大江健三郎のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
大江健三郎(1935-)初期の長編小説、1959年の作。
日常性という倦怠、鬱屈、閉塞、虚無。そこは、無限遠に縁取られた外部無き空虚。溢れているのは、その媒介性によってそれ自体が虚偽の手段であると同時に虚偽そのものになってしまった、言葉。
他者関係が、言葉=媒介という虚偽によって空転するしかない communication として、内的関係からの疎外でしか在り得ない、公的空間。実名の虚語と匿名の憎悪に塗れ、言葉が記号的虚偽以外では在り得ない、匿名空間。それに囲繞された私的空間に於いて、手足を捥がれた無限小の一点となる。それは、眼球であるか、口の虚空であるか、性器の虚点であるか。ベッドは、涸れかけた羊水のように、身体を縋りつかせて動かさない。部屋は、機能衰弱した子宮だ。そこでは、内向する圧力感覚で精神の呼気が詰まり、内破しそうになる。行為を躊躇い、無為にも悶える、膨れた胎児。
理性による無限の自己対象化――恰も合せ鏡の如き無間地獄――の果てに決して確かな自己像をつかみ得ない俺は、言葉や論理が切り取る断片化された世界になんら真実性を感じられなくなった俺は、自己を/世界を如何にして獲得したらよいのか。ロゴスが捕捉する自己/世界を虚偽として・欺瞞として・俗物的であるとして悉く峻拒せずにはいられない俺は・・。この自己意識の自己関係的機制であるロマン主義的アイロニーは、自己をあらゆる概念的規定「何者である」から超越可能な不定態とするしかない。自己は「何者でも在り得ない」という否定態でしか在り得ない、なぜなら「何者か」としての存在様態は欺瞞そのものである社会によって断片化された全体性の無残な残骸であるしかないから。
永遠に到来することがないと予め承知の上でなお待ち続ける以外にはない「何か」を待ち、待ち過ぎて、揚句にその不在の隣で爛れている――「何か」の不在という、縁の無い大きな穴としてしか表象し得ない、現実に於いて。そう、「待つ」ということ、そこで全てが分かるかのような。
その絶対的孤独の中で、醒めながらなお夢を視ようとする、夢を視るほど醒めていく。そして必然的に、目の前で縋りつけよとばかりに現れる夢は予め紛い物ばかりである。非合理(神秘・狂気・・・ i.e. 忘我)への陶酔・没入・合一か、過去の戦争への郷愁に暮れるか、革命運動へコミットするか、民族ないし国家に自己を同一化するか、性愛へ耽溺するか、資本主義が差し出す悦楽のカタログへの無抵抗か。それらが全て虚構でしか在り得ないことを予め承知の上で・・。爆弾を投げつけるに値するものすら存在しないのだ。全てが、その程度の虚構でしか在り得ないことを予め徹底的に思い知らされている現代という「われらの時代」。
かの自己意識に残された最後の道は、永続的な自己否定/世界否定の疾走か。或いは、自己からの/世界からの失踪。無限小点と化した自己と無限遠の空虚と化した世界との、一瞬間の逆転。世界の空虚に、無限小の自己を、充填、させるのだ。
"おれにとって唯一の《行動》が自殺だ!"
自殺とは、世界否定にって自己の絶対的超越性をそれ自体で明かしてしまう、自由の極点だ。「目的」という欺瞞性の頸木をも逃れている唯一の純粋な行動。不在の痕跡でしかない虚構の世界に於いて唯一可能な行動。しかし、その行動を果たすことすらなく、ただ生きていく・・・のかどうかは、分からない。 -
Posted by ブクログ
「性的人間」について
痴漢歴のある人に読んでもらって感想を聴きたい作品。
この痴漢嗜好はどこまでリアリティを持っているのか?
後半の詩人が最期に出した結論は何だったのか。
彼は嵐のような詩を書くために、自身が最大級の興奮を得られる痴漢を実現しようとしていた。
その結果彼が起こした行動は、幼女を誘拐した上で電車の迫る線路上に幼女を投げ出し、自分の生命と引き換えに幼女救出を自演することだった。
彼の行動は一見、痴漢とはかけ離れている。
救出された幼女の母親は言った。「あの人は神様です」。
つまり母親の本心におさわりしたかったと・・・?
・・・うん、わかんない。
「セヴンティーン」について
自分に自信の持てない17歳の青年が極右化していく話。
読んで得た教訓は「あんまり溜めこんじゃ駄目だな」ということ。
天皇が全ての行為の正当性を保証し、責任を右派以外の世界に転嫁することで、自分の行為にも自信を取り戻すことはできる。
ある意味、「責任をとる」というネガティブな活動を捨てた最も効率のよい自己実現ではある。
しかも他を威圧することで根拠は無くとも自信は手に入るし報酬(他を服従させる)もある。
だからますます深みにはまってしまう。
狂信的な宗教とか政治活動をする人たちの精神構造を垣間見た気がする(あくまでもフィクションだけど)。
あと、本当の自分を認めてくれたり、一緒にいてくれる人ってやっぱり重要なんだと思う。
誰か一人でも主人公を認めている人間がいたら、主人公は自信を回復でき、極右に傾倒することもなかったかもしれない。
でも、そのためには本当の自分を他人に知ってもらわなければならない。
主人公は世間に対して卑屈になり過ぎて、本当の自分を伝えることができなかった。
だからこそ「あんまり溜めこんじゃ駄目だな」と思った。
と、いいつつも、本音を世間にさらすことはやっぱり他人につけいられる隙を作り出すことに他ならないので、さらす人は選ばないと駄目だね。
「共同生活」について
(考え中) -
Posted by ブクログ
プロローグで、広島の人が「ヒロシマ」でひとくくりにされることの苦痛の吐露、そして、沈黙する権利がある、とのくだりを常に、心の片隅に置きながら読むべき本だろう。それを意識しないと、大江氏の感情の起伏の激しさに呑まれてしまうからだ。はっきり言って冷静さを欠いていると思う。
しかし、大江氏の優れているのは、たしかな耳と眼をもっていることである。大江氏の洞察は決して深くはない。しかし、事実を探り当て、拾い出し、ありままに記述する、たしかな耳と眼があることは信じられる。
今の時代の若い人には、歴史的、政治的な背景が分からないために、著者の悔しさは伝わりにくいかもしれない。けれども、原水爆禁止運動がたどっている悲劇的な状態を理解するためにも、分からない言葉や団体は、丁寧に調べながら、読むことをオススメする。 -
Posted by ブクログ
全体の構成がこれほど奇異な長編もなかなかないだろうけど、その中で章を追うごとに小説の中の常識・世界観・思想がずれて現実から全く掛け離れていく感覚がある。もともと始まりから常識とは微妙に違う位相にあるようで、それが他者の言葉を受け止める・投げ返すという構造に途中から変わるとまったく新しくもはや手に余るものになってしまった。
所々で(やたら)現れるカタカナで書かれた台詞(というか切実な叫び)は読みにくくて苛々するけれど、わざと読みにくい小説を読むような人間にはいいみたい。転換後の森・父はいい具合にたがが外れているし、作中の人物が驚いたときにあげるン!?といった書き方もなぜか"残る"。途中で茶々を入れる森・父を「ナンセンス!」と切り捨てる女子学生もかっこよかったし、自分の小説書くときにはそういうこと言わせてみたい。