大江健三郎のレビュー一覧
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第二次世界大戦末期、現在の少年院にあたる「感化院」の少年たちはある僻村へ集団疎開させられる。しかし到着直後に疎開先で疫病が流行り始め、村人たちは村外へ避難し、感化院の少年たちを置いて村を隔離してしまう。山村に監禁された少年たちを襲う不安と恐怖、しかし彼らは健気にも自分たちの「自由の王国」を創り上げようとする。だが狩りの成功を祝す祭りの後に少女が発症し、彼らは再び恐怖の底へと突き落とされる。そして村人たちの帰村により、その恐怖は絶望へと変わる…。ノーベル文学賞作家・大江健三郎のデビュー1年後に発表された初の長編小説。
著者の作品は初めて読んだが、圧倒的な表現力に驚かされた。力強く緻密な情景描写が多い。
健気に逞しく少年たちが築いていく自由の王国は、常に脆さと危うさを孕んでいる。少年たちだけでの持続的自活などできるはずがなく、刹那的な成功に酔いしれるばかりである。しかし彼らは初めて「自由」を手に入れた。悲しくも、それは「本物の自由」ではない。狭い世界しか知らず、その世界でも疎まれ虐げられ続けてきた少年たちにとって、手に入れることのできる幸せはそれが限界だったように思う。
登場する大人たちは無情で、自分勝手な都合を少年たちに押しつけてくる。だがこれを読者として読んでいる自分はこの大人たちと違うと言い切れるのか。全てにおいて弱い立場に立たされる者たちの悲哀と刹那の自由、そして終焉が描かれたこの小説から、私は大人としてのずるさも身につけてしまった自分の姿を見てしまった気がした。 -
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「性的人間」
フリーセックス思想の限界に触れて
彼はテロリストになった
すなわち痴漢である
加虐者であり、被虐者である彼は
同時にあきらかな敗北主義者でもあったが
たのもしい2人の痴漢仲間とともに
めくるめく性倒錯の世界を切り開いてゆくのだった
その終わりには何があるというのだろう?
本当にろくでもない
「セブンティーン」
ナショナリズム・パトリオティズムに対しては誰もが恐れと羨望を感じ
とりあえず悪と決めつけるしかない
そんな時代
与えられた自由よりも、あえて選び取った束縛に
身を投じることでしか反抗期を得られなかった少年の
悲しみと恍惚を描いた物語である
二律背反が彼を果てしのない狂熱へと導く
しかし本当に彼は彼の意志でそれを選び取ったのだろうか?
「共同生活」
入社するなり閑職に追いやられた若いサラリーマンが
自宅にては妄想に苦しめられている
その妄想とは、4匹の猿たちが四六時中見張っているというもので
若者は、彼らに対する恐れと共に
ある種の仲間意識を感じている
それはミソジニーと、性欲を恥じる心が呼び寄せた
ホモソーシャルだったのかもしれない -
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今期,大学の非常勤でテッサ・モーリス=スズキの『日本を再発明する』を教科書として使っている。今回はとてもいい選択だったと思う。とても授業がやりやすいし,学生の反応もまずまず。もちろん,理解が浅い部分もあるが,そのくらいの難しさを兼ね備えているところも理想的。
ということで,レポートのテーマとして「日本論・日本人論・日本文化論を読む」という課題を設定した。この件については,西川長夫『地球時代の民族=文化理論』を読んだ時にも,主要な日本論については読んでおかなくてはと思ったが,今回そのいくつかをレポートの課題図書として設定することで自らも読むことにした。
まず,読み始めたのがこちら。ノーベル文学賞を受賞したときの公演が書名となっているように,1994年の受賞前後の公演の内容を収録したもの。岩波新書の一冊です。
あいまいな日本の私(1994年12月,ストックホルム・ノーベル賞授賞式)
癒される者(1994年10月,東京・国際医療フォーラム)
新しい光の音楽と深まりについて(1994年10月,東京・サントリーホール)
「家族のきずな」の両義性(1994年11月,東京・上智大学)
井伏さんの祈りとリアリズム(1994年11月,広島)
日米の新しい文化関係のために(1992年5月,シカゴ大学)
北欧で日本文化を語る(1992年10月,北欧諸国)
回路を閉じた日本人ではなく(1993年5月,ニューヨーク)
世界文学は日本文学たりうるか?(1994年10月,京都・国際日本文化研究センター)
こうして目次を見ると,公演がかなり多いことに驚きます。ノーベル賞を受賞するくらいの作家になると公演も主な収入源になるんですかね。大江健三郎の作品はきちんと読んだことがない。以前,母の家に泊まった時に,暇を持て余して書棚にあった日本文学全集の大江の巻をちょっと読んだが,非常に驚いて,今度改めて読もうと思った以来,岩波現代選書の『小説の方法』は読んだが,小説作品には手を出せていない。しかも,『小説の方法』を読んで,彼がミラン・クンデラやバフチンを読んでいることを知って,やはりノーベル賞を受賞するくらいだから,日本の小説家としては珍しく批評もしっかりしている人だという認識は持っていた。
目次からも分かるが,講演先でその場にあったテーマを選んで素晴らしい話をしている。しかし,ノーベル賞受賞が決まってからはあまりにも頻繁に公演があったので,やはり内容が重複しているのは仕方がない。また,彼には障害を持つ息子さんがいて,そのこと自体を作品に書いているということは知っていたが,その息子さんが音楽家としてCDも出しているという話は初めて知って,しかもその話をいろんなところでしているということだ。
まあともかく,大江健三郎という作家は国内外にさまざまな目を向けている世界的視野に立った人であるということが再認識できる一冊です。一度きちんと彼の作品を読まなくてはと思いました。 -
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後にノーベル文学賞を受賞(1994年)した大江健三郎が、1963~1965年に雑誌「世界」で発表したエッセイをまとめたものである。
大江氏は、その期間に繰り返し広島を訪れ、多くの、20年を経てもある日突如として死の宣告を受ける被爆者たち、そうした被爆者に対して献身的に治療に当たる医師たちと話をし、戦争の悲惨さと人間の威厳を訴えるメッセージとして本作品を著している。
私にとって強く印象に残ったのは、“人間の威厳”として、「広島で生きつづける人びとが、あの人間の悲惨の極みについて沈黙し、それを忘れ去るかわりに、それについて語り、研究し、記録しようとしていること、これはじつに異常な努力による重い行為である。そのために、かれらが克服しなければならぬ、嫌悪感をはじめとするすべての感情の総量すら、広島の外部の人間はそれを十分におしはかることはできない。広島を忘れ、広島について沈黙する唯一の権利をもつ人たちが、逆にあえてそれを語ろうとし、研究しようとし記録しようとしているのである」と語っている部分である。
2015年のノーベル文学賞を受賞したスベトラーナ・アレクシエービッチも、『チェルノブイリの祈り』の中で、被災者が原発事故について話すようになり、自らがそれを消化し、作品にするまでに10年を要したと語っているが、人間はあまりに悲惨な体験をすると、本能的にそれを忘れようとするものだが、それを乗り越えることにより、“人間の尊厳”が維持されるものなのであろう。
原爆の、直接的な被害に留まらない悲惨さと、そこから我々が何を学び取らなければいけないのかを、現在にも伝える作品である。
丸木位里/丸木俊夫妻による画集『ピカドン』から取られた挿絵も衝撃的なものである。
(2005年5月了) -
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まつろわぬ人・大江健三郎が
地元に語り継がれてきたとされる(ホントかな?)伝承を
モデルとして書いた小説作品
具体的な地名は伏せられていたり変更されていたりして
いちおう創作のスタンスを保っているが
もろもろから察するに
宇和島藩の城下町を追放となったならず者たちが
宇和海賊の娘から船を借り
佐田岬半島を迂回して肱川河口からさかのぼっていって
新天地を発見するといった筋書きだろう
ならず者のリーダーは「壊す人」と呼ばれ
神がかり的な力を発揮する
また
村の創建者たちが「故郷でありふれた人生を送っている自分」を
夢に見ながら消滅するというエピソードには
アナザーワールドの可能性も感じられるのだった
やがていろいろあって、なし崩し的に
外の世界と併合されてしまった村は「二重戸籍」のからくりによる
税金のごまかしが露見したことを発端に、大日本帝国との
全面戦争へ突入する
Mとはメイトリアークの頭文字で、母なる存在を意味し
Tはトリックスターを示している
「森のフシギ」は、森にさまざまな怪現象をひきおこす謎の存在
それはときおり音というかたちで顕現し
最終的には
新時代のトリックスター・語り手の息子(大江光)によって
音楽へと昇華される
まあ、大江が我が子を不憫に思う気持ちは伝わってくるのだけど
オウムと少年Aの時代を経て
ふたたび検証されるべきところはあるだろう -
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もうお腹いっぱい。
大江健三郎さんの短編が23編収録されています。
文庫で840ページだから、まるでレンガみたいな厚さ。
デビュー作「奇妙な仕事」から「空の怪物アグイー」まで初期短篇8編は愉しむことができました。
緊密な文体で独特の緊張感が漂っていて、読む方も気が抜けません。
芥川賞受賞作の「飼育」も好きですが、私は「セブンティーン」に結構な衝撃を受けました。
正視に耐えないグロテスクな心情と鬱屈を抱え、学校に居場所のない17歳の「おれ」が、右翼の大物に認められたことで急速に右傾化していく様子を描いた作品です。
これは今、「ネトウヨ」と呼ばれる人たちにも重なるのではないかと思いました。
右翼的な勇ましい言動をすることで不甲斐ない自分を慰撫する傾向が「ネトウヨ」と呼ばれる人たちに強いのは、各方面の識者から指摘されているところです。
「セブンティーン」は1961年の作品。
先見の明があると云えるのではないでしょうか。
中期以降の「『雨の木』を聴く女たち」などの短編は、すみません、頭の悪い私にはちょっとついていけませんでした。
アカデミック臭もかなりして、「これはどういう意味なのか」「もしかしたら、こんなふうに解釈すべきなのでは」などとあれこれ考えて、遅々として読書が進まないということも何度かありました。
でも、池澤夏樹さんも云っていましたが、読んでいてこれだけ大変なのですから、書く方はもっと大変に違いありません。
池澤さんといえば、大江さんの「家族ゲーム」に強い影響を受けたそう。
この機会に本作も読んでみたいとぞ思ふ。
なんかレビューになってないですね。 -
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ネタバレ"上下巻合わせての感想です。
ある少年(育男)と少女(踊り子(ダンサー))が、奇妙で劇的な出会いをする場面から始まる。その場に居合わせた国際的に活動する画家木津と、少年と少女の3人が15年後に再会し、踊り子(ダンサー)がある教団の指導者(師匠(パトロン)と案内人(ガイド))の住み込みの秘書をしていたことから、木津と育男はその教団に関わることになる。その教団は、十年前、急進派による無差別テロ計画の実行を阻止するために、師匠(パトロン)がテレビで「すべては冗談でした」と棄教を宣言し、活動を停止していた。案内人(ガイド)が元急進派に殺されたことから、物語は教団の活動再開へと急展開する。。。
旧約聖書のヨナ書が大きなモチーフとなっている。ヨナ書では、結局神は異教徒の都市ニネベを滅ぼさず、ヨナもそれに納得するように書かれているが、「宙返り」の育男はそれに疑問を感じている。ヨナ書には続きがあるのではないか?神に納得しなかったヨナの行動を考えたい。。。
主要な登場人物の木津が画家であり、ヨナの絵の描写など、芸術的、特に絵画的な感じがする。最初の出会い、ニューヨークの雪の場面、新幹線の車窓、最後の桜など、印象に残る絵画的、映像的なシーンは多い。
木津、師匠(パトロン)、案内人(ガイド)、踊り子(ダンサー)、育男、荻青年(普通の青年の役割?)を中心として、他にも、心に傷を負い、様々な個性を持った人物が登場し、主に信仰について語りあう。それぞれがとても饒舌。
師匠(パトロン)と案内人(ガイド)、木津と育男2組の相棒関係(この表現は妥当でないかもしれないが)もインパクトがある。
私はこの本を読んでいくうち、特に木津と師匠(パトロン)とたくさん話したような感覚で、結末がとても悲しかった。
この本は、1999年に刊行された。さすがは大江さん、「1Q84」よりも「教団X」よりも誰よりも早くあの教団をモチーフにした小説を書きあげたのです。 -
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大江健三郎著。詩を書くために痴漢を行う少年と性倒錯した主人公達「性的人間」、劣等感の塊である少年が右翼思想に目覚める「セヴンティーン」、部屋で謎の猿達との生活を送る「共同生活」の三篇収録。
性的人間:前半の乱交をする人物達の話はさほどインパクトがなかったが、後半の痴漢の話はすさまじいものがあった。そもそも詩と痴漢が結びつくことが驚きだし、それを深く見つめて実存的問題にまで繋ぎ、振り切るようなエネルギーでラストシーンを描いている。痴漢について、単に表面的なグロテスクな部分だけでなく、哲学的に描けるのは大江健三郎だけだろう。長編小説を読んだような密度だった。
セヴンティーン:まず、大江健三郎がここまで乱暴な語り口の主観視点で語っている小説を見たことがなかったので、新鮮だった。ただ、やはり文体が特徴的なのでリアリティーには欠ける。しかし、とにかく語り口に異様な熱がこもっているので、ついつい引き込まれてしまった。
共同生活:前の二篇に比べて、性的な描写があまりないので、少し異色な感じがする。テーマや話のオチ自体はありきたりと言えばありきたりだが、正体不明の虫が湧くシーンは気持ち悪くてインパクトがあった。猿という暗喩的存在や会社での主人公の立場などから、何となく安部公房の短編にありそうだなと思った。 -
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・大江健三郎「大江健三郎自選短篇」(岩波文庫)を 読んだ。帯に「全収録作品に加筆修訂が施された大江短篇の最終形」とある。本書収録の23編に関しては、以前の「全作品」や「全集」ではなく、これが最終形、もしかしたら定本になるといふことであらう。それを意識して読んだと書いたところで、私にはそれ以前との違ひなど分かりやうはずがない。ただ、かうして初期から最近の作品まで通して読むと、大江の変貌の具合と文体の推移、つまり読みにくくなつていく過程がよく分かる。私が大江を読み始めた時、既にかなりの作品が文庫になつてゐた。それらは初期の作品であつたはずだが、それゆゑにそんなに読みにくいとは思はなかつた。もちろん初期の作品の文体からして大江である。かなり特徴的な言ひ回しがあつたりして、決して読み易い文体ではない。それでもまだましなのだと、本書から改めて思ひ知つた。「大江短篇の最終形」といふコピーに引かれたこともあるが、同時に、そんな文章の変化が、私にも感じられる形での変化が表れてゐるかといふ興味もあつた。結果は、最初から最後までやはり読み易くない、しかも後期、つまり最近の作品ほど読みにくいといふ、これまで私が感じてゐたことを再確認しただけであつた。
・しかしである。内容的には大きな改訂もあつたのである。これは自分で気づいたわけではない。『読売新聞』に「『大江健三郎』を作った短編…デビュー作など自選23編、文庫に」(14.09.28)といふ記事があつた。この中にかうある。「作品の根幹に関わる校正はない。ただ東大在学中の22歳の時、発表 した『奇妙な仕事』では、ある変わった仕事に携わる『僕』『私大生』『女子学生』の3人のうちの1人の設定を、『私大生』から『院生』に直した。」さうか、私大生とあるのに違和感を持つた覚えがあると思ひ出したものである。大江が直したのはもちろんこんな理由ではない。「『私大生』では、学生の『僕』 との違いが出てこない気がした。『院生』にすれば、知的な面や人生経験の違いが出てきますね」。あの現場での対応の違ひがこの改訂によりより鮮明になるとい ふことであらう。もしかしたらこれに関連する小さな改訂があるのかもしれない。手許には何種類ものテキストはないので私には知りやうがない。ただ、50年 以上前の作品にも手を入れて完璧を期さうとする執念(?)には感服するばかりである。万が一、他にもかういふ類の改訂があつたとしても私には気づけない。 たぶんそれで良いのである。読者にはそんな細部に気づくことは求められない。大筋が問題である。だから、「『空の怪物アグイー』の冒頭は、<ぼくは自分の 部屋に独りでいるとき、マンガ的だが黒い布で右眼にマスクをかけている>。以前の『海賊のように』の語を、『マンガ的だが』に入れ替えた。」などといふのにも気づかない。確かにこの方がよりふさはしさうではある。それに気づかずとも読める。分かつた気になれる。さうして「雨の木」連作あたりから読みにくさの度合が一気に強まるのを感じ、ここに至つて大江は日常生活の冒険から抜け出して新たな段階に至つたことを知るのである。それは文体だけでなく、内容、物語からも分かる。己が生活を核にして物語を作る、私はかういふのが嫌ひだから、その文体と相俟つてこの頃から大江嫌ひになつていつた。しかし、今もまだた まに大江を読んでゐる。これがノーベル賞作家の魅力か底力かと思ふのだが……。とまれ、個人的には、物議を醸しさうだが、「セヴンティーン」完全版(第1部、第2部)が読みたかつた。そんなことを考へながら時間をかけて本書をやつと読み終えた次第である。