大江健三郎のレビュー一覧

  • 大江健三郎

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    昔々ヒロシマノートを読んだことがあるはず
    と思っているのですが、ほとんど覚えていません。
    なので、感覚としては初めての大江健三郎氏です。
    「人生の親戚」「治療塔」の長編2作が非常によかった
    と思います。
    特に人生の親戚での中心人物のまり恵の子ども達に
    おこった悲劇に関しての描写とその悲劇と向かう
    人たちの描き方は圧倒的な感じがします。

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    2015年11月07日
  • 日常生活の冒険

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    ネタバレ

    「おれはいまセックスとは何か? ということを考えているんだよ。おれはひとつのテーマについて永いあいだ瞑想するのがすきなんだ。それで三時間おれはセックスの問題について瞑想していたんだよ。考えてみろよ、昔はモラリストとかフィロソファーとかがいて、基本的な命題をじっと徹底的に自分の頭で追求したんだ。そして自分の声で表現したんだね。だから、その時代には、あの男は自然についてこう考えているとか、この男は悪魔の存在についてああいう仮説をたてているとか、町の人間がみな知っていたんだ。しかし今日では、そういうことはない。もう現代の人間どもは、いろんな基本的な命題については、二十世紀の歴史のあいだにすべて考えつくされたと思っていて、自分で考えてみようとはしないんだ。そのかわりに百科事典をひとそろい書斎に飾っておいて安心している。おれはそれが厭なんだ。本質的なことはみないちどおれの頭で考えて、おれ専属の答を用意しておこうと思うんだ。きみにしても、いま向こうからよぼよぼの婆さんがやってきて、わたしは癌なんだけど、死についてあんたの個人的な意見をきかせてもらえませんか? といったとすると困るだろう。おれは、そういうとき困らないように準備しているんだね。もうずいぶんいろんな命題について考えたし、それはノオトに記録してある。おれは、それをおれの生涯の仕事にするつもりなんだよ。そして死ぬまえに、おれの哲学的瞑想ノオトという、人事興信録みたいにでっかい本を出版するんだ」

    「おれは十五歳の誕生日からずっと、いろんな命題について瞑想しては、自分自身の答をつみかさねてきた。おれはいまや、ありとあらゆるモラルについて、ありとあらゆる現象について自分独自の答をおれ自身の声でかたることができると思うよ。おれは自分の頭で瞑想し続けたし、自分の眼で観察しつづけてきた。おれはもうプロのモラリストだし、いわば公認のフィロソファーなんだ。ところがそのおれに今までのところ、公衆を前にして自分の瞑想の結果をかたる壇はあたえられなかったし、歩きながら崇拝者どもに説ききかせる柱廊も用意されなかった。おれは本を書くことも考えたが、それはあまりにも厖大な書物になりそうだし、どこから手をつけていいのかわからない。第一おれの思想は死んだ活字に語らせるより、生きた肉体で表現すべきものなんだ。そこでおれは結局、自分がこの現実世界をどのように生きるかということで自分の哲学的な瞑想の成果を証明していゆくほかないんだが、この二十世紀に生きている限りそれはあまりに限られたちっちゃな範囲でのことしかできない。ところが、いま、おれは劇場と劇団をもとうとしている。おれは自分のモラルのすべてをおれおよびおれの劇団員の生身の躰をつうじて表現できるだろう。あくまで具体的に、人間らしい表情と声で! おれの演出方法はこうだよ。舞台の俳優が勇気のある人間の役をやるとしよう。俳優はおれが作った勇気という命題についてのカードをすっかり暗記するまで読むわけだ。そして、かれはおれの勇気というモラルのお化けとなって舞台の上に立つわけさ!それは勇気という命題にとどまらない。この世界のありとあらゆる命題について十分な時間をかけて、このおれが瞑想をかさねた、確実な答とともに、おれの俳優たちは舞台で叫んだり動いたりするわけなんだ。いままでおれたちが見てきた、たいていの舞台はどうだったろう? どの俳優もみな確実なモラルを獲得してはいない。この現実世界に生きているナマの人間同様、なにひとつ自分独自のはっきりしたモラルをもたずに、あいまいに、行きあたりばったりに、任意に、偶発的に芝居している。いったいそれが、人間の意識のなかのもっとも意識的な演劇世界のヒーローたちのやることかい? おれたちは昨夜、サルトルの翻訳芝居を見たが、まったく見るにたえない、あいまいさのごたまぜだった。

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    2016年02月28日
  • 叫び声

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    うわぁぁぁーーーーーっ!
    確かに、しっかりと、その「叫び声」を聞いた・・・。

    「人間みなが遅すぎる救助をまちこがれている恐怖の時代には、誰かひとり遥かな救いをもとめて叫び声をあげる時、それを聞く者はみな、その叫び声が自分自身の声でなかったかと、わが耳を疑う」(ジャン=ポール・サルトル)

    生臭さと、鋭利さと、ざらつきが一度に迫ってくるような、そんな小説。
    エロスとグロテスクとタナトスに彩られ、眉をひそめるような嫌な感覚がびしびし伝わってくるのだが、それがまた生々しくて、小説の状況とは裏腹に活き活きとしていて、とても面白かった。青春群像劇特有の疾走感も良かったのかもしれない。

    サルトルの言葉からイマジネーションを受けた大江は、社会から疎外された、僕、呉鷹男、虎の若者3人とダリウス・セルベゾフとの奇妙な同居生活、そして、彼ら共通の夢、レ・ザミ号での航海を目標とするところから端を発して、それぞれが声なき「叫び声」を発するにいたるまでの人間模様を鮮烈に描いている。
    希望を打ち砕かれ、閉塞感が漂いながら、しかし、孤立な生き方しかできない若者たち。社会は決して受け入れてくれず、また、社会に馴染もうとせず、最後の居場所として集った若者たち。若者時代に感じたこうした何かを少しでも思い出せれば、彼らの叫び声はまさに真に迫ってくるものとして感じられるだろう。
    大江の創作した若者たちはかなり極端である。そして、性的な色を放ち過ぎている。しかし、だからこそ僕らは矮小な自分として、こうした感覚が呼び醒まされてくるのだ。

    大江の放つ「言葉」はみずみずしくも研ぎ澄まされている。1960年代という時代に対して、大江自身の「叫び声」として真っ向から対峙し、勝負した作品であったのではないだろうか。

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    2015年05月26日
  • 取り替え子

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    ネタバレ

    高校時代からの親友であり映画監督の塙吾良がビルから投身した。古義人のもとには彼の声が吹き込んであるカセットテープとそれを再生するための「田亀」があった。「田亀」をとおして吾良と会話する古義人。その姿におびえる妻の千樫と息子のアカリ。

    「田亀」と距離をおくためベルリンに赴く古義人。
    週刊誌では吾良の死因が悪い女に求められるが、吾良と千樫はそうではないと思う。
    吾良がヤクザに襲われたときのことから、吾良は自然と自分に襲いかかってきたテロルについて思いを寄せる。

    ベルリンに行く前、千樫は古義人に言う。
    彼らが学生のとき、夜中に帰ってきてガタガタになっていた、あのときのことを今度はウソをつかずに書いて終わるべきだと。

    その出来事は「アレ」と呼ばれる。
    吾良のほうからは「アレ」を描いたと思しき絵コンテがあり、吾良は今まで培った小説技法をたよりに吾良の視点からの「アレ」を描こうとする。

    大黄さんという、吾良の父親の門下生だった人物があらわれる。米軍の占領下、彼は講和条約の発効前に日本人からの蹶起がなされるべきだ、少なくとも抵抗したという歴史の片鱗が必要だと考えている。そのためには米軍と同等の武装が必要になる。

    この武器を与えるのがCIEで働いているらしいピーターという白人の役目であるらしい。
    ピーターが吾良に対しどうやら性的な願望を持っていて、大黄さんは吾良を利用して取引をするつもりらしいことが示唆される。

    結局のところ、「アレ」とは何かはわからない。
    在日の子供らに剥いだばかりの牛の生革を頭からかぶせられ、体が血と脂でどろどろに汚れてしまう……。

    実のところ僕は加藤典洋「小説の未来」を読んで本書を手にしたのであって、ここで行われたのが強姦であるという説が頭のなかに既にあった。
    でもどうやらこの評論がいくらか物議をかもして大江の「憂い顔の童子」では作中で引用、批判されてもいるようだ。

    しかしそうはいったって、そういう性的な事柄を連想させるような書き方がなされていると思うのだが……それが不協和音として松山の回想を暗い基調にしているというような。

    最後の章は千樫の視点から語られる。
    そして「取り替え子」というタイトルともなった一連の思想が垣間見える。

    しかしながら松山の回想における張りつめた糸のような緊張感が、ここでどこかすっぽぬけてしまっているような気がしてならない。
    それはなんだろう、千樫という女の肉体をもった人物というのがどうも想像しにくいところにありそうだ。

    端的に言って女を描くのはあまり上手くないのじゃないか、という気も。
    女が自主的に動いているというより、常に作者の視線のなか操り人形のように女が語らされているような、不快感というのかな。

    それから主題に感心したかといえば、歳も離れているし、実感としてはあまり来なかった。
    ただ読書体験としては久々にスリリングなものだったと思うし、読んでいて揺さぶられるような心地良さがあった。
    というわけで本当のところは☆4.5くらい。

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    2015年02月09日
  • 私という小説家の作り方

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    ネタバレ

    想像力とは、「究極のリアリティー…すなわち、われわれが神と呼ぶところのものと接触するための、人間の心理にとって知られている最高の方法である」
    「世界は、ひとつにまとめる想像力の力を必要とする。それをもたらしてくれる最良のもの二つが、詩と宗教なのだ。科学はあたえるけれど、破壊しもする。」詩というより自分にとっては小説を中心とする文学の全体と、これという宗教が思い定められないのであれ神秘的なものへの祈念と、その二つを介して、つまり想像力の力において、私もこの世界をひとつにまとめて把握したい。自分が生まれ出てきたこと、そして今まで生きてきたし、現に生きている、そして死んでゆくけれどもその総体が生きることをしなかったと同じということにはならぬような、そのような世界を確信するために。私が小説を書いてきたのは、まさにそれへの希求によってであったし、これからあらためてまた小説を書きたいと思うのも、そのためということをほかにしてはない。あなたは小説家として才能がある、と信じていますか?と聞かれたなら、「あれ」―――日々小説の文章を書きついでゆく精神と肉体の運動が滑走路を準備して、そこから自分にも思いがけない滑空に向けて走ることになり、それまで地続きに展開していた小説が別の次元に到る、それをもたらす力である。「あれ」がやって来てはじめて、私はわれを忘れて集中し小説を書き進めることになり、その高揚したスピードで小説を終らせるのがつねだったのだから。…私が…いいたかったのは、あれがやって来ることがなければ、小説家は自分が小説の書き手だと真に自覚することはできない、と、いうことのみである。
    以上、メモ。ローマン主義について詳しく知りたい。ナラティブについての究明など、何年か大江文学や、それ以外の読書を続けた後にもう一度読みたい本。

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    2014年10月19日
  • 大江健三郎自選短篇

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    大江健三郎という小説家がどのような経緯で現在に至っているかがわかる貴重な一冊。初期の名作『空の怪物アグイー』や中期の名作『レインツリー』シリーズ、『静かな生活』上げていくときりがない。

    満足感でいっぱいです。

    11月8日追記
    まさか『王様のブランチ』で紹介されるなんて思いもしなかった。大江さんが言われるように一冊の本が救いになる瞬間がある。そうした本が持てる読者はやはり幸福なことなのだと思う。

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    2014年11月08日
  • 沖縄ノート

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    復帰40周年記念読書。
    「沖縄」と「本土」の埋まることのない溝を認識しつつ、かつ自身が「本土」側に属していることを痛感しつつも、沖縄のふところに深く入り込んで、本土の人間なら見て見ぬふりをしたいであろう問題を真正面から見つめ続ける著者に脱帽。

    本書の中で大江は繰り返し問う、「日本人とは何か、このような日本人ではないところの日本人へと自分を変えることはできないか」と。
    沖縄(基地)関連のニュースが出るたびに、「傲慢だ、強欲だ、日本の癌だ」と沖縄を貶めたがる人たちがいる。あるいは積極的に罵倒こそしないが沖縄問題など自分には関係ないことだと思っている人たちがいる。彼らがすなわち大江の言う「このような日本人」である。

    集団自決裁判で問題とされた部分は最後の章にあるが、この記述を誹謗とするのは明らかに誤りであることがわかる(はじめに言っておくと、俺は教科書の「軍命」削除はやむなし、という立場)。
    本書全体を読めば、渡嘉敷島の守備隊長はあくまで「日本人」の象徴として取り上げられているのであることがわかるし、また、島民に自決を直接的に命令したかどうかは本書の文脈ではどうでもいいことだ。
    島民を救えず、結果的に自決に追い込んだ人間が、時間の経過とともに薄れゆくおのれの記憶を美化し、「英霊を弔う」などと称して島の慰霊祭に参加しようとするというメンタリティを大江は問題にしている(多くの元将兵たちが同様の思考様式を共有しているという推測付きで)。
    それを理解しようとせず、個人への誹謗と決めつけて裁判を起こした弁護団もまた「そのような日本人」であったということか。

    右も左も本土の人間が大江のように真っ向から沖縄のことを考えてくれる日が来なければ、沖縄問題は終わらない。日本に明るい未来はない。沖縄が顧みられず今後も平行線をたどるなら、独立の2文字が頭をもたげないでもない。

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    2014年08月19日
  • 大江健三郎 作家自身を語る

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    ネタバレ

    初読。作品の時間軸に沿ってインタビューが構成されているが、作品そのものよりタイトル通り作家・大江健三郎さんについて知ることができる。話がどんどん多方面に伸びていき、大江さんの人生をたどることができる。いろんな箇所で涙をこらえながら読んだ。もう一度、すべての作品を最初から順番に読み直したいと切実に思った。大仕事ですが。

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    2014年08月18日
  • 懐かしい年への手紙

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     「万延元年のフットボール」に並ぶ、大江健三郎の代表作。自身を下敷きにしたとおぼしきKちゃんとギー兄さんを中心に展開される話に、繰り返されるダンテ、イェーツの引用とズレを伴う構成の繰り返しが波紋のような奥行きを与えている。傍点、太字、囲い文字、難読漢字、英文、伊文から旧かなに至るまで、視覚的にも効果的な表現技法が多用されており、ただただ圧倒される。
     ちなみに、私が買ったのはハードカバー(箱付き)初版だったが、「大きい【懐かしさ】に向かって」という大江氏へのインタビュー小冊子が付録としてついており、作者本人の意図が確認でき非常によかった。

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    2014年05月08日
  • キルプの軍団

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    あまり言及されることがないがとてもおもしろい。特に文学から文学をつくるという大江的手法が明示的に採られている。

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    2014年01月29日
  • 大江健三郎 作家自身を語る

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    インタビューの内容を、とても分かりやすい文体で書いてあるので、大江健三郎作品自体はとっつきにくいと思っている方にもオススメ。
    「この作品はこんな意図だったんだ」だとか、いろいろな発見があると思います。

    インタビューを実録したDVDも数年前に発売していますが、インタビュー自体はそのときのもの+直近のもの、です。
    DVDでは、独特の話し言葉で、かつ断片的な収録なので話の前後関係が分かりにくかった感がありますが、本当に同じインタビューかと思えるぐらい分かりやすく書籍化がしてあります。

    大江文学を読み解く上で、必須の一冊ではないでしょうか?

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    2014年01月18日
  • 新しい文学のために

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    非常に為になったと思う。じっくりと、非常に時間をかけて読み取って多くのことを読み取った。
    これから自分が一人の読み手/書き手としてどのような姿勢を持つべきなのか、どのようなものに着手するべきなのか、それを具体的に明示してくれていた。しかも、その内容が、示し方が、非常に納得の行くものであった。論理的に説き伏せられるのではない、感覚として実感を与えてくれるような言葉の力があったように感じる。
    異化するということ、そして想像力と言うこと...文学の中核を為す概念について、今まで自分がいかに無頓着であったかを初めて認識させられた。一冊一冊と、一人一人と、もっと真摯に向き合っていきたい。

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    2013年12月20日
  • 取り替え子

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    文体もそれほど込み入っておらず読みやすい。それにしても本多勝一(らしき人物)の攻撃の苛烈さ。後半はやはり大江文学らしいカーニバル性。

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    2013年09月25日
  • 同時代ゲーム

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     ある集落を追放された人々が、四国の山奥に小国家を創造した。外来者どうしの両親から生まれた「僕」が、双生児の妹へと向けて書簡の形式でしたためた、《村=国家=小宇宙》の神話と歴史のすべて。
     どの語がどの語にかかっているのかわかりづらい、英文を逐語訳したような独特の文章で綴られる、現代におけるあまたのエピソード。そのそれぞれが僕の記憶と結びついて《村=国家=小宇宙》の神話や歴史を語らせる……

     つまりは日本の中にあるもう一つの小国家の創建以降の伝承を語った物語。その意味で小説内において一つの国家を造りあげるような試みを作者は行なっている。それだけでも、まずはこの厖大な想像力に敬服する。
     また、場所・時間が複雑に交差し合うエピソード群を読み終えたのち見えてくる、歴史のパースペクティブが無意味なものとなるような《村=国家=小宇宙》の超越的な有り様は、新鮮な読書体験を提供してくれるだろう。

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    2013年08月27日
  • 空の怪物アグイー

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    ネタバレ

    「敬老週間」なんかは別として、「アグイー」なんかはもう少し読み込みたいと思っているのだけど、サルトル的空気から大江健三郎自身(というのはある種私の偏見かもしれないけれど)の、どんどんずれていっちゃうような、深刻なことを語りながらも同時に滑稽である状況を描いてしまう、彼の常に一瞬前を自省せずにはいられないような意識が書かせる文章が面白くて仕方ない。
    普通の人はシリアスな場面で同時並行して起こる滑稽な部分を削ぎ落として文章を書くのかもしれないけれど、この人はシリアスになればなるほど振り子は残酷を含んだ滑稽へも大きく揺れる。この調子が近年失われてしまっているのが私としてはすごく残念なところなのだけれど…

    と書いているうちに、大雨の中で「バスは行ってしまった!」と三人称で語るように喋ることで大爆笑したサルトルとその母のエピソードが私に焼け付くように残っていて、こういう人が私は大好きなんだ、というのを忘れていたのだけれど、サルトルもこういう側面があったんだったな…。

    にしても、これは三島由紀夫も既に言及しているし他の人も多く言及しているに違いないのだけれど、彼は動物を使った比喩を行う時に決定的な笑いのセンスを爆発させている。
    「アグイー」でのたいていのフルート奏者が貘に似てくるのは事実である」という箇所や、「犬の世界」での「かれはぼくに似ているかね?」「あなたを含めて人間の誰かに似ているというより、むしろイシガメに似ているわ。」のくだりや、「ぼくはますます腹立たしく、涙ぐましい気分になって寝室にひきあげると、あの愚鈍でグロテスクなイシガメのやつが! いや、自分はいらんです、などと陋劣なことをいって! とにせ弟を罵り睡眠薬を大量にのんで眠った」というところなんか、これらの作品を読んだとき私はたまたま気分が猛烈に落ち込んでいた時期だったのだけれど、「ぎゃはは」と下品な笑い声を風呂場で上げずにはいられなかったほど面白かった。
    「ブラジル風のポルトガル語」での、「かれのことを阿波人形の虐げられる百姓の頭に似ていると無遠慮な同級生が嘲弄したことがある。その時、かれは突然、日々の羞恥心にうらうちされた小心なふるまいのすべてに報復するとでもいうように、みんなの前でイスカの嘴みたいに捩れている葉を剥き出し内斜視の目で虚空をにらむとギャッ、と叫んでひっくりかえって見せた。それは虐げられた百姓のうちの最も虐げられる百姓の磔にされる断末魔を演技した訳だったが、それを見たものはひとしく動揺した」に至っては、この話を全く読んでいない家族に向かって私はどうしてもこの面白さを共有したくなって声にだして読み上げたほど。内容の過激さもあるのだけれど、この、文章のくせに文章らしからぬ推敲の抜き加減が、多分わざわざ読み上げたくさせる要因だと思う。「虐げられた百姓のうちの最も虐げられる百姓」なんて、奇妙なくどさがと過激さが、どうしても口にしてみたくさせるというか…。
    引用ばっかりですみません。

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    2013年08月23日
  • 懐かしい年への手紙

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    ネタバレ

    年代はめちゃめちゃに読み進めている状態なのだけれど、「木から下りん人・隠遁者ギー」と、『燃え上がる…』の括弧付き「ギー兄さん」は知っていても、ギー兄さんとは誰か、というところがすっぱぬけていたので、やっと少し穴が埋まったような気がする、と同時に、ようやく最近読んだばかりの『ドン・キホーテ』前編によって『憂い顔の童子』の「憂い顔」の意味が分かったばかりで、今度はダンテか…(大体イエイツも読んでないし…)と以前挫折したダンテを遠く思うような。

    それにしてもこの『懐かしい年…』は私の最も好きな独特の言い回し、冒頭が一番読みにくい頃の大江健三郎の文章からは少し離れて来ているようだけれど、かといって『静かな生活』以降の女語りや読みやすい三人称の狭間にあるようで、600ページ程度あるのに、すらすらとても楽しく読め、何度も読んで石橋の強度を確かめうるような堅固らしい構造の中にありながら、それでいて逸脱していくような細部も非常に魅力的で、中でも近頃私が解しかねていた『感情教育』の作品、とりわけタイトルの意味について、ギー兄さんが「悪しき無邪気さから脱皮するという、たいていの男が結婚前にすましておかねばならず、成績はBであれCであええ単位をとっておかねばならぬ、感情教育(エデュカシオン・サンチマンタール)…」と説明してくれたことによって、なるほどとそういうことだったのかと膝を打ちつつ、『感情教育』から、さらに映画の『ポンヌフの恋人』を見つつ、私が読み取った「結局幾度か死んで行くことでしか生き延びて行けない我々」という思いに苦々しさを感じたが、しかしこのギー兄さんの、さらに続く「この悪しき無邪気さということは…(中略)でも、痛めつけられる無邪気なホラ吹きの方が、攻撃をかける海千山千の連中より魅力があるし、どんなにひどいめにあわされても、結局のところホラ吹きの方がいいめをみることになるのです。Kちゃんは、この無邪気さにおいて突進してゆくのでしょう。無邪気さから蒔いた種子に苦しむのでもあるでしょうが、むしろそれは作家として良い条件にもなりうるのじゃないでしょうか?たいていの作家が、いわば『無邪気さに呪われた者』です。」という言葉によって、幾度も手ひどい目にあいながら、そして一時的には「非常に静かな悲嘆」というものを語りながらも、その巻き返しは必ずやってくるエネルギー、老年になっても「跳ぶ(リーブ)」をやめられないでいるKにドン・キホーテを重ね合わせるのはもっともであると感じながら、生身の部分をさらけ出しながら生きて行く、ある人々にとっては、いつまでも治癒しない生々しい傷口をいちいち見せつけるられることに苛立ちを覚えずにはいられない、この小説で言う「ナイーブ」あるいは「ヴァルネラブル」さこそが、彼が私をずっと、彼を過去の人物として葬らせることを許させず、はらはらしながら今後の書き様(彼としては生き様とも言える)を見守らせるものなのである、生き生きとしたものであると痛感した。

    あとp462からの、『個人的な体験』に訂正を入れて行くところは衝撃的だった。もちろん彼ならば十分にありうるし、そこが彼の良さであり、だからこそ、あのような一時的ハッピーエンドが、「その時点のものとして」やはり消されてはならない、そのときの彼の選択である、のちにこのような訂正の可能性を示されるとしても、と強く思うし、このような感情は作家に対する「信頼」である。

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    2013年08月16日
  • 性的人間

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    生物が元来脈々と受け継いできたという意味で大いなる他力である性に自己実存を委ねることを、全て肯定できるかというと、突っかかるところがある

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    2013年08月14日
  • みずから我が涙をぬぐいたまう日

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    大江健三郎「みずから我が涙をぬぐいたまう日」

    なぜ今までこの作品を未読だったのか非常に悔やまれる!
    やはりこの時期の大江作品は神憑っている。
    物語の進行上かなり重大な新事実を、
    さも当たり前の事ででもあるかのように
    関係詞節内にさらっと入れる手法は、
    明らかにフォークナー、マルケスからの影響だろう

    2012-09-20 00:42:55 Twitterより

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    2013年06月16日
  • われらの狂気を生き延びる道を教えよ

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    ネタバレ

    単純に好みや自分へのフィット感の問題なのかもしれないけれど、個人的に「生きるために書かねばならぬ」という逼迫性が感じられる作家は少なくて、ある時期までの村上春樹もそうだったと思うのだけれど、もうここ10年以上彼は自分ではなく他者のために小説を書いていて、そういうのを成長と呼ぶのかもしれず、ある程度まで行ったら天井に手が届いてしまうものかと思ったけれど、大江健三郎を読むにつけ、彼程、スタイルはその時々によって変更されつつも、基本的には長きに渡って自分の為に書き続けている人は私の知る限り他にいない。やはり『燃え上がる…』のような、K伯父さんとして自分は三歩程度下がって他者に語らせるスタイルよりも、『取り替え子』のように田亀とぶつぶつ対話するような、「自分」(もちろん大江健三郎そのものとは言わないけれど、小説の中での、あるいは象徴的大江健三郎とでも言おうか)が直接コトに巻き込まれていくスタイルのほうがしっくりくる。
    なぜならば、彼は今も生きていて、自分の大切な人が死んでいったとしても、自分だけは何故だか死なずに生きていて、「自分」が消えないのだから生き続けるキツさは永遠につきまとって、自分の中に流れている音楽のようなものが、少しずつ、しかし執拗に変奏されながらも流れ続けているのはとても自然なことだ。

    極めて個人的な体験が、普遍的なものとなりうる、という、彼が29歳?の時に語った言葉に私はここ10年くらいずっと励まされているけれど、その言葉は彼自身をも長く支えていると思う。とても長く。
    そして『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』という壮大なタイトルのこの本、一体どういう内容なのかと思ったけれど、感触としては一番、彼流に言うならばもっとも「猛然」としていると私には感じられた。『同時代ゲーム』や『新しい人よ目覚めよ』から遡った形での読書になったけれど、それらほど冷静でもなく(といっても…というかんじだけど笑)、『個人的な体験』や『叫び声』の頃程、まとめきらねばならぬ、という小説的配慮にとらわれている感じも薄く、かといってその二つの間の転換期というような迷いもなく、なんかもう必死に、猛然と憤然と書かれている感じが、生々しく、今の私にもっともぴったり来た。

    ところでわれわれは直截に他人のために書くことなんてできるのだろうか?

    以下はメモ。

    「あまりにも根源的にわれわれを急襲する認識は、まずわれわれの存在の根に直接突き刺さり、それからやっと意識の表層にコダマを返してくる。そしてその時われわれの意識は自分がかつてその衝撃を経験したことがある、というニセの感覚を持つのである。」p.298

    あるいはその「認識」はあまりにもしっくり来すぎるが故に「発見」という形を取らないのではないだろうか。この文の前に「沈んだボールが水面に戻るように浮かび上がって来ていなかったのだ」とあるけれど、ボールはもともとあって、それがその「認識」をきっかけとして浮上してくるような…。

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    2013年05月28日
  • 憂い顔の童子

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    ネタバレ

    大江健三郎の初期は別に好きじゃないんだけど中期以降を読んで行くのが最近の唯一楽しいことといってもよくて、彼の何が好きかという理由の一つに、あの連綿としたいつ終わるともつかないかんじというのがあるのだけど、展開や終わりを殆ど気にしないで、その1ページ1ページが面白く読める。だからきっと何度でも読める。少し前まで彼の作品をいつか読み終えてしまう日が来るのを怖いと感じていたけど、ほとんど終わりなく読める、ブレイクを読んで、ドン・キホーテを読んで、また戻ってくることも出来る。こんな「森」を作り出せるなんて、魔術。

    しかしながら通して読んでみて、はっきりと続きを予感させる終わり方の部分を読み終わって、理解が追いつかなくて頭が混乱していると同時に、他の作品でも幾度も語られていた、ウグイのエピソード、頭をがっきと捉えられ、その後に大きな力で一度突っ込まれ、引きずり出されるあのエピソード…、母親が居なくなった今、本人はこの小説の中では使っていないけれど、リーブと呼ばれる「跳ぶ」に近い行為の後、しかしウグイの時のように救助してくれるもののいなくなった今、自らの力で再び生きようとする展開に、私には気持ち的に追いつかなかった。
    「当たり前だ、彼でさえ、ここまで来るのにどれくらいかかったと思う?」と思ってみても、それでも置き去りにされた気持ちが拭えない。
    文章が悪いとかそういう話ではなくて…。どんどん私から彼がはがれていくような、どこへ行ってしまうの、と声に出したくても最早届かないくらい遠く後ろ姿だけ見せつけられるような、だからこそ今後の私が幾度読み返すことになるか分からないだけの力の差、文章力というのもそうだけどそれのみならず、彼のいる地点と私のいる場所の差というか…。読み込んで理解されるというのみでは埋まらないような差に、猛烈に疲れてしまった。こんなことで『水死』まで至れるのだろうか。

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    2013年05月21日