斎藤真理子のレビュー一覧
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さみしさが、読むほどに募る。
吐き出すことのできない、行き場のないさみしさ。
いっそあなたには、鳥になりたいと、遠くへ飛んでゆきたいと願ってくれと思う。
だがあなたは立ち去ることを選ばずに、静かに閉じてゆく。
その眼差しは自らの内へ、選んだことと選べなかったことの境目へと向けられる。
残されるのは沈黙だけだ。
ままならぬ、と独りごちる。
母親との関係、夫との関係、冷たい都市に満ちる閉塞感だけではない。
自分自身の心が、自分にとってままならない。
それでも、今ここにあるのは閉じ切った哀しみではない。
彼女たちの頑なさの内側に秘められたしなやかさ、自らを見つめる眼差しの確かさは、かりそめの地に根を下ろしながらも遠い光へ向かって枝葉を伸ばす若木なのだ。
暗闇と光へーその両方に向かって、身体を引き裂くようにして伸びてゆく。
本書は、遠く離れた地でそれぞれの孤独に生きるものにとって、密やかに、だが確かにつながっている、同じ時代を生きていると感じさせてくれる。
僕らは孤独な木ではない。
たとえ、言葉にする術を持たずとも、ささやかな葉ずれはきっと、あなたに、僕に届く。
ーーー
“木々が見ている方向はいつも、陽のあたる方だ。運動場のあの木は明るい場所で育ったおかげで円く堂々と枝を伸ばしたが、日陰に立つ木々の枝は例外なく切実に曲がっている。ある木は光の中で生まれ、ある木は日陰で生まれるのか。
だがいずれにしても、その葉は等しく青く輝く。
その葉は日差しに向かってまっすぐに伸びていく。“
ー「赤い花の中で」より -
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「世界はは何故これほど暴力的で苦痛に満ちている?それと同時に、何故世界はこれほど美しいのか?」や、人間が内包する暴力性と愛のような真逆の二面性について考え続けているところが忍耐強くてすごい人だと思う。私は人間の醜い部分に絶望して己が同じ人間という生き物である事実に疲れてしまい、考えることを放棄しているから。
考え続けた人の何かしらの結晶として生み出された作品はこんな形をしているのかと、過去に読んだ物語たちを想った。
ハン・ガンが二十代の頃に思い浮かべていた2つの問いに胸を突かれた。
「現在が過去を助けることはできるか?生者が死者を救うことはできるのか?」
助けるや救うの定義が曖昧だが、直感で「できない」と瞬時に思った。過去は変えられないし死者はもういない。事実に報いる努力はできても、それは助けること救うことにはならないという諦めが私の中にはある。これはもはや私の価値観のようになりつつあって、だからハン・ガンの問いかけそのものがその価値観をひっくり返すような、こんなふうに真剣に切実に考える人がいるんだと衝撃だった。
以前『少年が来る』を読んだ時、めちゃくちゃ泣いた。トンホを助けてあげたかった。彼に生きていて欲しかった。トンホを含めた過去の悲惨な出来事の犠牲者について思いを馳せてさらに胸が痛かった。死んでしまった人たち、過ぎ去ってしまった時間はあんまりにも遠くて膨大で、無力感に押しつぶされる。しかしハン・ガンのこの問いかけは、助けたかったどうにかしたかったと叫んで過去に伸ばしかけたものの諦めから引っ込めてしまった私の手を握ってくれているような気がする。もしくは私が諦めて手を伸ばせなかったところに、ずっと手を伸ばし続けている人の幻想が見える。
『別れを告げない』がまだ読めていない。途中で止まってしまっている。近いうちに最後まで読み切りたいと思う。
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チョン・スユン作
斉藤真理子訳
脱北する3人の子どもたちの逃避行を描く。それぞれに事情は違うが、「自分が生きるのはここではない」との思いは共通だ。
作者チョン・スユンはソウル生まれの作家、翻訳者。慶應大学、早稲田大学で学んだあと韓国で日本文学を幅広く紹介している。
斉藤真理子は推しの人だ。
本作は13年間に100名の脱北者の話を聞き、彼らの体験をもとに3人の主人公の話として書き上げている。
76年経っても、今なお朝鮮戦争は終わってない。休戦状態である。
言語や文化を同じくする朝鮮民族を2つに分断したのは彼らの望んだことではないことを知るべきであろう。
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ネタバレ主人公は徐々に視力を失っていく男と、言葉を発せなくなった女。二人は古代ギリシャ語のスクールでそれぞれ教師、生徒として参加している。
二人の人生では、言葉に対する期待と絶望、大切な家族や友人の喪失、自身の身体的機能の喪失がゆるやかに重なりながら進行していき、それらが疎外感のような言葉の揺らぎとして表出しているように感じる。
段々と言葉が自分から滑り落ちていく疎外感があるからこそ、小説の言葉がより一層の重みを持っているように感じられた。
そんな二人は、古代ギリシャ語という死語を学ぶことで自分の存在を確かめていく。
女は死語を学ぶことで失った自分の言葉を取り戻そうとし、男は死語を教えることで段々と薄れていく自分の存在を強固にしようと踠く。
言葉と身体。生と死。生きる上での複雑なテーマが絡み合いつつも、不思議な暖かさが全体を包んでくれる素敵な物語である。 -
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ネタバレひとひらの雪片が地に降りる前に雨となり、泥濘みを生じる。
雪の美しさは、-イデアは、雨や泥濘みとなって失われたのか?
この問いへの答えとして、僕らは自ずと円環の摂理を見いだすだろう。
絶対的な美や善、光と理想だけで作られた世界と、理想の影にすぎない現実の世界、というプラトンが説くような二元論とは違う、東洋的な感覚。それは韓国でも日本でも同じく、なじみ深い感覚なのだろう。
消滅と薄暮の中にある世界。それは絶望でも欠落でもなく、儚くともあるがままの生だ。
人生は理想に向かって前に進む訳ではない。ひとときの煌めきと、繰り返す苦しみの連続だ。
だがそれは何度でも新しく生まれる世界とも言えるだろう。
彼女が、彼女を取り巻く世界との繋がりと意味を失ってゆくとき、彼女の中から言葉という記号も消えてゆく。
沈黙の中で彼女は、古典ギリシャ語という、美と真理を精緻に表現を目指した到達点であり、もはや誰も話す人のいない言語に触れる。
古典ギリシャ語やその哲学が彼女を新しく導いたわけではない。
それでも、コミュニケーションの道具としての言語から離れることこそが、彼女には必要だった。
彼女が再び言葉を発したことは、決してなじみのある世界への帰還ではない。
それはまるで、新しい言葉が生まれてくる瞬間を描写したかのようだ。
“両のまぶたが襲える、昆虫が激しく羽根をこすり合わせるように。
すぐに乾いてしまう唇を、開く。
根気強く、さらに深く息を吸い込んでは吐き出す。
ついに最初の音節を発音する瞬間、力をこめて目を閉じ、また開ける。
目を開けたらすべてが消えていると覚悟したように。”
彼女の発した言葉、それは古典ギリシャ語が希求する純粋な理想の世界の言葉でもなく、仕事や訴訟のための生活の言葉でもない。
彼女が新しく生きるー新しく暗闇の中を歩み続けてゆく世界のための言葉だ。
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Posted by ブクログ
読んでいるときずっと辛かった。。私もこれ以上男性に悪いイメージを持ちたくなくてあえて考えないようにしていたテーマだったので。ショッキングだけど、読むのが止まらないような本だった。。
私の親も、「女は稼げないから結婚して男に稼いで貰わないと」とか言う。あと、私が趣味で何か料理を作ると、祖母に「これでいつでもお嫁に行けるね」と言われたりもする。これは世代の価値観だからしょうがない、と受け流している。
私はそう言われるたび、「自分で生きていくために稼ぐしお嫁に行くために料理していない」と心で言う。
特に印象的だったのが、女性は結婚、出産で失うものがあるけど、男性はあくまで「手伝い、メインで稼ぐ側」だから何も失うものはない、ということ。女性は仕事、健康な体、キャリア形成を放棄していかないといけない。復帰した後の職場環境や職種は期待できないようなことが多い。子供を持つことをあんまり望んでおらず、周りに言われるがまま子供を持ってしまったキム・ジヨンは当然、被害者のように失うものを数えてしまうと思うが、子供を持ちたいと思う人はそんなに失うものを数えないのでは?とも思った。
バイト先でも楽しそうに子供の写真を待ち受けにしたスマホ画面を見せてくるパートさんもいるし、子供の写真をSNSにあげている人もたくさんいるので、、子供を持つことで失うものを悲観的に羅列することーーこれは人によりけりな気がする。
本書で挙げられる問題に「しょうがないしな」と無意識に、無関心になった方が楽に生きれるけど、声をあげても「女は不当に恵まれすぎだろ」ってヘイトも湧くし、答えがわからなくなってしまった。とりあえず自分ができることは、妊婦さんを見かけたら席を譲る。
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Posted by ブクログ
原著は2021年発行。日本語訳は白水社から2024年4月に刊行。架蔵本は2025年12月刊の第17刷。訳者は斎藤真理子。
偏頭痛と胃痙攣に苦しみ、自らの遺書を書くために生きていると感じていた作家・キョンハのもとに、しばらく連絡を取り合っていなかった友人・インソンからの連絡が届く。故郷の済州島で小さな木工所を営んでいた彼女は、作業中に誤って2本の指を切断、何とか接合手術には成功したが、入院中は3分に一度、神経を殺さないため、接合した指を腐らさないために指を針で刺し続ける必要がある。彼女を見舞ったキョンハは、インソンのたっての頼みで、彼女が家に残してきた小さなインコ「アマ」が生きているかを確かめるため、雪の降る済州島に向かうのだった。――
「痛み」と「傷」、そして「影」が鍵語となった済州島における「4・3事件」と、それ以後の人々の生が想起され、想像されていく物語。1948年に逮捕・投獄された兄のことを想い続けたインソンの母のありようを通じて、大切な存在を失った人々が、もしかしたらそのひとはいまもなおどこかで生きているかもしれない、間一髪で死を免れ、死者の数の一人にはならなかったかもしれないと祈るその思いが、そのひとを、その存在を、遺族の前に呼び戻す。死んだはずの「アマ」が、入院中のはずのインソンがキョンハの目の前にあらわれ鳴いたり語ったりする展開は、かつてそこにいた死者たちと共に歩み生きるという憑在論的な主題を表現しているように思われる。