大江健三郎のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
ネタバレ似て非なる「虚構」と「想像的なもの」
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文春文庫版の、渡辺広士氏の解説を読んでいて、どうも分かるような分からないような気がしたのは、おそらく『個人的な体験』以降の大江健三郎の作品に引き続いている、私小説のような体裁(例えば大江健三郎に起こった出来事とかなり近い体験をしているらしい「作家O」が主語であることなど)に対して渡辺氏がすっきり割り切れていないらしいことが原因だと思った。
渡辺氏は『河馬に噛まれる』について、この「河馬の勇士」や秘密結社を組織していたタケちゃんを虚構の人物としておきながら、「サンタクルスの「広島週間」」については「自ら見た夢を、作者は作品に書き留めずにはすませなかったのであろう」とその夢が本当に作者の見た夢であると平気で言い切ってしまっているのだが、この「判別」の基準は一体なんなのであろうか…?
虚構の人物か、あるいは虚構の出来事かどうかというのの真偽自体はどうでもいい、とは私も思っている。だから「エーッ、この話作り話だったわけ?」と怒りの気持ちを抱くことはないのだけれど、大江健三郎の作品は、完全なる作り話であるとわざわざ割り切って読むのにはやっぱり適さないと思う。
いくつか作品を読んだところ、彼自身で以前の作品を引用することもしばしばであるし、それぞれの話の相関関係も濃密である。ではそこにあるのは、あくまで「大江健三郎の小説世界」という切り離されたミクロコスモスなのか? あるいはそうかもしれない、しかし大江健三郎が私に訴えかけて来ていたのは、ミクロコスモスがあるとして、それは切り離されたものではなく、マクロコスモスに繋がっているという「確かさ」だった。そして彼はそのミクロコスモスを、自分の周りの人をも登場させる方法で、人並みはずれた入念なリアリティをもって作り出し、さらにその「話」によって、彼らしい人物Oさえも、より一層綿密に巻き込まれて行く。
しかしそのミクロコスモスが、完全な虚構、あるいは重要なポインとが虚構だったとしたら、『個人的な体験』以降の作品は、それ以前のいかにもフィクションらしい小説に比べて、かえって「閉じた世界」となってしまわないだろうか?
エッセイ的な事実の列挙であるとは決して思わないけれど、もしもこのような体裁で書きながら、肝心な部分でフィクションを用いるのだとすれば、それは書き手として壮大な甘えではないだろうか?(読み手にとってというか、書き手にとって…)
それがフィクションであろうとノンフィクションであろうと、「事実的」なことを書くことによって家族さえ巻き込んで、決していい目を見ているとはいえないらしいところを考えると(これもフィクション説というのはあるけれど)、書くことを通してしか大江健三郎はうまく生きて行くことができないのではないだろうか、とも感じられる。そういう意味で、私とって彼は「切実で逼迫した作家」である。
この『河馬に噛まれる』に先立って、私は『新しい人よめざめよ」をとても面白く読んだのだけれど、同時に、同著でウイリアムブレイクが頻繁に引用されているのが奇妙に感じられた。というのも、ここまで力量のある書き手の彼が、すでに「書かれてある」ことに何故こんなにも縋るのかということが納得できなかったからだ。
そのモヤモヤを解消できないままこの『河馬…』のほうに移ったのだけれど、渡辺氏の解説のところから、やっぱりこの大江健三郎におけるフィクションというものが気にかかって、再度『新しい人よめざめよ』に手を伸ばしたら、一度目に読んだときよりも収穫があった。
勿論このエピソードでさえフィクションである可能性は否定出来ないのだけれど、深さ15mのプールに息子が沈んで行くのを見て、機敏な動きで助けに移ろうとしてくれている他人に対し、実の父である書き手の頭に咄嗟に浮んだのが、ウイリアムブレイクの「落ちる落ちる…」という詩句だったという体たらくである。
この部分、愉快であると同時に、イーヨーのまずい泳ぎっぷりを見ながら、むしろ泳ぐとはこういうことなのではと思わされるほど自然である、と感じたのに似て、書き手が、起こっていることを覆そうとするよりかは、事件をそのまま受け止めてしまうタチであることが読み取れ、また同時に、危機に際してもその助けの手だてを咄嗟に詩句に求めてしまうほど「書かれているもの」としての詩句に依存していることが発見出来る箇所だと思う。
果たして語り手にとってこの「書かれているもの」とは何か?
語り手は『新しい人よ…』の中で、イーヨーが夢を見るかどうかということをしきりに気にしてる。というのも、夢は時に現実からの抜け穴の提示をしてくれる考えているからで、イーヨーが夢を見ないとしたら、イーヨーに想像力があるのか?ということも疑われてくるからだ。
ここで言う想像力とは「知覚によって提供されたイメージを歪曲する能力」であると述べられている。
語り手にとってブレイクの詩句は、私が一読目に感じたように、語り手がそこに書かれているものを超え出るほど豊かなイメージを持ちうる、その機会を与える「想像的なもの」として夢と同じく、知覚される現実を歪曲する、あるいは読み替える鍵として機能していると考えられるだろう。
ひしひしと伝わる語り手のイーヨーに対する愛情は、もちろん自分の息子であるということもあるだろうけれど、それとはまた別に、イーヨーはその障害によって語り手にとって常に強度の「現実」を強いるものであると同時に、想像力を喚起する非常な「想像的なもの」である。
そしてこの語り手は、この「想像的なもの」を単なる遊びとしてではなく、生きて行く上で必要なのではないかと考えている。
さらに、完璧な虚構である「夢」の中を、息子との交わりが可能となる場かもしれないと夢想する語り手は、超現実的な場を信じていると同時に、その「夢」あるいは「想像的なもの」を決して現実から分離させない人なのではないだろうか。
例えば、これも『新しい人よ…』のエピソードであるけれど、一人メキシコに来ている語り手が、日本で息子と行っていた「なーんにもいらないよ、イーヨーがいるから!」と歌うと、絶妙なタイミングでイーヨーが現れて、ハイタッチして「ありがとうございました!」という掛け合いについて思い出し、ふとその歌を口ずさみそうになって、その歌の効力を思ってあわてて口を押さえてしまう、「歌ってしまうと、地球の四分の一周の距離をものともせずイーヨーがこちらにむかい、ありとある交通機関を利用して、数ヶ月の苦闘の末、ついに目の前にあらわれ、旅疲れいちじるしい格好に呆然たる僕の掌をパチンとたたいて、—ありがとうございました!と叫びそうに思えたのだ。」というところのように…。実際に現実的でなくても現実的(あるいは真実的)と感じられるものの存在の強さ(実存しているとでも言おうか)を実生活の中で強く感じているというか。
そういう意味でも(話は戻るのだけれど)「河馬の勇士」や「タケちゃん」がもしも完全なる虚構だとしたら、それは猛烈に儚く空しいものになってしまうのではないだろうか。そして周りにいるイーヨーたちさえも巻き込んで…。モデルというレベルの存在の仕方だったとしても、「タケちゃん」がいるのでなかったら、「タケちゃん」が、イーヨーたち家族をも連れて、現実から、糸の切れた凧のように、中空に浮遊して行ってしまうというか…。
だから、渡辺氏が推測するように、エリオットと生物学の本から「河馬の勇士」が生まれたと考えるならば、私にとって「河馬の勇士」は実存性が希薄な人物になってしまう。むしろ「河馬の勇士」的人物があってこそ、書き手の中でエリオットと生物学の本の中のエピソードが結び合わされ、「想像的なもの」となって溌剌と動き出てくるのではないだろうか…。例えば、書き手にとってイーヨーがあってこそブレイクが読み解かれるのであって、ブレイクの後にイーヨーがいる、というのではないように…。
あるいは(渡辺氏は夢に関してはそのフィクション性を問うていないけれど)、もしもこの書き手の語る「夢」が、語り手が目覚めているときに作り出されたものだったとしたら、この「夢」は語り手にとっておそらく何の意味も持たないものになったに違いないと私は感じる。
『洪水はわが魂におよび』のような、明らかにフィクション的なものについてはそのモデル度、というか実存度がどうなるのかというのは私自身にとってもまだうまく説明がつかないのだけれど、この『河馬に噛まれる』ではあまりにリアルに書きすぎているが故に、それが虚構だった場合、現実さえも放り出してしまう気がするというか…。
大江健三郎にとって「想像的なもの」と「現実」は深く絡み合って存在していて、だからこそ、この「想像的なもの」は一般に思われるように架空の領域にある「虚構」ではなく、むしろ異常なほど現実の方に強く引き込まれているものである。そして想像的なものと関わることは、彼にとって生きることそのものではないか…? -
Posted by ブクログ
長かった。長い道のりだった。しかし、大江健三郎はこのくらいの、ある程度の長さがなければ醸し出されないものがある気がする。だから、この長さは半ば必然的な長さだったのだと思う。途中、面白くて面白くて、一回休憩入れないと駄目だ、勿体無いわ、と思って、休憩入れてまた読んで、というのを繰り返しながら。大江作品には本質的に悲嘆に暮れている人間がいないように感じる。みんな、どこかしら明るい。リジョイス!と叫びたくなる、そういう明るさがある。これでレイトワークは読みきったので、ここからはもうちょっと自由に年代を考えないで読んでいこうか、それとも順番にできるだけ沿って、次は「燃えあがる緑の木」三部作に手を付けるべきか、ちょっと悩む。しかし、一方ではいったん大江を休憩して、他のものをがっつり読みたいっていう欲求もまたある。(10/7/5)
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Posted by ブクログ
ネタバレ大江健三郎の文学以外の作品は、出たときには読むことがありますが、後から読み返すことはありませんでした。
記事で、
「標題の「あいまいな日本の私」が、ノーベル文学書受賞の際の記念講演の標題だということ。」
「ノーベル文学賞を受賞した川端康成の「美しい日本の私」を引いていること。」
を知って、読み返す気になりました。
「ハックルベリーフィンの冒険」と「ニルスホーゲルソンの不思議な旅」の2冊の書籍を紹介しています。
「裏切り者(トラディトーレ)としての翻訳者(トラデュトーレ)とはいえない」
アイルランドの詩人ウィリアムバトラーイエーツに親近感を感じるとのこと。
上品な(ディーセント)。
渡辺一夫の弟子とのこと。ユマニスム。
鳥の歌から音楽に向けて育った知的な障害を担って生きる息子。
大江健三郎のような大作家の考えることは、私にはよく分かりませんが、一つの立場の表明として尊重すべきものだと理解しました。
この本を読むまでは、川端康成よりも大江健三郎をより好んでいましたが、この本を読んで、川端康成の理解が不十分であったことを知り、川端康成を読み直そうと思いました。
自分がそれに対して、意見を持てるようなところまで、まだ至っていません。