あらすじ
友人の死に導かれ夜明けの穴にうずくまる僕。地獄を所有し、安保闘争で傷ついた鷹四。障害児を出産した菜採子。苦渋に満ちた登場人物たちが、四国の谷間の村をさして軽快に出発した。万延元年の村の一揆をなぞるように、神話の森に暴動が起る。幕末から現代につなぐ民衆の心をみごとに形象化し、戦後世代の切実な体験と希求を結実させた画期的長篇。谷崎賞受賞。
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Posted by ブクログ
読み終わった後しばらく放心して、自然と一人一人の決断や行動の意味をずっと頭の中で考え直していました。読む人によって受け取り方が大きく変わる、そして考えさせる非常に奥深い作品でした。
一言で到底言い表せないけど、「破壊」と「再生」という言葉が私にはキーワードとして浮かびました。
登場人物の多くは、地獄とも呼べるような現実と葛藤しながら闘い、自らの意志で決断し、行動を取っています。そこには凄まじいほどの「覚悟」があり、読んでいて、鬼気迫るものが感じられました。
大江さんの文体の特徴として、さまざまな比喩表現やバリエーション豊富な形容詞を用いて文章を修飾しまくっています。そのため、一つ一つの文章が長くなりがちです。類を見ないほど素晴らしい表現力で感嘆するのですが、慣れるまでは読みづらさが先行してしまい、少ししんどいかもしれません。
私も中盤あたりで中弛みの展開も手伝って挫折しかけたのですが、後半にかけては引き込まれて、読む手が止まりませんでした。中盤ぐらいまでで脱落する人が多そうなので、そこが勿体なく残念だなと勝手に想像しています。
生前、政治的な主張が強かった作者なので、その点から毛嫌いされる人もいるのかなと。
ただ、日本人でただ2人のノーベル文学賞を受賞した筆力はダテではありません。
万人向けではありませんが、少しでも興味を持った人は先入観を排除してぜひ読んで欲しい作品です。
Posted by ブクログ
大江健三郎はあまり好きじゃないけど、これは面白かった。人が暴徒化する過程がしつこく書かれていて読み応えある。
でも、この“しつこさ”が活きたのは初期の頃までかな。後の「同時代ゲーム」とかは読んでいられなかった。
正直言って、この人がノーベル賞とったのは日本の文学界にとって不幸だったと思う。わかりづらいこと書けば文学的、みたいな変なイメージが広がったんじゃなかろうか。
Posted by ブクログ
今の我々、若者にはこのフットボールの精神などはない。ましてや、一揆などという気概は殆どといっていいくらいない。それが良いか悪いかではなく、自分の内として経験ないことがこの評価たらしめる要因ではあった。(蜜にもないと思う人もいるが、蜜自体は一連の流れに身を任せていないだけで経験はしている。)
だからこそ、この一点につき、私はこの本を推薦したいと思うのだ。我々の内に秘めたる鷹のような心。社会的な後ろめたさ、挫折感、そう言ったマイナスな感情を幼い時分から持っている、同世代がこの本を読む。言葉に刺される。そして、動く。そしたら、令和幾年のフットボールとして、社会に発現する時が来るかもしれない。私はその時に、サッとフットボールチームのメンバーとして仲間入りしようとも思うのだ。これは蜜でも鷹でも星でも妻でもない、蜜よりもネズミぽい陰湿な自分をそこに認めるのだ。
Posted by ブクログ
読み終えるのに時間がかかった。なぜその場面が組み込まれているのか、登場人物の言動は何を意図しているのか、理解できていない部分も多いと感じる。
主人公は、ほかの登場人物や故郷の谷間から一歩引いてそれらを観察し、自身についても内省を重ねているが、谷間での出来事を通じて自分自身に気付いていく。その気持ちの揺さぶりに読み手として振り回され動揺するような感覚。
おぞましさや恥といった感情の描写が本当に的確。
Posted by ブクログ
Jリーグ観るのが好きなのでタイトルが気になって読んだ。この作品においてフットボールとは念仏踊りであり、念仏踊りは歴史の再現なのね。Jリーグは差別に対して毅然と対応してくれるから、こうした懸念を払ってくれる。ありがたい。それはさておき、読むのに体力が要るけど次々と怪人が出てくるから何とか読めた。めちゃめちゃ面白かったのでみんな読んでここに感想を流してほしい。
アンニュイな語り手である蜜が、弟が恥辱に塗れて死ぬまで正論で殴り続けるところが好きだった。英雄になりたい欲を潰すことにかけては自分で「悪意の迫撃砲」とか言うレベルで容赦がない。で、終盤に100年前の一揆について重要な思い違いが判明して、一揆の首謀者だった曾祖父の弟諸共弟のこともまるごと再評価して敗北感を感じたりしちゃうんだけど、そこはもう大江健三郎あるあるの森で生まれ変わるターンに入っているからそうなっちゃっただけで読んだ限り弟が「幼稚なげす」であることは揺るがないよな…となるあたりも良い。冒険が必要→アフリカ行く、って雑さも良かった。
半世紀前の作品だけれど、ヒロイックに語り直された歴史に煽動される閉塞感を抱えた人々、というのはなかなか現代社会でも心当たりがあるようにも思える。とはいえそういう難しいことを気にせずみんな読んでほしい。
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ノーベル賞作家・大江健三郎の骨太な長編。安保闘争に敗北し「政治の時代」が終わりを迎えた鬱屈した時代感の中で、性や障害、記憶、歴史といった実存主義的なモチーフが次々に繰り出され、グロテスクで仄暗い小説世界が形成される。
全編を通じて飽きさせないが、中でも第1章が出色。一文が極端に長く、比喩も多用されており到底スラスラと読める代物ではない。「僕は、自分の内部の夜の森を見張る斥候をひとり傭ったのであり、そのようにして僕は、僕自身の内側を観察する訓練を、みずからに課したのである。」(P.9)といった具合に(これは主人公の失明した片目について触れた箇所である)、難解でありつつセンチメンタルな格調高さを湛えた文章に、話の筋の面白さとは全く異なる次元の、小説を読むという体験の素晴らしさを教えられた。
物語の結末は率直に言って、ぼくの想像力を超えた難解なものだった。主人公の選択が輝かしい人間性の恢復へと続くのか、それとも惨たらしい悔恨と逃避を意味するのかはまだ若く未熟なぼくには判断がつかない。
大江自身は後書きで、この作品が彼自身にとっても、彼と同時代の読者にとっても一つの「乗越え点」、すなわち作風の転換点であり、同時に今までの読者をある種ふるいにかけた作品であったと語っている。
ぼく自身がこの作品を自分なりに咀嚼してその意味の一つでも掬い上げることができたのか、あるいはその難解さにただ翻弄されつつ、ファッションとして消費してしまったに過ぎないのかは定かでないが、少なくとも大江文学という一つの「乗越え点」を見つけることはできた。今はそれだけで十分だろう。
Posted by ブクログ
読後の衝撃たるや。それは深部に残り続けるだろうと思います。
友人の不可解な死に導かれ、夜明けの穴にうずくまる僕・根所蜜三郎。
地獄の憂悶を抱え、安保闘争で傷ついた弟の鷹四。
僕の妻・菜採子は、重度の精神障害児を出産してから、アルコールに溺れるようになった。
アメリカでの放浪を終えた鷹四が帰国したのを機に、苦悩に満ちた彼らは故郷・四国の谷間の村を目指して軽快に出発した。
鬱積したエネルギーを発散する鷹四は彼を支持する若者らの信奉を得て、谷間でフットボール・チームを結成する。やがて鷹四に率いられた青年グループを中心に、万延元年(1860年)の一揆をなぞるような暴動が神話の森に起こり…。
大江健三郎の最高傑作とも評されるのも頷ける長編。生硬かつ濃密な文体で綴られる、生きる苦しみ。
ひたすらに内省的な僕「蜜」は、27歳にしてすでに諦観の境地に達したか。
対照的に、その弟「鷹」は、自我を引き裂かれた怪物のような青年で、幕末の一揆を彷彿とさせる暴動を先導する。
「新生活」を始めるため、彼らは故郷・四国の谷間の村に行ったが、地元の青年たちの支持を集めてカリスマ性を発揮する鷹に対し、蜜は倉屋敷に閉じこもり思索に沈む。
内向的すぎてもはや何の行動も起こさない蜜にとって、鷹は血を分けた弟とはいえ、到底理解できる相手ではなく、憎悪の対象でしかない。
たしかに、幕末の一揆を引き起こした曾祖父の弟に自分を重ね、自己陶酔に浸る鷹は恐ろしい存在ですし、絶縁して当然ですが、蜜は弟の暴走を止める対話をできたのでは?しかし、そこは妻がずばり指摘してましたね。
それらすべてを抱え、蜜は再生に踏み出せるか。深遠な問いに読者も道連れにされる、果てしなく重い作品でした。
Posted by ブクログ
大江健三郎の最高傑作と評されていたので、温めて置いていましたが、現時点では個人的にもやはり最高傑作でした。読み終わってすぐ2周目を始めてしまったほどです。
重厚な構成、有機的で現実的なメタファー、極限状況からの脱出、魂の浄化。巧みな文章力に、自室で1人でため息を漏らしていました。
「魂の浄化」という点だけでいえば、「懐かしい年への手紙」の方が深く掘り下げていますが、全体としての完成度はこの作品が飛び抜けている気がします。
第1章の、蜜三郎が穴にこもり、自身を徐々に「穏やか」にし、精神の下降の斜面へと滑り落としていくシーンが1番好きです。このシーンの情景を大切に心の芯に持って生きていきたいです。
僕は、蜜と鷹、どちらの生き方を目指すのか…
Posted by ブクログ
文学的な位置でも自身の中の位置でも最重要な一冊。
この特濃の内容とゴテゴテの文体を1人の人間が描いているのが恐ろしい。
初オーケンでこれを選ぶと胸焼けする可能性があるが、本作以降も擦られ続ける主題であり向き不向きを決める上でも必読書だと思う。
Posted by ブクログ
当時の大江健三郎のあらゆるエッセンスが詰め込まれた意欲作。
物語の設定とストーリーは、自身の故郷である愛媛の山間の村落、障害を患ったであろう子の誕生、戦後民主主義の中のアメリカ文化、学生運動と命をかける青春(跳ぶ、ほんとうのことなど)などの作者のバックグラウンドが複合して形作られている。
同時に、冒頭の難解な長文はロシアフォルマニズムの異化の手法、弟鷹四の村落への反乱とその消滅は当時からの有力な学説であった異人による日常への祝祭の現出を採用しており、それらをすべて一つの作品で詰め込んだ内容の濃い作品なのだ。
一度目を読むのに時間はかかるが、それだけの意味のある作者の最高傑作。
Posted by ブクログ
日本人でありながら、自国からのノーベル賞受賞作家作品を読んだことがないのもいかがなものか、と思いまして。で、その大江作品の中、例の福田書評集で最も高評価だった本作をチョイス。勝手な印象だけど、何となく読み心地は村上春樹風。それをもっと小難しくした感じというか。あと思ったのは、英語みたいな日本語だな、ってこと。何を言っているのかというと、一文あたりがやたら長くて、文の途中まで意味が掴めないと思ったら、最後まで読んで腑に落ちる、みたいなあの感覚。なので読解に骨が折れる部分も少なくないけど、意外にリーダビリティは悪くない。内容は、タイトルからはイマイチ想像が出来なかったけど、江戸時代の一揆を、現代において再現してみました、的な。弟の自殺とか、その子を身籠った我が妻とか、かなりドロドロなクライマックスで、読み終わった後、ちょっと疲労感を覚えちゃいました。良い作品とは思えたので、評価は高めで。
Posted by ブクログ
レビューすることを放棄したくはないけれど、
この作品を的確に言い表すのは難しい。
中盤まで文章は深く淀み、息苦しい。
得体の知れない嫌悪、不安がまとわりつく。
後半は物語が展開して文章的には読み進めやすくなるが
不安はますます確信めいて目を離すことも出来ない。
寝取られとか読んでるだけでも辛いよ。
これ以上苦しめないで!苦しまないで!
登場人物より読者のほうは思い悩むのは何故だ。
しかし最後前向きに終わるのに違和感がある。
どこに希望があったの……?
Posted by ブクログ
彼自身の状況を象徴するような「どん詰まり」の谷間の中で、最後に思いもかけない地下室を発見するところがなんとも言えず爽快。この頃から円環の要素が出てくるのか?万延元年の出来事に似たことが再び繰り返されるならば、出来事というものが反復されるならば、万延元年の事件の思いもかけない「抜け道」であった「地下室」は同時に閉塞した今の自分を励ますという…。そして「スーパーマーケットの天皇」のスーパーであるようなものが後の『燃え上がる緑の木』などで川沿いのスーパーまで行って来たのよ、などと登場するところも面白い。
Posted by ブクログ
カラマーゾフ読み終わってから毎日ベローチェに通ってます。
気持の入った読書の時間じゃないと、とっつきにくかったかもしれないなと思いました。僕には難解なところも多かった。
「期待」のない主人公がアメリカから帰ってくる弟、その親衛隊、障害を持った子供を産んだ妻とともに「草の家」「新しい生活」を見つけるべく森に入る。
万延元年の一揆の首謀者である曾祖父の弟に自分を重ね合わせる、弟。それを客観的にとらえる主人公。
精緻な構成に、圧倒されました。「本当のこと」に引き裂かれる弟の描写、結び付けられていく事実。非常に面白かったです。
読後の感情をうまく文章化できるんじゃないかと期待して、時間をおいてもう一度読み直したい。
嘲弄っていう言葉を使いだしそう
Posted by ブクログ
大江健三郎の文は最初で引き込まれる。特に哲学めいたことが好きな人にはたまらない。
ただ、入り口が分からないと全く入れない。
入るとたまらない。
文に頭が焼かれる。
なんで、この作品はあまり文庫なんかでも出版が少ないんだろうと思わされる。
こんなに迷作なのに。
ただ、大江健三郎は駄作もある。
特に悪い意味で知的ぶった作品なんかは読むに耐えない。
ただ、万延元年は、文学好きならマスト本だと自信を持っておすすめできる。
そういうこと。
Posted by ブクログ
村上春樹『1973年のピンボール』のタイトルの由来といわれる作品で、村の共同体やスーパーマーケットに対する暴動、また主人公の弟鷹四が過去に犯した行為など、美しい自然の描写に反して、内容としてはグロテスクな場面が多い。
Posted by ブクログ
久々に徹夜で一気読みしてしまった…
【追記】
書き出しから執拗に繰り返される異様な友人の死に様やアル中気味の赤い目などの露悪的な描写が不快感を掻き立てる。もちろん作者はこれに意図的で、主人公が不快な現実を前に退嬰的な姿勢を取っていることを際立たせている。これがラストで「しらふ」で「本当のこと」と向き合う姿勢に変わることで主人公と妻は新しい生活に抜け出せたのだろうが、向き合いきれなかったからこそ、鷹四はあの結末を迎えざるをえなかったのかもしれない。
Posted by ブクログ
大江健三郎作品はいくつか読んだことがある。だが何故か『万延元年のフットボール』だけは何度も挫折している。
毎回200ページに届かないあたりで止めてしまっていた。
そんな『万延元年のフットボール』をやっと最後まで読み切った。
淀んでドロドロした原液を飲み込むような密度が濃い読書体験だったせいか、目眩がするようだったし、とても疲れた……笑
1回読んだだけじゃ到底理解出来ない。だが、これが最高傑作と言われるのも頷けた。
どこに向かっているのかわからないが、描かれる事象の数々は現実の出来事とぼんやりと結びつくようだった。だがそれを考えれば考えるほどわからなくなる。
自分は基本的にわかるとかわからないってことはそんなに重要視してない。わからないからこそ面白い作品も大いにある。だが『万延元年のフットボール』はその解釈を探してしまうような作品だった
再読するのには勇気がいるが、いずれまた読みたい。
Posted by ブクログ
一種通俗的な物語
ショッキングと希望がなひまぜになって、冒頭からおよそ言葉の洪水の暴力がなだれこんでくる。自殺した友人のイメージがショッキングで、同時に惹きつけられる。
四国の山奥を卑下して大丈夫なのかと思ったほどだが、ある種普遍的な話だ。神話とからめて語る人が多いが、むしろ昔の一揆との連続性を蘇らせる現代の騒動を描いたもの。鷹四のやうな人間も、いくぶん誇張されてゐるとはいへ、ゐないわけではない。蓮實重彦や小川榮太郎が書いてゐたが、部分的には通俗的でもある。
やはり一種難儀なのはながながしい主人公の独白で、興味の持続を断念するひとも多いはず。動物や自然を用ゐた比喩や、川流れのエピソードから、大江の子供の頃の実体験が混じってゐるとわかる。
しかし、個人的にはこのやうなフィクションめいたものよりも、中期後期以降の大江の、個人的な話題のほうが個人的な私は惹かれる。「静かな生活」や「河馬に噛まれる」などである。大量の独白は実在感を得ない。
Posted by ブクログ
なぜこれを読もうと思ったのか?
ノーベル賞受賞の根拠となったらしい作品だから、というミーハーな動機・・・
冒頭だけ読んだ時点では、蛭子能収のマンガみたいな不条理作品なのかこれは?と思ってしまい、文章の読みにくさもあってげんなりしてしまったけど、読み進めていくにつれて意外と普通に理解していけばよい作品なんだと気づいた。
乱暴に要約するなら、主人公兄弟が「本当のこと」を自他に認められるようになるまで、という至極真っ当な話、ではある。
加えて、60年安保闘争の空気感とか、歴史的事件を踏まえた神話的ストーリー展開とか、開化されゆく地方の習俗とか、重層的なテーマが絡み合ってとても読み応えがある。人類学や構造主義哲学の素養があればより楽しめる作品なのかもしれない。
Posted by ブクログ
「万延」と「フットボール」というミスマッチな単語を重ね合わせた軽妙な題名とは異なり、推敲に推敲を重ね無駄を排した独特な文章と、段落を極力無くし畳み掛ける緻密な描写は読者に緊張さえ与える。初めての大江健三郎作品であったが、いやはや鬼気迫る作品であった。
日本人に古来より根付く暗澹たる気質を浮き彫りにし、万延元年の一揆と鷹四が隆起する暴動の共通項による事件性を謳いながらも、結局は大江自身の自己反芻の物語であるのかもしれない。内包する狂気性が自己に向かった場合に起こることを鷹と蜜という対立軸で思考実験を重ねた産物のように思えた。
Posted by ブクログ
数年前に一度挫折して、なんとか再読で読みきった。文章の熱量がすごく、情報量がとても多くなかなか読みすすまなかったけれど、これぞブンガクという作品に出会ったのはとてもひさしぶり。村上春樹の『1973年のピンボール』はここからタイトルを捩っているんだろうけれど、内容的にも重なるところがあったり。大江がノーベル文学賞を受けているのできっと春樹は永遠の有力候補のままで終わりそうだ。
Posted by ブクログ
日本文学に疎いため、恥ずかしながら初めて読む大江作品。出だしから重く、暗く、救いのない状況の主人公。アメリカから帰った弟たちと、実家の売却のために久しく帰らなかった郷里の部落を訪れる。そこで見聞したのはさらに忌まわしい歴史と現状。そうしたおどろおどろしい村社会の人間関係をどこか他人事のように眺める主人公と、そこに深く関わり万延元年の一揆を再現しようとする弟。その時代性なのか、なんともやりきれない重苦しさが苦々しく残る。作者は何を伝えたかったのか、真意が分からぬままに読み終えた。今は読むべき時ではなかったのかもしれない。
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1967年発表、大江健三郎著。友人が死んだ主人公、アメリカから帰ってくる弟、障害児を生んだ主人公の妻。彼らは故郷である四国の村へ向かう。そこで弟の主導の元、スーパーへの略奪が起こり、万延元年の一揆をなぞるように、村全体を巻き込んだ暴動が始まる。
今まで読んだ著者の作品の中で一番面白かった。思想や人間心理や土着的な知識が混然となっていて、何だかラテンアメリカ小説に似た熱を感じる。
著者が本小説の前に書いた「個人的な体験」では少し荒さが目立った気がしたが(特にご都合主義的なラストシーン)、この小説ではそういった欠点がしっかり取り除かれている。序盤は確かに少し退屈だが、ストーリーが村に行き着くと、大食病の女、隠遁者ギー、スーパーマーケットの天皇、それに村の伝説など、興味深い要素が次々飛び出してくるため読んでいて飽きない。そしてその勢いを保ったまま最後には、弟の持っている破滅的思想があらわになり、村の伝説に関する種明かしもあり、主人公と妻が村から旅立つ爽やかなシーンで終わる。
時代を象徴した暗喩として解釈もできそうだし、神話的な美しさもあるし、大江健三郎的だとしか言いようのないオリジナリティ溢れる文体を楽しめるし、純粋にキャラクターや物語自体が面白い。総合的に見て、理想的な小説だと思う。
Posted by ブクログ
大江健三郎作品6作目
著者の代表作であり人気の作品なのですが、正直、難解だった。難しすぎて思考停止状態に陥り、何度も眠くなることがあった。でも後半になると主題としてあるものが見えてきて、それについて深く考えることができた。
自己欺瞞に自己憐憫、決定的な要因がない場合でも、人は誰しも何かしらの荷を背負って生きているものだと思う。その重みはそれぞれであり、軽くなるものもあれば、どんどん重くなるものもある。その重みに耐えかねて、懺悔し審判を受けて、その重みから解放されたいと願うこともあるだろう。しかし、それができず、そのことで苦しむことになると狂気をはらんだ自己破壊的な衝動が芽生えてくるのかもしれない。そこには死からの再生という願望があり、すなわち、まっさらな状態で新生活を始めたいという切実な心の叫びなのだと思った。
人は重荷を背負わずに生きていくことは可能なのか?きっと、それは不可能だと思う。では、どうすればいいのか?"本当の事"を言い、審判を受ければいいのか?そうではないと思う。"本当の事"自体が重荷であり、それを背負い続け乗り越え点を越えていくものだと思う。
そのためには、「人生はしらふでやってゆかなければだめだ」という言葉は一つの答えでもあると思うが、それだけではない。人生に答えはなく、もちろん目的もないが、それを考え模索しながら生きていくものではないだろうか。
一つ言えるのは、重荷を下ろすことはできないが、重さを感じなくなることはあるはずだ。
そこで自分のこれまでの人生を振り返ると、恥ずかしいことだらけであった。死ぬまで黙秘し、背負い続けていかなければならない重荷があまりにも多い。どおりで筋トレをやり続けているわけだ!
"そういうものだ"
作者あとがきから引用
「湘南の海岸に出かけて、砂浜でウイスキーを飲み、それから泳ごうとしたことがあります。腿くらいまで水に入ったところで健康な本能の反省がおとずれ、ひきかえして砂浜で服を着たのでしたが、水泳には幼時から自信があっただけに、あの時そのまま沖に向けて泳ぎ出ていたならば、無事ではすまなかっただろう。」
Posted by ブクログ
ひどく胃もたれする1冊。面白いとか面白くないとか、そういう感想は書けない。万延元年の一揆、障害児が産まれた夫婦、暴力性のある弟、友人の奇妙な自殺、兄弟の死、この本を構成する全ての要素が暗く陰鬱。わかる言語で描かれているのに理解を拒絶するような不思議な感覚。読後すぐは二度と読みたくないと思っているが、何故かいつか読み返したくなる予感がする。
Posted by ブクログ
身勝手で頭のおかしい家族とその周辺の話し。肛門に胡瓜指して縊死した友人、近親相姦、不倫(?)や朝鮮からの渡来人に対する事実誤認など盛りだくさん。
Posted by ブクログ
大江さんの作品は難解と言われたり、考察しながら読むべきとの見方があるかもしれないが、私にとってこの小説は感情にまかせて読んでしまうものだった。集団行動の不条理さや、行動的であることへの嫉妬心のようなもので、感情がかき乱され続けた。エネルギーに満ちた小説。
Posted by ブクログ
下手な翻訳文のような、注意深く選びとられて長々と装飾された言葉の羅列に息が詰まる。
会話になると急に世界が矮小になったと感じる。五感でさえ人間を中心に存在しているわけではない、この退廃的で重苦しい空気が表現されています。
Posted by ブクログ
隠喩に富んで、いたのだろうか。
大江に先にはまったのは、私の方だった。ただ、万延元年のフットボールだけは友人が先で、とにかく感銘を受けたからと、こちらの積ん読を一つずつ崩す楽しみを無視して割り込まんとしてきたのである。しかし、このような義務感から、技巧的にもテーマ的にも考え抜かれたであろうこの著書をあらぬことか斜め読みしてしまったのである。
含蓄やギミックの多い物語を斜め読みすることは、一夜の夢を見るようだ。思考は途切れ、飛び、気まぐれに繋がり、そしてまた散る。同じくノーベル文学賞を受賞した莫言との比較や、スーパーマーケット襲撃を百姓の一揆と重ねたようなストーリーを、次には関東大震災時の朝鮮人差別に重ねたり…。そしてまた、大江自らの障害児の子がここにも登場するという事や、バードと鷹の関係性など…。全て、思考は夢の中で、途切れ途切れ。