大江健三郎のレビュー一覧
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子供の頃から広島や長崎で被爆した方々の手記を読んだり、原爆関連の映画を観たり、祖父から話を聞いたりして当事者が経験した筆舌に尽くし難い苦痛や悲しみに触れることはあった。
当事者ではない人の広島に対する考えや思想に触れてこなかったことにヒロシマ・ノートを読んで初めて気が付いた。
当事者ではないのに(当事者ではないからこそ、かもしれないが)広島の、そして被爆者の内面を言語化していることがただただすごい。
「われわれには《被爆者の同志》であるよりほかに、正気の人間としての生き様がない。」
被爆3世として、核兵器のない世界、戦争のない世界を諦めずに生きていきたいと思う。
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冒頭がすごく引き込まれる。読み進めていく中でずっと考えていたことは「なんでこんな話おもいついたの?」だった。『個人的な体験』ではそんな思いは微塵もなかった。
凄すぎる人のやっていることは普通の人にはなかなかわかりづらい的な形がこの小説にもあるのかもしれない。難解ではなく話としては内容を辿っていけるし登場人物の会話も分かる。でもそれを全体として見ようとした時理解してない自分がいる。
鷹が兄の妻と不倫して子供まで作った場面、自分は憤慨も憤慨ですがそれでは駄目なのです。おまけにその妻はその子供を生んでやり直そうとか言っるし…そこで憤慨しているようでも駄目なのです。 -
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ネタバレ戦時中に感化院の少年たちが僻村の疎開地で疫病を理由に隔離及び放置される話
いつ疫病が理由で誰が死ぬのだろう、この傷か?
それとも空気感染か?などとずっとハラハラしながら疑り深い目で見ていた
それでいながらたくみに描かれる主人公と無邪気で人懐っこい弟との兄弟愛だったり、情婦の南や、逞しく男らしい朝鮮人である李や、犬の幸福そうなやり取りを見ていると、もしや僕の想像しているようなバッドエンドでは無いのかもしれないなと思えてきた
しかし疫病は犬をつたって村に取り残され主人公と絆を築いていた少女に感染する
そして犬は殺され哀願するような目で見たのに誰も助けてくれなかったことに弟は絶望して失踪
隊から逃げてきて朝鮮人の少年に匿われていた兵士が死ぬまで看病をしてくれた
彼はそれまで少年らの思う"兵士"には適わなくて嘲笑されていたが、大事になると頼りになり格好良かったのは彼だった
主人公と兵士で少女の死体を埋めた日に1夜眠ると次の日村の大人たちが帰ってきて、朝には兵士は居なくなっていた
兵士は竹槍で臓物を出され、李はボロボロだった
逃げ出そうとして谷のトロッコに向かったところ、谷間に主人公の弟のナップサックが引っかかっていたためそれを渡しに戻ってきたら村の人に捕まってしまった
少年らは村に疫病と共に放置された事を暴力と食事とで都合よく隠蔽させられそうになる
南は竹槍で顔を軽く切られると屈服し、李は朝鮮人の仲間全員を天秤にかけられて屈服し、主人公だけは最後まで村人の悪事を権威者に伝える姿勢を示して暴力や飢餓中の食欲に屈しなかった
そんな主人公を解放すると宣言するも、村人たちはトロッコに載せる寸前で騙し討ちで殺そうとするのだ
ラストは主人公が李や兵士のように森の中で暴力的な村人から逃げるシーンで終わる
書いてることがほとんど終盤であるように、少女と李と出会ってからのこの物語はトントン拍子で進んで言った
「蝿の王」に見られるような子供の世界が故の争いや支離滅裂さはあまりなく、それよりかは圧倒的権威と暴力をまとった大人VS非力で意志の力しかない子供という構図に見えた
しきりにアナウセッ久とかちそちそ天日干しとか大江健三郎のゲイゲイしさが出てきていたけどこれは当時の価値観なんだろうか -
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独特な比喩表現や会話や文章で、翻訳された本を読んでいるような気分になったので、どこか情景を思い描くときも日本離れしたイメージがずっと頭の中にあった。
火見子の多元宇宙の話はとても面白かった。なんとなくシュタインズゲートを思い出すような話。
鳥(バード)という一人の青年の心の成長の物語だったと思う。
障害を持った子供が産まれたことで生じた自分のこれからの人生や死などに対する様々な不安や恐怖の心情が丁寧に描かれていた。
障害を持った子供が産まれた父親という立場での振舞いとしてはまじでくそで0点だったけれど、一丁前に医者の言葉に腹が立ったり、恥ずかしくなったり0点の中にも心の葛藤があったんだと思わされた。
終盤あたりの唐突な心変わりには驚いたけれど、鳥にとっては今までの行動もこの決断をするために必要な準備だったのかもしれないと思った。
冒頭で出会った少年たちが最後鳥とすれ違ったことに気づかない演出と、それに対する解釈が良かった。その解釈が間違っていたとしても、その解釈をする自信や自覚が鳥についたのだなと思った。
半分実体験ということで、著者本人の思想が強く出ているのだろうなぁと思った。 -
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火見子とバードの妻という「女」の描き方。
火見子はファムファタール的であるがバードにとってあまりに都合の良い女。バードの妻は名前すら語られない。「赤ちゃん、どうしたかねえ」と呟き、バードに「みすぼらしい溝鼠みたいね」と言う妻。女の存在、立ち位置の描き方へのモヤモヤは、この作品が62年前が故、と一旦頭から追い出す。ここには書いておく。
生々しく、汚らしく、臭い。よくもここまでこのように書けるなと。(それが素晴らしいところ)
読み手は容易に、自分の不具の赤ちゃんの死を望む人間の心境に入っていける。それはそれは気分が悪く吐きそうで、実際にバードが嘔吐するシーンは本気で気持ちが悪くなりそうだった。バードが自分のなかの恐らく一番見たくない、醜悪な部分を直視しながら進む数週間、何年にも感じられるような地獄を一緒に血反吐を吐きながら進んでいくようだった。
最後の選択に私は安易に安堵してしまうが、それで良いんだと、著者自身のあとがきを読んで思った。
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生々しい異質たる文体。その異質さは妙に現実味を帯びており、より奇妙である。坊主であろう少年たちの、小さなどんぐりのような性器も、糞に犯された血まみれの尻も、汚くも輝きは純白な恋も、動物の重層化した液体も、その色が、その匂いが、その形が、まるで叩き込まれるように脳内に浮かんでくる。少年たちと少女。これらの、関係性が本当に好きで好きで仕方がない、主人公が少女と恋仲になり、仲間には口笛を吹かれ、冷やかされる。その様は、微笑ましいがら白々とした雪の世界の中で起こるのは、赤色の糞に塗れ、紅の血を吐き出し喘ぐ少女の姿。異質たる文体がより一層に、それを充満に華々しく、血生臭くしている。ここの描写愛おしいほどに好きだ、感化院の悪い少年が雪を溶かすごとく涙するのも美しいにも程がある。圧倒的な暴力と純粋な願いに満ち、ひとつの野望、裏切りの数々。言葉にならない作品。 ジャッキー・グリースンのLa Dolce Vitaがとてつもなく合う。
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Posted by ブクログ
読んでいて辛くなる場面が多々ある。
ヒロシマの人々は自分の想像など及びもつかないような過酷な世界の中で生き死にをされてきたのだと、改めて衝撃を受けた。
原爆症を宣告されたときに自ら死を選択する動機の一つとして、「ヒロシマの一例としてでなく名前のある個人としての尊厳ある死を選びたい」という気持ちが存在するなど、思いを馳せたことがなかった。
本当に壮絶で凄惨な、筆舌に尽くし難いほどの過酷な経験を経て、それでもなお自殺しない人々の威厳。
特に重藤病院長のような、被害者になったその瞬間から、一方で同時に人命救助の最前線に立たされて、休む間もなく白血病やそのほかの未知の症状と戦い続けた”正統的な人間”と評される人々の勇気。言葉に表すことも難しい。
相互抑止力による平和のために核保有が必要だ、これがリアリズムだなどと知ったようなことは述べるのは容易いが、その裏でヒロシマの人々がどんな感情を抱くのか。わずかでもそこに思いを馳せられたなら同じトーンで同じ発言ができるだろうか。どんな思いでヒロシマの人々が核廃絶を願っているか、8月6日だけ思い出したように黙祷しているような部外者気分では一生わかりようがない。
世界の情勢が不穏になる中で各国の核開発も進み、すでに紛争は拡大、このままいけば核の脅威も現実的な恐怖となりつつあるように思う。
日本という唯一の戦争被爆国はどういうスタンスであるべきか。
国際政治のバーゲニングモデルで最もらしく核の傘を説明するのもわかるが、ヒロシマの人間的苦痛や恐怖としっかり向き合って、その経験を基に世界に反核の姿勢を発信することは日本にしかできないはず。
広島や長崎、いまや新たに福島も加わったかもしれないが、日本人である以上、どうか最低限の知識や歴史認識、先人たちやいまなお戦う人々に対する尊敬と感謝の念、支援のこころを持っていたい。
それでようやくスタートラインなのだと思う。 -
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「あいまいな日本の私」ということについては、そのタイトルのノーベル賞受賞講演よりも、「回路を閉じた日本人でなく」の方がその意図するところについて詳しい。1992年から、1994年末の表題作までの講演から採られたものだが、憂もありながら、どれもユーモアに溢れ、分かりやすく、面白い。後書にあるように、テーマや引用は重複する部分も多いが、これに限らず小説や評論で度々引用されてきたものなので、大江読者なら馴染み深い話題だばかりだ。しかし、ノーベル賞受賞の4日後にされた「世界文学は日本文学たりうるか?」には爆笑。受賞直後の興奮も勿論あったのだろうが、これも後書にあるようにこの時期書き進めていた「燃え上がる緑の木」を以て小説家としての締めくくりをしようと本気で考えていた、一定の達成感もあったのではないか。ところが我々は知っているようにこの作家がそう簡単に筆を置くわけはないのであった、という意味でも割と気楽に読める良い講演集。
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この時点の大江のまさに集大成的作品。イェーツを媒介にして、過去作、「懐かしい年〜」は言うに及ばず、「M/T〜」、「人生の親戚」、「静かな生活」、「僕が本当に若かった頃」に収録の短編や、驚いたのは「治療塔/惑星」の続編構想の話まで、捉え直しをしながら、「信仰のないものの祈り」というテーマに実に大江健三郎らしい取り組み方をしている。
聖書原典の読み解きよりも、読み解きを行なった「作家」たちの作品をさらに深く参照しているところが大江の魂のこととは文学に他ならないのだと思わされる。
それが過激なカルトの台頭という時代性とシンクロしてしまうところが、また作家の「炭坑のカナリア」たる所以なのだろう。 -
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四国の大窪村物語の読破2作目。万延元年のフットボールが実は第1作だったことを同時代ゲームを読んだときに知り、発表された時間軸を逆行することになった。しかし万延元年の曾祖父の弟、戦後のS兄など逆行したからこそ把握しやすい設定だった。それにしても文芸誌に発表しながら書き進めていく作業は、当初の設定からこの全容がプロットできていたわけではなく、話を展開させていくうちに姿が見えてきたのだろうと思う。同時代ゲームより叙事詩的要素は薄いものの、蜜と鷹の濃厚な関係は二重身のように思え、当初は妻と呼ばれていた菜採子(ナツコ)と二人の関係が-挑戦的で自己破壊的な鷹を殺してもその鷹の子を生き残り続ける蜜と菜採が育て上げようとする決断ー深く心に残った。鷹の子供を二人で育てていく未来がどのように描かれていくのか後期作品も読んでいきたい。
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人間の醜い感情のうねりや嫌厭を緻密に繊細に(かつ、くどすぎるぐらいにしつこく)描いていて、読んでいて重く締め上げられる気分。特に人間の汗や脂だとか汚物だとか、外も泥や泥濘の汚れだとか獣臭だとかドブ川だとか、とにかく穢らわしさ、粘っこい気持ち悪さなどの描写が多くて、ずぶずぶと嫌厭の情がすごい。
文体はややクセありたまに迷子になるが、中身に惹かれて意外にあっさりと読み切ることができた。
個人的には、表題作よりも「人間の羊」が一番刺さった。傍観者、偽善者、自己中心的な押し付けがましい”正義”に陶酔する者の醜悪さと、やるせ無い怒りや諦め、疲労感をまざまざと見せられた。
氏が戦後の混沌の中で描きたかったものはなんだろう。復興の希望を語るよりも、やり場のない激情や鬱屈の吐き出し口、社会批判、人間の愚かさとか、とにかくネガティヴ寄りなもの(怒り?も?)が毒々しく滲み出していたように感じられる。
当時の空気を吸ったうえで読んでいた人ならもう少し違った見え方もあるのだろうか、と思った。