大江健三郎のレビュー一覧
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戦後78年の2023年に読破。
これを読むまでは、抑止力のための核保有の考え方に賛同派でした。
しかし、これを読んで改めて感じたことは、抑止力といいながら、明らかに使用することが前提の核保有説であるということでした。
戦争を知らない世代の私は、はっきり言って原子力爆弾の惨さ、人間がもたらした醜悪さ、悲惨さの極みといったものを知らない、全く無知な人間でした。
ナチスのホロコーストは、歴史に語り継がれ、人々が忘れないように何度も映画化やメディアでとりあげられるのに、なぜ、広島長崎の原爆を克明に記した書籍や映画はメディアで取り上げられず(ときには残酷だといわれR指定もされるけれど、それこそ馬鹿げた話だ)、学校でもその意味を考えさせるよう、如実に教えないのか。
アメリカの圧力を感じずにはいられません。
私たちは、原爆を落とされてもアメリカを憎むことなく、ましてや敗戦して良かったのだ、原爆は落とされなければ、日本はもっと悲惨な道に突き進んでいたのだ、などと、どうしてそんな考えでいられたのか。戦争に負けても、アメリカを憎まない日本人の国民性に誇りまで感じていた、私はまったく無知で恥知らずな人間でした。 -
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この「大江健三郎全小説2」には、9編の小説が収められている。1959年から1962年、大江健三郎が24歳から26歳の間に書かれたものである。
大江健三郎は、「大江健三郎 作家自身を語る」の中で、以下のように書いている。
【引用】
自分の人生を振り返って、あの時をよく生き延びたな、とぞっとする時期がいくつかあります。それが一番はっきりしているのが、小説を書くようになってからの四年ないし五年だったと思います。
【引用終わり】
また、「大江健三郎全小説2」の解説の中で、尾崎真理子は、大江健三郎のコメントの引用として、下記のように書いている。
【引用】
このように小説を書きつづけることで、自分は、この自分自身の人生を、一体なんのために使おうとしているのだろう?その疑いが、すこしずつ、しかし危機の火種のようなものとして、自分のうちにわだかまってきていた。(中略)本当に自分はこの時期をよく生き延びることができた、と感じることが、中年以後じつにしばしばあり、現にいまある
【引用終わり】
実際に引用はしないが、「大江健三郎 作家自身を語る」の別の場所では、大江健三郎は、この時期の自分の小説について、出来が良くないと感じている記述もある。
東大在学中に芥川賞を受賞し、次々と作品を発表し、颯爽としているように見えたであろう大江健三郎は、この時期の作品の出来に満足しておらず、いったい何のために書いているのだろうとすら考え、それは、単純な作家としてのスランプというレベルではなく、「生き延びる」かどうかのレベルでの本質的な悩みであったということだ。
この「大江健三郎全小説2」に収められている9編の小説は、基本的に、地方から東京に出てきて、いったんは成功するが、自分自身の内面の動きによって、破滅してしまう青年が主人公となっている。これは、この当時の大江健三郎自身の姿に似ている。小説の主人公に自分自身の悩みを体験させることで何が出てくるのかを、色々なパターンで試しているかのようである。
大江健三郎自身は、ここに収められている小説を、あまり評価していないようであるが、私自身は、ある意味で感情移入しながら読むことが出来た。それは、私が地方から東京に出てきた元青年であるからだと思う。
九州の田舎の高校を卒業して、東京の大学に入学した私は、田舎では味わえない東京の暮らしを楽しんでいたけれども、一方で、大学の東京出身者や、東京の都会的な街(六本木や乃木坂や青山や原宿といった感じの場所)に、コンプレックスを感じ、疎外感を感じることがあった。それは、田舎で本当にのんびりと世間知らずに育った自分にとって、大学の東京出身者は、異世界である東京のことを、ひいては、社会のことをよく知っているように見えたということだろうし、私が高校時代までを過ごした場所に比べると、東京には、本当の世の中や社会がある(国会議事堂や皇居があり、テレビやレコードで知っている表参道や青山通りがある)ように感じていたからなのだと思う。
それが実際には大したことではないこと、そういう具合に感じること自体を「世間知らず」と呼ぶという具合に感じ始めたのは、もう少し後のことだった。 -
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「大江健三郎全小説3」のハイライトの一つは、「政治少年死す(「セヴンティーン」第二部)」の掲載だ。本作品は、「文學界」1962年2月号にて発表されたが、それ以降、57年間、一度も単行本等の形で再録されることがなかったものだ。その作品が57年ぶりに、この「大江健三郎全小説3」で再録されることになった。
その背景は以下の通りである。
1960年10月12日に、右翼団体である大日本愛国党の元党員である山口二矢、17歳が、日本社会党浅沼委員長を東京の日比谷公会堂で行われていた公開演説会の場で刺殺するという事件が起きた。「政治少年死す(「セヴンティーン」第二部)」は、この事件を扱ったものである。「中央公論」1960年12月号(1960年11月10日発売)に、深沢七郎が「風流夢譚」という、天皇陛下とその家族が殺害されるという「夢」が描かれた作品を発表した。それに怒った、同じく元大日本愛国党員の17歳の少年が、中央公論社社長宅に侵入し、手伝いの女性を刺殺、夫人に重傷を負わせるという右翼によるテロが発生した。このテロの発生は、1961年2月1日である。
「政治少年死す」の「第一部」である「セヴンティーン」は、1960年12月発売の「文學界」1961年1月号にて発表されている。この作品の原稿締め切りは、1960年11月であり、「セヴンティーン」は、山口二矢事件の「前」から構想・執筆されていたと考えられているし、大江健三郎もそのように発言している。ところが、「セヴンティーン」発表から1か月後に発売となった、「文學界」1961年2月号には、本「政治少年死す(「セヴンティーン」第二部)」が掲載された。本作品は、明らかに、浅沼委員長を殺害し、獄中で自殺した山口二矢をモデルとした小説となっている。
上に書いた1961年2月1日の中央公論社社長宅テロ事件の後、風向きが大きく変わる。「風流夢譚」を掲載した中央公論社は、テロの5日後の2月6日付の新聞各紙に社長名で、「皇室ならびに一般読者に多大のご迷惑をおかけしたことを深くお詫び致します」というおわびの社告を掲載した。また、大江健三郎の作品に対しては、2月7日発売の「文學界」3月号に、山口氏および関係団体に対して「ご迷惑を与えたことは率直に認め深くお詫びする」とした謝罪文を雑誌は掲載した。関係団体からの激しい抗議が、両社に対してなされていたことが背景にある。
後日になるが、1964年になって、大江健三郎は、作品の執筆動機について、「ぼくにとって、日々の生活の基本的モラルのひとつである"主権在民"の感覚、主権を自分の内側に見出そうとする態度が、いまや、戦後世代すべての一般的な生活感覚とはいえなくなっていることを発見して受けたショックだった」と語っている。
「大江健三郎全小説3」への、57年ぶりの「政治少年死す(「セヴンティーン」第二部)」の掲載は、そのような背景を持っているのである。
私自身は1959年生まれなので、上記の事件は、もちろんリアルタイムでは知らない。生まれてはいたが、物心つく前の話になる。事件全般の激しさや、それを題材にした「セヴンティーン」「政治少年死す(「セヴンティーン」第二部)」の小説作品としての激しさとは別に感じるのは、やはり時代の違いだ。当時の状況がリアルタイムには分からないので、当時の感覚を持つことは出来ないのだが、このような事件は、現代では起こり得ないのではないかと思う。理由はいくつかある。
ひとつは、日本における左翼運動・左翼勢力の衰退である。60年安保闘争、70年安保闘争の時には、それでもある程度のシンパシーを獲得していた左翼運動(私自身は、これもリアルタイムで知っているわけではない。色々な本を読んでの「知識」として知っている内容だ)は、70年安保が失敗に終わり、その後、左翼勢力による党派間の内部テロや、反社会的活動(三菱重工ビル爆破事件、あさま山荘事件が典型)により、左翼運動は支持を失っていく。そういった草の根的な勢力ばかりではなく、社会党は選挙で徐々に議席を失い、現在では、ほとんど見る影もない。こういった状況の中で、右翼と左翼の激しい闘いは起こり得ないし、リアリティを持たない。
もうひとつは、「主権在民」と「天皇制」の関係である。大江健三郎は上記の通り、「主権を自分の内側に見出そうとする態度」が、「一般的な生活感覚とはいえなくなっている」ことを発見し、ショックを受ける。その場合、話の筋からして、主権は天皇にあるべきと考える人たちがいることにショックを受けるわけである。現代、主権が天皇にあるべきと考える人がいるとしても、それは、リアリティを持った考え方ではないだろうし、そういうことが実現する可能性もないだろう。したがって、大江健三郎が執筆動機とした事態そのものが存在しないのである。それが、作品発表から57年間の日本の本件に関しての世間の考え方の変化である。
「セヴンティーン」を初めて読んだのは高校生の時、まさに、セヴンティーンの頃である。私が高校生だったのは、1974年から1977年であり、山口二矢事件から既に15年程度が経過していたし、また、東京のような都会と違って、私が住んでいた地方都市には、右翼とか左翼とかというものを具体的に感じることが出来るものは何もなかった。従って、物語そのものに、リアリティを感じながら読んだはずはない。むしろ、コンプレックスの固まりのような主人公の「おれ」が、右翼的な考え方を身につけ、実際に右翼の活動にコミットすることによって、他者との関係ばかりではなく、内面的にも力を得ていくという、そういう高校生の物語として読んだ記憶がある。右翼にも左翼にも肩入れしていたわけではないが、ある日、このような力を突然得ることが出来る、要するに生まれ変わることができる力を思想というものは持つのか、的な感想を持ったのではないかと思う。ストーリーとしては、とても激しい物語、という感覚を持ったはずだ。今回、再読し、また、「政治少年死す(「セヴンティーン」第二部)」をはじめて読んだが、感想はあまり変わらない。 -
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本書には、1957-1959年に執筆された19編の小説が収載されている。
1957年に「奇妙な仕事」で東大の五月祭賞を受賞し、それが「東京大学新聞」に掲載されたのが、大江健三郎の実質的なデビューである。1958年1月の芥川賞では「死者の奢り」が候補となり、同年の7月に「飼育」によって、実際に芥川賞を受賞している。
当時がどういう時代であったかと言うと、1955年には保守合同・社会党統一による「55年体制」が始まり、1956年の経済白書には「もはや戦後ではない」という言葉が登場する。1990年前後の東西冷戦の終焉やバブル崩壊までの間の、いわゆる高度成長期を含む、日本の発展がまさに始まろうとしていた時代であった。
しかしながら、本巻に収められている、大江健三郎の初期の小説は、そのような明るさとは無縁である。五月祭賞に選出された「奇妙な仕事」は、「現代の最も若い世代の、やや虚無的な心情をつかみだし、それを一つの事件としてまとめあげた手腕に敬服したい」と評価され、あるいは、作中に書かれた犬と学生は、「そのまま占領下の日本の全人民のシンボルではないか。こういう"壁のなかの人間"の状況を、執拗に追求するところに、若い作者はその文学的出発点を持った」という評論もなされている。さらに、大江健三郎自身も、「死者の奢り」のあとがきで、「監禁されている状態、閉ざされた壁のなかに生きる状態を考えることが、一貫した僕の主題」と書いている。
私が初めて大江健三郎を読んだのは、高校生の頃だった。当時、自宅にあった、河出書房が出版していた「現代の文学」という文学全集の中の「大江健三郎集」を読んだのが、最初だ。「大江健三郎集」は1964年の発行なので、やはり大江健三郎の初期の作品、12編が収載されている。その内、「われらの時代」「奇妙な仕事」「見るまえに跳べ」「人間の羊」「戦いの今日」「飼育」「死者の奢り」「他人の足」「芽むしり仔撃ち」の9編が、本書に収載されているものである。
私が高校生だったのは、1974年から1977年までであり、実際に本書に収載されている小説が書かれた時期からは、時代も変わっている。大江健三郎が芥川署を受賞した1958年以降、日本は順調に経済成長を続けた。1973年以降の2度のオイルショックにより、成長は減速したが、それでも、世界の先進国の中での日本の経済のパフォーマンスは良好であり、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という本が書かれ、ベストセラーとなる時代が訪れる。そのような時代に、私は大江健三郎の初期の作品を初めて読んだのである。
河出書房の「大江健三郎集」の最初の作品は、「われらの時代」であったと思う。読後感は、強烈であった。娼婦と暮らす大学生、大学生の弟とその仲間たち、学生運動のリーダーとアラブ人、等、私の周囲には絶対に存在しない人物たちが、私の周囲では絶対に発生しない事件・出来事を起こしていく。彼らの行動原理は私には理解不能であったし、また、「監禁されている状態、閉ざされた壁のなかに生きる状態を考える」という大江健三郎が語ったテーマについても理解できたわけではないが、ただただ、小説の異常な迫力に一気に読んでしまったような記憶がある。
今回、高校時代から40年以上ぶりに、あらためて大江健三郎初期作品19編を読んでみた。戦後10年強しか経過していない時代の天皇陛下や在日米軍の位置づけ、日米安保条約、朝鮮戦争、等の歴史的事実関係は、高校時代よりも今の方が知識は豊富かもしれない。しかし、「こういう"壁のなかの人間"の状況を、執拗に追求するところに、若い作者はその文学的出発点を持った」とか、「監禁されている状態、閉ざされた壁のなかに生きる状態を考える」とか、ということについて理解は至らなかった。それは、やはり同時代にリアルタイムで作品を読まないと感じないことなのだろう。しかし、一方で、「われらの時代」は、今回も、ほぼ一気読みしてしまった。それは、やはり、この小説の、説明しがたい迫力によってであった。 -
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この本自体は60年代半ば、戦後20年が過ぎようかという頃に書かれたもの。戦争の記憶も今より遥かに鮮明で、冷戦や日米安保、学生運動の只中を生きた人々のエネルギッシュさにまずは驚かされた。
その一方で、戦後20年にして既に戦争の記憶の継承が問題となっていたこと。特に広島で被曝した人々は、最初の数年を幸運に生き延びたとしても、いつ原爆症を発症するかは分からずにいた。それでも、ある日唐突に自分の命の終わりを告げられる恐怖におびえながら「悲惨な死にいたる闘い」を続けた人々の途切れない営みによって、現在の我々は、あの時に広島で何が起こったかを知ることができる。
戦後77年を迎え、戦争を知る世代からの直接の継承が、本当の意味で限界を迎える日はそう遠くないだろう。
だからこそ、戦争の悲惨、核の惨禍を繰り返さないことばかりを願いながら死んでいった先人たちの存在について、これまでのどの時代よりも真摯に知ろうとする必要があるのだと思う。
そして、灰谷健次郎の『太陽の子』にも共通するが、この本を読んで強く感じたのは「心の傷」こそが最も寄り添われづらく、寄り添うことに努力を要するということだった。
戦争体験だけに限りらないが、身体に残る傷は目に見えて、(こういう言い方はしたくないが)周りの人がそれに気づき、寄り添うことにそれほどの困難はない。
しかしこの本や『太陽の子』にあるように、健康体で、見た目にはまったく他の人と変わりない人間が、ある日突然に自ら命を絶つことがある。拭い去れぬ戦争の記憶、いつ自身の身体に原爆症の症状が現れてもおかしくない不安。これらの恐怖は一人の人間の生きる希望を奪うのに十分で、それでいて他人の目には映らない。もしそれを知っても、権力そして世の多くの人は寄り添おうとせず、反対に心無い批判の声を浴びせる。
いわゆる自己責任論、その人の心が弱いだけ、同じ状況から立ち直った人を知っている、などなど。正直に言って、そういった意見の全てを否定することはできない。自分にはない経験による、目に見えない心の傷である以上、自然にその痛みに寄り添える人の方がむしろ限られた才能の持ち主だとさえ思う。
しかし、自然には寄り添えない他人の内面に対してなんとか寄り添おうと努力をすること、これはどんな人にでも可能なはずだ。それすらもせずに無関心を決め込み、勝手な誹謗中傷をしてしまえる鈍感な人間にはなりたくない。たとえ結論としてその人の傷に寄り添うことができなくとも、寄り添うための努力は惜しまない人間でありたい。 -
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初期
「奇妙な仕事」5
「死者の奢り」5
「他人の足」5
「飼育」5
「人間の羊」5
「不意の唖」4
「セヴンティーン」
「空の怪物アグイー」3
中期
「頭のいい「雨の木」」3
「「雨の木」を聴く女たち」3
「さかさまに立つ「雨の木」」3
「無垢の歌、経験の歌」3
「怒りの大気に冷たい嬰児が立ちあがって」5
バタイユ?
「落ちる、落ちる、叫びながら」4
「新しい人よ眼ざめよ」4
「静かな生活」3
「案内人ストーカー」3
「河馬に噛まれる」3
「「河馬の勇士」と愛らしいラベオ」4
後期
「「涙を流す人」の楡」3
「ベラックヮの十年」3
「マルゴ公妃のかくしつきスカート」3
「火をめぐらす鳥」3
「生きることの習慣ハビット・オブ・ビーイング あとがきとして」4 -
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「ピカは人が落とさにゃ落ちてこん」
広島の原爆を、当時の戦争を、少しくらい知っていないと読み進めるのには苦労するかもしれない。
ただ、それでも多くの方に読んで欲しい。そんな本です。
ウクライナとロシアの戦争の真っ最中。
核戦争の危険性が、ほんの2ヶ月前までは薄れていた、嘘でも今より平和な空気感で満たされていた時代から一変した、そんな「核の今」だからこそ。
読んでおくべき一冊。
戦争直後。占領下の時代、原爆の悲惨さを書いた書籍の出版が、米国より発刊禁止になる。
理由は、「反米的思想である」、その一点。
ただただ惨劇を伝えようとした。
事実のみを淡々と。
今のウクライナとロシアの報道を見ていても、色々と感じてしまう。
そこに真実はあるのか? いや欺瞞が紛れてないか?
そこに事実はあるのか? いや疑念を入れてないか?
思想や理念を越えたところで、物事を取り込める冷静さや柔軟さは、自己として持っていたい。
そんな今日この頃。ですね。
「ピカは人が落とさにゃ落ちてこん」
この言葉が、読後に一番頭に残った本日です。 -
購入済み
あ、ああー、理想欲望暴発ですよ
先を読みたくなる作品だった理由の
2つ目は、破滅に向かうような
ダークな事件が連発していくことだ。
「……ですよ」と鳥の声を識別する
声のリフレインの中、何を目指すのか
わからない若者たちにとって、祈りは
聖なるものではなく熱中と解釈され、
『地下室の手記』的に先の読めない
自由が追求される。
主人公は、陸上では動けない樹木や
鯨の代弁者で、幼児を守る、知的存在
だが、一方、青年たちに好感を持つ中で
その無茶が樹木を傷つけるのを黙認し、
それは機動隊の指揮官が私刑的なことを
黙認するのと同じだし、政治家の秘書
だった時に少年に対する大罪を犯して
おり、中庸ある理性的人間ではない。
さて、鯨は水中で動けるが、本来
地上の存在人間にとっての洪水とは?