大江健三郎の一覧
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「大江健三郎全小説3」のハイライトの一つは、「政治少年死す(「セヴンティーン」第二部)」の掲載だ。本作品は、「文學界」1962年2月号にて発表されたが、それ以降、57年間、一度も単行本等の形で再録されることがなかったものだ。その作品が57年ぶりに、この「大江健三郎全小説3」で再録されることになった。
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その背景は以下の通りである。
1960年10月12日に、右翼団体である大日本愛国党の元党員である山口二矢、17歳が、日本社会党浅沼委員長を東京の日比谷公会堂で行われていた公開演説会の場で刺殺するという事件が起きた。「政治少年死す(「セヴンティーン」第二部)」は、この事件を扱ったものである。「中央公論」1960年12月号(1960年11月10日発売)に、深沢七郎が「風流夢譚」という、天皇陛下とその家族が殺害されるという「夢」が描かれた作品を発表した。それに怒った、同じく元大日本愛国党員の17歳の少年が、中央公論社社長宅に侵入し、手伝いの女性を刺殺、夫人に重傷を負わせるという右翼によるテロが発生した。このテロの発生は、1961年2月1日である。
「政治少年死す」の「第一部」である「セヴンティーン」は、1960年12月発売の「文學界」1961年1月号にて発表されている。この作品の原稿締め切りは、1960年11月であり、「セヴンティーン」は、山口二矢事件の「前」から構想・執筆されていたと考えられているし、大江健三郎もそのように発言している。ところが、「セヴンティーン」発表から1か月後に発売となった、「文學界」1961年2月号には、本「政治少年死す(「セヴンティーン」第二部)」が掲載された。本作品は、明らかに、浅沼委員長を殺害し、獄中で自殺した山口二矢をモデルとした小説となっている。
上に書いた1961年2月1日の中央公論社社長宅テロ事件の後、風向きが大きく変わる。「風流夢譚」を掲載した中央公論社は、テロの5日後の2月6日付の新聞各紙に社長名で、「皇室ならびに一般読者に多大のご迷惑をおかけしたことを深くお詫び致します」というおわびの社告を掲載した。また、大江健三郎の作品に対しては、2月7日発売の「文學界」3月号に、山口氏および関係団体に対して「ご迷惑を与えたことは率直に認め深くお詫びする」とした謝罪文を雑誌は掲載した。関係団体からの激しい抗議が、両社に対してなされていたことが背景にある。
後日になるが、1964年になって、大江健三郎は、作品の執筆動機について、「ぼくにとって、日々の生活の基本的モラルのひとつである"主権在民"の感覚、主権を自分の内側に見出そうとする態度が、いまや、戦後世代すべての一般的な生活感覚とはいえなくなっていることを発見して受けたショックだった」と語っている。
「大江健三郎全小説3」への、57年ぶりの「政治少年死す(「セヴンティーン」第二部)」の掲載は、そのような背景を持っているのである。
私自身は1959年生まれなので、上記の事件は、もちろんリアルタイムでは知らない。生まれてはいたが、物心つく前の話になる。事件全般の激しさや、それを題材にした「セヴンティーン」「政治少年死す(「セヴンティーン」第二部)」の小説作品としての激しさとは別に感じるのは、やはり時代の違いだ。当時の状況がリアルタイムには分からないので、当時の感覚を持つことは出来ないのだが、このような事件は、現代では起こり得ないのではないかと思う。理由はいくつかある。
ひとつは、日本における左翼運動・左翼勢力の衰退である。60年安保闘争、70年安保闘争の時には、それでもある程度のシンパシーを獲得していた左翼運動(私自身は、これもリアルタイムで知っているわけではない。色々な本を読んでの「知識」として知っている内容だ)は、70年安保が失敗に終わり、その後、左翼勢力による党派間の内部テロや、反社会的活動(三菱重工ビル爆破事件、あさま山荘事件が典型)により、左翼運動は支持を失っていく。そういった草の根的な勢力ばかりではなく、社会党は選挙で徐々に議席を失い、現在では、ほとんど見る影もない。こういった状況の中で、右翼と左翼の激しい闘いは起こり得ないし、リアリティを持たない。
もうひとつは、「主権在民」と「天皇制」の関係である。大江健三郎は上記の通り、「主権を自分の内側に見出そうとする態度」が、「一般的な生活感覚とはいえなくなっている」ことを発見し、ショックを受ける。その場合、話の筋からして、主権は天皇にあるべきと考える人たちがいることにショックを受けるわけである。現代、主権が天皇にあるべきと考える人がいるとしても、それは、リアリティを持った考え方ではないだろうし、そういうことが実現する可能性もないだろう。したがって、大江健三郎が執筆動機とした事態そのものが存在しないのである。それが、作品発表から57年間の日本の本件に関しての世間の考え方の変化である。
「セヴンティーン」を初めて読んだのは高校生の時、まさに、セヴンティーンの頃である。私が高校生だったのは、1974年から1977年であり、山口二矢事件から既に15年程度が経過していたし、また、東京のような都会と違って、私が住んでいた地方都市には、右翼とか左翼とかというものを具体的に感じることが出来るものは何もなかった。従って、物語そのものに、リアリティを感じながら読んだはずはない。むしろ、コンプレックスの固まりのような主人公の「おれ」が、右翼的な考え方を身につけ、実際に右翼の活動にコミットすることによって、他者との関係ばかりではなく、内面的にも力を得ていくという、そういう高校生の物語として読んだ記憶がある。右翼にも左翼にも肩入れしていたわけではないが、ある日、このような力を突然得ることが出来る、要するに生まれ変わることができる力を思想というものは持つのか、的な感想を持ったのではないかと思う。ストーリーとしては、とても激しい物語、という感覚を持ったはずだ。今回、再読し、また、「政治少年死す(「セヴンティーン」第二部)」をはじめて読んだが、感想はあまり変わらない。
Posted by ブクログ
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本書には、1957-1959年に執筆された19編の小説が収載されている。
1957年に「奇妙な仕事」で東大の五月祭賞を受賞し、それが「東京大学新聞」に掲載されたのが、大江健三郎の実質的なデビューである。1958年1月の芥川賞では「死者の奢り」が候補となり、同年の7月に「飼育」によって、実際に芥川賞を
...続きを読む受賞している。
当時がどういう時代であったかと言うと、1955年には保守合同・社会党統一による「55年体制」が始まり、1956年の経済白書には「もはや戦後ではない」という言葉が登場する。1990年前後の東西冷戦の終焉やバブル崩壊までの間の、いわゆる高度成長期を含む、日本の発展がまさに始まろうとしていた時代であった。
しかしながら、本巻に収められている、大江健三郎の初期の小説は、そのような明るさとは無縁である。五月祭賞に選出された「奇妙な仕事」は、「現代の最も若い世代の、やや虚無的な心情をつかみだし、それを一つの事件としてまとめあげた手腕に敬服したい」と評価され、あるいは、作中に書かれた犬と学生は、「そのまま占領下の日本の全人民のシンボルではないか。こういう"壁のなかの人間"の状況を、執拗に追求するところに、若い作者はその文学的出発点を持った」という評論もなされている。さらに、大江健三郎自身も、「死者の奢り」のあとがきで、「監禁されている状態、閉ざされた壁のなかに生きる状態を考えることが、一貫した僕の主題」と書いている。
私が初めて大江健三郎を読んだのは、高校生の頃だった。当時、自宅にあった、河出書房が出版していた「現代の文学」という文学全集の中の「大江健三郎集」を読んだのが、最初だ。「大江健三郎集」は1964年の発行なので、やはり大江健三郎の初期の作品、12編が収載されている。その内、「われらの時代」「奇妙な仕事」「見るまえに跳べ」「人間の羊」「戦いの今日」「飼育」「死者の奢り」「他人の足」「芽むしり仔撃ち」の9編が、本書に収載されているものである。
私が高校生だったのは、1974年から1977年までであり、実際に本書に収載されている小説が書かれた時期からは、時代も変わっている。大江健三郎が芥川署を受賞した1958年以降、日本は順調に経済成長を続けた。1973年以降の2度のオイルショックにより、成長は減速したが、それでも、世界の先進国の中での日本の経済のパフォーマンスは良好であり、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という本が書かれ、ベストセラーとなる時代が訪れる。そのような時代に、私は大江健三郎の初期の作品を初めて読んだのである。
河出書房の「大江健三郎集」の最初の作品は、「われらの時代」であったと思う。読後感は、強烈であった。娼婦と暮らす大学生、大学生の弟とその仲間たち、学生運動のリーダーとアラブ人、等、私の周囲には絶対に存在しない人物たちが、私の周囲では絶対に発生しない事件・出来事を起こしていく。彼らの行動原理は私には理解不能であったし、また、「監禁されている状態、閉ざされた壁のなかに生きる状態を考える」という大江健三郎が語ったテーマについても理解できたわけではないが、ただただ、小説の異常な迫力に一気に読んでしまったような記憶がある。
今回、高校時代から40年以上ぶりに、あらためて大江健三郎初期作品19編を読んでみた。戦後10年強しか経過していない時代の天皇陛下や在日米軍の位置づけ、日米安保条約、朝鮮戦争、等の歴史的事実関係は、高校時代よりも今の方が知識は豊富かもしれない。しかし、「こういう"壁のなかの人間"の状況を、執拗に追求するところに、若い作者はその文学的出発点を持った」とか、「監禁されている状態、閉ざされた壁のなかに生きる状態を考える」とか、ということについて理解は至らなかった。それは、やはり同時代にリアルタイムで作品を読まないと感じないことなのだろう。しかし、一方で、「われらの時代」は、今回も、ほぼ一気読みしてしまった。それは、やはり、この小説の、説明しがたい迫力によってであった。
Posted by ブクログ
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初めて大江作品を読んだが、具体的かつ特異な舞台設定に引き込まれる。
短編集ということもあり、閉塞→嫌悪や恐怖を孕んだ壁外からの刺激→親しみや恐怖の融解→猟奇の再発→死等をきっかけとした主人公の成長・解放という流れがとてもわかりやすく、無駄なく感情移入しやすい。
特に『飼育』『他人の足』『戦いの今日
...続きを読む』が好きでした。
大江作品にハマるきっかけになりそうだ。
Posted by ブクログ
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お得意のノンフィクション風フィクション。
人外級の想像力を感じさせる、個人的大江文学全盛期の傑作。
登場人物(高安カッチャンetc)と描かれる大江(の分身)がとにかく滑稽で面白い。
その滑稽さと、大江が多分?本当に見たとされる雨の木へのひたむきで純粋な想いのコントラストに胸を打たれる。
Posted by ブクログ
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まず、語り手である「私」とは大江健三郎氏のことだろうか。『ロリータ』の解説を書き、ノーベル賞作家であり、エドワード・サイードと親交が深かった。おまけに東京大学フランス文学科では渡辺一夫教授のもとで学び、大学に入るまでは四国に住み、そこで『ハックルベリ・フィン』を読んでいたとのこと。まさに、大江氏の姿
...続きを読むを見てしまう。そもそも息子が音楽家の光氏なので、この作家が好きならば誰しもが語り手を作家と同一視するだろう。なによりも、大江健三郎氏は『ロリータ』(若島正訳、新潮文庫)の解説で述べているが、日夏耿之介訳の「アナベル・リイ」を愛読しており、タイトルも元々は「﨟たしアナベル・リイ」とあるようにポーと日夏耿之介の影響をもろに受けた私小説である。
本作は、ポーの「アナベル・リイ」の解釈を巡って揺れ動く。アナベル・リイと詩の語り手との「繋がり」はどうだったのかと。語り手が松山に暮らした時代、ぽしゃったM計画(映画制作企画)を振り返りながら、サクラ(本作で描かれる8mmフィルムのアナベル・リイ役の女性)について、無削除版の8mmフィルムに言及しながら、語り手は語る。
個人的に現代日本文学における最高傑作のひとつだと思うが、ひとつ気になるのは、文庫だとタイトルは『美しいアナベル・リイ』となっていることだ。やっぱり、日夏耿之介の「﨟たし」のほうがしっくりくる印象だ。
Posted by ブクログ
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