あらすじ
快楽と不能の無限の繰返しから抜け出て、幼年時代の黄金の象徴だった天皇の現在の姿に手榴弾を投げつけ爆破しようとする少年。遍在する自殺の機会に見張られながら、自殺する勇気もなく生きてゆかざるをえない“われらの時代”。いまだ誰も捉えられずにいた戦後世代の欲望をさらけ出し、性を媒介に現代青年の行きづまりを解剖して、著者の新たな文学的冒険の出発となった長編小説。
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Posted by ブクログ
醜い脂肪を持った売春婦の情人のヒモをやっている兄とアンラッキーヤングメンという男根愛で戦争経験済みの朝鮮人と、血と争いに飢えた青年ふたりで形成されたバンドとで交互に進んでいく。
情人が精液を流すのに戸惑っている所から始まる、主人公はフランス文学部所属しており、フランス文学で受賞して温くて余生じみてる日本から脱出することを夢見ていた。が、情人は妊娠してしまい弟が殺人の嫌疑をかけられかけて気が狂ってしまったのと、大学の反フランスの同級生のアラブ人の友人に惚れ込んだ。情人と弟に関しては跳ね除けたのに
、アラブ人の友情(連携)を取ってしまった。
弟はアンラッキーヤングメンのみんなと天皇を見送ったら(誰が言い出しっぺか忘れたけど)天皇の車を朝鮮人の持つ手榴弾で爆発させてやろうと考えた。
いざ実行、朝鮮人は合図を、青年2人は手榴弾をトイレから投げる役、投げる前に便入れ?みたいな所に入れて置いたら直前で入ってきた女に生理用品を入れられてしまい投げることが出来なかった。
皆でうなだれている時に、弟じゃない方の青年がすすり泣きをし始めて2人は「男」らしくいられなかったその人に罪を着せることにした。
そして朝鮮人が西洋人の戦友と出会い性行をし、青年2人を軽蔑することになったが弟のためにトラックを強請ったことが西洋人の逆鱗に触れ、卑怯者、売春婦と罵られてしまった。それに朝鮮人が逆上し西洋人を絞め殺して金を奪い取った。その金を使って少し惚れ込んでいた弟と国外逃亡を測ったがもう1人の青年に聞かれてしまい「仲間はずれにするな、告発するぞ卑怯者」と言われ、落とし所を付けるために手榴弾を使った度胸試しをしたが2人とも死んだ。そのため全ての罪が警察から見た場合弟にかかりかねず、兄とアラブ人が保護してくれたのにも関わらず弟は疑心暗鬼になり「警察に捕まるくらいなら」と自害した。
男は男らしく血なまぐさい革命じみた戦いと進捗のある人生に身を置きたいという前提で物語が進んでいた。そして、日本は停滞していて人生は余命だとも。
最後の「俺にとって唯一の行動が自殺だ!おれたちは自殺が唯一の行為だと知っている、そしておれたちを自殺からとどめるものは何一つない。しかし俺たちは自殺のために勇気を奮い起こすことが出来ない。そこで俺たちは生きてゆく、愛したり憎んだり〜そしてふと覚醒しては、自殺の機会が目の前にあり決断さえすれば十分なのだと気づく。しかし大抵は自殺する勇気を振るい起こせない、そこで偏在する自殺の機会に見張られながら俺たちは生きてゆくのだ、これが俺たちの時代だ」という言葉もだ。
その代わりが「絶望ごっこ」だというのは結構現代にも刺さる事だと思った。
犬だらけの地下鉄だとか、レイプされた女がレイプされた猫に自己投影し同情してる所だとか、虹色の熱気でむせかえる惰性的なライブハウス、場面場面が昭和らしい叙情的さで平成生まれの私は新鮮で良かった。AKIRAとドストエフスキーの混合。
Posted by ブクログ
安部公房がインタビューで「小説は言葉になる前のある実態を提供する」と言ってたけど、その意味で大江健三郎はすごく優れた作家だと思う。特にこの作品とか、言葉にならないぐらいの衝撃があるのに文章にならない最たる例ではないか
Posted by ブクログ
実に面白い。
当時の若者の閉塞した世界で生きる、哀れみ、悲しみなどが、ジンジン伝わってくる。
終盤にかけての怒涛の展開は、もうサスペンスだった。
ドキドキしながら先を先をと読みふけった。
不幸な若者たち(アンラッキーヤングメン)というバンド名が面白い。まさに結果的にその通りだ。
Posted by ブクログ
敗戦を否定的に捉えた写実小説。めちゃくちゃ面白い!現代人からしたら、当時の若者が戦争に希望を抱いていたことは信じ難いことなのかもしれない。でも、これを現代におきかえてみると、彼らの心境を理解できると思う。
私達にとっての絶望ってなんだろう。
この本を読むことで息苦しさについて考えることができると思う。
Posted by ブクログ
大江氏の初期の作品はなんて面白いんだろう。われらの時代、万延元年のフットボール、セブンティーン・・・・・。特にこの作品で、天皇を暗殺しに行き、未遂に終わる場面の官能性はとても印象的です。しかし、初期以降の作品はとても(私としては)つまらない。
Posted by ブクログ
虚栄と汚辱の話。
気に入ったページの端を折ってたらえらいことになりました。折り過ぎ。特に妊娠したのパリに行くだのの言い争いのところ。
最低なわれらに似合うのは、最低な時代なのでしょう。
09.06.09
Posted by ブクログ
行動しないことの絶望、行動したらしたでまた次の選択を迫られて結局行き詰まりとなる絶望、閉塞感。戦争に敗れた国を覆うそれらが性を通じて個人の不能として襲いかかる。言葉もまた、国語であるという点においても不自由をもたらす。プールの犯罪者が捕らえられたのちの静けさが好きだった。
Posted by ブクログ
遅く生まれてしまった世代の苦悩、鬱屈、閉塞感が伝わってくる。
そこから抜け出したいのに抜け出せず絶望する。
兄弟二人は抜け出せそうになったのに結局抜け出せず絶望する。
時代が変わっても同じような苦悩がある気がする。
読んでて気持ちのいい内容じゃないのに、
ページをめくる手が止まらなかった。
特に後半の展開は圧倒的だった。
Posted by ブクログ
大江健三郎って下手にノーベル賞取ってしまったから何やかんや言われるけど、初期の作品の衝動というかみずみずしさというのは素晴らしい。これは現在進行形で若者である人間にしか書けないだろうし、個人的な体験に並ぶ傑作だと思う。
Posted by ブクログ
大江健三郎(1935-)初期の長編小説、1959年の作。
日常性という倦怠、鬱屈、閉塞、虚無。そこは、無限遠に縁取られた外部無き空虚。溢れているのは、その媒介性によってそれ自体が虚偽の手段であると同時に虚偽そのものになってしまった、言葉。
他者関係が、言葉=媒介という虚偽によって空転するしかない communication として、内的関係からの疎外でしか在り得ない、公的空間。実名の虚語と匿名の憎悪に塗れ、言葉が記号的虚偽以外では在り得ない、匿名空間。それに囲繞された私的空間に於いて、手足を捥がれた無限小の一点となる。それは、眼球であるか、口の虚空であるか、性器の虚点であるか。ベッドは、涸れかけた羊水のように、身体を縋りつかせて動かさない。部屋は、機能衰弱した子宮だ。そこでは、内向する圧力感覚で精神の呼気が詰まり、内破しそうになる。行為を躊躇い、無為にも悶える、膨れた胎児。
理性による無限の自己対象化――恰も合せ鏡の如き無間地獄――の果てに決して確かな自己像をつかみ得ない俺は、言葉や論理が切り取る断片化された世界になんら真実性を感じられなくなった俺は、自己を/世界を如何にして獲得したらよいのか。ロゴスが捕捉する自己/世界を虚偽として・欺瞞として・俗物的であるとして悉く峻拒せずにはいられない俺は・・。この自己意識の自己関係的機制であるロマン主義的アイロニーは、自己をあらゆる概念的規定「何者である」から超越可能な不定態とするしかない。自己は「何者でも在り得ない」という否定態でしか在り得ない、なぜなら「何者か」としての存在様態は欺瞞そのものである社会によって断片化された全体性の無残な残骸であるしかないから。
永遠に到来することがないと予め承知の上でなお待ち続ける以外にはない「何か」を待ち、待ち過ぎて、揚句にその不在の隣で爛れている――「何か」の不在という、縁の無い大きな穴としてしか表象し得ない、現実に於いて。そう、「待つ」ということ、そこで全てが分かるかのような。
その絶対的孤独の中で、醒めながらなお夢を視ようとする、夢を視るほど醒めていく。そして必然的に、目の前で縋りつけよとばかりに現れる夢は予め紛い物ばかりである。非合理(神秘・狂気・・・ i.e. 忘我)への陶酔・没入・合一か、過去の戦争への郷愁に暮れるか、革命運動へコミットするか、民族ないし国家に自己を同一化するか、性愛へ耽溺するか、資本主義が差し出す悦楽のカタログへの無抵抗か。それらが全て虚構でしか在り得ないことを予め承知の上で・・。爆弾を投げつけるに値するものすら存在しないのだ。全てが、その程度の虚構でしか在り得ないことを予め徹底的に思い知らされている現代という「われらの時代」。
かの自己意識に残された最後の道は、永続的な自己否定/世界否定の疾走か。或いは、自己からの/世界からの失踪。無限小点と化した自己と無限遠の空虚と化した世界との、一瞬間の逆転。世界の空虚に、無限小の自己を、充填、させるのだ。
"おれにとって唯一の《行動》が自殺だ!"
自殺とは、世界否定にって自己の絶対的超越性をそれ自体で明かしてしまう、自由の極点だ。「目的」という欺瞞性の頸木をも逃れている唯一の純粋な行動。不在の痕跡でしかない虚構の世界に於いて唯一可能な行動。しかし、その行動を果たすことすらなく、ただ生きていく・・・のかどうかは、分からない。
Posted by ブクログ
戦後すぐの若者の「割り食った」感を、象徴性の強いエピソードで綴った長編。
割り食ったっていうのは「命をかける機会」を失ったことについてで、その点は今と違うけど、割り食ったって思っちゃう時代に対する怒りは共感できた。今は何が原因かはっきりしないあたりもっと悪くなってるかもしれない。
エピソードも展開もかなり派手で、物語としても面白かった。
Posted by ブクログ
初期の長編。このころから虚飾や装飾を抑えた直接的なことばを使ってイメージを排除した性を描いている。遍在する自殺の機会につねに監視されながら生きるしかない現代の若者のすがたは読んでいてとても共感できた。
Posted by ブクログ
戦後の若者の閉塞感を描いた作品。
共通の価値、命をなげうってでも賭けるべきもの、そのようなものが与えられない現在の閉塞感。それを何とか打開しようともがき、危険な行動に走ろうとする若者。しかし、その危険が己の身にリアリティをもって差し迫ってくると恐れおののき何もできなくなってしまう。そしてそのような自分自身に対してへの自己嫌悪。
直接的な性的な表現がいたるところで見られる(あとがきで著者も意識して制的な表現を行ったと述べている)。
著者はこの小説についてあとがきで以下のように述べている。
”ぼくは読者を荒々しく刺激し、憤らせ、眼ざめさせ、揺さぶりたてたいのである。そしてこの平穏な日常生活のなかで生きる人間の奥底の異常へのみちびきたいと思う。”
異常な世界へみちびかれたい好奇心旺盛な人は読んでみたらどうだろうか。
Posted by ブクログ
切実な本だ。切実な若者が切実な汗をかきながら切実なるものを探し求めつつも現実的な希望がなく部屋に引きこもって自慰に耽るような、そういう切実さだ。
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戦争のない時代に栄光はなくて、
自殺できるという希望にすがりながら僕達は生きていく。
そんなメッセージが場末のバーのJazzや民族紛争、手榴弾の音によって明るみにされていく。
共感は出来ずとも同調は出来る、不思議なパラノイア。
Posted by ブクログ
これは約45年前に書かれた本だが、現在の若者の生き方、そして彼らがどのように人生を捉えているか、ということを端的に言いあててる!僕たちは死なない程度に生きていて、その惰性につきまとう倦怠感にイライラして、でもなにも自分のしたいことが出来なくて、でも死ぬのは怖いから、生きている。この小説に出てくる三人の若者も、今の若者も一緒だ。それでも世界は進行していく。
Posted by ブクログ
若者は何を考え、活動に耽るのか?今の時代とのギャップは何なのか?想像してもきりがありませんが、果てしない世界がそこには広がっているんだとおもいます。
Posted by ブクログ
初めての大江健三郎。自分にとって大江健三郎は、人の良さそうなおじいちゃんというイメージだったのでびっくり。
時代の違いなのか、描かれている若者達が持つ焦燥感、閉塞感、性へのこだわりや嫌悪感、その場限りの衝動、くだらないこだわり等自分には理解できない。
突飛に感じる箇所も幾つかあり、正直言えば、大江健三郎の作品でなければ、途中で止めていたかもしれない。物語終了間際のストーリー展開には否応なしに引き込まれる。
Posted by ブクログ
3.5
らすとの畳み掛けは読みながら死ぬかと思った
p90
弟は幸福な人間を見るようにかれを見つめて笑っていた。靖男は弟を殺したかった。肉親にたいしてもちうる感情は殺意か愛かの二つしかない。
Posted by ブクログ
状況からの脱出をはかる兄弟。兄はフランス留学による現状打破を目指すが外人相手の娼婦を職業とする愛人との関係から逃れられない。閉塞した状況の中、暴発寸前の弟とその仲間は一発の手榴弾に希望を見いだそうとするが惨めな失敗の中、最悪の状況に墜ちていく。
自ら状況を悪化させていくような彼らの生き方は当時の若者からは共感を得られたけど、今の時代には流行らないかもしれませんね。
Posted by ブクログ
死者の奢りや飼育を読んだ時のような震えるほどの感動とか、これこそが魂の救済かもしれないと思う実感とか、そういうものは全くなかった。長編として均整の取れていて主軸もしっかりしていて日本文壇的な作品。でもデビュー時の何が何でも、というようなみずみずしさとか絶望感とかが感じられない。優れた文学と、性への執着はわたしに古風な日本文壇を思い起こさせて、三島由紀夫のような、そんな。死者の奢りがあまりに心を震わせる素晴らしいものだったので意気込んで読んだところを挫かれた感じ。春樹が周囲は大江健三郎を読んでいたが自分は好んで読むことはなかったみたいなことを言っていたのが、分かる気がする。いき過ぎた執着は気持ちが悪い。結局、何になるんだろう。この優れた、ノーベル賞作家の文学は、何になるんだろう。そんな気持ちがぽっかりと、世代のせいかなあ。
Posted by ブクログ
「戦争が終わったあと、その当時の人々は無条件に喜んで、戦争なんかもう2度とごめんだと思った」と私は思っていた。
しかしこの本を読んでその考えは間違っていたと思った。
戦中の教育を受けた人間の中には本作の主人公のように「英雄的に死にたい」と思い、平和になった世の中を「人を殺す機会もない老後までの執行猶予」としてみていた人もいたのかもしれないと気づかされ、愕然とした。「平和=無条件によいもの」という考え方を自分は教育を通して感じていたが、それは一面的なものの見方だったのかもと思った。
果たしてこの作中には希望が感じられないが、この閉塞感は現代ではなお増幅されている気がする。
物語として、この内容を楽しめたかというと、吐き気を感じるような胸の苦しさを感じる。だが、閉塞した現在の自分に、別の視点を与えてくれたこの小説のおかげで、久しぶりに頭が回転し、「考える」事ができたことに感謝したい。
Posted by ブクログ
この時代は、「おれたち」と言える共同意識があったのだろう。
こんな観念的な自殺を考えて生きられるほどの精神的余裕もあった。
50年後の今、自殺者数は年間3万人を超えるようになって久しい。
それも、誰にも助けを求められない中高年が生活苦で死ぬのが大半だろう。
思想や観念など何もなく、「おれたち」なんて意識は欠片もない孤独に晒されて虚ろに死ぬ。
そんな死に方(あるいは生き方)は、今後ますます当たり前になっていく。
そんな時代を生きる僕らの心を、文学にこそ救ってほしい。
Posted by ブクログ
平凡と狂気がすれすれで存在してたり、大仰な表現の羅列だったり、世の中に対しての均衡を失っているようだったり。登場人物がみんな結構凄い思想の持ち主たちでした。
Posted by ブクログ
1959年に書き下ろしとして刊行された長編。外国人相手の中年娼婦である頼子、そのヒモとして同棲している主人公の靖男、その弟の滋がピアノを弾いている十代のジャズトリオ<アンラッキー・ヤングメン>。「若さ」という残酷さと如何に向き合うか。
Posted by ブクログ
大江健三郎、23歳の作品。
現状から逃げ出そうとしながら、逃げ出すきっかけが掴めずに鬱々と日々を過ごしている青年が やっとの事で残酷な程怠惰な日常から逃げ出すチャンスを得たところに、思わぬ事件が降りかかり・・・・みたいな。(分かりやすくあらすじ)
見ようによっては飛び立とうと思いながら飛び立てない、臆病な卑怯者の主人公。という側面での理解もそれなりに深く掘り進める事は出来るのだが、この主人公が必要としているのは自ら足を踏み出す馬力と勇気、ではなくて 外側から自分自身を引っ張ってくれるあらがいようのない力 であったのだともまた言えるのではないかと思う。自分自身の意思とは関係無く、自分を引き上げる強い力。お前はこちら側の人間だ、そんなところから抜け出してもっと高みへ行こう、とささやく声。自分自身という存在を保証する、天からの、世界からの寛大な許容。欲していたのはそれではないかと思う。
無益で怠惰な日常、退屈で下卑た場末の日常。太陽のあたらない、薄暗いところで生きる人間は つまるところ明るい世界に自分が拒まれる事を恐れるが故に暗がりへ逃げ込んで出てこない。お前はこちら側の人間ではない。今いる所がお似合いだ。・・・運命に拒まれる。その運命を押して、無理やり明るい世界へ飛び出そうと、正しい努力のもと明るい毎日を掴み取ろうと、そうしたところで自分はきっと世界からの総攻撃を受け、何もかも上手くは行かないだろう。そううそぶいて見切りをつけ、暗がりへ逃げ込む。逃げ込んで、その場所から、はるか高みから垂らされる蜘蛛の糸を待つのではないか。
まあそれにしてもこれを書いたのが23歳の青年という点に私は激しくショックを受けた次第。小説が上手い、とかではなくて 何というかいろいろ考えすぎだと思うが、現代の我々の方が考えなさすぎなのだといわれれば、もう返す言葉ございません。