植民地時代の朝鮮にも
モダニズム文化は日本から流入した
そしてやはり古い文化との軋轢が生じたんだ
李箱という人は新旧文化の…
別の言い方をすれば日本と朝鮮のはざまで
一足早くポストモダン的なものに目覚めたらしい
将来の家父長たるべき若旦那として
消費社会の恩恵もいっぺんに受けたいという
ぼんくらの願いそのもの、と僕には見えるんだけど
でもまあそれが人の本音というものですよね
ドストエフスキーなんか捨てちゃって
マルメラードフのように生きたいね
「烏瞰図 詩第一号」
群衆のなかに「私」は存在しない
透明な存在として溶け込んでいる
「翼」
妻に飼われて生きてる亭主
飯を出してもらった上に寝てばかりいて
そのうえお小遣いまでもらっている
酒も煙草もやらないセックスレス
ひょっとしたら童貞の、子供みたいな彼だったが
街をうろつく快感を知ってからというもの
夫婦関係が壊れはじめる
帰宅時間の早すぎることが問題であった
「線に関する覚書Ⅰ」
観念のプリズムによって
観念のスペクトルを見てみましょう
観念上に光の粒子が拡散していくだろう
そして思うのです
光速を超えて時間を逆行し
私は懐かしい封建時代へと帰ってゆきたい
「烏瞰図 第十五号」
無責任な私、あるいは責任感ある私
もうひとりの私が
鏡の中にいて
私はそいつを殺したい
鏡のなかの私を相手に、無理な相談をしている
「蜘蛛、豚に会う」
画家を志すも人生に行き詰まってる
彼の妻はカフェーの女給だった
女給といっても当時のカフェーは
チップに応じて性的サービスを提供する場所だ
彼は穀潰しの分際で妻を軽蔑していた
蜘蛛みたいな女だと思っていた
痩せてる奴は蜘蛛、太ってる奴は豚
実のところはこの世のすべてを軽蔑していた
しかしいちばん軽蔑してるのは自分自身のことだ
脈絡なしに人称が入れ替わる文体を見ればわかるんだぞ
(李箱は一時期、自分でもカフェーを経営してたとか)
「山村余情」
都市と農村は地続きであるし
それ以前に私が私である以上
逃げ場はどこにもないのだった
素朴な娘たちには憧れる
「逢別記」
「蜘蛛、豚に会う」と「翼」の種明かしをすると
じっさい若い頃に娼妓と入籍していた
肺病を患って職も失い自暴自棄になっていた頃だ
彼女は10代で、すでに経産婦だった
数ヶ月で生活は破綻したのだが…
「牛とトッケビ」
豊島与志雄の童話を朝鮮向けに翻案したもの
最後に李箱じしんの意見がつけ加えられているのだけど
作品としては、言わぬが花じゃないかなー
ケアの見返りって話になっちゃうから…
李箱が死ぬ直前に発表された
「東京」
極東モダニズムの中心地、東京
そこに行けばなにかあると期待してたのだろうか?
じっさい来るとやはり空虚だった
白昼のネオンサインはまるで骸骨のようだった
ここで李箱は客死する
「失花」
無邪気な新妻の裏切りに傷つけられた自尊心は
ポストモダン思考でどうにかなるものではなかった
それで東京に逃げてきたらしい
再生のきっかけとなる何かを求めたのかもしれない
「陰暦一九二六年大晦日の金起林への手紙」
東京ではぶらぶら遊んでいたようだ
どこからそんなカネを捻出したのか知らんけど
本人は新しい路線を見出そうとしていた
「失楽園」
6つの断章からなるもので
本人の死後まとめられたという
自由主義によって旧来のロマンが否定された結果
文明は衰亡・滅亡の運命をたどるだろう
時間を止めることはできない
ここでおそらく李箱は
今でいうところの加速主義にたどり着いてしまった
「烏瞰図 詩第四号」
バイオリズムは右肩上がりと見せかけて
十を刻むごとにリセットされる
生きづらいことだ
縦読みだろうと裏読みだろうと好きに読めばいい
死はいつも隣にあるんだから