大江健三郎のレビュー一覧
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まったくもって好みである。これは性癖の告白だといっても間違ってはいない。そこに羞恥心はなく、むしろ堂々と胸を張った自分がいる。
どういったジャンルなのかと聞かれても答えようがない。どうしてこんなにも変態的な性的描写をするのだろう。書かなくてもいいのにと思うのだけど、読後なぜか耳鳴りのような余韻が残り、その響きに共鳴してしまっている自分がいて、喜びを感じ感動し、さらには感謝さえしている。
芸術としての文学に改めて感動させてもらった。
一度読んだが自分にはあわず、十数年間読まずにいた本。ちょっとした敬遠もあった。なのにずっと手元に置いてあった。すべてはタイミングなんだと改めて思った。 -
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数年前、引越しの際に持っていく本を選別した。千冊ほどの中から百冊ほどに絞った。その選考基準は、再読するかどうか、あるいは再読したいと思うかを基準とした“再読指数”によるものだった。その基準を突破した本の中に、大江健三郎の作品があった。中古で買ったものばかりだった。
「飼育」を読んだことがあったが、よく分からず、冷たくて薄暗い空間で過ごした時間のような感覚だけが残った。ただなんとなく、いつか読むような気がして、数冊の積読本を持ってきた。そして最初に読んだのが「性的人間」だった。
表題作のほかに「セブンティーン」「共同生活」が収められている。読み始めはなかなか文章を捉えられず、集中が途切れたが、数ページ読み進むにつれ思わず「ノーベル賞作家、すごいな!」と口にした。
続けざまに大江健三郎の作品を読もうと思ったが、贔屓的な感情が生まれるかもしれないと思い、別の作家の作品を間に挟みつつ読み進めた。次に読んだのが「人生の親戚」。これは間違いなく素晴らしい作品だった。好きな作家である村上春樹と通じるものを感じた。そしてまた別の作家を挟んでから、三冊目として「個人的な体験」を読んだ。
読み終えて、沢山のメモを見返しても、完走など書けない。いや… 感想を書ける話ではない。
あくまでも"個人的な"なのです。 -
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ありのままの姿、自己を表現したときに、それが受け入れられるものでありたいと願い、孤独を拒否し容認せず、繋がりを求めて、安心をえたい。
けどそれは不安をともない、だから自己欺瞞する。そこには葛藤とフラストレーションが生まれる。その度数が高ければ、それを満たすための仮の表現方法も過激になり、また閉じ込めれば神経症になったりもするのでしょう。だからといって、それは社会では容認されることではなく、阻害されることにもなり、孤立をうむことにもなる。
やはり思うのが、そこにはもって生まれた特質、性質を理解したうえで社会に自己を投企する為の技術が必要であるということである。未知であるが故に不安が付き纏うのは当然であり、ただたんに、その人の感性、感度、解像度によりレベル指数が違うことだとも思う。
生き方というものが技術ようするとしたら、そこには器用さが影響してくると思う。愛することが技術であるように。 -
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深い孤独感や戦争の影響、死の意味が何であるかを読者に強く投げかけてくる作品。
言葉遣いは美しいものの、内容が重たく読みにくく、詠み終わったあとも憂鬱な気持ちになる。
簡単には、人にオススメできない作品となっている。
【主人公の孤独と隔たり】
本作の主人公たちは他者との間に大きな隔たりを抱えており、その孤独感が物語の根底に流れています。主人公の内面的な葛藤や感情の複雑さが際立っています。
【主人公の内的葛藤】
主人公は、死体を「物」として扱う一方で、死を意識の面で捉えようとします。仕事を終えた後の快楽的な感覚と、他者からの軽蔑を感じることで生じる苦悩が対照的に描かれています。この葛藤が、彼の生きることの意味や人間関係の難しさを際立たせています。
【生々しい表現方法】
死や戦争を想起させる生々しく、どろどろとした表現が多彩であり、これによって読者は強い印象を受けます。特に、主人公がホルマリン漬けの死体を扱う過程での描写は、死の物質的な側面と意識の対比を浮き彫りにしています。
【戦前・戦後の閉塞感】
物語には、戦前や戦後の閉塞感が色濃く反映されており、特に戦争の影響が人々の生活にどのように浸透しているかが描かれています。主人公たちが感じる戦争の現実は、彼らの日常において遠くの出来事でありつつも、無視できない存在感を持っています。
【村の生活と戦争の影響】
「飼育」では、村での生活が描かれ、戦争が村の若者たちに与える影響が表現されています。村の子供たちにとって、戦争は遠い出来事であり、敵兵を捕虜とすることも「獲物」としての興奮を伴う体験に過ぎないという冷徹な視点が示されています。
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ネタバレ脳瘤がある息子と向き合えず、アルコールとセックスに溺れて現実逃避する男という、まあ近現代文学あるあるな内容にそっか〜なんて思いながら読んでたんだけど終盤に全部持ってかれて今割りと呆然としている。
こういうストーリーで近現代といったらめっちゃ辛いラストになっちゃうんだろうなとか疑った私が大馬鹿だった。
ウルトラハッピーエンディングを掴み取って譲らない大江健三郎が凄すぎてちょっと泣いてしまった。
これ、本当に1960年代に書かれた小説なのか??????????
正直読んでてうげえってなるところもあるのは確かだが(現実逃避をする男のために尻の穴まで捧げちゃう女友達が本当にわからない。どういうこと?????)、ラストで全部報われた。
障害者が大量に殺害される現実を生きているからこそ、余計に揺さぶられるものがあった。
ラストに関して大批判してる奴大多数なんだけどマジでうるせえ〜〜〜〜!!!!!!!と声を大にして言いたい。
作品の質を高めるために弱者(この作品でいうと脳瘤を持った息子)を殺さないから良いんだろうが!?!?!?!?!?!?!?!?
Wikipediaに書いてある三島由紀夫の評論とか読んだけど意味がわからなさすぎて逆に笑った。ウルトラハッピーエンディングの!!!!!どこが悪いんだよ!!!!!!!!!!!!!! -
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鳥(ばーど)の成長(といっていいのだろうか)の記録みたいな小説。登場人物である鳥は大江自身だと思われるが、あとがきによると小説内で共通しているのは障害をもった赤ん坊を持ったという点のみだそうだ。正直なところ初期作品のような緊張感のあるじめっとした感じの筆致が重苦しい。
なにより不憫なのは火見子じゃないかと思う。p.291では火見子の後ろ姿を見て最良の教育を受けたがそれを生かせず子供を持ちそうにない彼女に憐憫を感じたとあるが、そう思ってもこの時点で鳥は彼女を利用し自分のために行動していた。最終的には鳥は父親として子供の人生を請け負うと決めたが、その時の彼女の心境は…。彼女の救いはどこにあるだろうかと考えてしまった。
自選短編の中期のような作風のほうが個人的には好みです。作家自身の転換期となったこの作品(そして障害児をもつ子供を授かったということも)は読んでおきたい、そういう思いでこの小説を読んだ。 -
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大江健三郎作品はいくつか読んだことがある。だが何故か『万延元年のフットボール』だけは何度も挫折している。
毎回200ページに届かないあたりで止めてしまっていた。
そんな『万延元年のフットボール』をやっと最後まで読み切った。
淀んでドロドロした原液を飲み込むような密度が濃い読書体験だったせいか、目眩がするようだったし、とても疲れた……笑
1回読んだだけじゃ到底理解出来ない。だが、これが最高傑作と言われるのも頷けた。
どこに向かっているのかわからないが、描かれる事象の数々は現実の出来事とぼんやりと結びつくようだった。だがそれを考えれば考えるほどわからなくなる。
自分は基本的にわかるとかわからないってことはそんなに重要視してない。わからないからこそ面白い作品も大いにある。だが『万延元年のフットボール』はその解釈を探してしまうような作品だった
再読するのには勇気がいるが、いずれまた読みたい。 -
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読み終わるのに長い時間がかかりました。この本を手に取ったきっかけは『個人的な体験』や『万延元年のフットボール』という代表作を読んでみたいという思いがあったのですが、初期のものから(そして短編ならば)読めば、それらの作品に入りやすくなるのかもしれない?という風に勝手に感じたからです。
構成としては初期、中期、後期と分かれていて初期と中期がほとんどを占めていた。初期はデビュー作を始め芥川賞の『飼育』などが収録。どれもなんか緊張感のあるねっとりしたような暗い話が多かった。ところが中期作品になるとそういった緊張感みたいなものはなく、ドキュメント風?自伝小説?みたいになっていた。有名な作品や詩を引用する場面も多く難解な部分もあった。
イーヨー(息子さんがモデル)との会話にはほっこりさせられたり、中期は初期にない暖かさもあるように感じた。
私と書かれる人物はおそらく大江氏自身なんだろうけど、怒っている場面ではねちっこい感じで長々と描写しているのが面白くもあった。 -
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「ピカは人が落さにゃ落ちてこん」
1945年に世界で初めて広島と長崎に原子爆弾が投下されて20年後、1965年に本著は出版されました。
原水爆禁止世界大会や被爆者への取材から、克明に描かれた当時の様子。
それは決して、学校の授業では学べないような凄惨な内容でした。
本著を読みながら、今は亡き祖父のことを思い出しました。
生前の祖父は新聞の『読者の声』の欄に、戦争を反対する旨の内容を投稿し掲載されていました。
その当時は僕もまだまだ子供で、『じいちゃん、また戦争の話してるなー』くらいにしか思っていませんでしたが、今になって思うと色々と聞いてみたかったなぁと思うようになりました。
それだけ大人になったということですかね。
今年、終戦から79年が経ちました。
いまだに世界中では戦争が続いている地域があります。
どうか、この憎しみを憎しみで洗い流すような、人類の負の遺産に終わりが来ますように。
そして、どうか原子爆弾という人類最悪の悪手に対して、抑止力なんていう程のいい言葉に踊らされる国がなくなりますように。
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広島の悲劇は過去のものではない。
一九六三年夏、現地を訪れた著者の見たものは、十数年後のある日突如として死の宣告をうける被爆者たちの“悲惨と威厳”に満ちた姿であり医師たちの献身であった。
著者と広島とのかかわりは深まり、その報告は人々の胸を打つ。
平和の思想の人間的基盤を明らかにし、現代という時代に対決する告発の書。 -
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テロリズムに興味はあるか?
淡々として読みやすい文章の過渡期。『取り替え子』よりも読みやすい。
この小説で私が興味を覚えるのは、長江古義人とその家族のこと。長江家の経済的事情もつまびらかにされる。長江のなかの若いところのあるやつ。といふ描写も惹かれる。
一方で、建築家・椿繁の画策する、破壊する建築テロリズムには惹かれない。ジュネーヴとのテロリズム計画は、いささか北軽井沢で完結しすぎてあっさりしてゐる。
もちろん、その合間にたびたび登場する三島由紀夫との因縁は「セヴンティーン」しかり、北杜夫に宛てた大江の自殺未遂を訊ねる手紙しかり、興味深いものだ。
やはりメインは死への観念を書いたところではなからうか。椿繁が車を飛ばしての悟る死。「僕が本当に若かったころ」を思ひださせる。 -
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一種通俗的な物語
ショッキングと希望がなひまぜになって、冒頭からおよそ言葉の洪水の暴力がなだれこんでくる。自殺した友人のイメージがショッキングで、同時に惹きつけられる。
四国の山奥を卑下して大丈夫なのかと思ったほどだが、ある種普遍的な話だ。神話とからめて語る人が多いが、むしろ昔の一揆との連続性を蘇らせる現代の騒動を描いたもの。鷹四のやうな人間も、いくぶん誇張されてゐるとはいへ、ゐないわけではない。蓮實重彦や小川榮太郎が書いてゐたが、部分的には通俗的でもある。
やはり一種難儀なのはながながしい主人公の独白で、興味の持続を断念するひとも多いはず。動物や自然を用ゐた比喩や、川流れのエピソードから、大江の子供の頃の実体験が混じってゐるとわかる。
しかし、個人的にはこのやうなフィクションめいたものよりも、中期後期以降の大江の、個人的な話題のほうが個人的な私は惹かれる。「静かな生活」や「河馬に噛まれる」などである。大量の独白は実在感を得ない。 -
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おじいちゃんの書斎からくすねてきた。私がずっと聴いてきた國光の音楽と、おじいちゃんが色んな本を読んで考えてきたことが繋がるような気持ちになった。
私が初めて天皇陛下を見た時に思ったのは、空虚だ、ということだった。日本というのは曖昧な抽象物であり、実は天皇にも象徴されるように中心が空っぽなのだろう。そしてそこから生じる曖昧さとうちに閉じてしまう感じ。
また、周縁たる田舎。そこで心的感覚麻痺に落ち込み、乗り越え、再生する。これはそのまま再生の風景ではないか。
あいまいと言うことが何かはっきりと語られない(かろうじて両義性?)ものの大きな示唆のある一冊だった。