大江健三郎のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
1967年発表、大江健三郎著。友人が死んだ主人公、アメリカから帰ってくる弟、障害児を生んだ主人公の妻。彼らは故郷である四国の村へ向かう。そこで弟の主導の元、スーパーへの略奪が起こり、万延元年の一揆をなぞるように、村全体を巻き込んだ暴動が始まる。
今まで読んだ著者の作品の中で一番面白かった。思想や人間心理や土着的な知識が混然となっていて、何だかラテンアメリカ小説に似た熱を感じる。
著者が本小説の前に書いた「個人的な体験」では少し荒さが目立った気がしたが(特にご都合主義的なラストシーン)、この小説ではそういった欠点がしっかり取り除かれている。序盤は確かに少し退屈だが、ストーリーが村に行き着くと、大食病の女、隠遁者ギー、スーパーマーケットの天皇、それに村の伝説など、興味深い要素が次々飛び出してくるため読んでいて飽きない。そしてその勢いを保ったまま最後には、弟の持っている破滅的思想があらわになり、村の伝説に関する種明かしもあり、主人公と妻が村から旅立つ爽やかなシーンで終わる。
時代を象徴した暗喩として解釈もできそうだし、神話的な美しさもあるし、大江健三郎的だとしか言いようのないオリジナリティ溢れる文体を楽しめるし、純粋にキャラクターや物語自体が面白い。総合的に見て、理想的な小説だと思う。 -
Posted by ブクログ
大江健三郎、著。精神病院から逃げ出した患者を探して町をさまよう「不満足」、新興宗教団体から脅される記者の心理的葛藤「スパルタ教育」、寝たきりの老人に現代社会は明るいと嘘をつくアルバイト「敬老週間」、原爆被害者の孤児を引き取った男の真意「アトミック・エイジの守護神」、生まれたばかりの障害児を殺した男が憑りつかれた赤ん坊の妄想「空の怪物アグイー」、突如消えた森林の奥の集落「ブラジル風ポルトガル語」、非行少年が住む世界「犬の世界」の七つの短編を収録。
長編「個人的な体験」や「万延元年のフットボール」を書く過渡期の短編集らしく、初期の作風から抜け出そうという工夫が感じられた。特に「敬老週間」「アトミック・エイジの守護神」ではショートショート的な分かりやすいオチが用意されていて意外だった。ただ大江健三郎にそういうものを期待していなかったので少し腑に落ちなかった。暴力にあふれているが衝撃的というより虚脱感のあるオチ、生物・無生物の境界を取り去ったような観念的な視点、鬼気迫る比喩、悪文と捉えられかねない奇妙な文章、それらがこの著者のオリジナリティーだろう。それを考えると「スパルタ教育」と「空の怪物アグイー」が抜きん出ている。同じストーリーで別の小説家が文章を書いても決してここまで奥深い解釈はできないだろう。 -
Posted by ブクログ
この本は好きだ。表紙がとてもキレイだったし。この写真のような表紙ではなくて、最初に出てた本は、もっと薄いブルーだった。
それから、アレンギンズバーグが出てくるとこ。
彼が若い男性の恋人と一緒にいるシーンがあったように記憶してる。昨晩やりすぎて疲れた顔をしてる、とか、そんな描写だったような。
大江健三郎は、すごい。原発のデモでも彼の存在感は大きかった。彼には、空想的な理想主義者みたいなところがあってバカにする人もいるけど、そういう理想主義者も必要なんだよ。
大江健三郎の本は、難しすぎて、誰も読まないし、オレも上手く読みこなせないし、村上春樹みたいな誰でも読める分かりやすい人気作家に比べれば、世界的な認知度も低く、スピーチもヘタクソで、ノーベル賞授賞式のここ1番のジョークも国際的にスベってたけど、ノーベル文学賞って、彼みたいに、売れないけどがんばってる人に送るべき賞だと思う。
彼の小説は、いつも新しい。
逆に、大江健三郎に比べれば、村上春樹なんて軽すぎるし時代遅れだ。
彼の好きだった物、たとえば、MD聞きながらジョギングするとか、アイヴィーファッションだとか、ビーチボーイズだとか、アメリカ文化への強烈な憧れ、だとか・・・そんなものは、とっくの昔に過ぎ去ってしまった。
今ではもう誰もMDなんかで音楽を聴かないし。
アイヴィーファッションもしない。
アメリカ文化に憧れたりもしない。
それに、村上春樹の原子力への言及は、あまりにも口先だけだった。
村上春樹の小説は、健三郎にとっての小説のような、人生そのものなのではなく、ただの仕事。
午前中に小説書いて、午後からジョギングしたり、水泳したり、ビールを飲んだり、音楽を聴いたり、趣味で翻訳したり。
そういうライフスタイルはオレも好きだし、彼の小説が世界各国の市場で売れたり、カフカ賞をとったりしたのは、うれしいことだし、彼のスピーチだって健三郎よりずっとうまいけど、流行作家以上ではない。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ読みかけて途中で挫折した大江健三郎の本が沢山ある。この本を最後まで読みきったということは、年をとってあらゆることに興味を持つようになり、多少とも読解力がついた証左である。
国語が極端に苦手な子供に少しでも分けてやりたい。
大江健三郎の作品は確かに読みづらい。私小説的であり、背景にあるものの説明は全くない。
この小説も水死という題名で終戦直後に亡くなった実父の謎をたどろうとしたのだが、早い時点で諦め、ウナイコという演劇女優や自分の周辺を取り巻く話が脈絡もなく、展開し、どうなることだろうと読み進めていくが、最後に衝撃的な事件が起きて、何とか小説的な幕引きとなる。
この分かりにくい、途中で投げ出したくなる小説を読みきったことで、もう一度作者の他の作品にも再挑戦してみようかと自分を奮い立たせる役には立ったのだろう。 -
Posted by ブクログ
大江健三郎(1935-)初期の長編小説、1959年の作。
日常性という倦怠、鬱屈、閉塞、虚無。そこは、無限遠に縁取られた外部無き空虚。溢れているのは、その媒介性によってそれ自体が虚偽の手段であると同時に虚偽そのものになってしまった、言葉。
他者関係が、言葉=媒介という虚偽によって空転するしかない communication として、内的関係からの疎外でしか在り得ない、公的空間。実名の虚語と匿名の憎悪に塗れ、言葉が記号的虚偽以外では在り得ない、匿名空間。それに囲繞された私的空間に於いて、手足を捥がれた無限小の一点となる。それは、眼球であるか、口の虚空であるか、性器の虚点であるか。ベッドは、涸れかけた羊水のように、身体を縋りつかせて動かさない。部屋は、機能衰弱した子宮だ。そこでは、内向する圧力感覚で精神の呼気が詰まり、内破しそうになる。行為を躊躇い、無為にも悶える、膨れた胎児。
理性による無限の自己対象化――恰も合せ鏡の如き無間地獄――の果てに決して確かな自己像をつかみ得ない俺は、言葉や論理が切り取る断片化された世界になんら真実性を感じられなくなった俺は、自己を/世界を如何にして獲得したらよいのか。ロゴスが捕捉する自己/世界を虚偽として・欺瞞として・俗物的であるとして悉く峻拒せずにはいられない俺は・・。この自己意識の自己関係的機制であるロマン主義的アイロニーは、自己をあらゆる概念的規定「何者である」から超越可能な不定態とするしかない。自己は「何者でも在り得ない」という否定態でしか在り得ない、なぜなら「何者か」としての存在様態は欺瞞そのものである社会によって断片化された全体性の無残な残骸であるしかないから。
永遠に到来することがないと予め承知の上でなお待ち続ける以外にはない「何か」を待ち、待ち過ぎて、揚句にその不在の隣で爛れている――「何か」の不在という、縁の無い大きな穴としてしか表象し得ない、現実に於いて。そう、「待つ」ということ、そこで全てが分かるかのような。
その絶対的孤独の中で、醒めながらなお夢を視ようとする、夢を視るほど醒めていく。そして必然的に、目の前で縋りつけよとばかりに現れる夢は予め紛い物ばかりである。非合理(神秘・狂気・・・ i.e. 忘我)への陶酔・没入・合一か、過去の戦争への郷愁に暮れるか、革命運動へコミットするか、民族ないし国家に自己を同一化するか、性愛へ耽溺するか、資本主義が差し出す悦楽のカタログへの無抵抗か。それらが全て虚構でしか在り得ないことを予め承知の上で・・。爆弾を投げつけるに値するものすら存在しないのだ。全てが、その程度の虚構でしか在り得ないことを予め徹底的に思い知らされている現代という「われらの時代」。
かの自己意識に残された最後の道は、永続的な自己否定/世界否定の疾走か。或いは、自己からの/世界からの失踪。無限小点と化した自己と無限遠の空虚と化した世界との、一瞬間の逆転。世界の空虚に、無限小の自己を、充填、させるのだ。
"おれにとって唯一の《行動》が自殺だ!"
自殺とは、世界否定にって自己の絶対的超越性をそれ自体で明かしてしまう、自由の極点だ。「目的」という欺瞞性の頸木をも逃れている唯一の純粋な行動。不在の痕跡でしかない虚構の世界に於いて唯一可能な行動。しかし、その行動を果たすことすらなく、ただ生きていく・・・のかどうかは、分からない。