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Posted by ブクログ
ノーベル賞作家である大江健三郎が、1963年夏から数回にわたって広島を訪れ、被爆者や医師たちへの取材を通じて書き下ろしたルポルタージュ。
感情に訴える文体や天才的な比喩表現が如何なく発揮されており、単なるノンフィクションとは決定的に違う読み応えがある。
発行から60年以上経った現在でも、全く色褪せることのない平和へのメッセージに胸を打たれる。
「Ⅰ 広島への最初の旅」では、1963年夏の原水爆禁止世界大会に揺れる広島の様子が描かれる。本章では、ソ連の核実験を支持する共産党と、いかなる国の核兵器も認めない社会党の無意味な対立を批判的に書き留めている。そして、原爆病院長の重藤氏への取材を経て、著者にとって広島の存在感がどんどん増していく様子が描かれる。
その後の「Ⅱ 広島再訪」以後は、被爆者自身や医師たちへの取材を通じて、原爆以降の広島の惨状を明らかにしていく。被爆者たちの個人的な物語がいくつも紹介されるが、そのひとつひとつがとても悲しい。本作の読者は、心に「ノーモア・ヒロシマ」を確実に植え付けられることだろう。
自分は読書をしながら心に響いた文章には付箋を貼るようにしている。本作は名文の連続だったため付箋を貼る手が止まらなかった。
その中でも、最も胸を打たれたのはp.106の下記の文章。
「われわれ、偶然ヒロシマをまぬがれた人間たちが、広島をもつ日本の人間、広島をもつ世界の人間、という態度を中心にすえながら人間の存在や死について考え、真にわれらの内なるヒロシマを償い、それに価値をあたえたいと希うなら、ヒロシマの人間の悲惨→人間全体の恢復、という公理を成立させる方向にこそ、すべての核兵器への対策を秩序だてるべきではないか。この政治的時代には、ひとつの国の新たな核武装が、かえって核兵器の全廃への道につうじる、というお伽話が現実的である可能性もあるという人たちがいるかもしれない。(中略)
しかし、僕は見すごすことはできない、すなわちそのお伽話の城へむかって一歩踏みだされた現実的な足は、広島のいまなお昏い室内でケロイドを恥じながら青春をすでにうしないつつある娘たちの自己恢復の希望を、確実に踏みにじったのである。そして、それでもなおかつ、実際的に核兵器全廃の見とおしがおとずれていないという現状が、広島の人間たちにとって、まったくどれほど苛酷なことであるか、ぼくはそれをおしはかる勇気をもたない。」
著者自身の平和への願いが込められた、千年後も読み継がれるべき名文である。
自分自身の祖父も広島市内で被爆した。祖父は父にも自分に対しても、原爆のことを全く語ろうとはしなかった。さして原爆病を発症することなく、約90年の生涯を生き抜き一昨年他界した。
祖父は荒廃した広島を生き抜き、瓦職人として三人のこどもを育てた。そのうちの一人、被曝2世の遺伝子から被曝3世の自分が誕生した。そして、この冬に自分に被曝4世の娘が誕生した。
祖父は文字通り、「真に広島の思想を体現する人々、決して絶望せず、しかも決して過度の希望をもたず、いかなる状況においても屈伏しないで、日々の仕事をつづけている人々」(p.199)の一人だったと言える。
そんな祖父が繋いでくれた命を大事にしながら、平和のために何ができるかを、娘と一緒にしっかりと考えていきたい。
そう思わせてくれる、素晴らしい本だった。
Posted by ブクログ
学生時代から何度か読み返してきた本だが、手元に見当たらず買い直した。
『ヒロシマ・ノート』は、1963年、参加団体の政治的立場の違いによって分裂した原水爆禁止世界大会を、現地で苦々しい失望とともに取材した大江健三郎が、その後に重ねた数度の広島訪問を通して、人の生き方について考え続けた記録である。そこで出会った被爆者や医療現場で働く人々は、希望に陶酔することも絶望に沈むこともなく、きわめて現実的で忍耐強い態度で日々暮らしている。
今読んでも、原爆投下から約20年後の社会状況が生々しく伝わってくると同時に、それからさらに60年を経た現在においても、核兵器を廃絶できていない現実や、近年の大規模な自然災害の後に見られる政治の混乱や無策の中で、困難な生活を強いられている被災者の姿が、本書で描かれる人々の姿と重なって見える。本質的には社会が大きく変わっていないように感じさせられ、失望を覚える。
「ヒロシマ」を単なる象徴として消費するのではなく、そこで生きた人々の経験に学び、自らをそこに「参加させる」ことの重要性を問い続ける姿勢は、今もなお有効であり、この本が何度でも読み返されるべき理由だと改めて感じた。
Posted by ブクログ
本書の『ヒロシマノート』のヒロシマがカタカナなのは、原爆被災地広島を示すだけでなく、広島・長崎に投下された原爆による人類史上初めてであり、最悪の「人間的悲惨」を象徴する。また核兵器廃絶の意思である「ノーモア・ヒロシマ」を意味する。そして、大江健三郎は悲惨な体験をした広島の人々の生き方から励ましを受け、「まさに広島の人間らしい人々の生き方と思想に深い印象」を受けた。広島の人は、漢字となっている。そして、そこから「人間の尊厳」と言う言葉を紡ぎ出す。
1960年に広島を最初に訪問し、1963年から取材している。1963年は、大江健三郎が28歳の時だ。
1964年に『ヒロシマノート』を出版し、『個人的体験』を出版している。60年前のことだ。ヒロシマに真正面に向き合う姿勢が真摯でもある。
『ヒロシマノート』の冒頭で、大江健三郎は「このような本を個人的な話から書き始めるのは妥当ではないかもしれない。僕については自分の最初の子が瀕死の状態でガラス箱に横たわったまま、回復のみこみは全くない始末だった」と言う。そして、若い妻が、原爆の被害を受けても、子供を授かり、異常児を産むのではないかという不安があっても産む決意の人を眩しく見るのだった。
原爆の投下された日に広島で生まれた子が、東京オリンピックの聖火ランナーとなり、健康に走り抜けたことを喜んでいる。被爆したからといって、諦めない姿勢、そのことについて全く語らない「黙る権利」を行使して、黙々と生活を送る姿に、共感している。ヒロシマの中で、広島で生きているのことが、重要なのだ。
「尊厳、威厳、屈辱、恥」という言葉が大江健三郎にとって重要な言葉となっている。
核実験再開に対して、あるひとりの抵抗的な怒れる老人は、抗議する割腹をしようとしたが、体力がなく失敗し、抗議書も無視されて、「とうとう生き恥をさらしてしまった」と語る。敗北感に苛まされていたにもかかわらず、確実に人間的尊厳があると大江健三郎は思う。原爆被害を受けながら、原爆被害者の治療をする医師の姿に尊厳を見る。
原爆症が発症して働くこともできず10円がなくて電話がかけられなかったという極貧の孫の若者のお爺さんが、そのあまりにも貧しいことに、浅ましい理由、全く金がないという状況を嘆く姿の中にも尊厳を見るのだ。恥があるから、尊厳も輝くのだ。ヒロシマが生み出した、広島の人々の健気さ、尊厳に注目するのだった。「人間的な力への信頼」が、一筋の希望を見出していく。
広島の原爆は、20世紀の最悪の悲惨だった。そして広島の人々は、ただちに彼らの人間世界を復活させるべく働き始めた。広島の人々は自分たち自身を救済すべくこころみ、彼らに原爆をもたらした人々の魂をも救助した。さまざまな国家による核兵器の所有というガンに侵されている20世紀の地球の時代においては、広島の人々が救助した魂とは、すなわちわれわれ今日の人間の魂のすべてであると大江健三郎はいう。
彼女の動かぬひとみは 無表情だったが、
しかし、そこには何か悲しみ、
苦しみが、名づけようない、ひどく恐ろしいものがあった。
人間として、個人的に、その書斎の中で、自分自身と人類の運命について、考えようとすれば、彼はつねに、20年前、現実に原爆を体験した人々について、思いださざるをえないはずです。そして彼の個人的な志が、そのまま被爆者たちの志につながるような方法はないものかと考えることだ。
そういえば、50年以上前の学生の時に、広島の原水禁の集会に参加して、そして原爆記念館を見た時の衝撃を今更ながら、思い出したのだった。私の中にも、ヒロシマは、あった。思いをつなぐことの大切さを知った。
フクシマの地震、津波による電源喪失による原発のメルトダウンによってもたらされた被害は、人為的な問題が多く、それに向き合い方を、この本から学べた。この災難によって、故郷を奪われ避難するという事態が、家族の崩壊と共同体の人間の魂に大きな打撃を与えた。また森林は壊されたままだ。100年近い被害のありようにも向き合っていく必要があると思った。
Posted by ブクログ
戦後78年の2023年に読破。
これを読むまでは、抑止力のための核保有の考え方に賛同派でした。
しかし、これを読んで改めて感じたことは、抑止力といいながら、明らかに使用することが前提の核保有説であるということでした。
戦争を知らない世代の私は、はっきり言って原子力爆弾の惨さ、人間がもたらした醜悪さ、悲惨さの極みといったものを知らない、全く無知な人間でした。
ナチスのホロコーストは、歴史に語り継がれ、人々が忘れないように何度も映画化やメディアでとりあげられるのに、なぜ、広島長崎の原爆を克明に記した書籍や映画はメディアで取り上げられず(ときには残酷だといわれR指定もされるけれど、それこそ馬鹿げた話だ)、学校でもその意味を考えさせるよう、如実に教えないのか。
アメリカの圧力を感じずにはいられません。
私たちは、原爆を落とされてもアメリカを憎むことなく、ましてや敗戦して良かったのだ、原爆は落とされなければ、日本はもっと悲惨な道に突き進んでいたのだ、などと、どうしてそんな考えでいられたのか。戦争に負けても、アメリカを憎まない日本人の国民性に誇りまで感じていた、私はまったく無知で恥知らずな人間でした。
Posted by ブクログ
この本自体は60年代半ば、戦後20年が過ぎようかという頃に書かれたもの。戦争の記憶も今より遥かに鮮明で、冷戦や日米安保、学生運動の只中を生きた人々のエネルギッシュさにまずは驚かされた。
その一方で、戦後20年にして既に戦争の記憶の継承が問題となっていたこと。特に広島で被曝した人々は、最初の数年を幸運に生き延びたとしても、いつ原爆症を発症するかは分からずにいた。それでも、ある日唐突に自分の命の終わりを告げられる恐怖におびえながら「悲惨な死にいたる闘い」を続けた人々の途切れない営みによって、現在の我々は、あの時に広島で何が起こったかを知ることができる。
戦後77年を迎え、戦争を知る世代からの直接の継承が、本当の意味で限界を迎える日はそう遠くないだろう。
だからこそ、戦争の悲惨、核の惨禍を繰り返さないことばかりを願いながら死んでいった先人たちの存在について、これまでのどの時代よりも真摯に知ろうとする必要があるのだと思う。
そして、灰谷健次郎の『太陽の子』にも共通するが、この本を読んで強く感じたのは「心の傷」こそが最も寄り添われづらく、寄り添うことに努力を要するということだった。
戦争体験だけに限りらないが、身体に残る傷は目に見えて、(こういう言い方はしたくないが)周りの人がそれに気づき、寄り添うことにそれほどの困難はない。
しかしこの本や『太陽の子』にあるように、健康体で、見た目にはまったく他の人と変わりない人間が、ある日突然に自ら命を絶つことがある。拭い去れぬ戦争の記憶、いつ自身の身体に原爆症の症状が現れてもおかしくない不安。これらの恐怖は一人の人間の生きる希望を奪うのに十分で、それでいて他人の目には映らない。もしそれを知っても、権力そして世の多くの人は寄り添おうとせず、反対に心無い批判の声を浴びせる。
いわゆる自己責任論、その人の心が弱いだけ、同じ状況から立ち直った人を知っている、などなど。正直に言って、そういった意見の全てを否定することはできない。自分にはない経験による、目に見えない心の傷である以上、自然にその痛みに寄り添える人の方がむしろ限られた才能の持ち主だとさえ思う。
しかし、自然には寄り添えない他人の内面に対してなんとか寄り添おうと努力をすること、これはどんな人にでも可能なはずだ。それすらもせずに無関心を決め込み、勝手な誹謗中傷をしてしまえる鈍感な人間にはなりたくない。たとえ結論としてその人の傷に寄り添うことができなくとも、寄り添うための努力は惜しまない人間でありたい。
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