大江健三郎のレビュー一覧
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ネタバレ読後の衝撃たるや。それは深部に残り続けるだろうと思います。
友人の不可解な死に導かれ、夜明けの穴にうずくまる僕・根所蜜三郎。
地獄の憂悶を抱え、安保闘争で傷ついた弟の鷹四。
僕の妻・菜採子は、重度の精神障害児を出産してから、アルコールに溺れるようになった。
アメリカでの放浪を終えた鷹四が帰国したのを機に、苦悩に満ちた彼らは故郷・四国の谷間の村を目指して軽快に出発した。
鬱積したエネルギーを発散する鷹四は彼を支持する若者らの信奉を得て、谷間でフットボール・チームを結成する。やがて鷹四に率いられた青年グループを中心に、万延元年(1860年)の一揆をなぞるような暴動が神話の森に起こり…。
大江健 -
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五良の自殺(≒伊丹十三の自殺)の根底にあったであろう“アレ”の正体を各々模索していく物語。
奇しくも、『万延元年のフットボール』と、自殺の原因の探究という点では同じなぞらえ方をすることとなった。
「取り替え子(Changiling)」という逸話を物語へ絡めこむ上手さ。
終章にて、モーリスセンダックの絵本からヒントを得て主題となるこの言葉は、それまで一切出てこない。
そしてまさにこの「取り替え子」の考えによって、五良の死を、次の世代の誕生に繋いでいく…。
『懐かしい年への手紙』でも感じた、終章に通底する独特の清らかさ。
——もう死んでしまった者らのことは忘れよう、生きている者らのことすらも。 -
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ー 土間の焚火は殆ど消えかかろうとし、谷を囲む森の獣の吠え声、鳥の不意の羽ばたき、そして樹皮の寒さにひびわれる音が響いた。僕は眠るために苦しい努力をしながら、腹立たしく絶望的に重苦しい死のイメージに圧倒されていたので、安らかに天使的な弟の寝息が聞えはじめると嫉妬のあまりに弟への優しい感情をすっかり無くしてしまうほどだった。村の内側では見棄てられた者らと埋葬されない死者があるいは眠り、あるいは不眠に苦しみ、村の外側では、悪意にみちた数しれない者らが、これは一様にぐっすり眠っていた。 ー
何となく大江健三郎が読みたい今日この頃。
初期の作品は面白いよね。味わい深い。
反抗的精神というか、客観的 -
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燃えあがる緑の木
三部作ということで長かったですが、本当に読んで良かった。
今年は大江健三郎を読み続けてきました。後期の作品はまだ1作も読んでいませんが、一旦ここで大江さんからは離れようと思います。
この作品を自分に落とし込むのに十分な時間が欲しいため、そして後述しますが、”勉強”による“集中”も行なっていきたいため…。
以下、感想ですが、冗長で妄想まじりです。
ギー兄さんは、膨張しすぎた自らの教会の構成員に対し、“魂のこと”にあらためて個人個人がそれぞれ専念するため、こう説教します。
「本当に“魂のこと”をしようとねがう者は、水の流れに加わるよりも、一滴の水が地面にしみとおるように、それぞ -
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【読もうと思った理由】
古井由吉氏を知ったきっかけが、平野啓一郎氏の「小説の読み方」と伊坂幸太郎氏の「小説の惑星 ノーザンブルーベリー編」だ。現在人気の作家二人が揃って、古井由吉氏を絶賛している。平野啓一郎氏は、小説家が尊敬する小説家と評価しているし、伊坂幸太郎氏は、完璧な小説を挙げるとすると、「先導獣の話」を挙げるかもしれないと、最大級の賛辞を送っている。
また古井氏と言えば、芥川賞受賞のエピソードが有名だ。第64回芥川賞を受賞したときのノミネート作品が、実は古井氏の作品が2作品あった。「杳子(ようこ)」と「妻隠(つまごみ)」だ。一人の作家が同じ回に2作品ノミネートされるのは、かなり稀だ。 -
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2006年に行われ、テレビ放映もされた連続インタビューを再構成し編集・追補された「推敲された」インタビュー。尾崎氏が大江のことばを引き出す役に徹したことで、細密に描き込まれた作家・大江健三郎の自画像ができあがっている。文庫版には「後期の仕事」三部作を書きおえたあと、2013年の対話も収録されている。
全体を読み終えて、あらためて大江の勤勉な読書家であり勉強家であることが印象に残った。谷崎潤一郎にも似たようなことが言えるが、研究対象が自分よりもどう考えても知識教養に優れている場合、研究者はいったい何をすればよいのだろうか。
強靭な記憶力、とくに自身に対する批判をよく覚えていることにも驚かさ -
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第一部に生き続き、イェーツの”Vacillation”という詩を原動力として物語の登場人物たちが活き活きと動き回るわけです。
しかし、第二部を経て、イェーツの独特なオカルティズム(神秘主義)から紡ぎ出されたこの詩が、徐々に僕の中で確かな質量を持ち始め、実際的になってきているのを感じます。
最終章でアサの言葉で同じようなことを語られていますが、同じ“魂のこと”に取り組んだ「懐かしい年への手紙」では、取り組み方が知的で、ある程度机上の空論だったのに対し、本作はよりプラクティカルに“魂”に肉薄しているように思います。
さて、主に第二章「中心の空洞」、第三章「正直いって神はあるんですか?」では、大江 -
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『懐かしい年への手紙』の続編です。
まだ三部作の第一部ですが、この一冊ですでに十二分の満足感がありました。
『懐かしい年への手紙』で試みられた「魂の救済」について、この物語の長さを利用して、更に深く追求しようとしています。
印象に残った2つのシーン。
ギー兄さんが信用を失い、町民からのリンチに遭う場面。黙って暴力を受け入れる姿は、磔にされたイエスのようで、まさに“救い主”という言葉が適当でした。
そして、ギー兄さんが小児癌を患う少年カジに、“救い主”として言葉をかける場面。
「ほとんど永遠にちかいほど永い時に対してさ、限られた生命の私らが対抗しようとすれば、自分が深く経験した、“一瞬よ -
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大江健三郎の最高傑作と評されていたので、温めて置いていましたが、現時点では個人的にもやはり最高傑作でした。読み終わってすぐ2周目を始めてしまったほどです。
重厚な構成、有機的で現実的なメタファー、極限状況からの脱出、魂の浄化。巧みな文章力に、自室で1人でため息を漏らしていました。
「魂の浄化」という点だけでいえば、「懐かしい年への手紙」の方が深く掘り下げていますが、全体としての完成度はこの作品が飛び抜けている気がします。
第1章の、蜜三郎が穴にこもり、自身を徐々に「穏やか」にし、精神の下降の斜面へと滑り落としていくシーンが1番好きです。このシーンの情景を大切に心の芯に持って生きていきたいで -
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読み終えるのに3週間ほどかかってしまいました。大江健三郎の文体が、漫然と流し読みするのを許してくれません。
その分、文章と取っ組み合いをするように読むのですが、能動的鑑賞を強いる芸術と向き合うときと同様、理解したとたん、もともと自分を構成する一部であったかのように、自分自身の芯に溶け込む感覚があります。
主に万延元年フットボールを、さらにそれ以前の大江作品を取り込んだ、壮大なメタフィクションでした。この3週間、ダンテの「神曲」が響き渡る四国の谷間、そしてギー兄さんが構想する魂の浄化のためのコミューンに身を置いていた気がします。
ギー兄さんにとっては四国の谷間の森が、Kちゃんにとっては東京の -
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大江健三郎が後書きでこの小説を「青春の小説」だと言っていた。書いている時はバードを青春とは切り離した存在としていたようだった。しかし、自分の子供のことで悩み、堕落し、逃げようとしながらも最後は自分のために子供を受け入れていこうとする姿はまさに青春だった。どんな国際問題よりも自分の子供をめぐる家庭の問題の方が重くのしかかっているので、他のことに対して落ち着いて超然としていられるのは当たり前とバードは考えていた。だからと言って自分のような体験をしていない人が、自分を羨望する理由はないだろう。と言うところがなんとも苦しい。やはり、どこまでも個人的な体験であり、他者とは共有できないものだった。
最後、 -
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ネタバレ主人公“鳥(バード)”は脳ヘルニア(実はそうではなかったが)をもって生まれた嬰児の存在に苦しめられる。嬰児を直接手にかけることも、受容して育てていくこともできない。鳥は恥と欺瞞の混沌に落ち込んでいく。
最後数ページの、混沌から脱出した後のシーンについて、発表当時、世間からは必要でないと批評されることもあったそう。個人的には、それまでのページで読んでいるこちらまで混沌に呑まれつつあったので、あのシーンは私をも救済してくれた。
相変わらず、メモしてしまうほどの巧みな比喩表現
や、息を呑む生々しい描写が目立った。
「ああ、あの赤んぼうは、いま能率的にコンベアシステムの嬰児殺戮工場に収容されて穏や -
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素晴らしかった。
小説を読んだ後に呆然となるあの感覚に久しぶりに襲われた。その感覚にしばらく呆然と身を浸していた。
読んでいてとても苦しかった。
主人公の異形の赤ん坊に対する心の動き、つまり直接は手を下さず彼を死に追いやろうとすることへの渇望と恐怖と欺瞞とに苦しめられている様子が克明に描かれすぎていて、とてもつらかった。
だから最後のバーでのくだりは圧巻だった。
「赤んぼうの怪物から逃げだすかわりに、正面から立ちむかう欺瞞なしの方法は、自分の手で直接に縊り殺すか、あるいはかれをひきうけて育ててゆくかの、ふたつしかない。始めからわかっていたことだが、ぼくはそれを認める勇気に欠けていたんだ」