子になるか、「いい加減にやめなよ」と仲裁の言葉を投げかける子になるかも両親の喧嘩の内容次第
あと、解説が江國香織だったのが思いがけない幸運だったな -
Posted by ブクログ
遠藤周作、高校生以来久々に読んで、あれ、こんな読みやすい人だったのか。と思う。
なんとなく親しみにくいイメージだったけど、まず、文体が読みやすい。
今回は、イスラエル旅行に合わせて、イスラエルを舞台にした小説ということで読み始めた。
なんせ、宗教をしっかり勉強したことなく、キリスト教とは、ユダヤ教とは、というか宗教だけじゃなくて、イスラエルの建国ってどういうこと?から、よく分かっていなかった私にとって、なんとなくキリスト教と、イスラエルの理解が進む、良本でした。
特にキリスト教について、遠藤周作なりの、私なりの、理解ができて、なんとなくキリスト教に納得がいった。
奇跡を起こさないキリスト、ただただ人に寄り添い愛を説くだけのキリスト、ユダヤ教の戒律やら豪華なシナゴークを要らないというキリストを思う気持ちは、理解できる。
あぁなりたい、あぁあるべきだ、という、哲学に近いものなんだろう、となんとなく理解できた。
(奇跡を起こさない、ただただ人のためを考えて生きるとてつもなく優しくて弱い、珍しすぎる人、として、人々が崇める気持ちは理解できる。奇跡を起こさない、人、歳でのキリストであることがポイント)
続けて、イスラエルについて、あの地域の問題について、そして宗教について、とっつきやすい小説や映画から理解を進めたい。 -
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--概要--
・「イエスが死後どのようにキリスト(救世主)として認められていったか」というテーマ。『イエスの生涯』に続く著書とのこと(私はこちらは未読)。
・巻末の高橋たか子氏の解説にあるように、「イエスという人が実際にいた、そして十字架上で死んだ、ということがあった、それを素材として創作された話が新約聖書なのだという見方」で書かれている。ペトロ、ヤコブ等の弟子や宣教師ポーロなどの視点で、彼らがどのような体験・思いから書簡(=今日の新約聖書)を書いたのかが様々な資料の研究の上に述べられている。
・イエスの死、迫害、分派、弟子や伝道師の殉教、ユダヤ戦争での多くの信徒の死といった苦境の中で、「神がなぜ沈黙しているのか」「キリストはなぜ再臨しないのか」という解き難い謎が浮かび上がった。脱落する者もいたが、残った信徒たちはこれらの謎から信仰の意味を掴もうと悩み、もがき、苦しみ、それらの苦しみが信仰のエネルギイにもなっていった。
--感想--
・「Aという説がある。しかし、Bかもしれない。いずれにせよ、確かなのはC。」というような論調が多く、少し読みにくさを感じた(後半では慣れた)。
・私自身は聖書の記述を事実と捉える立場のクリスチャンであるが、その分聖書の記述を「そういうもの」と固定的に捉えてしまい、各書簡の著者が神とどのように向き合っていたかをあまり意識できていなかったと、この本から気付かされた。その観点を持って改めて聖書に向き合ってみたい。
・信徒を苦しめた「謎」については現在も同じことが言えると思う。戦争や犯罪、また自然的な災害や事故などについて「神がいるならば、なぜこのようなことが起こるのか」と言われたら答えられない自分がいる。次のフレーズに共感したため、諦めずに考えていきたい。
「ひとつの宗教はそれが組織化されるだけでなく、神についての謎をすべて解くような神学が作られた途端、つまり外形にも内面にもこの人生と世界について疑問と謎がなくなった瞬間、衰弱と腐敗の坂道を転がっていくのである。」(p.264) -
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イケメン南条、デブサ野呂、美人な戸田京子の三角関係のお話
遠藤周作が本人の役で出てきて、若者から請われてトンデモな恋愛指南(唐辛子作戦とかヤキモチ作戦とか)をしてたりする
こんな設定は現代のラノベに通じるものもあるし、前半は男女の機微を知らない若者をからかい半分にいじる周作先生のキャラがユーモラスに感じる
でも、中盤から描かれてあるのは運命に翻弄される若者たちの姿
何というか、もっとどうにかならなかったのかなぁと思わざるを得ない
南条はまぁ一般的な感覚を持っているのであろう
時として軽率だけども、若者ゆえのこらえ性のなさと見ればまぁ許せなくもない
ただ、その行為が後にどんな結末をもたらすかを微塵も考えなかったのかという憤りも同時に感じるけどね
戸田京子は当時の倫理観からしたらまぁ真っ当な判断をしたのかもしれないけど
最後の選択に関してはなぁ…
結局は自分本位だし、その前の選択のミスにより自分の後の道を狭めた自業自得とも言える姿が哀れ
本気で一途なら世間体なんか考えずに一人でという選択をすべき、そして一回決めたことならそれをやり遂げるべきだと思うよ
ま、そのときの心理状況からそんな冷静な判断はできないというのもよくわかるけどね
そして問題は野呂くん
現代は野呂くんみたいな子が増えてるのではなかろうか
自分の気持ちよりも好きな相手の事を第一に考える姿勢は好感が持てる
ただ第三者的にはそう見えるだけで、当事者同士からしたら全く共感は得られないだろうけどね
多分、野呂くんが結婚しなければ死ななかったのではないかと思う
この中で一番のエゴイストは野呂くん
表向きは相手のための自己犠牲に見えるかもしれないけど、自分の欲望に一番忠実に行動してるよね
世間的には善良に見えるのかもしれない
ただ、その善良さは醜い人を傷つける事にもなる
この「善良さ」の使い方は江國香織もやってる
「きらきらひかる」の睦月とか「間宮兄弟」の明信とか
だからこそ一番共感するのは野呂くんなんだよなぁ
そんな善良な人になってみたいものだ -
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◯青春小説、と帯にはあり、解説にも軽小説・青春小説とあるが、個人的な感想としては、別段軽小説でも青春小説とも感じなかった。(解説の文芸評論家は片手間で書いたのだろうか、それともこれが世間的な評価なのだろうか。)
◯「善なるもの、美しいもの」(自分が信じるなすべきことなのか、)を追い求めるも、時代や環境の波に飲まれ、脆くも崩れ去る砂の城としての人間の「エゴ」が描かれており、そういった重厚なテーマを、掲載雑誌テーマと、その読者層に伝わるように書いていると思う。
◯もしも軽小説・青春小説と読めるのであれば、表面的な感想であるが、むしろ著者の技術の賜物である。
◯ただし、その根底に流れるテーマは、「軽」でも「青春」でもない。著者の他の小説にも引けを取らない、私の好きな遠藤周作そのものであった。 -
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ネタバレ「沈黙」のテーマ「神の存在の有無」に対し「侍」は「宗教とは何か」という問いかけの小説だと思います。
キリスト教のお話でありながら、日本の宗教観についても描かれていて、「なぜキリスト教は日本に向かないのか」をヴァレンテ神父が語る場面は、深く頷きながら読みました。ヴァレンテ神父の語った日本の宗教観や社会構造は現代日本に脈々と受け継がれているものがあるのを感じました。
また、江戸時代の日本社会の陰湿な部分を、政府上層部や役人の描き方や、暗く冷たい建物の描写で表してるところがすごく印象に残りました。
でも正直読みながらずっと思ってたのは「ベラスコのせいでこんな事に…!!」ということです。こいつさえいなければ…!!そして、やはり宗教の押し付けは古今東西良いことがない。
ただし、最終的には実はベラスコは自らの信仰と布教において勝利しているところがまたこの小説のすごいところです。
「侍」は最期、何を、誰を思ったのでしょうか…
残酷な現実と絶望の向こう側に真理が少しだけ見えるような描き方が素晴らしかったです。
神とは、宗教とは、日本とは…考えさせられる一冊です。 -
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幕末から明治にかけての長崎において、密かに信仰を保っていたキリスト教徒が弾圧された”浦上四番崩れ”という歴史的史実を、弾圧されたキリスト教徒に思いを寄せる非キリスト教徒の女性キクを主人公に描いた遠藤周作の1982年の作品。
『沈黙』でも描かれるようなキリスト教徒への迫害の様子のおぞましさはさることながら、主人公のキクとの出会いにょり最終的に改修する迫害する側の人間の心の弱さや、明治に入り諸外国との外交関係の観点から弾圧が次第に問題視されていく様子など、様々な主題が交差する。
それにしても、若干ステレオタイプな表現もあるにせよ、遠藤周作はこうした悲劇的な女性を描かせても巧い。通俗小説ではあるが個人的に強く印象に残っている『わたしが・棄てた・女』を思い出した。 -
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「侍」は、実在した仙台藩の支倉六衛門常長をモデルとした史実に基づく小説であり、遠藤夫人が夫遠藤作周作の著作中で最も好きな作品として挙げている。
キリスト教に帰依したことを理由に処刑されることとなった「侍」に従者が伝える「ここからは……あの方が、お仕えなされます」という台詞について、遠藤は「この一行のためにこの小説を書いた」と後に語っている。
「あまりにも多くのものを見すぎたために、見なかったのと同じなのだろうか」
「日本人たちはこの海を日本を守る水の要塞にして、自分たちは土の人間として生きてきたのだ。日本人たちはこの世のはかなさを楽しみ享受する能力もあわせ持っている」 -
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先日「遠藤周作で読むイエスと十二人の弟子」を読んだ。そちらは生前のエッセイや著書からの引用でまかなっていたが、本書は全編を通じて遠藤節が味わえる。
『赤毛のアン』シリーズの中に「求婚する前に、彼女の父親の支持政党と母親の教派を調べておけ」という処世術が出てくる。男性と女性で信仰のありようが違うのは、今も昔も変らない。
思うに、多神教のはびこる未開のヨーロッパへ布教するには、十二使徒や聖母・マグダラ両マリアのタレント性が不可欠であろう。
第9章「かくれ切支丹のマリア」は興味深い。切支丹の教義の中で、イエスの贖罪の対象は人類に非ず、まさかの……。